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井戸端スポーツ会議 part 15「ドーピングを求める大学,あと日本も」
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本ブログの記事,「危ない大学シリーズ」でも少し触れていることですが,経営難に陥った大学というのは体育会系のクラブ活動に焦点を当てて学生募集を狙います.
つい最近まで「スポーツ」の名をつけた学部学科が流行っていました.その理由のほとんどが学生募集に有利だったからです.
「高校生活でスポーツに一生懸命取り組んだ生徒を優遇する.勉強に打ち込んだ生徒と同様,スポーツに打ち込んだ生徒には何かしらの魅力があるはずだ」
などという理由をつけて,
「しかも,体育・スポーツ系の学生は社会・企業からの評判も良い」
という出口(卒業時のスペックのこと)の強さもアピールしながら,スポーツ系の学部学科は増加の一途をたどりました.
最近は流行らなくなりましたけどね.
ですが,特に経営難の大学においてはスポーツ系の学部学科,乃至,(誤解を恐れずに言えば)クラブ活動をするために入学してもらう学生は,未だ重要な資金源としての価値を持っています.
業界用語でいう「スポーツの学生」は,きちんと育てれば大化けすることが多いのですが,残念なことに経営難の大学,なかでも「危ない大学」におきましては,アカデミックな水と肥料を使って育てようという気概が弱く,逆にビジネスライクで自己啓発的な指導で誤魔化そうとするため悲しい結果を招くことが多々あります.
私はかつて,「スポーツの学生」に “経営手段として” 頼ろうとする姿勢を強める大学に箴言したことがあります.
「むやみにスポーツの学生に頼ろうとするのは,大学にとってはドーピングみたいなものですよ」(立場上,箴言になってなかったと思いますけど)
もちろん反論されました.
「いやいや,(私)先生,そんなこと言ったら先生の仕事無くすようなもんですよ」
と言われましたが,こういう状態になっていたらその大学は末期です.
なぜスポーツの学生を入れることが大学にとって「ドーピング」なのか?
ドーピングというのは短期間や即時的に著しく体力や心理状態を向上させ,スポーツの競技力を高めようとするものであり,その副作用として健康への害があることはご存知かと思います.
短期的には恩恵があっても,長期的には有害であるもの.むやみに用いれば,その個体を崩壊させることになるものです.
これについて現在の少なくない大学は,学生数という体力を求めてスポーツの学生(に限らないが)というドーピングを飲みまくっている.そんな状態なのです.
スポーツの学生を募集すると,たしかに短期的には人が集まるので経営も安定します.
しかし,多くの場合「スポーツの学生」というのは学力が低く,入学時の勉強へのモチベーションも弱いことは周知のことと思います.
したがって,甘やかさず根気強く育てないと大学らしい勉強を一切しないものですから,大学で身に付けるべき力を何も修めずに卒業していくことが多くなってしまいます.
するとどうなるかというと,「あの大学の卒業生はレベルが低い」という世間からの評判ならまだしも,そうした卒業生が「就活には役立ったけど・・」という感想を持って終わる可能性が高くなるわけです.
就活のためであれば,わざわざ “その大学” に入学する必要はなかったことになります.他に就活に有利な大学は山ほどある,という認識のままで居ることになるのです.
つまり,その卒業生は大学で学ぶべき重要な事を学んでいないことにより,大学というものを「社会に出るためのブースター・ロケット」と見做したまま社会に出ていることになります.
結論を急ぎますと,そんなことをしている大学は結局,大学の評判として実は最重要である「卒業生からの評判」,および「卒業生の帰属意識」,抽象的に言えば「卒業生からの信頼」を失い続けることになってしまうのです.
卒業生に,「あの大学でなければ学び得なかった人生における重大な事を,私は享受できたんだ」という想いを持ってもらえなければ,その大学の価値というのは高まらないのです.
価値が高まらないのですから大学としての魅力も落ちていきます.魅力のない大学は入学希望者数も落ちていきます.
彼らが「お客様」と見做している高校生や保護者,そして在学生をターゲットにしたマーケティングをすればするほどに,こうした大学の価値や魅力は落ちていくのです.
学生募集として効率的な戦略だと思ってやっていることが,実は自分達の首を締めていることになっているわけですよ.
「いや,我々の大学は広報活動に力を入れて躍進したぞ」と言いたい大学もあるでしょう.特に有名大学にはそう言いたい担当者が多いかもしれません.
ですが,それは元々有名な大学同士の中での話です.別に広報活動をしようがしまいが,元々魅力があって確固たる入学希望者数を持っている大学というのは,たとえ広報活動に力を入れなかったとしても,翌年の定員割れを心配するようなことはありません.
現実を見てください.昨今の大学改革とか,それに伴う活発な広報戦略とやらを十数年に渡って行なってきた結果,どうなったでしょうか.
多くの人びとに「実は難関大学の◯大よりも,偏差値の低い◯大学の方が魅力的だったんだな」という思いを抱かせることがあったでしょうか?
ありません.
むしろ,こうしたビジネスライクな大学改革や,高校生と現役生の評判を重視する大学経営によってもたらされたのは,さらなる大学間格差です.
いい加減その事に気づいても良さそうなものですが,残念なことに教育問題を重大なこととして受け止める国民は少ないので,「競争原理」というオートマチックな淘汰システムの導入で事が済むと思って無視されています.
※この点についての細かい話は,過去記事である,
■危ない大学に奉職してしまったとき「本気の高校訪問対策」
をご覧ください.
ここで問題にしたいのは,上記をまとめれば,
「優れた大学,魅力的な大学とは,“人が集まっているかどうか” である」という認識.
つまり,「数を揃えること」という非常に一元的で,市場原理的な判断基準による評価で論じられており,さらにやっかいなのは,それが大学の存在意義からして大間違いであるにもかかわらず,その基準で大学運営が展開されていることです.
ここで話を最初に戻すと,つまり,大学にとっての「体力」というのは学生数だ.そう考えて経営しているわけです.
しかし,一度ここでスポーツに目を向けて論じてみますと,人間というのは「体力」が優れるからといってパフォーマンスも優れるわけではない,という理論があります.
もちろん体力はないよりあったほうが良いわけで,無くても良いと言いたいわけではありません.
ですが,総合的なパフォーマンスというのは,「体力」を含むヒトのさまざまな能力を絶妙な加減やタイミングとしてコーディネートさせ生み出すものです.
これまでの体育・スポーツ科学では,スポーツ選手の競技力を高めるために「体力トレーニング」というのが流行っていましたが,最近ではこうした背景もあって “体力をトレーニングすることの意義” が問い直されています.
複雑な話なので端折ってしまいますが,ようするに,むやみやたらと計量・定量できる変数ばかり追い求めても,結局のところ,追い求めていたはずのパフォーマンスを高めることにはなっていない場合が非常に多い,ということです.
競技パフォーマンスの向上を目指してウエイトトレーニングに打ち込んでいた選手が,本来求めていた競技パフォーマンスをそっちのけにして,ひたすら筋肥大や筋力アップに勤しむようになってしまい,後になって「こんなに体つきが変わったのに,なぜ肝心の競技力が上がっていないんだ」と嘆く話はよくあります.
※サッカー日本代表を例にした過去記事がこちら↓
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
これと同じ状況が今の大学で起こっているのではないか.しかも,少なくない大学ではドーピングにまで手を出しており,(ドーピングするだけならまだ許せるが)大学としてのパフォーマンスアップには打ち込んでいない.ということです.
このようなドーピングと身体にまつわることというのは,大学だけでなく昨今の日本にも同じことが言えるのではないかと思います.
似たような話がありますよね.
外国人労働者,移民問題です.
上述してきたことが,そっくりそのまま今の日本人の思考パターンになっている恐れがあります.
労働力を「数字」で計量・定量できるものと考え,今は労働者数が不足している.不足を補うために移民を入れる.仕方ないけど解決策はこれ以外にないでしょ?・・・ということですよね.
つまり,日本人の多くが「労働問題というのは数字を操作しさえすれば解決するものである.乃至,数字を操作することが解決策だ」と考えていることを示唆しているわけです.
ですが,労働力もスポーツの競技力と同様,何か単一の「数字」を高めたとしてもその最終的なパフォーマンスが高まるわけではありません.
技能,熟練度,人間関係,連帯感,精神衛生などなど,そういった諸々のものが絶妙な加減で最適化されることで生み出されるのが優れた労働力と言えるでしょう.
逆に,むやみやたらと人数だけ揃えたところで,労働パフォーマンスは高まらない.そう考えるのが自然ではないですか.
体格に恵まれない野球のバッターが,その短所を補うために機動力や小技で勝負するように,人口が少ないなら少ないなりに,その状況で最大限の国力を発揮するよう「国」という身体をコーディネートすることが本質的な改善策のはずです.
移民というドーピングは,一度飲んだら最後,ジワジワとその体を蝕んでいくことになるでしょう.そして,その後の日本がずっと引きずることになる後遺症を残す可能性が高いのです.
話が飛び飛びしましたが,ようは,「我々はどのように生きていきたいのか?」という問題をちゃんと考えながら論じなければいけないという,なんとも普通な話なのです.
大学の存在意義とは何か?
日本人にとっての労働とは何か?
そこをおさえれば,答えは自ずと出てくるはずなのですが.
つい最近まで「スポーツ」の名をつけた学部学科が流行っていました.その理由のほとんどが学生募集に有利だったからです.
「高校生活でスポーツに一生懸命取り組んだ生徒を優遇する.勉強に打ち込んだ生徒と同様,スポーツに打ち込んだ生徒には何かしらの魅力があるはずだ」
などという理由をつけて,
「しかも,体育・スポーツ系の学生は社会・企業からの評判も良い」
という出口(卒業時のスペックのこと)の強さもアピールしながら,スポーツ系の学部学科は増加の一途をたどりました.
最近は流行らなくなりましたけどね.
ですが,特に経営難の大学においてはスポーツ系の学部学科,乃至,(誤解を恐れずに言えば)クラブ活動をするために入学してもらう学生は,未だ重要な資金源としての価値を持っています.
業界用語でいう「スポーツの学生」は,きちんと育てれば大化けすることが多いのですが,残念なことに経営難の大学,なかでも「危ない大学」におきましては,アカデミックな水と肥料を使って育てようという気概が弱く,逆にビジネスライクで自己啓発的な指導で誤魔化そうとするため悲しい結果を招くことが多々あります.
私はかつて,「スポーツの学生」に “経営手段として” 頼ろうとする姿勢を強める大学に箴言したことがあります.
「むやみにスポーツの学生に頼ろうとするのは,大学にとってはドーピングみたいなものですよ」(立場上,箴言になってなかったと思いますけど)
もちろん反論されました.
「いやいや,(私)先生,そんなこと言ったら先生の仕事無くすようなもんですよ」
と言われましたが,こういう状態になっていたらその大学は末期です.
なぜスポーツの学生を入れることが大学にとって「ドーピング」なのか?
ドーピングというのは短期間や即時的に著しく体力や心理状態を向上させ,スポーツの競技力を高めようとするものであり,その副作用として健康への害があることはご存知かと思います.
短期的には恩恵があっても,長期的には有害であるもの.むやみに用いれば,その個体を崩壊させることになるものです.
これについて現在の少なくない大学は,学生数という体力を求めてスポーツの学生(に限らないが)というドーピングを飲みまくっている.そんな状態なのです.
スポーツの学生を募集すると,たしかに短期的には人が集まるので経営も安定します.
しかし,多くの場合「スポーツの学生」というのは学力が低く,入学時の勉強へのモチベーションも弱いことは周知のことと思います.
したがって,甘やかさず根気強く育てないと大学らしい勉強を一切しないものですから,大学で身に付けるべき力を何も修めずに卒業していくことが多くなってしまいます.
するとどうなるかというと,「あの大学の卒業生はレベルが低い」という世間からの評判ならまだしも,そうした卒業生が「就活には役立ったけど・・」という感想を持って終わる可能性が高くなるわけです.
就活のためであれば,わざわざ “その大学” に入学する必要はなかったことになります.他に就活に有利な大学は山ほどある,という認識のままで居ることになるのです.
つまり,その卒業生は大学で学ぶべき重要な事を学んでいないことにより,大学というものを「社会に出るためのブースター・ロケット」と見做したまま社会に出ていることになります.
結論を急ぎますと,そんなことをしている大学は結局,大学の評判として実は最重要である「卒業生からの評判」,および「卒業生の帰属意識」,抽象的に言えば「卒業生からの信頼」を失い続けることになってしまうのです.
卒業生に,「あの大学でなければ学び得なかった人生における重大な事を,私は享受できたんだ」という想いを持ってもらえなければ,その大学の価値というのは高まらないのです.
価値が高まらないのですから大学としての魅力も落ちていきます.魅力のない大学は入学希望者数も落ちていきます.
彼らが「お客様」と見做している高校生や保護者,そして在学生をターゲットにしたマーケティングをすればするほどに,こうした大学の価値や魅力は落ちていくのです.
学生募集として効率的な戦略だと思ってやっていることが,実は自分達の首を締めていることになっているわけですよ.
「いや,我々の大学は広報活動に力を入れて躍進したぞ」と言いたい大学もあるでしょう.特に有名大学にはそう言いたい担当者が多いかもしれません.
ですが,それは元々有名な大学同士の中での話です.別に広報活動をしようがしまいが,元々魅力があって確固たる入学希望者数を持っている大学というのは,たとえ広報活動に力を入れなかったとしても,翌年の定員割れを心配するようなことはありません.
現実を見てください.昨今の大学改革とか,それに伴う活発な広報戦略とやらを十数年に渡って行なってきた結果,どうなったでしょうか.
多くの人びとに「実は難関大学の◯大よりも,偏差値の低い◯大学の方が魅力的だったんだな」という思いを抱かせることがあったでしょうか?
ありません.
むしろ,こうしたビジネスライクな大学改革や,高校生と現役生の評判を重視する大学経営によってもたらされたのは,さらなる大学間格差です.
いい加減その事に気づいても良さそうなものですが,残念なことに教育問題を重大なこととして受け止める国民は少ないので,「競争原理」というオートマチックな淘汰システムの導入で事が済むと思って無視されています.
※この点についての細かい話は,過去記事である,
■危ない大学に奉職してしまったとき「本気の高校訪問対策」
をご覧ください.
ここで問題にしたいのは,上記をまとめれば,
「優れた大学,魅力的な大学とは,“人が集まっているかどうか” である」という認識.
つまり,「数を揃えること」という非常に一元的で,市場原理的な判断基準による評価で論じられており,さらにやっかいなのは,それが大学の存在意義からして大間違いであるにもかかわらず,その基準で大学運営が展開されていることです.
ここで話を最初に戻すと,つまり,大学にとっての「体力」というのは学生数だ.そう考えて経営しているわけです.
しかし,一度ここでスポーツに目を向けて論じてみますと,人間というのは「体力」が優れるからといってパフォーマンスも優れるわけではない,という理論があります.
もちろん体力はないよりあったほうが良いわけで,無くても良いと言いたいわけではありません.
ですが,総合的なパフォーマンスというのは,「体力」を含むヒトのさまざまな能力を絶妙な加減やタイミングとしてコーディネートさせ生み出すものです.
これまでの体育・スポーツ科学では,スポーツ選手の競技力を高めるために「体力トレーニング」というのが流行っていましたが,最近ではこうした背景もあって “体力をトレーニングすることの意義” が問い直されています.
複雑な話なので端折ってしまいますが,ようするに,むやみやたらと計量・定量できる変数ばかり追い求めても,結局のところ,追い求めていたはずのパフォーマンスを高めることにはなっていない場合が非常に多い,ということです.
競技パフォーマンスの向上を目指してウエイトトレーニングに打ち込んでいた選手が,本来求めていた競技パフォーマンスをそっちのけにして,ひたすら筋肥大や筋力アップに勤しむようになってしまい,後になって「こんなに体つきが変わったのに,なぜ肝心の競技力が上がっていないんだ」と嘆く話はよくあります.
※サッカー日本代表を例にした過去記事がこちら↓
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
これと同じ状況が今の大学で起こっているのではないか.しかも,少なくない大学ではドーピングにまで手を出しており,(ドーピングするだけならまだ許せるが)大学としてのパフォーマンスアップには打ち込んでいない.ということです.
このようなドーピングと身体にまつわることというのは,大学だけでなく昨今の日本にも同じことが言えるのではないかと思います.
似たような話がありますよね.
外国人労働者,移民問題です.
上述してきたことが,そっくりそのまま今の日本人の思考パターンになっている恐れがあります.
労働力を「数字」で計量・定量できるものと考え,今は労働者数が不足している.不足を補うために移民を入れる.仕方ないけど解決策はこれ以外にないでしょ?・・・ということですよね.
つまり,日本人の多くが「労働問題というのは数字を操作しさえすれば解決するものである.乃至,数字を操作することが解決策だ」と考えていることを示唆しているわけです.
ですが,労働力もスポーツの競技力と同様,何か単一の「数字」を高めたとしてもその最終的なパフォーマンスが高まるわけではありません.
技能,熟練度,人間関係,連帯感,精神衛生などなど,そういった諸々のものが絶妙な加減で最適化されることで生み出されるのが優れた労働力と言えるでしょう.
逆に,むやみやたらと人数だけ揃えたところで,労働パフォーマンスは高まらない.そう考えるのが自然ではないですか.
体格に恵まれない野球のバッターが,その短所を補うために機動力や小技で勝負するように,人口が少ないなら少ないなりに,その状況で最大限の国力を発揮するよう「国」という身体をコーディネートすることが本質的な改善策のはずです.
移民というドーピングは,一度飲んだら最後,ジワジワとその体を蝕んでいくことになるでしょう.そして,その後の日本がずっと引きずることになる後遺症を残す可能性が高いのです.
話が飛び飛びしましたが,ようは,「我々はどのように生きていきたいのか?」という問題をちゃんと考えながら論じなければいけないという,なんとも普通な話なのです.
大学の存在意義とは何か?
日本人にとっての労働とは何か?
そこをおさえれば,答えは自ずと出てくるはずなのですが.
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■大学について2
■井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」
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■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
■井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
■井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
■井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」
■井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
■井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」
■井戸端スポーツ会議 part 10「スポーツをすると勉強ができるようになる」
■井戸端スポーツ会議 part 11「人間は身体を通して理解する」
■井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」
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