2015年4月30日木曜日

大学をグローバルにするってどうするの?

大学のグローバル化.
これを論ずる記事を書くことは敢えて避けてきたのですが,やっぱり少しだけ愚痴ってみようと思います.

スーパーグローバル大学に選ばれちゃった大学は今,非常に頭を抱えております.
「選ばれちゃった」という表現は嘘ではなく,まさにこの「選ばれちゃった感」が全学的に漂っております.
スーパーグローバル大学に当選した大学の先生方に聞いてみたところ,どこもそんな感じでうなだれています.
それがスーパーグローバル大学の実情なんです.

そもそも,文部科学省からスーパーグローバル大学の指名を受けるためには,「スーパーグローバルになる大学はおらんかぁ?」という呼びかけに対し,「俺たちはこんな活動を展開してスーパーグローバル大学になるぞぉ」という趣旨の応募書類を作成して申し込みます.
つまり,その大学に「スーパーグローバル大学になるぞ」という意志があることが建前でして.

そして,応募書類の中から文部科学省が気に入った大学が見事スーパーグローバル大学として今後10年間,補助金を受け取れるということになるわけです.

大学としてはこの補助金が凄く大事でして,だからスーパーグローバルに応募しているんです.
2018年に18歳人口の減少が加速するという「2018年問題」を抱えている大学としては,スーパーグローバル大学に選ばれることは美味しいんです.

これは逆に言えば,スーパーグローバルを2018年問題への食いつなぎ策,懐の余裕としての価値しか見出していないというのが実情ですから,選ばれちゃって困っちゃうというのは当たり前なのです.

「文科省に提出した応募書類にはスーパーグローバルになるための「今後の計画」を出しているんだろ? それが評価されて当選したんだろ? だったらそれを粛々と実行すればいいじゃないか」
と思われるかもしれませんが,こういうのって我々の業界では常習化したハッタリみたいのものでして,出来ること出来ないことを,嘘にならない程度に大風呂敷を広げるのが常識なんです.

だから,後になって「事情が変わった」とかなんとか言って,応募書類とは異なる内容になることが暗黙の前提の話なんですよ.

だいたい,年間数億円程度の補助金を受け取ったところで,日本社会の構造に影響するような変化を適切に実行できるわけがないのですから.

「だからこそ国が補助金を出してスーパーグローバルを加速させるんだ」と言いたいところでしょうが,はっきり言って「10年間の補助金」で教育機関を変えるのは無理です.
(せめて期間を20年とか.もしくは補助金ではなくて,半永久的に潰れないようにするという保証とか.無理でしょうけど,世論的にも)

スーパーグローバル大学に選定された大学というのは,もう既に様々なグローバル化の要望に応じていろいろな手を打っており,これ以上何をすればいいのか現場は混乱しています.
チャラい教員や外部コンサルタントあたりが,「こんなアイデアが,ありまぁす!」と言っても,さすがにそれを大学教育でやるのはヤバいでしょ,と少なくない教員が猛烈に反対する・・,なんていう会議の繰り返しになっています,どこの大学も.

私としては・・・,
同僚の外国人教員の提案が最も素直で実効性があり,有意義だと思っています.
曰く,
「全学生(全希望者)を,無料もしくは交際費込で海外留学させる」
というもの.

しかもその方は,「なんで日本は留学生の受け入れが優遇されていて,留学したい日本人が優遇されていないのか?」とも仰ってました.

海外留学したい学生というのはたくさんいます.
ですが,結局は費用の面で断念するのが現実なんです.

そこに補助するだけでも国際化は達成されると思いますし,私が最も期待するのは,そうした海外留学経験というのは,その学生の日本への愛着が強くなることにも寄与すると考えているからです.

そうなると当然,「トラブルや安全面での配慮が手薄になる」という懸念が出てきます.
しかし,これについて敢えて言えば,「そういうことも含めてグローバル教育だろう.そうしたトラブルや危険を懸念するくらいなら,グローバル教育などしないほうがマシ」ということです.

2015年4月27日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 19「スポーツ観戦のような政治観戦 その2」

昨秋に,
井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
という記事をアップしているのですが,最近になっても「スポーツ観戦のような政治観戦」が渦巻いておりますので,その続編を書いてみようとするものです.

「政治が『ショー(見世物)』になった」
と言われて久しいのですが,これも,議会制政治が一つのスポーツであることを目指す傾向にある近代,そして現代の有り様を示していものと言えます.

しかも,そこで行われている議会制政治という名のスポーツは,人間本来が尊んでいたスポーツ(と遊び)が持っている特性がどんどんと削られており,一言で言うなら「分かり易い勝敗の現れにこだわる近現代スポーツ」と同じ匂いがするものになっているのです.

そんな最近の典型例が,西日本の某市政を取り巻く現象です.
そこでは,政策の是非について対立があるわけですが,こうした論点について,
「政策についてどちらが正しいか討論をして決着をつけたらどうか?」
という話題があります.

ちょっと考えれば「キチ◯イの所業だ」「そんな事できるわけないだろ」と思うのですが,なんと,かなりの数の人が「そうすれば良い」と考えているようなのです.

すなわち,かなりの数の人が「討論をして決着をつけることが,政策の良し悪しを判断する材料になる」と考えていることを示しており.
それはつまり,かなりの数の人が「議論」ではなく,「討論」をして,しかもそこで「勝敗」を決するという手順によって,正しい政治,より良い政策判断が行えると考えていることを意味するわけです.

これは由々しきことです.っていうか異常事態です.

まさにこの日本社会が近現代スポーツ化していることを如実に示すものと言えます.

議論をしたいのであれば,政策の是非を問う締め切り(住民投票)までの間に,新聞や雑誌,ネット等を使って,時間をかけて各種論点を整理しながら進めることが良いでしょう.
かいつまんで言うと,互いの主張を裏付けるデータや資料,哲学的・思想的背景を用意する時間をしっかりと設けて行なうのです.
そのようなやり方は特殊なものでもなんでもなく,極々一般的に行われているのですから.特に,より正しい評価や判断が求められる科学研究において多用されています.

しかし,少なくない人がそうした議論ではなく,リング上での殴り合いの如き討論を求めています.
場所と時間に制限をかけ,周りに観衆を用意したところでの論戦.すなわち討論を求めているのです.

討論となれば,両者は制限時間内で互いの主張を押し通すことに終始することになります.
両者は己が勝利することを目指して論じることになります.それが討論です.
時間制限がある「場」を用意して行なうショー.まさに近現代スポーツなのです.

そこには,これから十数年・数十年にわたって影響を及ぼす市政,地域自治の是非を問おうという気概は感じられません.
数億円,数千億円の税金が動くものだという緊張感はありません.

近代スポーツ,現代スポーツの魅力を全面否定するつもりはありませんが,それによってこの社会が近代スポーツ,現代スポーツのようになっていくのであれば,この麻薬のような思想をもう少し腰を据えて解明してく必要があるのかも知れません.


関連記事
人間はスポーツする存在である
井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」

2015年4月26日日曜日

井戸端スポーツ会議 part 18「健康運動に関する授業の質問回答集」

授業が始まり一ヶ月が経とうとしています.ここの大学にも慣れてきたので,すんなりと年度を始めることができました.

ところで,私の授業では毎回「一言で質問させる」というのをやっています.
感想文のようなコメントではなく,質問です.

着眼点が良いものに加点して,次回の授業時に点数を公表し,それを成績に反映させるシステムにしています.
学生の中には「毎回質問を考えるのはツラい」と言う者もいますが,まさに「考える」ことを要求できている授業だと思うので,このスタイルは当面続けていくつもりです.

それに,年度末に実施する「授業評価アンケート」を見る限りでは,大半の学生はこのシステムを高評価してくれているようです.

そうした授業で,どういう質問が出ているのか,その質問への回答の一部をご紹介したいと思います.
ちなみにどんな授業なのかというと,「健康運動」に関する講義形式のものです.

点数が高い学生の質問は,例えば以下の様なものです.

Q1:「脂肪燃焼」というが,なぜそのような表現がされるのでしょうか?本当に燃えているわけじゃないですよね.
A1:たしかに面白いですね.たぶんですけど,脂肪(油)がランプに用いられていたから,そういう比喩でしょうか.なお,公的な研究発表等では「脂肪酸化量」や「脂肪利用量」などと表記されます.

Q2:運動が抑鬱状態の人や抑鬱患者に効果的であることは分かりましたが,実際,鬱だから運動ができないということもあるかと思います.そんな人に運動をさせるのは難しいのではないでしょうか?
A2:そうです.その対策を考える事が有意義なのだと思います.策を考えて鬱になっている人もいるやもしれません.

Q3:そもそも「体力」とはなんですか? よく見聞きするのですが,今回の授業を聞いていてよくわからなくなってきました.
A:実は非常に難しい話です.次回の授業で取り上げます.

Q4:運動が心理カウンセリング的な役割を果たすこともあるのではないかと思いました.どうなのでしょうか?
A4:とても面白い視点です.が,この文面だけだと分かりづらいので,もう少し詳細にお願いします.

Q5:太りやすい体質,太りにくい体質(遺伝)の差はどれくらい出てくるのでしょうか?
A5:たしかにそのような体質の差は存在しますが,多くの日本人(東洋人)としては,その差を気にしなければいけない人というのは非常に稀です.意地悪な言い方をすれば「私は太りやすい体質だからどんなことをしても太ってしまう」なんてことはありません.


対して,点数が低い質問はこういうのです.

Q1:初心者向けやオススメのトレーニング,運動方法はありますか?
A1:その人がどのような人なのかによりますので,一概には言えません.

Q2:「体育」「スポーツ」「運動」の違いを教えてほしい
A2:授業でやりました.聞いてませんでしたか?

Q3:炭酸飲料を飲むと体力が低下すると聞いたことがありますが,本当ですか?
A3:いえ,ガセです.炭酸飲料を多量に飲ませたくない大人が,子供をビビらせるためのものでしょう.

Q4:太りやすい体質というのはありますか?
A4:あります.

Q5:強い精神を得るためにはどうすればいいでしょうか?
A5:自分自身以外のモノのために生きようとすることです.


両者を比べて「何が高得点につながって,なぜ低得点になっているのか,その違いが分からない」というところかもしれません.
しかも,授業の流れや内容と関連することですので,ここだけ見せられても分からないかもしれないですね.
私にしか分からない微妙なところもあるでしょう.

とは言え,こうした授業をやっていて面白いのは,授業が進むに連れて高得点者が増えていくことです.
私も相対的な評価ではなく,絶対的な評価を心がけています.なので,学生としても点数が高まる質問とはどのようなものなのか? というのを感じ取るんでしょう.

問題に答える能力や問題解決力も必要でしょうが,問題を見つける能力はもっと重要だ.そう思うんです.


※以前,これに関連した記事を書いたことがあります.
こちらもどうぞ.

2015年4月24日金曜日

井戸端スポーツ会議 part 17「健康,スポーツ現場,結局,アミノ酸はどうなった?」

私が学生の頃は,「アミノ酸」が一大ブームになっておりました.
その時の状況,皆さんも覚えておいででしょうか?
2000年前後の頃ですね.

とにかく,あらゆる製品へ「アミノ酸」を入れることに必至になっていた食品会社の方々.大変苦労されたことでしょう.

私が所属していた研究室のゼミ活動でも,そんな企業のアミノ酸製品の効果をたしかめる実験をやっていたことを懐かしく思います.
めちゃめちゃ苦労して実験した割には,全く効果はありませんでしたしね.

そんなアミノ酸を謳い文句にした製品も,最近ではさっぱりになってきました.
一般の方々にも,やっとその「効果」が無いことが周知されてきたからでしょう.

ですが,中にはまだアミノ酸に効果があるのではないかと期待する人たちもいるかと思います.
スポーツビジネスの世界では,アミノ酸でもう一儲けできるはずだと頑張る姿が見えるのですが・・.
では,スポーツ科学の世界ではどうなのか?

一般の方々は調べようとする機会も発想もないでしょうから,ここでちょこっとお示ししておきたいと思います.

スポーツ科学と言われて,皆さんが比較的アクセスしやすい存在なのは「国立スポーツ科学センター 通称:JISS(ジス)」なんだろうと思います.

そのJISSのHPにこんなページがあります↓
分かりやすい名称です.

ところが,「サプリメント@JISS」などというページを用意しているにも関わらず,サプリメントのことについての情報がありません.
いえ,全くないと言えば誤解されるでしょうから,もうちょっと丁寧に優しく言うと,
サプリメントがどのようなものか? という記述はあるのですが,肝心要であるはずのサプリメントにどのような効果があるのか? それとも無いのか? どのような製品があるのか? どのように使用するのか? といった事への科学的・客観的な記述がないのです.

これでは「税金の無駄使い」と言われても仕方ないかもしれませんね.

・・・とは言え,サプリメントに関する客観的かつ実際的な情報を,「国立スポーツ科学センター」という立派な名前の組織のHPになぜ掲載していないのか?

これでは日本のスポーツ選手や学校体育のためになっているとは言えないじゃないか,という文句もつけたくなるところですが,実はこれには内部事情がいろいろとあるんだそうです.
※ヒント:国立スポーツ科学センターに隣接している施設の名称は,な〜んだ?

なので,さきほどのページには以下へと進むリンクが有り,

そこでは,アメリカとオーストラリアのスポーツ科学センターが出している情報へのリンクを用意してお茶を濁しております.
つまり,JISSでは出せないから,外国のスポーツ科学センターのHPを読んでネ,ってことなんです.

で,そんなオーストラリア・スポーツ研究所(AIS)のHPへのリンクはこちら↓
オーストラリア・スポーツ研究所

アミノ酸に関する記述はほとんどありません.
実は,アミノ酸なんてのは,それほど重要視するようなサプリメントではないのです.
アミノ酸に対するスポーツ科学における扱いが分かってもらえるかと思います.

こういう情報をJISSも提供できるようになればいいのに・・.
と,いつも思っているのですが,内部の人達いわく,「難しい」んだそうです.


※上記で紹介しているウェブサイトに関する記述は,2015年4月24日現在の内容を元にしています.

2015年4月22日水曜日

教育現場,結局,ドラッカーはどうなった?

一昔前,ピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』がブームになったことがあります.
『もしドラ』とかいう書籍と,その類似企画も流行ってましたね.

ドラッカーがその主著である『マネジメント』で提唱した考え方を,いろいろな企業や組織が取り入れようと盛んに息巻いておりました.

それは教育現場である学校や大学も例外ではなかったことを覚えておいででしょうか.

ところが,ここでイタいというか残念というか,困ったことにドラッカーが「企業」を対象に提言していたマネジメントの思想を,公的機関である学校・大学の組織の長や幹部が参考にしていた,という話を見聞きすることがありました.

なかには,当時のドラッカー・ブームに乗っかって「うちもマネジメントに力をいれなきゃいけない」とか「これからの教育現場もドラッカーが言うように・・・」などと触れ回っていた関係者がいたことを思い出します.

そうした「上」の方々を,生ぬるい目で見ていた私がいたことも懐かしい想い出です.

ドラッカーがどう云おうが,大学は大学の大学らしい経営管理を貫けばいい,と考えていた私としましては,なんだか彼らのチャラい振る舞いに嫌悪感すら抱いておりました.

「あなた方,それでも本当に学者かよ?」という生意気な態度があの時滲み出ていたであろうことを自覚するようになった現在,今さらながら「若いって怖い」と思うところであります.

少なくない大学関係者が「教育現場にも企業や民間の感覚を!」などと叫んでおりました(いまだに叫んでいる人達もいます).
そういう人の中には,「そのようにドラッカーが述べている」と言う人もおりましたし,けっこうな数の大学関係者が,大学における「顧客を創る」とか「利益とはなにか」とか「新しい満足を生み出す」などとのたまわっていました.
私もこれにはちょっと頭を抱えてしまいました.

当時,あまりにドラッカー・ブームとマネジメント・ブームが喧しかったもんですから,私もその時『もしドラ』とか『マネジメント』を読んでみたんです.
そしたら,『マネジメント』にこんな一文がありました.
まず公的機関は,企業と同じようにマネジメントすれば成果をあげられると,くどいほど言われてきた.これはまちがいである.
彼らが本当にドラッカーの考え方を勉強していたのか,今となっては謎ですが,多分いい加減だった可能性は高いです.
もしくは,大学のことを公的機関,教育機関だとは見做していない可能性もあります.

ドラッカーは公的機関成功の条件として,以下の6つを挙げています.
(1)自らの事業の定義
(2)明確な目標
(3)活動の優先順位
(4)成果の尺度
(5)成果のフィードバック
(6)成果の監査
読めば読むほど,やっぱり大学らしい経営をやらなきゃいけないという気分にさせられます.チャラいことをしてはならないという戒めに思えます.

さらにドラッカーは言います.公的機関は企業と違い,成果に対して支払いを受けるのではなく,計画と活動に対して支払いを受けるものである.公的機関が生み出すものは欲求の充足ではなく,必要の充足.誰もが持つべきもの,持たなければならないものを供給することである,と.

現在の大学の残念な傾向は,成果に対して支払いを受けようとしているという点です.そんなこと出来ないのにも関わらず,です.
学生や保護者からの欲求を充足させようと企み,卒業生として必要なものを充足させることを蔑ろにする傾向もあります.それが大学としての存在意義の否定であるにも関わらず,です.

彼らが信奉していたドラッカーが言うように,公的機関である大学は「自らに特有の使命,目的,機能について徹底的に検討しなければならない」のではないでしょうか.

  

2015年4月21日火曜日

このブログを読み返してみて思うこと

前回の記事が “あんな感じ” だったもんですから,あらためて自分のブログを読み返すきっかけになりました.
ここ数年は週1本,月4〜5本の投稿頻度になっておりますが,始めた当初は短い記事を高頻度で出していました.かようなブログ名をつけて始めてみたものの,他愛もない記事が目白押しです.

その後,「他人の日記を読んでも誰も面白くないだろう」ということと,「せっかくこの世に生を受けたのだから,何かしらの形で人類に貢献したい」ということで,誰かにとって有益な記事を書こうと思い立ち,しかもその頃からブログに「アクセス解析」の機能がついたので,どんな記事がどれだけ読まれているか分かるようになったこともあり,皆様の反応を楽しみながら “それなりに狙って” 書くようになったわけです.

そんなこんなで,人にウケる記事というのがだいたい分かってきたことと,ただ単にウケるだけの記事は嫌だ,できるだけアカデミックなものがやりたい,と思って始めたのが,「エクセルで統計解析をアナログチックにやる方法」のシリーズです.これは完全にアクセス数が伸びることを確信して書きました.狙い通りです.
そのうち,いろんなところからメール等で質問が来るようにもなりました.学生や院生,研究者の方々が多いです.
(でも,私は統計学の専門家じゃないので満足な対応ができないこともあります)

次に,思わぬ形で当たったのが「昨今の大学」シリーズです.
昨今の大学について「バカバカしい」と思って茶化した記事や,純粋に私のフラストレーションをぶつけた記事もあります.
結構有名・高名な方々にリンクを貼ってもらったこともあったりで,恐悦至極でございます.
そう言えば,某新聞社の記者さんから取材もありました.ビックリです.

大学教員という立場であのような事を書くのはどうか? と思うところもありますが,誰も書かなかったら大学教育が崩壊するのではないかと危惧しておりますので,このような表現をとらせてもらっています.

ですが,誤解を恐れずに言うなら,大学らしい教育の崩壊は止められないと考えています.
どうせ崩壊するんだから一気に行こう,という立場が現在の教育現場の主流だと思うんですが,私はじんわり崩壊していこう,という立場です.
たぶん,この国の学術性や教養は,それが崩壊したことも気づかず過ぎ去るものと思います.気づかず過ぎ去るであろうことが唯一の救いかもしれません.

さて,このブログの更新ですが,当初のように高頻度・短めに戻していこうと思っている今日このごろです.
練って書く記事が思いつかなくなってきた,というのが実情でして.

たまにボリュームのあるものを書くつもりではいますが,もう一度気楽に書きたくなったというのが本音です.

2015年4月17日金曜日

『Deus ex machinaな日々』とは何か

2015年度が始まってバタバタしております.
そんなこともあってか,(最近なぜか閲覧数が増えた)■危ない大学におけるバスの思ひ出に登場したX氏から「ブログ更新してないね」と言われました.
バタバタしていて記事を書くことに頭がいってなかったんです.

2009年より始めたこのブログですが,あっという間に7年の歳月が経ちました.昔の記事を読むと懐かしいです.

ところで,たまに知り合いからも聞かれることがあるのですが,このブログの名称である,
『Deus ex machinaな日々』ってなに? どういう意味?
というもの.
開設当時は,
「まぁ,なんとなく・・」
と答えていたのですが,最近になってその意味が自分でも分かってくるようになりました.
えぇ,そうです.実は当初は自分でも言葉にできなかったので.

Deus ex machina(デウス・エクス・マキナ)というのは,「機械仕掛けの神」という意味です.
Wikipediaの説明ではこんな感じ↓
デウス・エクス・マキナ(Wikipedia)
由来はギリシア語の ἀπό μηχανῆς θεός (apo mekhanes theos) からのラテン語訳で、古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した.
(Wikipedia:2015年4月17日現在)
ということで,そんな日々という意味です.つまりその,
「私の身近,そして最近の日本を見ていると,なんだかそんな毎日な気がする・・・」
という,厭世的と言いましょうか,脳みそにまとわりつく言い知れぬ不快感をブログの名称として選んだわけですよ.敢えて.

もうちょっと詳しく説明しますと,Wikipediaの解説文を引用すれば・・,
世の中のことって普通は,錯綜してもつれた糸のようなもので,解決困難なことが多いものです.ところがそれを,「簡単に解決してしまおう」とか,「単純なものを投じることで一挙に収束することができるはずだ」と見做す風潮が強いなぁと感じておりまして.
いわゆる「分かりやすい」が正義とされる思想ですよ.

あと,東日本大震災と同時に起きた福島第一原発事故の時が典型ですが,メディアや世論に「何か絶対的な力を持つ存在がどこかにいて,それがなんとか解決してくれる」と構える姿勢が見え隠れしていたように感じるのです.
そんな存在は在り得ないと頭では分かっていても,です.

それが結局,「実は簡単に解決できる方法がどこかにあるのでは?」とか,「実は単純な手段で一挙に収束できるのでは?」という無意識的な妄想/確信的な主張へとつながり・・.
「なんで物事はこんなに(私にとって都合の良いように)上手くいっていないんだ!」
という声となって広がってゆく.

そうしたものを「なんかそれって違うんじゃね?」という想いを胸に綴り始めて7年経ったわけですね.

これについては最近,佐藤健志先生がその著書『震災ゴジラ』などで,
「戦後日本はシステム不全に陥っているから,これを正すためにも一回この国は破壊されなければならないと考える風潮がある.“戦後は破局へと回帰する”」
という主張を展開したのですが,それに私はもの凄く共感するんです.

他にも似たようなものに「ショック・ドクトリン」とか「グレートリセット」とか.いろいろと『Deus ex machinaな日々』が2009年開設以降も登場しましたね.

理性的,合理的,計画的・・,つまり「機械仕掛け」のようにこの「世界」を説明できる,解釈できる.
そして,たとえそれを壊してしまったとしても,我々人間は「直す」ことができる.
そんな考え方が大手を振って歩くようになったわけですけども.

この世界が機械仕掛けで済まされてなるものか.
そう思いながらこれからも書き綴ろうと思います.







2015年4月3日金曜日

井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」

「体育」という授業が小中高の「学校」だけでなく「大学」にも存在する意義とは何か.
これについて数あるうちの一つを今回は記事にしてみたいと思います.

以前,
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」
でも少し紹介したものではありますが,あらためて書いてみます.

体育が目指しているところ,文科省が出している学習指導要領ではどのようになっているでしょうか.まずは学校教育におけるそれを確認してみましょう.
以下のリンク先に,小中高の学習指導要領における体育の目標が示されてあります.
小学校学習指導要領
中学校学習指導要領
高等学校学習指導要領

確認するのが面倒な人のために,それぞれの学習指導要領の言わんとするところをまとめますと,
生涯にわたって運動に親しむ資質や能力,態度を育てる.
ということのようです.

つまり,運動やスポーツは「良いもの」だから,それを生涯にわたって親しんでもらいたい.故に体育を学んでもらっているのだ,ということです.

ではなぜ運動やスポーツが「良いもの」なのか?
一般的には,心身の健康の維持増進に効果的であることが科学的にも実証されているから,という理由がつきそうです.
学校教育における最終段階である高校体育の学習指導要領の「目標」には,
心と体を一体としてとらえ、健康・安全や運動についての理解と運動の合理的な実践を通して、生涯にわたって計画的に運動に親しむ資質や能力を育てるとともに、健康の保持増進のための実践力の育成と体力の向上を図り、明るく豊かで活力ある生活を営む態度を育てる。
とありますから,健康が大きなキーワードになっていることが窺えます.

たしかに健康も大事なことの一つではあるのですが,ここでは特にスポーツが持っている人間社会を安定化させる機能に着目し,それを教育できる機会としての「体育」を論じてみたいのです.

結論を先に言えば,
スポーツを健全に楽しむ資質や能力,態度を教育することは,その教育を受けた集団(国民)の社会を安定させることにつながる
ということです.
言い換えるなら,スポーツは心身だけでなく,社会をも健康にすることができるということです.

ややもすれば体育・スポーツ嫌いが多い(?)インテリ層からすると生理的に受け付けない主張かもしれません.
しかし,体育の存在意義はまさにこの点にあり,体育を通じてスポーツの思想や哲学を健全に継承することが求められます.

体育やスポーツを通じた教育がなぜ社会の安定につながるのか? 
それを考えるためには,まずスポーツについて知っておくことが必要です.

過去記事でも繰り返していることですが,この話をする上では重要な事ですので簡単に触れておきます.
「スポーツ」というものを一言で説明すれば,
「なにかしらのルールを作って相手よりもスコアを稼ごうとする競争であり,できれば自分と相手のベースラインは同レベルであるほうが好ましい」
という考え方とそれに基づく活動です.

ですから,皆さんもよく知っている野球やサッカーという,いかにもスポーツらしい活動以外にも,将棋やトランプゲームといったものも「スポーツ」として分類されることがあります.
いかにもスポーツらしいスポーツというのは,「スポーツ」と呼ばれるものの中でも「近代スポーツ」という範疇のものです.スポーツの範囲は思った以上に広いのです.

さらに言うなら,このスポーツはなにも「スポーツ」と指し示される活動だけでなく,人間が生み出している文化や営みの多くに当てはまるものだと言えます.
極論じみたことを言えば,「人間というのは常にスポーツをしたい生き物であり,なにかにつけてスポーツ的に活動しようとするところに,他の生物との相違点がある」と考えられるのです.
※その詳細は■人間はスポーツする存在であるを読んでください.

特にこと「近代」においては,上述した「できれば自分と相手のベースラインは同レベルであるほうが好ましい」という思想が強く,これに基づいた法律やその解釈,論評がなされることが多くなりました.
その代表的なものが「もともと人間は平等なものでありたい」という思想です.
これは別角度から見ると,平等な状態から競争をスタートし,その結果として現れた差が,その人が持っていた本当の能力なのだ.ということで納得しようとする思想です.

と同時に,これがスポーツと呼ばれる活動の面白さであり,人々を魅了するスポーツの思想だと思われます.

平等な状態からスタートして現れた差なのだから,その差には価値があるように思えます.その差の価値を持ち上げて徹底しようとするのが「近代スポーツ」でしょうし,その近代スポーツの在り方を社会においても実現しようと構えたのが「近代」であり「現代」と言えるのかもしれません.

このようにして現れた「差」に価値があるという思想が強まると,上に居る者はずっと上にいたいと思うようになります.
生物である以上,自分の優位性を保ちたいと考えるのは本能的なものかもしれません.

こうした生物としての本能に従った状態が続くのが,いわゆる格差です.政治経済的には貧富の格差,格差社会などと呼ばれるでしょう.

こうした「格差」や,「埋めようのない溝」を前にした時,体育・スポーツ教育が重要な意味を持つようになってくるのです.

スポーツの魅力は何かというと,その一つに「勝つか負けるか分からないスリル感」があります.
勝ち負けに限らず,結果が見えている競争は面白くありません.結果が見えていない競争を楽しもうとするところにスポーツの面白さがあるわけです.
前述したことを含めて言えば,人間が平等な状態から競争をしたがるのは,その結果として現れてくるであろう「差」が不確定になるからこそです.
その競争を始めた時には分からなかった差が徐々に現れてくるところに,その人の本当の能力,努力度,才能,運命といったものを見ることができます.

ところが,それこそ体育の授業で経験したこともあるでしょうが,例えばサッカーなどで一応は平等にチーム分けをしても,何度も試合をしてみると圧倒的に勝つチームとどんなに頑張っても負け続けるチームというものが出てきます.
つまり,平等な状態で始めたゲームであっても,そのうちチーム間に「格差」が出てくるわけです.

その差を埋めようと頑張ることを教えるのも,体育の存在意義の一つではあると思います.
これは体育の授業というよりも,スポーツ系のクラブ活動を頑張ってきた学生の社会的評判が高いところから窺えます.
そんなわけで,「スポーツは忍耐力や礼儀,友情とチームワーク,努力することの大切さを子供が学ぶ絶好の機会だ」と評されることは今やステレオタイプになっているでしょう.

しかし,スポーツを通じた教育である体育において “最終的に” 教えるべき目標とは「勝者としての態度」ではないかと思うのです.

「Good loser(良き敗者)を学ぶのがスポーツ教育」と評されることもあります.負けたからと言ってふてくされたり,負けた原因はナニナニだったと言い訳をせず,素直に勝者を称える敗者であることが重要なのだと.

それもそうなのですが,やはり皆が目指している勝者という存在の影響力は大きいはずです.勝者の態度はスポーツにおいて重要な意味を持っているのではないかと考えることは当然ではないでしょうか.
勝者は勝てて嬉しいでしょうし,勝ち続ければその選手やチームの優越感は満足のいくものとなります.
それは自身の能力であり,努力であり,才能なのだということを証明する過程なのであり,自覚させてもらえるものだからです.

だからこそ,ここでスポーツとしての魅力に戻ってもらいたいのです.
もしこの勝者が圧倒的であれば,勝つか負けるか分からないというスリル感はありません.結果が分かっている競争をしていることになります.
しかし,結果が分かっている競争にスポーツとしての魅力はありません.もっと言えば,そこに居る者にとってそれはスポーツではないのです.ひたすら勝者と敗者を機械的に作り出す作業です.

こんなにつまらないものはない,そう思うでしょう.
そこにおいて勝者はスコア(得点)を稼ぐだけの存在になっています.スポーツをするところに人間の本質が隠れているのであれば,スポーツをしていない人間はもはや人間ではない.つまり,ワンサイドゲームを続ける者は人間ではない.そうも言えます.

そんな時,勝者が「人間」であったならどうするか.
勝者はスポーツできる状態を作り出すのです.それは何を意味するか,もうお分かりかと思います.
自分たちが負けるかもしれない状態を意図的に作り出すことです.それが勝者のやるべきことなのです.
ハンディキャップやルール変更,チームメンバー交換といったことをやって,再度,平等な状態からスタートする競争を始めることが,勝者としての振る舞いです.
自分が最も得をする状態ではなく,場や状況全体が “スポーツになる状態” を欲するのが,そのスポーツにおいて勝者となった者がとるべき態度なのです.

敗者が平等を訴えることは美しくありません.たんなる妬みと思われるのがオチです.
だからこそ,敗者にはGood loserとしての態度が求められるのであり,それ故に勝者には勝者ならではの振る舞いが必要になります.

敗者をいつまでも敗者とさせておかない.敗者にも勝者となる可能性を持たせることが,時の勝者に求められる振る舞いです.
それが社会を安定させることにつながるのです.
これを強者からの施しと呼んだり福祉・弱者救済と呼んだりするかもしれませんが,これらの意義や意味は,スポーツによって説明できるかもしれません.

逆に言えば,勝者としての地位に安住すること.つまり,ワンサイドゲームを続けることは勝者が取るべき振る舞いではないのです.
しかし考えてもみてください.ワンサイドゲームほど安全で合理的な状況はありません.生物としての本能に従ったなら,あらゆることをワンサイドゲームにすることが求められます.
ですが,我々はそうしない.ワンサイドゲームを楽しむ者を我々人間は忌み嫌うのです.下品で下劣なものと見做します.
それはやはり,人間がスポーツをするところをその存在の本質としているからとも考えれます.

スポーツを通じた教育や体育は,学校教育ではもちろんのこと,(建前上は)エリートを育てている大学においても重要なのです.
むしろ,社会においてエリート(強者)という立場になりやすい者を教育する大学だからこそ体育は重要であると言ってもいいでしょう.

ところが,近代におけるスポーツは勝敗やスコア稼ぎの厳密性を徹底するようになりました.
人は皆,生まれながらにして平等な立場からスタートしていて,その結果,そこに差が出たのはその人の実力や努力の結果を示すものだ,と考える人が圧倒的に増えたのです.

しかし,その人の境遇はその人の実力や努力だけで形作られているわけではなく,さまざまな偶然が複雑に折り重なって出来たものであると考えることもできるでしょう.
つまり,スポーツにおける勝者にしても,自分が勝ったのはもしかするとたんなる偶然が重なったからに過ぎないのではないか.そうであれば,勝ったことを「自分の力だ」などと公言することは憚られることであるし,敗者へ配慮する心も芽生えてくるものです.

それよりなにより,人間は常にスポーツする存在なのですから,自分自身がスポーツできる状況を創ることこそが,人間らしさを維持できることなのだと直感的に分かるはずなのです.
敗者に塩を送り,周囲の者の能力を高めることで,自分が勝ちづらくなる.しかしそれは同時に,自分がさらに面白いスポーツができるようになることも意味するのです.
それこそが人間としての生き甲斐や幸せにつながるのではないか.そう考えることができる人を育てる上で,スポーツを通した教育は格好の教材です.

勝者が敗者にどのように対応するのか,その態度を身につけさせることが「体育」に課せられている使命ではないかと思うのです.
その場にいる者全員がゲームを楽しむには,個々がどのように振る舞えば良いのか,それを学ぶことは,社会を安定させるコツを学ぶことと同義ではないでしょうか.

それだけにこの社会を見回してみますと,こうした体育・スポーツの教育的意義が軽んじられているのではないだろうか.そして,ノイズの少ない勝利を目指そうとする近現代スポーツの魔性に取り憑かれているのが,この近現代社会ではないかと危惧するところです.


※別の角度から論じた,
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」
も読んでみてください.