2015年5月1日金曜日

スーパーグローバル大学という舞台を斜め下から覗いてみると

スーパーグローバル大学に選ばれると大変な目に遭う.ということを前回お話しました.
それでもなんだかんだと「スーパーグローバルを目指そう」という流れが根強く大学内部にあるわけです.
これは一体どういうことか? 今日はその点について,内部にいる者の一人として感じていることをお話しましょう.

心の底から「これからの時代は大学もグローバリズムに対応しなきゃいけないんだぁ」と考えている真性のアレな教員は放っとくにしても,そういう真性でない教員でスーパーグローバルにしぶしぶながら手を挙げる人はどういう背景を持っているのでしょうか.

大きく分けると3タイプ.
それを以下にお示しします

1)それを正しい大学改革の方向性だと信じたい研究肌教員の「頼みの瀬」
これまでの大学改革は「教育に力を入れる」という点を強調して各大学粉骨砕身しておりました.とは言え.何をもって教育に力が入れられているのかという判断は難しいものです.
勢い,授業評価アンケートや就職率とか,つまり学生の満足度などというものを優先する経営方針が実践されておりました.それは特に「研究肌教員」からすると我慢ならない,お子様ランチ的な大学運営だったのです.

大学はそんなところじゃない.研究が大事なんだ.大学はもっと研究者を優遇するべきなんだ.という不満が研究肌教員には募ります.
そこに現れたのが,「俺達は国際的に活躍しているんだ」と自負する彼らの自尊心をくすぐる「スーパーグローバル」です.

スーパーグローバル大学という考え方に問題点はたくさんあるけど,とりあえず目下,俺達の立場を認めてくれる思想であるに違いない.これが稼働すれば,少なくとも自分はその流れの主流に乗れて優越感には浸れるはず.
というわけで,スーパーグローバルに反対する気持ちが弱いという人がいるのです.


2)教育研究に自信はないけどオーラル英語に自信のある教員の「最後のバッターボックス」
若い頃に海外滞在経験があったり,海外旅行が好きだということで英語でのコミュニケーションが得意な人が教員にもおります
ところがそういう教員の中には,教育をやらせればチャランポランで学生からの評判も悪く,おまけに研究もろくなことをしていない.そんな感じで無常にも時は経ち,箸にも棒にもかからない人物になってしまって学内では肩身が狭い思いをしている教員というのが一定数いるんです.

とは言え.別にそういう教員は叱責を受けるわけでも本当に無能なわけでもなく,たんに本人が「肩身が狭い」だけなのですが.実はこれが「スーパーグローバル」にすがりつく要因なのです.

難しい話ではありません.ようするに世間と大学が「スーパーグローバル」という舞台を用意してくれたおかげで,それまで彼らを「無能」と嘲笑していた研究肌教員に対しては,
「読む英語,書く英語ではグローバル人材は育てられないぞ.グローバルに活躍するためにはコミュニケーション能力が大事なんだ(ドヤァ」
と反論できるようになります.

また,これまで彼らを「無能」と見下していた教育力ある教員に対しては,
「英語力がこれからの時代は大事なんだ.それが新しい時代の教育力なんだ(ドヤァ」
と逆に見下せるようになった,ということなのです.

そんな彼らにとって,「スーパーグローバル」は逆転サヨナラホームランを打てる打席に見えるでしょう.


3)「大学の教育力」のアイデアが出尽くして困っている教員の「拠り所」
就職率や授業評価といった学生の満足度を高めることで「大学改革」,そして大学の存在意義を高めようとしていた教員がおります.
彼らは大学経営を担う立場にあり,至って真面目に本気でそれに取り組んでいたのです.

ところが,それに頑張って取り組めば取り組むほどに「なんだかなぁ~」という虚無感と焦燥感は募ります.

さらには,そこに粉骨砕身しても期待したほどの成果は上がらず,それをちょっと愚痴ってみたら「一般企業ならそんな経営努力は当たり前だ.ぬるま湯に浸かっていた大学教員が何を言うか!もっと苦しめ!」と反論される.

そんな時,憔悴しきっている彼らの前にグローバリズムの思想が現れます.

なんだかんだで大学教員をやっている彼らにしてみれば,グローバリズムなどというアホっぽい思想の軽薄さには勘づくものです.
しかし残念ながらというか,世間はそうではなく,猫も杓子もグローバリズムと騒ぎ立てているではありませんか.

なんてバカバカしいんだ.これを世間に啓蒙せねば・・.
などという使命感より前に,彼らの頭に浮かんだのは「これで助かった・・」というものでしょう.

スーパーグローバル事業が典型ですが,この手の大学改革は教育現場に求められている事が非常に明確でして.
具体的には例えば,海外滞在経験を持った教員を増やせ,外国籍教員を増やせ,英語のみで授業するクラスを増やせ,TOEICを何点以上取れるようにしろ,留学生を増やせ・・・等々.

その一方で,皆で育てようとしている,そして皆が欲しがっているとされる「グローバル人材」というものが,一体どういう存在なのか,詳しく知っている人はいません.
一般企業・社会に求められる人材ならまだしも,グローバルに活躍する人材について大学に正面切って文句を言える世間の人も少ないわけです.

つまり,グローバル人材がなんなのか分かっていないにも関わらず,なぜかグローバル人材を育てる大学とはこういうものだ,という改革目標,すなわち「目標となる状態」が明確なんです.

これは,大学改革に疲弊した教員からすれば,責任を外部に分散できるなんとも嬉しい要求なのですよ.

まとめますと,大学がこれまで必死になって取り組んでいた「学生の満足度の向上」は,徹頭徹尾「大学側の努力」と見做されていたのですが,スーパーグローバルはと言うと,大学がその教育システムと環境を用意すれば,あとはそのシステムと環境の中で力をつけられなかった学生と,その卒業生を活かせない社会が悪いんだ,ということで責任をなすりつけることができるという寸法です.

どうせグローバル教育なんて成功するわけないし,そもそもそんなことする価値なんて無い,ってことは重々承知の上で,それでも世間から求められる大学改革をなんとか楽して切り抜けたいという気持ちの現れなのです.

こんなことを言っておりますと,
「じゃあ,スーパーグローバルがダメなら,どんな大学教育がやりたいんだ?」
と言われるかもしれません.

実は過去記事でそれについて取り上げたことがあります.
大学について
大学について2
よかったらご一読ください.

例えばドイツの哲学者であるカール・ヤスパースは,その著書『大学の理念』でこう述べています.
最高の訓練とは,完結した知識を習得することではなく,むしろ学問的な思考へと諸器官を発展させることであり,また教育することなのです.そうすることによって,生涯を通して,更なる精神的・学問的訓練が可能となるのです.
すなわち,卒業した段階で社会の役に立つとか,仕事がバリバリできるといった人材を輩出するわけではなく,一生をかけて学術的思考を磨くことができる人物を輩出することが大学の存在意義だということなのです.

また,スペインのホセ・オルテガ・イ・ガセットは,「バカのくせに自分を疑わず,自分が分別ある人間だと思い込み,いろいろな問題に意見できると豪語して恥じない『大衆』」をなんとかしなければいけないと考え,それが大学の使命と考えていたのだと思います.
オルテガの著書『大学の使命』で,彼は大学教育について以下のように述べています.
われわれは平均学生から出発しなければならない.
平均人を何よりもまず,教養ある人間にすること,すなわち,その時代の高さへと導くことが必要である.
別にグローバル化や国際化がダメだと言っているわけではないのです.
学術的な探求を進めていけば,グローバルな思考や国際的な観点が必要になってくるでしょう.

しかし,大学というところで学ぶべき事というのは,そんな低次な話ではなく,物事を正しく捉える能力,モノの考え方を身に付けることが最優先されるべきではないかと言っているだけなのです.

こうした事はたしかに学生ウケはしないでしょうし,心ない大衆人からは「そんなものを学ばせてもメシは食えない」といった閉口してしまうような文句も出るでしょう.

それをいかにシカトできるか.
そこが現在の日本の大学に強く求められていることなのです.


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