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波多国:七星剣が置かれた国

実家に帰省中.この実家の話を続けましょう.
私は高知県南西部の幡多(はた)地域の出身です.過去に何度か写真なんぞをお見せしてきました.
ここが私の実家です↓

生半可な田舎ではございません.峡谷のようなところです.
ドラクエとかFFでは秘境の村みたいなところですね.

今日は送り火でした.これは我が家の送り火↓

なお,京都の大文字の送り火がよく知られますが,この幡多地域では「中村(四万十市)の大文字焼き」が有名です.
大文字焼き(wikipedia)

さて,そんな幡多地域.以前,
「昔は海が近かった」を確認できる「Flood Map」
でもお話したように,この地は古代において「波多国」と呼ばれる国でした.かつて土佐国は2つに分かれていたんです.

この波多国,日本建国上の歴史的において「出雲国」くらい重要な地域である可能性があるのですが,意外とメジャーではありません.
今日はその波多国のお話.
出雲国みたいに地道にキャンペーンを張っていれば,そのうち関心が高まって考古学的な調査が入るようになるかもしれませんので,気長にいきましょう.

まず,それらの場所を確認しておきます.こういう感じ↓
高知県西部が波多国(はたこく).東部が都佐国(とさこく)です.

波多国は都佐国に先駆けて発展していたことは間違いないようで,古代遺跡の多くがこの地域に集中していることと,大和朝廷がこの地に「国造」,つまり地方官を置いたのも波多国が都佐国よりも先であることなどから推察されています.
波多国造(wikipedia)

どうして当時土佐国を一括管理できなかったのかは諸説考えられますが,上図の青線で引いたところに険しい山があるため,都佐国への進出が困難であり,その地域を制圧するのに時間がかかったからではないかと思われます.

というのも,かつて首都である畿内から土佐地方に入るためには瀬戸内海・愛媛地域を経由するのが普通だったからです.
こんな感じ↓

なので,とりあえず波多国に入ってこの地を管理するんだけど,そこから先に進むには船を使うしかない.つまり,日常的,乃至,一般庶民レベルでの交流が難しかったのでしょう.
事実,高知県は「土佐弁」が有名ですが,私たち幡多地域の者は土佐弁を使いません
「幡多弁」と呼ばれる土佐弁とは微妙に異なる方言を使うのです.
ちょうど,「関西弁」と一括りにされても,京都,大阪,神戸で違うし,大阪のなかでも南部の泉州弁は微妙に違うというのと一緒です.
幡多弁(wikipedia)
これを知っていると “高知通” として一目置かれますよ.

で,その後,徳島を経由する短いルートが開拓されてからは都佐国の方が栄えるようになったというわけです.
しかも都佐国のほうが平野が多いですから,都市としてのポテンシャルは高かったであろうことは容易に推察できます.
ちなみに,紀貫之「土左日記」は,この新ルートでの道中・船中を著したものです.

さらに時は流れて,波多国と都佐国が統合して「土佐国」として管理されるようになったのは,1601年に山内一豊がこの地にやってきてからのこと.実に1000年以上もの間,土佐は波多国と都佐国とに別れていたんですね.

さて,この波多国には数々の「」があります.
まず,日本を代表する宝剣が置かれている国なんです.
その名も「七星剣(七星宝刀)」.
これです.
画像:http://blog.goo.ne.jp/kochi53goo/e/76326277a93e1eb9649b74334e8f2bdfより
四万十市(旧中村市)の一宮神社で発見されました.

七星剣.なんとも仰々しい名前の剣ですが,実際仰々しいものです.
七星剣(wikipedia)
ウィキペディアの解説によると,
七星剣(しちせいけん)とは、中国の道教思想に基づき北斗七星が意匠された刀剣の呼称。破邪や鎮護の力が宿るとされ、儀式などに用いられた。
ようするに典型的な「聖剣」です.
一番有名なのは,聖徳太子の愛刀とされる四天王寺(大阪)が所蔵している七星剣.
その写真がこちら.
画像:wikipediaより
あとは法隆寺と正倉院(奈良)所蔵のもの,稲荷山古墳(千葉)から出土したもの,個人所有(長野)として伝わったものがあります.

で,この剣はどういうものなのかというと,例えば平安時代では天皇の代替わりの際に新たな天皇へ渡される護身刀だったようで,時代によって意味が変わる可能性もあれど,少なくとも「天皇の親族が持つ剣」だと考えられています.
飛鳥時代には聖徳太子が帯刀していたわけですし(もちろん,聖徳太子以外の皇族も持っていたはず).

現存しているのは7本あり,歴史的には何十本と作られているもののようですが,全国各地どこにでもあるものではないようで,国家統一を象徴する貴重な宝剣であったことはたしかです.

おそらく,日本各地を治めるため,まさに「破邪と鎮護の力が宿る聖剣」を持った天皇ゆかりの者が国造りのため遣わされた際に帯刀していた可能性があるのです.
つまり,波多国は「七星剣を持つ者がいる国」だったわけです.これが意味するところは重大かもしれません.

さらに興味深いのは,幡多地域で見つかった例の七星剣は,現存の中でも最も古いものである可能性があるとのこと.
造形や材質からすると,5世紀頃,つまりまだ日本で製鉄が始まっていない時代のもので,朝鮮半島で製造されたものではないかと考えられているのだそうです.
しかもですね,上述した波多国の管理を任された「波多国造」,その者の名前は何か?

実は,その名を「天韓襲命(あまのからそのみこと)」と言います.
そう,波多国造は朝鮮からの渡来人だった可能性があるのです.
(漢字からすると,三韓征伐を担当した将軍(朝鮮を襲った人)のようにも捉えられますが・・,おそらく「熊襲」などと同じような解釈ではないかと思います)
波多国造(wikipedia)

当時の日本は朝鮮侵略(三韓征伐)をしていましたから,支配下に入れた王族や将軍・役人などを波多国造として任命した可能性があります.その際,この一族が朝鮮で製造された鉄剣「七星剣」を持ってきたとも考えられる.

そもそも七星剣とは,中国・朝鮮において聖剣とされていたものですので.日本もその聖剣の力を使ったわけですね.
ちなみに,あの「七支刀」も同じように朝鮮から伝来しています.
もしかすると,この波多国の七星剣が日本最初の七星剣である可能性だってあるのです.

さらに言うと,天韓襲命の子孫が「波多氏」だとされていますが,この波多氏には皇族の重鎮とされる一族がおり,彼らにはさまざまな伝説上の出自があります.
波多氏(wikipedia)
で,そのうちの一つが波多矢代を祖とする波多氏で,この波多矢代は神功皇后に付き従って三韓征伐に向かっています.

「三韓征伐」に向かった波多氏ですか.
なんだかここでも関連性を感じてしまいますね.

一般的に,この皇族の重臣である波多氏は,奈良・波多郷の出身だとされています.
ですから,波多国とその国造とからめると,こう考えられるわけです.
神功皇后に従った波多氏は,三韓征伐によって支配下においた地域の朝鮮人のある一族を,四国南西部(波多国)の国造として採り立てた.
その者の名(一族)が「天韓襲命」だった.
そして,この者が治める地域を波多氏にちなんで「波多国」とした.
けっこうきれいに筋が通っている話でしょ.

でも,これはあくまで日本神話の話,伝説上の話です.
例えば,古事記の記述内容を現実的な年代に当てはめた場合,先ほど出てきた三韓征伐の神功皇后を含めて「15代 応神天皇」までは創作された天皇ではないかとされています.
そうでなければ,日本は2600年以上の歴史を本当に持つことになってしまいます.いくらなんでもそりゃ考えにくい.
3世紀から4世紀にかけての日本は動乱を迎えていた可能性があり,中国の魏志倭人伝にも載っておらず,この時期の日本は歴史の闇に埋もれているのです.

その闇を「壮大な四国ファンタジー」として描いた記事があります.
以下の結論はそれらを前提としますので,意味不明な人はそちらもお読みください.
一言で言えば,「西日本統一戦争を制したのは四国連合軍だった」というもの.

そうした壮大な仮説によれば,もしかすると四国・波多国の波多氏が,神武東征の後,天皇の重臣となったのではないか,とも考えられるのです.
そして三韓征伐の際,彼ら波多氏は聖剣「七星剣」を手に入れ,これを祖国・波多国に納めたのではないか.
けったいなファンタジーではありますけど,そうでなければ,こんな辺境の地に日本最古の七星剣が置かれているのはおかしいんです.


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