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もう少し竹取物語と「かぐや姫の物語」を考える

かなりしつこいと思われるでしょうが,言い足りないところがあるので前回の話を続けておきたいと思います.
竹取物語をアニメ映画で観た
の続きです.

ジブリアニメの『かぐや姫の物語』(監督:高畑勲)が非常に興味深かったので取り上げました.
原作である『竹取物語(竹取の翁の物語)』に忠実な展開で,かぐや姫という女性の心情にスポットライトをあてた作品だと評価されています.

ですが,前回の記事ではその物語が破綻していることを論じました(これはジブリアニメではよくあることですが).
その原因は,「かぐや姫を人間の女性として描いてしまった」ことによるものだというのが前回の記事で言いたかったことです.

「月の民」であり,そして「天上界の高貴な姫君」という出自を持つかぐや姫を,我々が住む穢れた地である下界の女性と同じような心情として描けるわけがない.ざっくり言うと,そういうことです.

では逆に,どうすれば『かぐや姫の物語』は破綻しなかったのでしょうか?
まず,件の作品『かぐや姫の物語』で描いていたような,「自立した女性の生き方」を見せたかったのであれば,かぐや姫は月の民ではなく,普通の田舎娘として描かれるべきでした.
そうでなければ,「成金オヤジにつれられて都にやってきたけど,都会生活や貴族のしきたりに辟易し,素朴で自立した女性の生き方を貫く」というコンセプトが成り立ちません.
だって,彼女は天上界の姫君なのですから.
あれだけ「保守的な生活は嫌だ!慣習に縛られたくない!どうして自然のなかで素朴に生きてはいけないの?」と言っているのですから,本気でそう思っているのならさっさと田舎暮らしに戻れば良かったのです.

でも,そうできなかった.
なぜなら,「下界での生き方,言い換えれば,《人生》というのはそういうものだから」です.
『かぐや姫の物語』において,「かぐや姫」には全く救いがないんですよ.
もっと言えば,彼女に救いはいらない.彼女は天上界における高貴な姫君だから.そこに帰っていっただけのこと.

私は『かぐや姫の物語』が悪いと言っているわけではありません.極めて常識的なことを伝えている.
ヒトには人の,イヌには犬の,ネコには猫の生き方がある.そういうアニメ映画なのです.

私が問いたいのは,結局あのアニメ映画は「昔々あるところに,かぐや姫という天上界の女がいましたとさ.おしまい」という話でしかないでしょ? それってわざわざ莫大なお金をかけて作って,広告打って上映するお話なんでしょうか? ということです.

かぐや姫の出自を普通の人間女性の田舎娘にしておけば,そうはなりません.
「こんな都会の生活は嫌だ」ってことで,最後は「月」に帰らず「田舎」に帰らせれば良いのですから.でも,田舎に帰ったら田舎での苦労が待っているだけなんですけどね.


では,かぐや姫が「月の民」であるという設定を保ったままで物語を破綻させないためにはどうすればいいのか.
前回の記事の後半部分でも書いていることではありますが,徹頭徹尾,彼女が「月の民」の「高貴な姫君」であることを素直に描くしかありません.

だとすると,かぐや姫は成人したあたりから自分の出自や立場を自覚していたと考えるのが妥当です.
そう考えれば,「竹取物語」は極めて精巧に出来たヒューマンドラマになるのです.

でもこれをやると『かぐや姫の物語』ではなくなってしまうんですけどね.

貴族の要求を突っぱね,帝にも楯突く「かぐや姫」という女性に,思わず「自立した女性」の姿を見てしまいたくなるのが現代人.
でもこれは,「そんな高貴な男たちに頑として抵抗できるかぐや姫という女性は一体何者なんだ?」と考えさせたいというのが著者の意図ではないでしょうか.

そして最後にそのネタバレが一気になされる.
読者は,「あぁ,そうか.だからこの女性は貴族にも帝にも強硬な態度がとれたんだ」と思う.
なんせ彼女は「天上界の高貴な姫君」というチートキャラだったのです.

で,この物語はつまり,
天上界のお姫様が,流刑地であるはずの穢れた下界の人間と分かり合えた
という結末を伝えているのです.

これは数々の小説や映画でも使い古されている,
当初は弱者に侮蔑的な態度をとっていたはずの強者が,彼らとの交流を通じて次第に理解を示すようになる
というパターンですね.

そしてここから,高畑勲監督が示したものとは異なる「かぐや姫の罪と罰」が推察できるのです.

ちなみに,『かぐや姫の物語』の高畑監督は,この「罪」と「罰」として以下のものを示しています.
「罪」:月の民であるかぐや姫が,穢れた世界である地上の民に憧れてしまうという罪を犯す
「罰」:その罪を償うため,地上の民と穢れた世界で生活をするという罰を受ける
私はこの解釈は非常に面白いものだと思います.
でも,これだと「罰」が罰になっていないという致命的欠陥があります.

その他の説としては以下のものがネットにありました.
群がる求婚者を徹底的に排除することが「償い」だと解釈するもので,つまり,
「罪」:かぐや姫は天上界で「恋愛」に関する罪を犯した(不倫,もしくは恋愛感情を持つことなど)
「罰」:穢れた地の多数の男から求婚を迫られ,それを断る状況を受ける
というもの.たしかにこういう解釈もありますね.
でも,これも「罰」になっていないんじゃないかと思うんです.求婚を断る彼女の姿は,明らかに本気で嫌がっています.それに,最後は帝に恋愛感情を持ってしまっているのですから,償いを果たしたとも言えない.
仮にこれを「罰」だと捉えるためには,彼女の「罪」とは何かの恋愛をしたことの咎ではなく,恋愛を「しなかった」ことだと考えるのが自然です.

これらに対し,私が考える「かぐや姫の罪と罰」はもっとシンプルです.
というか,いろいろネットを探したのですけど,このシンプルな解釈が意外にも見当たりません.普通すぎて取り上げられていないのでしょうか? それとも皆さん,深読みしすぎているのでしょうか?
前提としては,天上界を過度に潔癖な「仏界」として捉えず,下界よりも優雅で雅やかな場所である考えます.そして,かぐや姫は天上界の王が自ら迎えに来るほどの「スーパーセレブ」だということを考慮します.
そこから考えられるのは,極めて普通なもの.
「罪」:かぐや姫は高貴な身なのに,ヤンキー不良少女として育ってしまった
「罰」:低俗な連中のもとで一から生まれ直し,天上界の暮らしがどれほど良いものか思い知らせる

天上界のお姫様がヤンキーではいけません.困り果てた「天上界の王」は,罰としてもう一度生まれ直させ,下界という汚い場所に流刑させたのです.
これなら「罰」として成り立ちます.
きっと,「一からやり直して,大人しく刑に服していれば月に帰れるぞ」とでも言われていたのでしょう.
だから表向きは親孝行な女の子を演じていた.

とは言うものの,生まれ直して大人になるまでの時間が人間と同じではさすがに酷ですから,3ヶ月で成人させます(もっとも,月の民はそれが普通なのかもしれませんが).
しかも,下界とはいえ育ての親となるホームステイ先選びはきちんとしておく必要がありますから,「功徳を積んだ」とされる老夫婦が選ばれたわけですね.
さらに,この老夫婦とかぐや姫が生活に苦労しないよう金銭を与えています.なんせかぐや姫はスーパーセレブなので,流刑と言っても待遇は配慮される必要があります.食うに困るほどの罰は課されないのです.
これは当時の高貴な身分の人が受ける流刑,すなわち,「都から離れた場所で暮らさなければいけない罰」と同じようなものでしょう.天上界の民にとって,下界の都など汚らしいド田舎にすぎないのですから.

「大人しく刑期を満了する」というのがかぐや姫に課されたことですから,求婚を迫ってくる男達は邪魔者でしかありません.だから次々と不幸と死に追いやった.かぐや姫は大人しくしてなきゃいけない身なので,直接的に手をくださず,彼らを言いくるめることで追い払ったのです.
さしずめ,超難関校の女子大生が,群がるFラン男子を手玉に取って遊んでいたようなものです.天上界の民であるかぐや姫は,下界の者より知能が高いことが予想されます.
かぐや姫は一見冷酷な女に見える?
いえ,それは間違いです.彼女は骨の髄まで冷酷な女なのです.

ところが,天上界の人々にとって(あるいは彼女自身も)誤算だったのは,かぐや姫が下界の者と相通じる感情を持ってしまったことです.
まさかあの冷酷非道なヤンキー娘が,あと少しで釈放という時期になったら,汚らしい下界の民のことを想って涙まで流しだした.
その時,育ててくれた老夫婦には泣きながら「かの国の父母のこともおぼえず」とまで言います.おかしな話です.彼女は何から何まで事情を知っているのに,実の両親の記憶だけはないと言うのです.そんなわけがありません.これは育ててくれた老夫婦への思いが強く,下界に留まりたいことを訴えているのでしょう.私は月の都を捨てても良いと.

下界での服役中の嫌な思い出を消すために用意されていたはずの「天の羽衣」は,なんと皮肉なことに,下界で見つけた大切な「育ての親」と「想い人」の記憶を消すものになってしまった.
これが『竹取物語』にある強烈な悲しさなんだと思います.


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