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竹取物語をアニメ映画で観た

今日の今日まで全然知らなかったんですけど,「竹取物語」をジブリがアニメ映画にしていました.
『かぐや姫の物語』です.監督は高畑勲氏です.
DVDと小説が出ています↓
 

ひょんなことからこのアニメ映画を知って,評判が良いようなので見てみたんです.
今回は,その映画感想文を書いてみたいと思います.

この作品は「映像がきれい」であることと,原作「竹取物語」が抱えているメッセージを高畑監督なりに解釈して見せたということで注目されています.
原作「竹取物語」は,淡々と第三者の目から述べられていますが,この作品ではヒロインである「かぐや姫」という女性の心情から描いてみたというもの.

毛筆で描かれたような絵はさすがにきれいで,たしかに素晴らしい映像でした.
ただ,さすがは「ジブリ」の作った物語.そのメッセージが「自己矛盾」に陥っているところが可愛らしい.

この作品に限らず,ジブリ(高畑勲や宮﨑駿)が描く作品には「良いこと言っているように聞こえるんだけど,よくよく考えたらその論理は破綻している」というものが散見されます.

高畑勲監督であれば,「平成狸合戦ぽんぽこ」なんてその典型です.
自然との共生をタヌキの視点で語っているのですが,タヌキたちが「あの時代は良かった」と懐古する原風景が「昭和の農村」なんです.原生林じゃなく,農村.
あれって人間が自然を相手に奮闘して作り出した,血と汗と涙の結晶ですよね.しかもタヌキを害獣として追い払っているのが農村ですから,これは大いなる矛盾です.
農村とは,いかに自然をコントロールするかに苦心している現場です.自然と仲良くする気なんてさらさら無い.
農家である私の父は,田畑を荒らすイノシシ退治が日課です.こうした害獣をいかに抹殺するかが農家の仕事と言っていいでしょう.

そんな「猪神:乙事主様」を『もののけ姫』で描いていた宮﨑駿監督の作品にもそれがあります.典型的なのは「風の谷のナウシカ」.
腐海の森に覆われている地球を人間の手に取り戻すため,軍事大国の司令官であるクシャナは「腐海の森を焼き払う」と言います.
それに難癖つけて抵抗するのが風の谷と,ナウシカです.自然を破壊してはいけない,腐海の森に手を出してはいけない,などと扇動する余命いくばく無いババアに導かれて頑なに反対します.
でも,人類が生き残るためには,どうにかして腐海の森を焼き払わなければならないのであり,あとはどのような手段を用いるのかという点が議論されるべきはずです.
小さい頃は気づきませんでしたが,何度か「金曜ロードショー」を見ているうちに,どう考えても正論を言っているのはクシャナの方だと思うようになりました.子供の時分の私が,左翼思想から解脱するきっかけとなった記念すべき作品と言えます.

こういうのを多角的かつ詳細に論じられたものがあります.佐藤健志 著『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』です.御一読あれ.


話を戻しまして,では『かぐや姫の物語』はどうでしょうか.
この作品の重要なキーワードとして,かぐや姫の「罪」と「罰」が語られます.
その罪と罰とは何かというと,以下のことです.
「罪」:月の民であるかぐや姫が,穢れた世界である地上の民に憧れてしまうという罪を犯す
「罰」:その罪を償うため,地上の民と穢れた世界で生活をするという罰を受ける

ようするに,穢れ無き世界である月の民が,穢れた世界である地上の民に憧れるのは「罪」だということ.
それ故その「罰」とは,穢れた地上の民と共に生活をすることで,その憧れがどれだけまやかしなのかを思い知ること,という設定なのです.

かぐや姫曰く,自身が月の都に戻ることになったきっかけは「ここからいなくなりたい,と心の底から願ってしまったこと」なんだそうです.
つまり,あれほど憧れていたはずの地上の世界が,どれほど穢れた世界であるかを思い知ることによって,かぐや姫の罪が償われるのだ,という設定なのです.

かぐや姫は人間らしい生き方,自分らしい生き方をしたいと願っていました.
でも,身も蓋もないことを言えば,彼女は「月の民」です
人間らしさを否定するところに幸福を見出す者達です.
ゆえに,彼女に人間らしい生き方なんてできるわけがない.

この作品は「かぐや姫」の視点から「人間らしい生き方とは何か?」を論じているとされています.「それが出来ない理由」として周りの環境を描いてもいる.
でも,穢れた地に住む人間は,そうした環境で必至に生きているからこそ “人間らしい” のだ,ということもまた確かなのです.
おそらくそれを高畑監督も自覚しているはずです.そうでなければあのラストにはならない.

自然の中で暮らし,たまにキジ鍋を食べながら貧しくも清らかに生きていくことが,かぐや姫の理想として描かれていました.でも,そんなことができるのは,貴族や武士が必至になって国を治めているからです.彼らの存在も人間らしい生き方として否定できません.
これはちょうど,「平成狸合戦ぽんぽこ」がタヌキの視点で描かれたことによるメッセージの崩壊と一緒です.

つまり,『かぐや姫の物語』というのは,
「とある一人の月の民の夢想妄想が,現実を前に崩壊しましたとさ
っていう物語でしかないということなんです.
あまりに虚無な話ではないですか.
かぐや姫を通して高畑監督は一体何を見せたかったのか?
まさに,ジブリがやらかす「一見良いこと言ってるようで,よくよく考えてみたら論旨が破綻している」というものを見せられた気分になります.

これを見て私は,「かぐや姫」に投影されているであろう「左翼思想」が,現代においては崩壊してしまったことを暗喩しているように受け止めてしまうんですよ.
事実,昨今「左翼思想」は急速にその勢力を弱めています.人間らしさを謳いながら,所詮は人間らしさを無視した理想論ではないか,そんな批判がなされてきて,実際そういう側面がある.
『かぐや姫の物語』に描かれているのは,自他ともに認める左翼思想家である高畑勲氏の,「左翼」に対する期待と希望が壊れてしまったことを示すのではないか,そんな気もするのです.

クライマックスで見られる幼なじみ「捨丸」との空中デート・シーンは,左翼思想の孤立を如実に示しています.
飛んでる時は幸せそうです.そこで捨丸は「一緒に逃げよう」とかぐや姫に駆け落ちを持ちかけます.直後,この夢のような現象から我に返った捨丸は,なんと自分の妻子のもとに戻るのです.
ここは盛大にツッコミを入れるところでしょう.妻子があるのに,かぐや姫と駆け落ちしようとするのが捨丸という男なのです.
つまり,かぐや姫の目に映っていた理想の男性である「捨丸」とは,第三者の目からすればたんなるチャラ男なんです.そういう「ちょいワル」を匂わす描写は映画前半からずっとありますしね.
かぐや姫と同じ歳頃の女の子には,こういう勘違いをする人がたくさんいます.新宿・歌舞伎町でよく目にする光景です.
たまにオバサンにもそんなのがいます.これは東京・丸の内でよく目にする光景です.

それより,どうしてこんなシーンが入ってしまうのか? そこが問題です.
おそらくこういうことではないでしょうか.
高畑監督は「かぐや姫」に理想的な女性の生き方を投影しています.ですから,こういう生き方をする女性には,それを理解する男性が現れる必要があります.その男性が「捨丸」です.
その男は,決して世の中の常識や慣習に縛られたりすることのない,先進的な人物である必要があります.だから捨丸は,妻子を捨ててかぐや姫のもとに行く男として描かれるのです.伝統的な常識や慣習には縛られないのに,結婚してただ一人の女性だけを愛するという常識と慣習に縛られる男では虫がよすぎるからです.

かぐや姫のような生き方をする女性には,捨丸のような男がピッタリだ.という思想がそこにない限り,あんな描写は在り得ないでしょう.左翼思想を自認する高畑監督には,そこは曲げられない設定だったのではないでしょうか.
でも,こういう男を理想とする女性って少ないんじゃないかと思うのですが,わざわざあのような設定を用意するには,余程の理由があると勘ぐりたくなります.

もっと言うなら,この作品については「原作に忠実でありながら,かぐや姫の心情に焦点を当てた」と評されることがありますが,そもそも,原作「竹取物語」から女性の生き方なんてものは論じられないと私は思います.

ためしに,原作を素直に読んでみてください.こういう現代語訳も出ています.


この物語についての解釈はいろいろ成されていますが,有力説としては,
「藤原氏の政治体制への批判」
だとされています.
求婚を迫る5人の貴公子は,誤魔化しようのないほどあからさまな実在モデルがいます.
多治比嶋,藤原不比等,阿倍御主人,大伴御行,石上麻呂の5名.それぞれ,「竹取物語」が書かれたであろう時代にブイブイいわせていた権力者たちなんです.
これはウィキペディアにも載っていまして,江戸時代から提唱されている有名な説です.
竹取物語(wikipedia)

当時,これだけの情報量(貴族のしきたり,地方や海外の知識)がある物語を書ける人は政界知識人以外には考えられないことから,身元がバレないように作者不詳で公開されたのではないかとされています.
有力な作者候補としては,藤原氏に恨みを持っていて,且つ,文才があった紀貫之がその筆頭です.

では,この物語を素直に読んだらどういう内容なのか.以下,まとめます.
恐れ多くも「天上界の姫君」であるかぐや姫に対し,バカな男5人が身の程知らずにも寄ってたかって求婚し,案の定,それぞれ恥晒しを演じたそうです.
でもこの「かぐや姫」様は,実はお優しい一面も持っていらして,育ての親である老夫婦と人徳溢れる帝に対しては,「天上界の姫君」というご自身の絶対的存在にもかかわらず別れ際には御涙まで流され,可能な限りの御配慮をされて天上界にお戻りになられるという大変慈悲深き御方なのでした.
それだけに,あのバカな藤原5人衆の下衆っぷりが際立ちますね( ´,_ゝ`)プッ.チャンチャン.
「竹取物語」とは,そういう物語です.

ちなみに,かぐや姫が犯した「罪」と,その「罰」がどのようなものであったのか原作には明示されていません.それを示した高畑勲監督は素晴らしいと思います.そういう解釈もあるのかと膝を打って感心しました.
でも,「天上界の姫君」であるかぐや姫様を,普通の人間女性と同じように描くのは頂けません.この御方の一言一言は,天上界の姫君のお言葉です.穢れた地の「女性」と同じなわけがない.
事実,「竹取物語」の展開に沿いながらも,かぐや姫を人間の女性として描いた『かぐや姫の物語』は,物語として崩壊しちゃってるのですから.
※だからといって『かぐや姫の物語』がダメな作品だと言っているのではありませんので,誤解無きよう.

原作「竹取物語」におけるかぐや姫の言動は,結末が分かればすんなり理解できるものなのです.素直に読んでいれば,「あぁ,だからあの時かぐや姫はそんな言動をしていたのか」となる.
これを高畑監督は深読みしすぎた,自分の思想を入れすぎた,そう思います.

原作の「竹取物語」においても,地上の世界は,天上界である月の民からすれば「穢れた地」と述べられています.なんせ流刑地ですからね.
かぐや姫を天上界に戻すため遣わされた天人が,彼女を気遣いこう言います.
「この薬をお飲み下さい.穢い所の物を召し上がっていたので,さぞかしご気分が悪いことでしょう」
そう言って,かぐや姫に薬を飲ませるのです.さながら抗生物質みたいなものでしょう.
下水道とかブタ小屋で生活していた人に対する気遣いのようですね.地上の世界とは,彼らにしてみればそういう場所なのです.

そんな場所にいる生物のオスが,寄ってたかって「おまえ,かわいい娘じゃないか,結婚しよう」などと迫ってきたらどうでしょう.「この虫ケラども,死ねぇ!」ってなりますよね.
実際,一人殺しておいて「少しあはれ(意訳:m9(^Д^)プギャー)」と言っている.

極普通に「天上界の姫君」としての態度をとっていたのがかぐや姫なのです.
かぐや姫は決して「自立した女性としての生き方」を貫いていたわけじゃない.ゴミを見るような目で地上の人間を眺めていた.
ゴミクズ共と結婚なんてできるわけがありません.だから一見冷酷な女に見えるんですよ.

ちなみに,かぐや姫が自分の正体を認識していた時期ですが,5人の貴公子が現れた時期には分かっていたのだと思います.
この時翁に対し,「変化の者にて侍りけむ身とも知らず,親とこそ思ひ奉れ(人間ではない者とも知らずに,あなたを親だと思っておりました)」というセリフがあります.
この辺りから自分の出自を自覚して隠していたと考えたら,その後のかぐや姫がとる態度の合点がいくんです.
それに,成人する時点で記憶が完全になって過ごす方が,「下界で罪を償う」ことになるはずです.そう考えることが自然かと思います.
自分は天上界の高貴な身分.こんな地上で這いつくばっている奴らとは違う.かぐや姫は,そんなふうに考えながら暮らしていたものと思われます.

でも,そんなかぐや姫も,育ててくれた老夫婦には恩義を感じており,「私,人間じゃないんですよ」とカミングアウトしたのに,それでも熱心にアプローチしてくる帝には心動かされていたようです.

「竹取物語」というのは,藤原バカ5人衆の愚行を嘲笑うという下品な作品でありながら,「人間」と「天人」という種族の違いを乗り越えようとするラストに仕上げられた,実に巧みな物語なのです.

これと似たストーリー展開をもつ作品が『新世紀エヴァンゲリオン』ではないか,そんな考察をしたことが過去記事にあります.
エヴァンゲリオンは竹取物語である

どちらの物語にも言えるのは,排他と差別を乗り越えようとしているところではないかと思うのです.

続き
もう少し竹取物語と「かぐや姫の物語」を考える