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滅びゆく日本の教育へ

先日,

という記事を書きました.
そこで,響堂雪乃 著『ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ』

という中二病タイトルの本を紹介しながら,「中二病」に罹ることは大人になるために必須の工程であることを取り上げたところです.


さて,そんな中二病タイトルの本は他にもあります.
佐藤松男 編『滅びゆく日本へ・福田恆存の言葉』


福田恆存がつけたタイトルじゃありませんが,福田恆存が残した言葉をそんなような内容で整理した本です.

福田恆存は,日本の保守思想家として著名な作家,評論家です.
福田恆存
かなりちゃんとした保守思想家なので,近年たくさん出没している左翼系ウヨクや,日本大好き系保守が忌み嫌う主張もされています.
福田恆存の書籍については,このブログでもときどき取り上げることがあります.
たとえば,
俗物が俗物から遠ざかるには
とか.

さて,上記の本には福田恆存が日本の「教育」について語った部分があります.
今回は,福田恆存が見つめた,滅びゆく日本の教育を考えてみます.







※福田恆存は旧仮名遣いを使用する人です.引用文もそれに準じました.

福田恆存の教育論


福田は教育を以下のように捉えています.
教育によつて私たちは知識を得,文化によつて私たちは教養を身につける.(「私の幸福論」昭和31年)
教育において可能なのは,知識と技術の伝達あるのみなのです.(「教育・その本質」昭和32年)

福田恆存にとって,教育とは知識(と技術)を得るところです.
しかし,その知識を得るにしても,得方が問題になります.

福田は現在まで続く小中高の学業期間をこのように考えます.
六三三制がいけないのである.六三三制は最も感受性のゆたかな青少年期を連続六年間,試験地獄に閉ぢ込めることになり,「民主主義教育」どころの話ではなくなつた.試験の辛さは昔もあつた.それがいけないのではない.連続六年,試験が念頭を去らぬといふ状態がいけないのだ.(「五四三制」昭和33年)

教育とは知識を得るところです.
しかし,試験に頼って得た知識を福田は嫌いました.

学力テストの成績を重視し,詰め込み教育を好む「自称保守」がいますが,彼らが保守したいのは国際学力調査(PISA)のランキングなのかもしれません.

ですが,本当に保守しなければいけないのは,日本の文化と教養のはずです.
教育と知識は,その際の手段に過ぎません.


実際,大学教育について福田は以下のように言及しています.
入学は困難だが,卒業は容易だといふのは,要するに,大学教育といふ,その名に値する教育がほとんど行はれてゐないといふことではないか.良い国立大学には偉い学者がゐるかもしれない.だが,さういふ学問の専門家は単なる学者に過ぎず,名前は教授であつても,必ずしも教育者ではない.(「独学で出る大学」昭和36年)
昭和36年の頃から福田は「入学困難・卒業容易」な大学を批判していました.
大学教育の崩壊は,この頃から予見できていたのでしょう.
結果,20世紀末から,日本の大学教育は取り返しのつかない段階に入ったのです.


日本の大学には,「入学試験=卒業試験」という(無意識による)解釈の教員が多いのです.
「入学試験」を突破できたということは,その人物がこれから4年間の大学教育を受けて「卒業できる」ことを保証するものだ,ということ.

故に,理論上,入学した学生が「卒業できない」はずはない.
卒業できない学生が発生するのは,教員の教え方や,大学のサポートが不十分だったからだ,という理屈が通ります.

冷静に考えてみればデタラメな理屈ですが,それが堂々と正論を張れるのが日本の大学教育現場です.

だから,大学教員は「入学試験」にこだわります.
難しい入学試験を突破してきた学生であれば,教員が教育しなくても「卒業生」として巣立ってくれるからです.

そんな教育システムの大学には,「教育者」は必要とされない.
これが福田恆存の大学論でした.

では,教育者とはなんなのか.
「民主主義」や「平和」を教えへても,先生自身がそれを身につけてゐないならば,生徒は結構,利己心や闘争心を養成される.さういふ影響力は教場においてもつとも強力に働くものです.それなら,知識だけを教へる過程において,同時に,知識にたいする態度がおのづと生徒に伝わるといふことも否定できますまい.そこから注意力や判断力が,さらに公正,誠実,忍耐等の美徳が生まれてきませうし,お望みとあれば,「親孝行」の美徳も「社会性」の美徳も養はれるといつてもいい.
教科における徳目としてではなく,かうして教へる側の無意識のうちに教受される人間教育こそ,大事なのではないでせうか.(「教育・その本質」昭和32年)
大学教育で解釈すれば,学生は「大学教員」という「研究者」から,その学問に対する研究態度を学ぶのです.
もちろん,学生たちは授業やゼミを通して知識を学びますが,そこで得るのは教員が発している知識や技術だけではなく,教員がその知識や技術に対して向けている姿勢なのです.

大学教員は,教え方が上手だからという理由で「教育者」になってはいけません.
まずもって研究者(学者)である必要があります.
大学では学問や研究に対する態度を養成しているのです.
福田恆存が指摘しているのは,学者というだけで教育者にはなれないということです.
学者じゃなくても教育者になれる,ということではないので注意が必要です.

教育においていつも変わらぬ原則は,自分が真に所有してゐるものだけしか,子供に与へられぬということです.(「教育・その本質」昭和32年)
「最近の学生は研究に関心が無い」と嘆く教員がいます.
そんな時は,自分を顧みましょう.

あなたは研究に関心を持って,楽しんでやっていますか?
業績づくりや人事のために研究しているんじゃないのか.
無意識のうちに,「研究をすればこんな得がある」とか,「研究活動をすることで,こういう箔がつく」という態度をとっているんじゃないのか.

だとすれば,あなたの学生はあなた同様,研究のことを「業績づくり」や「就職活動」の一環としてしか見ないでしょう.
仮に取り組んだとしても,そういう教員のゼミ生は打算的な研究をするケースをよく見かけます.

学部生には業績づくりは魅力的に映らないし,多くの場合,就職活動に研究は不要だからです.

学生は教員から,「研究に対する態度」を学びます.
それは,研究倫理についてのコンプライアンスとか,統計処理手順とか,参考文献の引用方法といった話ではありません.
そんなものはどうでもいいんです.

損得やステータスとは関係なく,単純に「研究が楽しい」とか「好きだからやる」という教員のもとに,純粋に研究をやりたがる学生は集まるものです.



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