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4: 2012年3月26日

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2012年3月26日(月)10時55分

 永山義春は提出資料を事務室に出すため、自分の研究室がある図書館から大学の本部棟に向かっていた。
 実際には図書館ではなく、併設されている5号館に研究室があるのだが、移動するには、便宜上、図書館側の通路と扉を利用している。

 永山に割り当てられている研究室は学内でも特殊で、複雑な通路を進んだ先の倉庫のような場所である。
 窓が一切なく、秘密基地のような作りだ。他の教職員からは、この外界と隔離されたような処遇を気の毒に思われることもあるが、永山としてはこの状況に満足していた。
 その部屋はかなり広く、むしろ、鶏小屋のような空間を充てがわれている他の教員のほうに哀れみを感じる。

 図書館から出ると、その左手にある東門へと至る通路から現れた藤堂道雄と鉢合わせた。
 今日も眉間にシワを寄せ、何かに追われるように息苦しそうな表情で歩いている。

「おおぉっ。永山先生やないか。おーはよーさーん」
 急に顔を明るくして、永山に向かて元気に挨拶をしてくる。

「あ、どうも。こんにちは」
 永山はそう返事をしておいた。
 もう「はやく」はない時間帯だろう。

 なんとも微妙な距離感と移動方向。
 このままだと一緒に同じ所に向かって歩くことになる。
 このまま進めば十メートル先で両者は交点に至るだろう。
 その時に両者が無言だと不自然である。
 適当な世間話くらしはしておこうか。
 でも、なんだかそれは嫌だ。
 面倒くさい。
 図書館に戻る?
 それはやり過ぎか。
 こちらの歩く速度を遅くすれば、藤堂を先に行かせられる。
 が、なんだかそれを躊躇する気味が悪い間合いだ。
 こちらが一気に加速して抜き去ろうか。
 そう思っていたが藤堂が先行していく。
 では、このまま足をゆっくりと・・。

 しかし、永山の思惑とは裏腹に、藤堂は突然足を止め、こちらに背を向けたままで声をかけてきた。

「永山先生」と演出じみた声を出す。

 そしてゆっくりと振り返る。
 肩越しにこちらを見る顔はニヤリと不敵に笑っていた。
「ちょっと、ここだけの話をしようや」

「はい? あ、えぇ、なんでしょうか?」

「まま、こっちに」と言いながら、隠れる場所もないのに通路の脇のほうに永山を招き寄せる。
 椿の木の下に導かれた。

「どうや。永山先生、この1年、だいぶ慣れたか?」

「はい。お陰様で」
 お陰様で、藤堂の扱いはだいぶ慣れたという意味だ。

「そうか。まあ、その調子で頑張りぃな」

 藤堂は、大きなベージュ色のショルダーバッグを担ぎ直すと、腕組みをして声を小さく囁きはじめた。
「実はな、今度、水本先生と兵藤学長との三人で、華嶽温泉(はなだけおんせん)に行ってくるんやぁ」

 華嶽温泉というのは、この青葉大学からそう遠くないところにある、全国的にも著名な温泉地である。

 永山は、藤堂の話の意図がわからないので、とりあえずリアクションだけしておいた。
「・・ええ、そうなんですか。いいですね」
 かなり良い演技だったと思う。

「そうやぁ。学長がな、『一緒に行こう』言うてな」

「はい」

「そうやぁ。学長が、新しく事を始めるつもりらしいわぁ。その計画をな、ちょっと考えようかぁ、言うてな、水本先生から俺に連絡があったわけやぁ。それにな、俺も学科長やぁ。俺もいろいろな力がついてくるからな。そんな学科長の俺が、なんか出来ることはないか、それを考えてみよかぁ、いうことになってな」

「はい。そうですか。いいですね」

 藤堂は、ショルダーバッグがどうしてもずり落ちてくるので、それを頑張って引き上げ直す。
 そして、いかにも内緒話然とした口元に手を当てる仕草で、さらに小さな声で言う。
「でな、このグループは秘密結社になるんやぁ。この大学を改革しよう、クーデターを起こそう、そんなグループや。学長は本気やで。あの人は任侠の人や。ほんまにほんまやで。せやから今度、華獄温泉でな、極秘会合をするんやぁ。ほんまにほんまや。これが大学の上の方の世界っちゅうもんやでぇ」
 藤堂が笑顔が俄然大きくなってくる。
 が、一転、深刻な顔になった。
 それでも深刻な顔の下敷きには笑顔がある。
「まぁな。ちょっといろいろあるんや」

「はい?」

「どうや。どう思う?」
 やや嬉しそうだ。

「はい? え? と言いますと」

「そうやな。まだお前らは若いから分からへんわな。大学の組織で立ち回ることには慣れてへんやろぉ。難しいわなぁ。まだ永山先生は社会人経験があるからええぇけど。橿原、アイツは分かってへんわ。まあ、永山先生から教えたってぇな」

「はいぃ・・」
 そう返事をしておいたが、藤堂の話す意味がさっぱり意味不明だった。
 それに、永山はずっと大学院修了後から大学教員一筋である。
 社会人経験というのは、何を指しているのだろう。

「学長や水本先生たちと、何かあるんですか?」
 どうでも良かったのだが、少し気になったので聞いてみた。

「まぁな」と言って「フフフ・・」と笑う。
 そして、そのままニヤリと笑ってこちらを見る。
 藤堂は少しずつ話す。
「永山先生、橿原にも言うたってくれ。大学でやっていくにはな、人間関係が大事なんや。信頼関係や。義理人情や。それが大事やで。アイツはそこがあかんわ。人と人とのつながりを軽く見とるわ。アイツは俺が面倒見とるんや。俺がおらんかったら何も出来へん奴やねん。そやったら俺に筋を通さんかい、っちゅうことやねん。けど、アイツはそれが出来へんねん。あのままやったら、アイツは消されるぞ。消してもええんやぞ」

「はあ・・、はい。わかりました。伝えておきます」

「俺は兵藤学長に忠義をかけとるわ。そやから気に入ってもらえるんやぁ。あの人はな、この大学をな、優秀な人材が生き残っていく大学にせなあかんと思って働いとんねん。水本先生は俺にとって先輩や。せやから筋を通すんや。あの二人が輝くように、俺は縁の下の力持ちにならなあかんねん。黒子になってドサ回りをしてんねん。これは任侠の世界やで。ヤクザの世界と一緒や。上のモンのために命を張るんが、下の奴らや」

 高倉健を意識しているかのような表情で周囲を見渡すように眺め、そして再び永山の方を向く。

「ま、お前らも考えてみるこっちゃ。これからどうやって生きていくかをな」
 藤堂は、肩でショルダーバッグを大きく持ち上げ直し、大股気味で去っていった。

 結局、藤堂が何を言いたかったのか、永山には分からなかった。
 それが分かるのは2週間後のことである。




5:2012年3月29日