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5:2012年3月29日

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2012年3月29日(木)12時05分

 橿原一如の研究室には、穂積里香が訪ねていた。
 来週の入学式における入学生呼名作業のための準備である。
 呼名というのは、入学式で入学生の名前を一人ひとり読み上げていく儀式のこと。
 そこでミスが発生しないように、できるだけ読み上げやすい資料として工夫する。
 去年の場合は、マイクロソフト・パワーポイントのスライド1つにつき、ふりがな付きの名前を一人ずつ書いていって、名前を読み上げるたびに次のスライドへと送る仕組みのものが使われた。
 こんなものを大学教員が用意するとは思っていなかった。というのが穂積の本音だ。

「こういうものって、普通、事務がやりませんか? だいたい、入学式に呼名っていります? 時間の無駄じゃないですか」

 橿原は、パワーポイントに名前を書き込みながら答える。
「まあ、入学式における伝統儀式ですからね。あってもいいんじゃないですか」

 穂積はラップトップPCを前にし、両手で頬杖をついて作業を中断している。
「入学式自体が伝統儀式でしょ。今どき、もういらなくない?」
 そう言ってから頬杖を片手にし、橿原の方を向いた。
「まじめに作りますよね、橿原先生って。私、こういうのダメ。作ってたら、突然、虚無感に襲われます。もうどうでもいいんじゃないかって」

「でも、作っといた方がミスしないでしょ」

「いやいやいや、スライド送りの操作をミスったら、呼ばれない学生が出ちゃうじゃないですか?」

「まあ、そうですけど。その確率って低いですよね」

「低くても有るわけでしょ」

「そうですけど、無いよりはマシじゃないですか」

「だいたいさ、このスライドに記入ミスしてたらどうすんの?」

「まあ、そうですねぇ。入念にチェックするしかないですよ。それ言い出したらキリがないですよ」

「だからね、いっそ、学生の元リストを読み上げちゃえばいいんじゃない? これ、そう、まさにこれ」
 そう言って穂積はテーブルの上で入学生名簿を振った。

 橿原はディスプレイから目を離さずに笑顔を作った。
「それだと読みにくくないですか?」

 穂積は機械的に首を横に振りながら言う。
「そんなことないよ。こんなの読み上げるだけ楽勝でしょ?」

「それ、穂積先生だからですよ。僕は難しいですけどね。・・まあ、難しいわけじゃないですけど、やっぱり緊張しちゃうと怖いですね」

「いっそのこと、やめちゃえばいいのに。呼名も入学式も。私の出身大学だと、全部の教員が義務的に入学式に出るってありえないですよ。どうしてここは全員義務で出なきゃいけないの」

「そりゃ、穂積先生の大学はバカでかいですもん。全員出てたら収集つかないんじゃないですか。なんかどっかのスタジアムとか借りるんでしたっけ?」

「ん? あぁ、あれは違う大学。私のところは学内のホールで何日かに分けてやる方式」そして穂積は、思い切ったように勢いをつけては座り直し、ラップトップのキーボードに両手を乗せた。「ま、やんなきゃいけないんだから、やるしかないか」

 すると、やや遠慮がちなノックの音がした。
「はい」と、ドアに最も近かった穂積が返事をする。

 しかしドアは開かず、もう一回ノックされる。

 穂積はさっきよりも大きな声で返事をした。
 続けて橿原も返事をしながらデスクを立ってドアに近づく。

「あっ、若い女性が研究室にいるのに、ドアを閉めてるのってヤバいかな?」と穂積が小声で笑う。

 それに対し、「いやぁ、そんなことないでしょ」と、声に出さない態度を橿原はとった。

 そしてドアがゆっくりと半開きになると、こっそりと覗き込むように顔を入れたのは女子学生だった。
 地味な雰囲気があるが、しっかり者であることが読み取れる風貌だ。

「あのぉ、橿原先生っていますか?」

「はい、僕が橿原です」とドアに近づきながら言う。
「入っていいですよ。どうぞ」橿原は学生からドアをとって開いた。

 見たことがある学生だ。
 たしかこの学科の3年生だったはず。
 再度、「どうぞ」と言って遠慮がちな学生の入室を促した。

「ありがとうございます。あ、すみません。今、お仕事中ですか?」

「いえ、常にお仕事中です」と穂積が答える。

「あっ、はいっ、すみません」
 学生はキビキビと答える。

「穂積先生。やめてあげてください」
 橿原は念のため満面の笑顔にしておいた。

 学生は恐る恐る研究室に入ってくると、まずは橿原にあらためてお辞儀をする。
「あの、私は藤堂ゼミ3年の松本(まつもと)と言います。なんかよく分からないんですけど、藤堂先生が橿原先生に頼んだらいいって言うので、来ました」

「ゴメン、それだと僕もよく分からない」
 そう言いながら橿原は、大げさに首をかしげる。

「私もよく分からない」と穂積もラップトップのディスプレイの方を向いたまま、大げさに首をかしげて見せた。

「あっ、すみません。あの、藤堂先生が、来週、ゼミでパーティーをしなきゃいけないからって、3年生のゼミ生に招集をかけてるんですけど。私、3年のゼミ長をやってるんですけど、それで準備とかどうすればいいのか分からないってことになって、それで藤堂先生とさっき話してたんですけど、よく分からないってことになって、それで、橿原先生なら分かるんじゃないかってことになって、それで、来ました」

 橿原は困った顔を隠せなかった。
「ゴメン、どういう状況なのか、もうちょっと説明してくれる?」

「あっ、はい、すみません。あの、藤堂先生は『アップルヒール』でパーティーをしなきゃいけないと言ってます。今年の3年生は、アップルヒールのパーティーだと言うんです。それで、橿原先生に相談すればいいって言ってました。どうすればいいですか?」

橿原は腕を組む。
「あのさ、全然わからないんですけど」

「あ、はい。あの、私もわからないんですけど。すみません、それで準備とかどうすればいいのか全然分からなくて。えぇっと・・・、すみません先生、アップルヒールってなんですか?」

「いや、分からないんだよ」
 橿原は本気で悩んだ。

 穂積が振り返って話に加わる。
「そもそも、なんでゼミでパーティーをしなきゃいけないの?」

「はい、なんかよく分からないんですけど、昨日、藤堂先生からメールがあって、そのあとすぐ電話もあって、なんか凄い勢いで言ってきて、来週、アップルヒールのパーティーをするんだってことになって、それで私が企画しろってことになって。幹事っていうんですか、それをすることになったんですけど、私、アップルヒールってよく分からないので、藤堂先生に聞いたんですけど、そしたらお前が考えろってことになって、それで、橿原先生なら知ってるから聞いてみろってことになって、それで、ここに来ました」

 穂積は興味を無くしたようで、キーボードとタッチパッドの操作に集中している。

 橿原は「そこにどうぞ」と言って松本を椅子に座らせて、あらためて尋ねた。
「全然分からないんだけどさ、アップルヒールって、そもそも何?」

「はい、私もよく分からないんですけど。来週はアップルヒールのパーティーをしなきゃいけないらしいんです。それが3年生の仕事だって言ってます。3年生になったら、それくらいできないと社会人になれないそうです。それが藤堂ゼミの仕事だって言ってます」

「うーん・・・。もうさ、全く分からないんだよね。どういうこと? 仕事なの?」

「はい。4年生になる上で、これをやらないとダメだって言ってました。アップルヒールのパーティーをすることで、4年生になれるんだって」

「ゼミパーティーのことなのかな。卒業生を呼んだりするパーティーなのかな。それだと年次行事として、藤堂ゼミの通過儀礼みたいなものになってるのかな」

 そこに穂積が口を出す。
「でも、今年が初めてなんでしょ?」

「はい、今年はアップルヒールだって言ってました」
 松本は穂積の方を向いて、困った顔をしている。

「来週までに準備ねぇ・・・」

 そして沈黙がしばらく続く。
 穂積が放つキーボード音だけが響いていた。

 橿原は頭の後ろに手を置いて、オフィスチェアの背もたれに大きく寄りかかった。
「うーん・・・。うーん、分からん。全然分からん。準備期間って来週までだよね?」

「はい・・・。あの、来週っていうか、今度の日曜です。あと3日後です」

「え? 日曜日にやるの」

「はい。来週の月曜は入学式ですよね。その前にやるんだそうです」

「日曜ねぇ、入学式の前ねぇ」

「はい・・、そこじゃないとダメだって言うんです。その日に合わせてゼミ生に招集をかけてます。皆、結構いろいろ文句言ってますけど、藤堂先生ってあんな感じなので、あとあとヤバいかなって思って、皆来ることになってます」

「さっき藤堂先生と話したって言ってたよね。今、藤堂先生は研究室にいるの?」

「たぶん、いると思います。話したのはホントさっきの事なので」

「まず、アップルヒールが何なのか分からないと、どうしようもないよね。藤堂先生に聞くのが一番でしょ」

 橿原は内線を押した。
 すぐに藤堂が出た。
「あ、藤堂先生、今、先生のとこの松本さんがここに来ているんですけど。パーティーをしたいってことで。でも、アップルヒールのパーティーってどういうのか分からないんですよ。先生、このアップルヒールってなんですか?」

 藤堂の声が受話器から出力される。
「ん? アップルヒールや。アップルヒールのパーティーをやってほしいねん。松本にやり方を教えたってくれへんか。できんか?」

「あのですね。アップルヒールっていうのが分からないんですよ。アップルヒールってなんですか?」

「ん? アップルヒールや。アップルヒールのパーティーを松本に教えたってくれ。松本はきちんとやりよるわ。しっかりしてるからな。せやから、松本にアップルヒールをやらせたったらえぇねん。これも学生指導やで。そうやって社会人になっていくんや」

「すみません、アップルヒールってなんですか? アップルヒールが分からないと、パーティーとか準備とかできないんですけど」

 橿原はそう言いながら、パソコンを操作してネットで「アップルヒール」を検索したが、何もヒットしなかった。
「あのですね、今もネットで調べてみたんですけど、アップルヒールって単語は出てこないんですよ。アップルヒールというのは、藤堂先生のオリジナルの話じゃないんですか?」

「ん? アップルヒールは出てこんのか? たしかにな、アップルヒールは最近のことやからな。まだインターネットにも出てこんのやろ。せやから、お前から松本に教えたってくれ。あいつやったら、ちゃんとやりよるわ」

「ですから、まずは、アップルヒールっていうのが分からないと、教えようにも教えられないんですよ。アップルヒールってなんですか」

「ん? アップルヒールは出来へんのか?」

「出来ないとかじゃなくて、アップルヒールそのものが分からないんです」

「橿原、お前も出来へんのか?」

「あの、出来ないとかじゃなくて、アップルヒールが分からないんです。アップルヒールってなんですか」
 橿原の声が少し荒くなる。
 それを自覚できた。
 松本の方を向いてみると、心配そうな顔でこちらを見ている。

 藤堂の声が低く、ゆっくりになった。
「橿原よ、お前は社会人経験がないからそんなことになるんや。せやから、言うてるんや。まだまだ若いわ。俺がおらんかったら、この大学ではどうしようもないことになるぞ。まずは学生にちゃんと指導できるようになることや。それが今、お前に求められてるこっちゃ。青葉大学の皆が見てるぞ。いったい橿原先生はどんな奴なんかな、ていう目でな」

 橿原の顔から疲労と呆れの感情が漏れてくる。
 目をつぶって返事をする。
「藤堂先生、学生には指導したいんですけど、そもそもアップルヒールが何なのか教えてもらえないと・・」と言っているところで、電話機のフックが押されて通話が切れた。

電話を切ったのは穂積だった。
気づかないうちに、橿原のデスクまで来て隣に立っている。

穂積は、顔を近づけて橿原の耳元でささやくように言う。
「橿原先生。それってきっと、アップルヒールじゃなくて、エイプリルフールですよ」
 そして真顔で笑った。

 橿原は、近過ぎる位置にある穂積の顔を、首だけ使って少し離れるようにして目を合わせる。
「あぁ・・。え?」

「ですから、アップルヒールじゃなくて、エイプリルフールです。今度の日曜、つまり3日後って4月1日ですよね。だから、アップルヒールっていうのはエイプリルフールのことじゃないですかね。間違えてるんですよ、藤堂先生が」

「でも、エイプリルフールって、パーティーするもんじゃないですよね。エイプリルフールでパーティーって聞いたことないし」

「それもきっと、ハロウィンか何かと間違えてるんですよ。最近、ハロウィンが流行ってますよね。あれとごっちゃになってるんじゃないですか」

「あぁ・・。でも、え? それって意味不明過ぎませんか。間違えるにもほどがあるってもんでしょう。いろいろ間違え過ぎて、むしろ新しい分野を開拓してます」

「アイツのことですからねぇ。それくらいバカなんじゃないですか」そして軽く鼻で笑った。
 そんな穂積の口からは、噛んでいるミント系のガムの匂いが漏れてきた。

 橿原は、笑っていいのか怒っていいのか迷った。
 そして、とりあえず今の自分の感情は保留しておき、松本の方を向いた。
 松本は、橿原と穂積の会話が聞き取れていなかったようで、目をパチクリさせながら2人を見ている。

 一応、この学生のためになることを話しておこう。

「あ、えーっと、松本さん、パーティーですけど、とりあえず人数分、持ち帰りのピザと寿司を買って、領収書とっておけばいいと思うよ。場所は3号館のどっかの演習室でいいんじゃない? ジュースだけど、こういう時は2Lボトルより、500mlのやつをたくさん買ったほうが、あとあと便利だと思う」

 松本は少しだけ笑顔になった。
「はい、ありがとうございます。それだけでいいですかね。普通のゼミパーティーと変わらないんですけど」

「うん、普通のゼミパーティーでいいと思う」

 穂積も松本の方を向いて言う。
「それにジェンガとかトランプを用意しとけば、なにかと場は保つから」

 松本は思い出したようにメモを取り始める。
 メモを取り終えると、何度もお辞儀をして研究室を出た。

「じゃあ、続きしますか」と穂積は言った。




6:2012年4月3日