2009年4月18日土曜日

科学について


昨日の大学院勉強会では 「物理学」 や 「エネルギー」 について,といった基礎的な話題をとりあげてくれました.

基礎的なことですので,話が 「科学とは!?」 みたいな方向に (なぜかハイテンションに) 進みました.
いつものことですが....

こういうことは高校生や学部ではテーマとして持ち上がることはないので新鮮です.


その 「科学とは」 というところで紹介したのですが,一般にこの 「科学 science」 という営みは,シンプルに言うと

科学的方法を使った学問

のことです.

さらに,“科学” と言われてイメージしやすい “自然科学” の場合,科学的方法を使って 「自然(世界・宇宙)」 を知ろうとする営みのことです.
間違われやすいのが,宇宙開発とかロボット作るとか.これは 「工学 engineering」 とか 「科学技術 technology」 という分野になります.

この科学の営みでは,極力,主観性を排除して数学的・統計学的に自然の普遍的法則性を説明しようとし,人間の恣意的な解釈を嫌います.

発表してくれている中でも紹介したのですが,この
「主観性を排除し・・・」
というのが結構な曲者です.

なぜか?
じっくり考えてみると,この科学という営みには 「自然には普遍的法則性がある」 というヒトの主観的考えが潜んでいるからです.

さらに,科学論文を作る過程で必要になる “査読” という作業があります.
査読というのは,科学論文を出す上で何名かの(たいていは3人くらい)査読者という判定員が,その論文を読んで科学的な知見かどうかを審査することを言います.

つまり科学とはヒトが理解できる範疇でのみ成り立つ営みであり,ドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーMax Weberは,「解釈を理解する学問」 と言っています.

どこまで行っても 「人が考えた知見」 を脱せないことが前提にあるわけです.

主観性を排除しようとする科学の出発点が主観性に満ちている....

「暴力はんたーい!!」 って言いながら暴徒化しているデモ隊みたいで,平和を訴えるためにバリケード作って武器持って東大キャンパスに立て篭もってた全共闘世代のような香ばしさを覚えます.


そんなわけで,科学自体が科学的でないことに気が付いた哲学者たちはこう考えました.

科学で自然は説明できない.とぶっちゃけた上で,
説明しようと日々研究するところに意義がある,と.

まるでオリンピックの参加意義みたいですが,これが非常に重要で,この考え方のおかけで科学が如何わしい存在にならなくて済んでいるのです.

科学的方法を使って 「こうだ!」 と発表した理論はいつか,科学的方法によって 「違う!」 と否定される運命を持っています.このおかけで科学は常に進化し続けることになるという寸法.

これが絶対に正しい.という理論を科学では導けません.これが絶対に正しいと思いたい(発表した本人が)理論を日々つくり続ける作業こそ科学です.

フランスの作家アンドレ・ジッドAndre Gideの言葉に,
真理を探究する者を信じよ.
それを見つけた,と言う者を疑え.

というのがありますが,科学の営みはこの言葉に要約されると思いますね.

だから,科学者の中には

 神が創り賜うし この “自然” を解明する

と本気で考えて研究している人もいます.
何を隠そう,あのアイザック・ニュートンもその一人だと言われています.

実はニュートンは科学者ではありません.
いわゆる 錬金術師 とか 魔術師 という人達の一人です.
錬金術や魔術を研究する上で数学とか物理学の知見を利用したに過ぎないとされています.
それだけの天才だったんですね.

神が創ったかもしれない自然.その神の設計図を理解しようなんて大変でしょうが,先にもあげたマックス・ウェーバーはこうも言っています.

シーザーCaesarを理解するためにシーザーである必要はない

いつか 「科学」 によって 「自然」 を理解できる日はくるのでしょうか?