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コピペ・レポートの行き着く先は

前回の記事では,ネット上でよく目にする愛国的で民族主義的な視点や観点,いわゆる「ネトウヨ」と称される意見や批評について取り上げました.
このように認知されている現象は,ネト “ウヨ” と称されることからも分かるように,右翼・保守的なものと見做されています.

これについて,「世間一般というのは放っときゃ右翼・保守的な反応や批評をするものであり,別に特殊な現象などではない」というのが前回の議論の出発点であり,むしろネトウヨ的な現象についての問題点とは,その意見やコメントが「右翼的・保守的」かどうかで判断されている,もっと言うなら,「右翼・保守的だとされる言論人や政治家の発言内容とどれだけ一致しているか」がその判断材料になっている傾向があるという点です.

つまり,何かの物事に対して,どれだけ適切な行動をとっているか? 適切な状況になっているか? ではなく,どれだけ右翼・保守的なのか? で判断していると言っていいでしょう.
ようするに,「右翼・保守的であることが適切である.適切な判断とは右翼・保守的なものである」という基準で物事を計っていることを意味します.

このような姿勢は右翼,左翼に関係なく「バカ」と評せると思うのですけど,どちらかと言えば右翼の方が「考える量」が少なくなる傾向があるだけ酷いのではないか? というのが前回の記事の趣旨でした.

今回は,その前回の記事で少し触れていた「レポートのコピペがなぜダメか?」を通して論じてみたいと思います.
コピペ・レポートについて論じていくと,実は上述した件との関連性が強いことに気づいてもらえるからです.

大学におけるレポート課題は,コピペ(コピー・アンド・ースト,つまり盗作・剽窃)との戦いだとも言われており,どうやってコピペに対処するか苦心されている先生方は多いものです.
その一方で,「なぜコピペが悪いんだ? コピペを見抜けない教員も悪いのだし,そういう課題しか出せない教授法に工夫が足りないのだ」という意見も根強くてですね.

教員側の言い分としては,わざわざレポート課題を出したい理由は「さまざまな議論・理論を調べてみて,それらを材料に自分の頭で議論を組み立てる」という手続きを学生に踏ませたいからです.

私を含めて少なくない教員は,学生に「優れたレポート」なんてものを求めてはいません.そりゃ優れたものを出してもらえるのは嬉しいことですが,「レポート課題」という指導で学生に得てほしいのは,より良い答えではなく,より良い答えを出そうとする手順を踏んでもらうこと,それ自体にあります.

というか,それをできるようにトレーニングしているのが大学教育そのものだとも言えます.
その最高峰が「卒論」です.

ですから,レポート課題に本気で真面目に取り組めば,非常に有益な学びが得られるはずなのですが,いかんせんこの教授法の問題点は,いかようにもサボれるということにあります.
その代表がコピペです.

コピペ・レポートの何が問題なのかといえば,ひとえに「議論そのものをコピペしてしまっている」という点にあります.
決して「楽をしていて卑怯」だとか「他人の文章を盗むのは悪質だから」などということではありません.まぁ,それも大変問題なのですが,本質的な問題ではないのです.

議論そのものをコピペしてしまっているということは,自分の頭では議論していない,つまり,さまざまな議論材料を吟味するという過程を経ていないということです.
さながら,組み立てキットのプラモデルではなく,完成品のプラモデルを買っているようなものです.
もっと言うなら,レポート課題への理想的な取り組み方というのは,ガンダムとミニ四駆のプラモを両方買ってきてパーツを組み合わせ,それで独自の「ガンダムMk-0アバンテ」なんてものを作るようなものです(余計に分からなくなった?).

まぁそこまで行かずとも,学生には独創性溢れる意見でなくてもいいから,自分の頭で考えてみる機会を持ってほしいというのが大学教員の願いなのです.
なので「何も考えずにコピペしやがって!」という文句を垂れたくなる教員は多いものですが,実際のところ何も考えずにコピペする奴はいません.学生も一応は考えます.

先生の授業を受けてみて,いつも寝てる奴ならその友達に聞いてみて,「この先生が高評価してくれそうな文章はなんじゃろな?」と考えてコピペすることになります.
いつも寝てる上に友達もいない奴なら,「この課題だとすると,どういう文章なら高評価してくれるだろうか」と考えるでしょう.
おわかりですね.この「考え」が非常にマズいのです.

「この問題については,こういう回答が適切なんでしょ?」
というのは,世の多くの大学教員なら烈火のごとく怒りたくなる「学生の意識」です.
そしてコピペは,「こういう回答が適切なんでしょ?」という学問に対する意識・態度を是正するどころか,それを助長します.

なぜなら,コピペをしてレポート作成するということは,学生が予め持っている価値判断や哲学・思想を基にして「文章が選択される」からです.
学生自身が「良い」と思う文章を選択するわけですから,そこには「学び」も「訓練」もありません.

レポート課題というのは,学生が予め持っている問題意識や論理的思考力を試すのと同時に,学生の議論材料の探し方を鍛えて,材料そのものを増やすことを期待して課しているという側面があります.

ところがコピペは,(コピペとは言え)学生が元々持っている価値基準によって議論を展開しているわけですし,その議論が正しいものだと判断して(コピペなんだけど)自説として採択していることになります.

これが私には,ネット上でのイデオロギー混じりの論争と酷似して映るのです.

つまり,論じたい何かがあったとしても,それはその何かに対するさまざまな議論材料を吟味した上での意見ではなく,予め論じたい「右翼・保守的(左翼・革新的)な意見」が先にあって,それに合わせた回答を出している可能性が見受けられるのです.

さらに言うと,その「回答」とは冒頭述べたような「右翼・保守的(左翼・革新的)だと認識されている言論人・政治家」の発言だったりするでしょうし,まさにそれをコピペして自説としているのかもしれません.彼らがそれをコピペ先として適切だと判断した理由とは,「右翼・保守的(左翼・革新的)だから」というものである可能性があるわけです.

こういった基準に照らして物事を判断していると,「この意見は左翼の◯◯氏が言っていたからボツ」とか,「この考え方はマルクスが唱えていたから危険」とか言い出すに決まっています.もちろんその左右逆もあるのでしょうけど,とてもじゃないですがまともに議論材料は集められないですし,それを吟味することもしなくなります.

私が言いたいのは,その時その状況における「適切な判断」というのは,右翼的なものもあれば左翼的なものもあるでしょ? ということです.そのバランスが問題になってくるわけですけど,ネット上では特に右翼系のバカさ加減が際立つ,というのが前回の記事です.
もっと言えば,ネット上で「右」とか「左」と呼ばれているもの,それ自体が「右」でも「左」でもない,と言いたくなるものもあります.逆に「右」とされているものが「左」にしか見えないものだってあります.

典型的なのが現政権ですが,右翼・保守的だと評されている割には,かなり左翼・革新的な政策や方針をとっています.ですが,この現政権を「左翼だ」とか「反保守的な政治だ」と評する声は非常に小さいものです.
(「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」って,どこの左翼だよと)
これは,多くの人に「この政権は右翼・保守だ」という認識があるため,どんな事をしても「右翼・保守的だから良い(悪い)」という反応や評価になってしまっている疑いがあります.
つまり,政権の振る舞いを見て「右翼・保守的」と評しているのではなく,「右翼・保守的な政権だから」その振る舞いが右翼・保守的なんだ,ということです.んな無茶な,と思ってしまいますが,そんな調子で進んでいるようにしか見えません.

そんなわけで,もしかすると我々が苦心しているコピペ・レポート対策とは,我が国の健全な議論の場を作り出す基盤形成として非常に重要なものではないか,そう思ってみたりします.
ところが,大学で行われている「コピペ対策」の趣旨は,「盗作・剽窃は悪いことだから」とか「文章をきちんと自分の手で書かせるため」という理由で進むことが多いのが残念でなりません.


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