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「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚

タイトルの事ですが,
以前から目についてイライラすることがあるので,私のブログでも本テーマについて取り上げてみることにしました.
『ニコニコ動画』とかで政治系の動画を見ておりますと,たまに目にするコメントが,
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」
「じゃあ,誰だったらいいんですか?」
「代わりの人が誰なのか言えないのに,批判だけなら楽ですよ」
なんていうものです.
Yahooニュースのコメントでもたまに見ることがあります.


こういうのって,今ならほぼ100%現総理大臣・安倍晋三についてのやり取りにおけるものなんですけど.

なかには,
「この人がダメだったら『はい,次の人』.これもダメだったら「はい,次の人』.今度もダメだったら『はい,次の人』という空気・メンタリティが日本の政治をダメにする」
なんていう,一見もっともらしい深みの有りそうな評論を耳にすることもあります.

が,この手の評論は聞いててウンザリするんです.
どう考えても間違っているからです.
あまりにもバカ過ぎるんで,これまでは頭抱えて失笑していたのですけど,この「じゃあ,代わりは誰だったらいいのか?」が幅を利かせて久しい上に,
「いやいや,その発想自体がおかしいんですけど」
っていうコメントが少ないなぁと感じますので,ここでその一つとして述べさせてもらおうかと思いキーボードを叩いている次第です.


代わりは誰かいるのか?
えぇ,いるでしょ山のように.
同じ党(現時点では自民党)にいっぱいいるじゃないですか.誰に代わっても大丈夫なように党を組んでいるわけで,そのための「政党」なんですから.

「いや!ア◯ちゃんしかいない!他の奴ではダメだ!」
って叫ぶ人もいるかもしれませんが・・,そういう人に聞きたいのは,
では,現総理大臣が事故や病気,トラブルなどで急死したり政治家をやれない状態になったらどうするんですか?

この国は終るのでしょうか?
そんなことは無いですよ.
次を担当する総理大臣が粛々と引き継ぐだけです.


良きにつけ悪しきにつけ,この国の政治を民主主義で執り行っている以上,一般国民の意見が時の政治に反映されることになります.
つまり,現政権が行っている政治とは,現在の一般国民の多数派の意見が取り入れられているということです.
もっと言うなら,その時の一般国民の意見を集約して具現化する装置が政権ということになります.

であるならば,時の政権がやろうとしていることについて,一般国民は積極的にイチャモンをつけなければ民主主義が成り立たないのです.
もし時の政権に対して随時国民がイチャモンをつけて修正改善を要求しなければ,それは王様を多数決で決めているようなものになってしまいます.
皆で王様を決めたら,あとはその王様の意見に従おう,と,そういうことになります.


もちろん,そのやり方,その方式でやってもいいのでは?そっちの方が良い政治ができそう.という意見があって然りでしょうけど,それで怖いのは,皆で決めたはずの「王様」が実は結構バカだったり,頭が弱くてトンデモな政策を打ち出したりすると,亡国への道まっしぐらになっちゃうということ.

なので,少なくとも我が国では時の政権がトンチンカンな事をしていたら随時批判し,政策の修正改善を求める必要があります.
また,それが出来るのがこの国のはずなのです.


現政権のやっていることについて私は,全て批判しているわけではありませんが賛同できるところは少ないです.
逆に言えば,ほとんどの政策を評価してないですけど,賛同できるところもあるということです.
そんな私ができることは,現政権がやらかそうとしている一部のトンデモ政策に批判を加えることです.
それが真っ当な民主主義政治の在り方だと思うんですよ.


そこに「◯◯信者」と言われる方々は思わず,
「賛同しているんなら,なんで批判するんだ!」「批判するだけじゃなく,対案を出せ!」
と言いたくなるのではないでしょうか.
う~~~ん・・・,これについて説明するのって面倒ですよね.
あまりにもバカ過ぎて説明する気が失せるのが本音なんですけど.

・・・いえ,こういう場面で説明する気が失せていたりするからこそ,お互いに理解し合えないままなんじゃないかと思いまして,そこをきっちり説明するブログがあって然りだと思います.

簡単な方から先に書いていきます.まずは「対案を出せ」について.
「対案を出せ」という発想がそもそも間違っているのです.
批判している側の多くは「そんな案を出してくるな」と言っている場合がほとんどなんです.
つまり,「なんでそんな話を始めたんだ.まだそんなことやる時期じゃないから放ってろ」と言いたいわけです.
そういう批判に「対案を出せ」って,おかしいでしょ?
現状維持を望んでいるのですから.


どうしても対案を出してほしいなら,「何もするな」というのが対案だと捉えてもらうしかありません.
「でも,何もしないわけにはいかないだろ!」って言い出すかもしれませんが,これには「それでも何もするな!」って返すしかないですよ.

むしろ,わざわざ現状を変えようとする側にその政策のメリットや成果を説明する責任があるのでは?
それに対する批判に耐えられない政策なのであれば,葬られて然りでしょう.

以前もどっかの記事で書きましたが,こういうのってウンコを食べようとしている人に,
「それを食べるな」
と批判したら,
「じゃあ,何を食べればいいんだ!対案を出せ!」
と言われているようなものです.

どんなに言われようと,こちらとしては「今まで食ってた物でいいだろ.それを食べるな」としか批判できません.


次に,支持している政治家・政党なのに批判するのはどういう事だ?という点.
支持者を通り越して「信者」と言われる方々の多くは,どうやら
「私は彼を信じる」だから「彼がやっていることは正しいはずだ」
この相互関係で論理が成り立っていて,それにより,
「もしネガティブな政策をやっていたとしても,それは彼に何か思惑があってのことだ」
などとドラマチックな展開を期待するが如く深読みをし,
「総体的にはこの国をより良い方向に導くための糸を張り巡らせているはず」
ということで,『ぷよぷよ』の連鎖みたいに,
「今は押し込められていても,ある時から一気に巻き返すドラマが起きるはず」
と考え,
「現在はそのための準備をしている段階なんだ」
と暗示をかけているようなものです.
それ故,
「彼を批判することは正しくない.彼が力を失ったら劇的な展開にならないじゃないか」
という姿勢になっているように見えるわけです.


一時期のSTAP細胞研究の研究リーダーを見る目にも,似たようなものがありましたね.
実際の研究実績がどのようなものなのか?という点を検証せず,信じる信じないのレベルで科学研究の業績を判断しようという動きがありました.

先にも述べましたように,民主主義における政治家は国民から支持を受けて政策を執り行います.
支持されるだろうと睨んだ政策を掲げて選挙をし,一般国民の支持を得てそれを実行しようとするのです.

ところが,一般国民だって万能ではありませんから,あとになって「まさかそんな政策をやろうとしているとは思わなかった」というものが出てきて当然です.
政権が選挙後に打ち出す政策だってあるでしょう.


その政策がトンデモなものであった場合に,
「きっと何か裏があってのことだ」
などというドラマチックな期待をすることは危険です.

その政治家や政党がトンデモな政策を思いついた理由は,
「きっとこういうのを一般国民が望んでいるはず.これで次の選挙も当選間違いなし」
とか,もっとダイレクトに,
「私を信じて当選させてくれているのだから,私の考えた政策には賛同してくれるはず」
などと考えている可能性が高いからです.

政治家は選挙で当選しなければ政権を担えるチャンスがありません.
当然,多くの有権者の支持を得ることが出来ると踏んだ政策を打ち出していることになります.
普通にバカだったから思いついたトンデモ政策もあるでしょうが,魔が差して作ったトンデモ政策だってあるかもしれません.


ですから,「私はこの人を信じる」とか「きっと何か裏があってのこと」など妙な深読みをして政権や政治家を評価してはいけません.

彼ら政治家に「国民は,こういう政策を良しとしている」と思わせてしまうことになるからです.
国民自身にとっても「あぁ,俺達ってこんな政策を望んでるのかぁ〜」と自己暗示めいたものになりかねません.
故に,トンデモ政策にはその都度しっかりと批判する必要があるのです.


さらに言うなら,政治家と国民は対立するような役回りでも概念でもないわけで.
時の政権や政治家の行いとは,その時の国民の意向であると捉えるべきなのです.
国民の思想や哲学,教養のレベルがそのまま政治に反映されるのが民主主義による政治と言ってもよいのでしょう.


そんな国民のレベルを上げるための教育の役割について,
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