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学校教育対談

先日,このブログでもご紹介させていただいている和田慎市先生と直接お会いして対談することができました.

などの記事を読んでいただいた和田先生からメールが届いたのがちょうど一年前のことです.
それからもメールのやりとりを続けていたのですが,この度,直接お会いすることができたのです.
猛暑の中,足を運んで頂きありがとうございました.

和田先生は現在は定年退職されていますが,それまではずっと高校教師として教鞭をとられておりました.
現場の教師の立場から,地に足をつけた議論をしたいという思いがあります.

「実際の教育現場ではイジメ・ゼロは無理.理想論を現実にはできない.教師も人間.限界がある」
という,よくよく考えてもらえれば分かってくれるだろう当たり前のことを,そうではない世論に向かって勇気を出して訴えている方です.

もう一度そのご著書を紹介しておきたいと思います.
和田慎市 著『実録高校生事件ファイル』

実際の学校でどのような事件が起きていて,その対処がどのようになされているのか.その体験談や事件の流れをまとめられている本です.
現役の学校の先生にとっては,とても参考になるでしょう.

一般の方にとっては,ここで記されている事件に日々追われる教師が,メディアから流れる理想論で本当に対応できるのかどうか,それを考えさせられるはずです.

ほとんどの日本人が,「卒業生の半分くらいが大学や専門学校などに進学する」という,ありふれた,そして恵まれた高校の卒業生かと思います.
そうした高校を卒業した(大半の)人々にとっては,実は決して少なくはない「指導困難校」で繰り広げられる教育活動への理解が難しくなってしまいます.

私が勤務している大学の学生であれば,ほぼ全ての生徒が大学に進学しているような高校を卒業した者たちばかりです.
「大学進学率は約50%」なんていう話をすると「え! 80%くらいじゃないんですか?」って驚くくらいですから.こっちは逆にそういう認識に驚きますよ.
(ちなみに,私の母校は2000年当時,10%くらいでした)

ということですから,人々の間にある「高校生活」とか「高等学校とはかくあるべきもの」という認識に大きな違いがあるはずです.
そして,メディアで発信する側にいる人々や,そこに登場してコメントしたり,意見を述べる人たちは,概ね「高学歴」であったり,特異な経歴を持つ人たちであり,指導困難校での学校生活を経験している人も少ないことが予想されます.

そんな人達にとっては,指導困難校で繰り広げられる「教育的指導」は「暴力的指導」に見えてしまうのかもしれません.あってはならない指導に映るのかもしれないのです.

普通に考えてもらえたら分かることでしょうが,実際のところ,威圧的な態度で生徒と対峙したい先生なんていません.そりゃそうでしょ.
優しく丁寧に落ち着いてしっかりと生徒たちと向き合って指導できるのが理想ですし,そうしたいのはやまやまです.
でも,毅然とした態度,威圧的な態度,恐れられるような態度で生徒と向き合わなければならない学校や指導現場はあります.

学校の先生が目指すところは,子供たちを「良き大人」になるよう教育することです.
ですけど,皆が皆,聞き分けの良い子供ばかりではありませんので,言うことを聞かせるためにはそれ相応の態度で臨まなければならない事があるのは容易に察しがつくはずです.

なんせ学校の先生は生徒から逃げられません.
態度が悪いから,聞き分けがないから相手をしない.なんていう選択肢はとれないのです.
問題を抱えている生徒であっても,「良き大人」に育てるために対峙しなければならないのが学校の先生であり,それが教育現場の特徴のひとつです.

今回,和田先生ともお話した「地に足をつけた議論」とは何か?ということですが.
「学校は,『良い社会』をつくるために機能しなければならない」という点だったと思っています.これは「大学」も同様です.

時々目にするのが,問題を抱えた生徒は「自己責任」として「退学」や「制裁」が必要だとか,問題を抱えた学校は「淘汰」されたり「消える」べきだという意見です.
しかし,こういう態度で学校教育を捉えていけないと思うんです.

一人でも多くの子供を「良き大人」にすることが学校や大学の教育目標のはずです.
問題を抱えた生徒や子供であっても,彼らをなんとか教育の機会に触れさせなければ「社会」が不安定になっていきます.
問題を抱えた生徒を退学させたり制裁を受けさせても,問題を抱えている人物が消えるわけではありません.問題を抱えた学校を潰しても,問題を抱えた生徒が存在することには違いはないのです.

そうした生徒を多く抱え,彼らを教育するという役割を引き受けている指導困難校を,「事件や問題行動が多いから」と,ことさらネガティブに取り上げたり,改善されなければ潰すという方法をとることは,臭いものに蓋をすることに他ならないのです.

いじめ問題で表顕しましたが,「学校に問題があってはならない」という態度でマネジメントすると,道を大きく踏み外す危険があります.
例えば「学校にいじめは存在してはならない」という態度で挑んでしまうと,学校や教師はいじめがあっても「ない」と報告するようになります.「ある」と言ってしまえば,メディアや世間から叩かれるのですから,そのように報告する者が出てきて当然でしょう.
したがって生徒間にいじめは「ない」と報告しているのですから,学校や教師がいじめ問題として取り組むことも,これまた「ない」ということになってしまうのです.
これでは元も子もない話です.

「かわいい子供たちが夢と希望に満ちた未来を目指して教育を受ける場.それが学校」という意気込みから,そんな聖域に「問題」は存在してはならないと考えてしまいがちですが,現実を見ればそんなユートピアなんてありゃしません.

議論の出発点は,
学校では必ず問題が起きるし,その問題というのは個別性が非常に高い
というところであり,
そうした問題を乗り越えていくところに教育的な価値がある
ということではないでしょうか.

これとは逆に,「学校で問題を発生させないためには」,そして「問題が発生しないところであれば教育がスムーズに進む」という出発点から議論をすると,それはこの国の学校や教師が果たすべき仕事ではなくなってしまうのではないかと思うのです.

では現在の学校や教師の方々が置かれている状況はどうかと言うと,生徒と問題を乗り越えようとする活動を助けるものではありません.
逆に,学校で問題が発生しないようにする方向へと世論が動いているように見えることを私は危惧しています.