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いじめ問題は解決できるものではない

世間を賑わせた「大津市中2いじめ自殺事件(wikipediaでの呼称)」.
この事件については私も
で取り上げ,その世間の傍若無人ぶりを論じ,まるで「左翼のクソどもが!」と言いたげです

※ただ,「傍若無人だったのは右翼のクソどもだった」と言いたいようですが,しかしこれは推測の域を出ません.






どうやら世間やメディアは「いじめ自殺事件」にだいぶ “飽きて” きたようでして.
犠牲をはらってこの事件が残した教訓が忘れ去られる状況になることは,ほぼ間違いないようです.

それでも,せっかくこのブログを見てくれている方々には,この「いじめ問題」をきちんと論じる材料は持っていてほしいので,今回の大津いじめ事件に端を発する最近(2013年4月)出版された2冊をご紹介します.


「義憤」に託つけ,脊髄反射して感情に任せることの多い大衆世論に成り下がることを避けるためにも,以下の2冊は「いじめ問題」を考える上で重要です.

「大衆世論」に対するホセ・オルテガ・イ・ガセットの言葉を,その主著『大衆の反逆』から引用しておきます.
まえもって一つの意見を作りあげようという努力をしないで,その問題に関して意見をもつ権利があると考えるのは,私が《反逆する大衆》と呼んだ人間のばかげた生き方で,その人が生きていることを明らかに示している.(中略)愚か者は,自分を疑ってみない.自分が極めて分別があるように思う.ばかが自分の愚かさのなかであぐらをかくあの羨むべき平静さは,ここから生まれるのである.
自分自身にも言い聞かせ,日々精進です.


さて,
諏訪哲二 著『いじめ論の大罪』と,共同通信大阪社会部『大津中2いじめ自殺』です.

いじめ問題を論じる上で,非常に有益な示唆を含んでいます.
 

特に教育関係者ではない人は,『大津中2いじめ自殺』→『いじめ論の大罪』の順番で読むことをオススメします.


大津中2いじめ自殺』は,非常に客観的な文章が並びます.
共同通信か.
あれだけ世間を煽ったくせに,結構まともな新書を出しているんですね.
そこは評価できます.

本書で「いじめ問題」について頭を冷やし,いよいよ『いじめ論の大罪』に入ってください.


著者の諏訪氏は,実際に高校教師として教育現場に携わっていた人です.
いじめ問題を学校や教師が扱うことの難しさを,目を背けずにしっかり論じてくださっています.

前述した昨年のブログの記事で,私がかなり汚い言葉で乱暴に主張していることを,さすが上品な言葉で詳細かつ明晰に論じてくれています.


教育現場にいない人からすれば,『大津中2いじめ自殺』を読むと,

「なぜ教師や学校はこんな対応をするんだ?」

という歯がゆい疑問を持つでしょう.


しかし,『大津中2いじめ自殺』ではそれについて,メディアとしては珍しく中立な文章を書きます.
加害者や学校,教育委員会の罪をほじくり出すようなことはしません.
その上で,諏訪氏の『いじめ論の大罪』に耳を傾けてください.
すんなり入ってくるはずです.


私としても,過去記事で繰り返していることを,ここにまとめて述べておきます.

いじめは無くならない.
 無くせるものでもないし,無くしたから良い社会になるというものでもない.
どこからどこまでが「いじめ」で,「じゃれあい」や「遊び」,そして「暴力」や「犯罪」なのか?といった線引きや定義づけができるものでもない.

そもそも,学校や教師が「いじめ」を無くすことに本気になるとどうなるか,あまりにも短絡で安直な発言や主張が多すぎる.

現在の学校は,
「いじめの無い学校」を謳わなければならない圧力がかかっている.そういう圧力下では,いじめを “無かったこと” にする.めでたく「いじめの無い学校」が簡単に完成する.世間が「学校には “いじめが無い状態が普通” である」
という脅迫めいた認識を課せば,当然そうなる.

責任を逃れたい教師が,
「私はいじめには関知していない」
と言い出す.
当たり前の流れである.


「なにを言っている!それでも教師か!」
と文句も出ようが,残念ながらそれが現実の教師である.
こういう手合いは小説やドラマを見すぎている人なのだろうから,不満はあろうが受け入れてもらうしかない.


ならば,そうした脅迫じみた要求に従って「いじめの無い学校」を物理的に目指すとしよう.
どうなるか?徹底した管理教育である.

「いじめの無い学校」
を本気で目指した学校では,教師が生徒の人間関係にも口出しをし始める.
窃盗や暴力事件じみたことがあれば,「毅然とした対応」と言いながら警察を直に入れるようになる.
その判断の閾値が低くなっていく.
当然そうなる.

どんどん教師が生徒とは向き合わなくなる.
警察の力が入るということは,そういうことである.

それから逃れたい生徒は,なるべく人間関係を狭くしようとする.
気の合う仲間以外とはコミュニケーションをとらない方略に舵を切る.
生徒としては非常に合理的な選択である.

そして...,
それでもいじめは無くならない.
これは間違いない.
冒頭に述べたように,いじめは無くせないものだからである.
以前にも述べたが,厳罰化すると物事は隠れる.
学校の敷地外で,そして見えない所で見えないようにいじめが発生するようになる.

ならば学校はどうするか.
そうした現実を前に,世間は学校教育をどう考えるか.

学習活動や勉強だけさせれば良い.
教師は授業だけすればよいのではないか.
それ以外のことについては,学校は関知しなくてもよいのでは?という流れになる.


教科だけ担当するようになった教師...,
授業が上手い人が担当すればよいではないか.
むしろ,それが良い.
授業が上手い人,今の教師には少ないね.
教師の「教え方」を徹底的に強化しよう.
教科や授業だけに力を入れるようになったのだから,そこに注力さえすれば良い.

それでも物足りないと言ってくる人がいる.
えっ?公立と私立の差が大きくなっている?
しかたない,公立も一部の教科は外注しよう.
それがいい.
そのほうが学生や保護者も納得する.

そうして教育の市場原理が加速する.


でもこれが日本の教育と言えるのか?
そうなることを見越した上で,皆,いじめ論を語っているのだろうか?

ついでに誤解を恐れずに言えば,いじめによって自殺する者(子供や生徒に限らず)を無くすこともできない.
減らそうという活動は推進されるべきである.
だが,無くなりはしない.

もっと言うと,自殺の原因がいじめにあると判断することは現実的ではない.
そもそも,さまざまな自殺の原因を特定の「何か」に求めること自体が非常に短絡的で危険である.

大事なのは,そうした “いじめ” という問題を通して,人が人間らしく,そして日本人らしく生きていく共同体・社会を考え,保守し,模索していくことが大事なのではないか.

ということです.短くまとめるつもりが,やっぱり長くなりました.

教師が「管理」しなければならないのは,「いじめ」ではありません.

いじめが発生した時に,それを上手くコントロールする共同体や社会,「人」を作ることです.

いじめ」らしき状況を見つけた時,どのように動くことが人として大事なのかを教えることなのです.

大衆世論からのチャランポランな要求に右往左往しなければならない今の学校では,それはできません.

大津中2いじめ自殺』にも散見されますが,生徒が書いた「先生に知らせたのに何もしなかった」「先生が信用できない」というアンケート結果や感想文.

これに私は驚愕したのです.

なぜ君達自身の手で助けなかったのか?まるで先生が解決するものかのように平然と書いている.
そしてメディアはそれを取り上げず,むしろ “正に生徒の言う通りだ” と言わんかのような態度です.

こんな姿勢で「いじめを無くそう」とか片腹痛い.
こういう状況こそが最も危険な状態なのではないでしょうか.


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