2014年3月19日水曜日

ベビーシッター事件から考える保育

やっぱりというか,なんでこうなるのかというか.
前回の■慎重な待機児童対策を でも取り上げたベビーシッター事件に関する(確認できる範囲で)ネットの反応がヤバイです.悪い意味で予想通り過ぎて気分が滅入ります.

この事件のニュースは以下の様なもの.
男児死亡事件で注目、「ベビーシッター」紹介サイト なぜ母親たちは利用せざるをえないのか(Yahoo!ニュースより)

被害者となった母親の境遇や,預ける理由について憶測が飛び交い,
「こんな危険なところになぜ預けたのか」「母親の方にも落ち度があるのではないか」「遊ぶために預けてたんじゃないのか」
などとコメントが溢れております.

コメントしている方々としては「正義は我にあり」とドヤ顔できる楽しい話題なのでしょうけど,この事件を無駄にせず今後の教訓にしていくためには,こうした反応とは別の考察をしていかねばなりません.
ここは一つ,慎重に議論していきましょう.

この事件は,「保育」について真摯に議論すべきエッセンスがたくさんあります.
ただ,上記のようなネットのコメントが氾濫し始めたようですので,ちょっと整理が必要です.

一つの文章にすると,本件はこういうミスリードになりつつありるので注意が必要です.
安かろう悪かろうのネット紹介型ベビーシッターに預けてしまったことにより痛ましい事件になってしまったが,その一方で,このような危険なベビーシッターに預ける親にも落ち度があるのではないかと考えられ,さらには,この親の境遇からしてこのようなベビーシッターに預けてしまう行動が生起された疑いがある.
もしこのように事件が捉えられつつあるのであれば,非常に問題だと考えられます.
なぜなら,上記のような捉え方から導き出されるのは,
「事件を起こした犯人が悪いのは当たり前なんだけど,ダメな親のもとに生まれた子供もかわいそう」
という極めて薄っぺらな,小学生の読書感想文のようなものに終わってしまうからです.

先に結論から言いますと,本件で私が主張したいことは以下のことです.
今回の被害者となった親の境遇がどのようなものであれ,そのようなことに関係なく,安かろう悪かろうの保育産業が跋扈することを防がなければならないことが直視された事件なのであり,そうした劣悪な保育産業・子供ビジネスがのさばる状況を是正するための指針が紡ぎだされるべきである.
というものです.

まず,大前提として(今回はベビーシッターだったが)保育施設に預けなければならない理由がある親というのは,どうしても存在するものです.
そりゃ,小さい子供は親がみれるのが一番なのでしょうが,そういうことができない境遇にある親もいます.

自業自得な境遇や,不埒な理由で保育施設に預ける親もいるでしょう.残念な人ってやっぱりいるもので.
しかし,「どこからが自業自得で,どこまでが不埒な理由なのか」といったことの判断評価というのは,その社会全体の平均的価値観が決めるものです.
とまぁ,そこは割愛するにしても,,,

保育士を目指している人や学生は勉強していることでもありますが,こうした “問題を抱えている親” とどのように向き合うのか,という勉強(科目)は結構重要なところでもあります.
そして,問題を抱えている親というのも,時代や地域によってその中身が変わってくることは自明のことと理解してもらえるかと思います.
保育士を目指す学生というのは得てして「ちっちゃい子供が好きだから」という理由なのですが,現場に出た保育士さんたちが直面する問題というのは,まさにこの点にあります.

今回の件でも,母親の行動を批判する人は,たしかに正しいことを言っているのかもしれません.
そういう行動をとる母親が日本からいなくなれば,たしかにより良い子育て社会ができるのかもしれません.
こうした道徳観を否定するつもりはありませんし,維持されるべきものであることに異論はありません.

その一方で,そうした道徳観を推進していくことで,物事が綺麗さっぱり解決するということもないのです.機械やロボットではないのですから,人間の社会には必ず恵まれない境遇,自業自得の境遇におかれる人々が存在します.
そうした親から生まれた子供も,やはりその運命とも言える境遇から抜け出すことは困難であることは予想できます.

それを「自己責任だ」と言って切ってしまってもいいでしょう.そういう考え方が必要な場面があるやもしれません.
しかし,私としてはこれを「自己責任」だから,「自業自得」だから,「その親のもとに生まれた運命を呪え」と野放しにすることは日本人のやるべきことではないと思います.

そりゃたしかに,ダメな親に育てられた「不憫な子供が社会に一定数存在する」ことによって,それだけ自分の子供,乃至「身内」の社会的アドバンテージが高まるという構造が究極的には成り立つわけですから,これを改善しようとすることは人としての欲望に反することなのかもしれません.
※ですから,こうした事件にただひたすら批判しかしない連中というのは,こうした「不憫な子供」の数を増加させることで,自身の地位を相対的に高めようとする “無意識的・本能的行動” なのではないかと考えられます.
※もっと言うと,こういう態度が「いじめ問題」を明後日の方向で論評する人々と酷似するので..(以下略

しかし,どのような理由があるにせよ,目の前に産み落とされた子供を真っ当な教育環境に近づけるべく努力するのが,保育という福祉教育の存在意義であり,そこから長期的には日本社会を安定したものにすることを目指すわけです.

あらためて問い直されるべきタイミングにあると思うのですが,保育園というのは「3歳未満の子供でも預けられる幼稚園」ではありません.あそこは福祉施設です.

もちろん入園している子供たちとその親の境遇に合わせて「ほぼ幼稚園状態」ということもあり得るのでしょうし,各園の方針も違ってきて当然ですが,この前提は外すべきではありません.
なによりも,待機児童問題や保育士不足を補うために安易なビジネスや業者が跋扈するようになることは避けねばなりません.

危険な保育ビジネスに手を出した親が悪い,そんなとろこに預ける発想が情弱,という批判が親に向けられることは仕方がありませんが,次代を担う子供の福祉を「親の責任」「親の判断力」という観点から論評することは酷です.

止むに止まれずどうしても劣悪な保育に手を出してしまう親,そうした保育に手を出したがる問題を抱えた親が出てくることは避けられません.
これを「親の責任」「親の判断力」というところから議論してしまうと,堂々巡りになることは火を見るより明らかです.
問題を抱えた親に,親としての自覚を促すきっかけが必要でしょう.そうした親のもとで育つ子供であっても,真っ当な国民としての教育の下地が必要ではないですか.

ならば,そうしたきっかけや下地を奪う可能性が高い劣悪な保育ビジネスの芽を潰し,問題を抱えた親ともしっかり向き合える,質の高い保育園とはどのようなものか考えることが建設的な議論ではないでしょうか.


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慎重な待機児童対策を

あと,途中でも書きましたが,本件の「ネットの反応」はデジャヴでして,これとよく似た議論が「いじめ問題」だと考えております.
以下を参照ください.本質的にはやっぱ似てますよ.
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
いじめ問題は解決できるものではない
笑ってはいけない「いじめ防止対策推進法」
ちなみに何が似てるかって言うと,こうした「公共性の強い領域で起きた事件の原因を特定の誰か(組織)の倫理性」として問い,それに対しては「誰からも批判されないフレーズを振りまき,模範解答的な道徳観を掲げさえすれば,世の中が良くなると信じちゃってる」というものです.

そういう意味では,
でも書いたことが影響してるんじゃないかと思われます.