2015年10月13日火曜日

なぜ教育現場では「ネットの意見」が受け入れられないのか

現在,我々大学研究者としては大事な季節なので,どうしてもブログ更新に手が向かない今日この頃です(科研費申請です).
でも,やや短めの記事を書いておきたいと思います.

学校教育に関する不祥事等がニュースになると,「これだから学校は隠蔽体質なんだ」とか「教師は社会人になれなかった人材が就く仕事だ」などと批判にさらされることが多いものです.
特にネットでは,この手の “教育熱心な意見” が散見されます.

こうしたネットの意見について,私もこれまで何度かそれに反論する記事を書いてきたところですが,
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
とか,
「面白い授業」に対する幻想と誤解
今回は,そうした教育に対する「ネットの意見」が,実際の教育現場で(思い切って言ってしまえば)「通用しない」のはなぜか? という点を語ってみたいと思います.

前回の記事である,
なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか
と関連するところも多いですので,未読の方はそちらもどうぞ.

もちろん,以下に述べていることが教育者全体の総意ではないですし,普遍的な価値をもつ考え方ではないことも申し添えておきたいと思います.が,これに類似した想いを持って教育にあたっている人が少なくないことはご理解いただければと思います.

(1)教育現場で「勧善懲悪」は非現実的
いじめ問題が典型的ですが,ネットの意見に多いのが,
「なぜ被害者が泣きを見て,加害者が守られるのか? こんなことだからいじめが無くならないんだ!」
といったものです.

要するに,「悪い行いをする子供よりも,その被害にあった子供を優遇しろ.そうすれば皆がハッピーになれるだろ」という趣旨の主張です.

でも残念ながら,教育現場でそういう「ハッピー」で「おめでたい」考えは通用しません.

何故かと言うと,教師にとっては「いじめ被害者」はもちろんのこと,「いじめ加害者」だって自分の生徒・学生であり,同じように教育する対象だからです.
一般人にすれば「加害者に痛い目にあってほしい」という欲求があるでしょうから,それが満たされないと不満に思うでしょう.

ですが,教師はなるべく多くの生徒・学生が善き国民・人間となるよう育てるために粉骨砕身しています.
いわゆる「悪い子」にしても,なんとか真っ当な人物になるよう教育しているのです.
子供の行いを査定して,ペナルティを与えることを仕事だと考えている教師は極めて少数だと思われます.

(2)教師というのは,子供に教育を受ける機会を与えたいと考えているもの
それに,私にも少ないながら経験があることですが,「悪い子」をきちんと指導すれば,「悪い子」ではなくなるということです.というか,そんな事例は現場では山のようにあります.
たしかに,全国ニュースになるほど重大な事件となってしまう結末を迎える指導ケースもあるでしょう.しかしその一方で,きちんとした教育がなされているのも確かです.

もっと言うと,悪い子を指導するのに「お前は悪いことをしたのだから,ペナルティを与える」という方針では現実の学校教育は成り立たないということが一般の方々に周知されていません.
人間,どうしても個性がありますし,子供は学校教育だけで育つわけではありませんので,善き人間になるよう指導しきれないところも残念ながらあります.
ですが,「悪いことをしたからペナルティ」という着想で教育すると,「ペナルティを受けなければ悪いことではない」という,見事なクズっぷりを抱く人間を育てることにもなります.

「たしかにそういう側面もあるだろう.だが,悪い子は学校ではなく,それに相応しい施設を用意して更正させればいいのでは? 良い子に悪影響が及ぶから」
という意見もあるかもしれません.
ですが,これには私は断固反対します.

何事も程度の問題ではあるのですが,余程の理由がない限り多種多様な人間がいる中で教育が行われたほうが良いと考えています.
それに,日本に限らず多くの社会においては,「通常の学校教育とは異なる履歴を持っている者」に対する風当たりは強く,偏見がどうしてもあります.
ですから,教師としてはなんとか「普通の教育履歴」として社会に送り出したい,という思いがあるのです.

(3)真っ当な人間を育てることで,真っ当な社会を育てる
さらに言うと,例えば高等学校では「退学処分」にすることができますから,勢い,「義務教育じゃないんだから,問題を起こす生徒は排除すればいい」という意見も聞かれます.
しかし,排除された生徒はその後どのような教育を受けるのでしょうか.
「そんなのは本人の自業自得だろう」と言う考えもあるでしょう.
ですが,少なくない教師はここでも「なんとかして真っ当な人間にしてやりたい」と考えるものです.それが教育の役割,存在意義だという気持ちがあります.

考えてもみてください.退学処分になった生徒や,悪い子の烙印を押された生徒が,その後どのような道を歩むか.
運良く良い方向に向く場合もありますが,たいていは荒んだ生活を送ることになります.
なるべく退学させずに,多少の無理をしてでも学校教育を受けさせてやりたい,そういう選択をする教師は多いものです.

もし日本の教育現場が,安易に「こいつは面倒を見きれないから,退学処分だ」という方針をとるようになったとしましょう.
容易に考えられる未来は,「学校で十分な教育を受けた者」と「学校で教育を受けていない者」の差が大きくなることです.
今にしても,この差は存在します.その差がさらに開くということです.

そんな社会ではどういうことになるのか,これまた容易に想像できます.
典型的なのが,アメリカや中国のような社会です.実力主義とか能力主義というスローガンで誤魔化さなければならない不安定な社会になるでしょう.
もう一つ考えられるのは,移民や外国人労働者を大量に受け入れている国のような状態になることです.「“我々”と“あいつら”」という感じで,国民同士の連帯感がなくなる社会がそこにはあります.

(4)不満を感じるかもしれないが,教育現場で働いている人に任せてほしい
教師の多くは,生徒・学生を育てることを通じて,この人間社会をより良いものにしてくことを願います.
昨今の社会情勢をみておりますと,「一部や個人の利益を最大化することによって,その恩恵が社会全体の利益として波及していく」という考え方が強くなっているように思います.
右翼・保守的な主張をする人達なんかは,福沢諭吉の「一身独立して一国独立する」を引用しながら説くことでしょう.

たしかにそういう側面もあるかもしれません.そういう考え方が教育現場に流れ始めているという実感もあります.
ですが,直感的にこの考え方・教育方針ではまともな社会にはならないのではないか,そういう危機感を持っている教育者は少なくないはずです.

なぜなら,自分の利益を最大化することを目指すような人間が,どうして所属する共同体の利益を考えるのでしょう.
自分の利益を最大化することを説く教師から学ぶ子供が,どうして自分の身の回りの人々のことを考える人間になるのでしょう.
こうした違和感を感じる教育者は,私以外にもたくさんいるはずです.

教育現場で展開されていることは,スッキリとした勧善懲悪や正義に基づく解決が難しい案件が多いものです.
それに対し,あーでもないこーでもないと悩みながら,生徒や,彼らが育った先の社会のことを案じながら指導しているのが教師という仕事です.

不満を感じることもあるかもしれません.ですが,教育現場で働いている人々の考えや主張にも,落ち着いて耳を傾けてもらいたいということを言いたい時期・レベルになってきたようにも感じます.

そして,それぞれの教師が全力を出せる職場を作ること,それがまずは大事なのだと思っていますし,それが難しくなってきている最近の教育現場を危惧するところです.


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