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続・キリスト教を学ぶ


前回の続きです.

キリスト教にとって 「神」 とは何か.
前回紹介した土井健司 著『キリスト教を問いなおす』を下敷きに取り上げてみます.

土井氏によるキリスト教解釈では,

“神とは 「神」 という実体的な存在ではなく,“状況” を表す言葉” であるとのこと.

これはどういうことか.土井氏はこのような例えを使って説明しています.

飢餓状態で,あなたは一つのパンを持ってさまよっています.
すると一人,これもまた飢えている人に出会いました.
パンを持っているあなたに,その人は近づいてきました.

“普通” であればどうするか?
(1) パンを半分分け与える.
(2) 分けずに逃げる.
(3) 戦って殺す.
といった行為が思い浮かびます.あなたはどれですか?

しかしここで,持っているパンを “全て” 渡したらどうか?

“ありえない” 行為であることが容易にわかります.
普通であればそんなことはしません.しかしそれが起きた.まさに 「奇跡」,神のなせる業です.
そう,これこそが 「神」 だというのです.
「神」 という存在を創造するに値する行為を前に人は 「神」 を見る.

“あなた” と “その人” との間に,神が宿った行為が発生する.
別にその人があなたのことを神だと思うわけではありません.
あなたは神を信じているのですから,その行為に至ったのです.
その行為を前にその人は神に感謝する.もちろんあなたにも.
さらに言うなら,その人が神を信じていようがいまいが,この行為に関係はありません.
なぜならって,「神」 がいることを “あなた” は信じているのですから.一神教にとっての神は “万人の神” です.神を信じていない人にとっても神なのです.

これがキリスト教教義である 「隣人を愛せ」 「愛(アガペー)」 の本質です.
神は愛してくれる,愛してもらおう,という “神・私” の関係ではなく,ヒト一人が “隣人愛” を行為として起こすことを目指すことがキリスト教なのです.

これを実践してきたのが,イエス・キリストであり,キリストを崇めるということは,こうした行為を崇めることを意味します.
つまり,キリスト教とはイエス・キリストと共にあった 「神」 を信仰すると同時に,キリストが行った “行為” を信仰することに他なりません.

こうしてみると,以前取り上げた仏教と非常によく似たものであると言えます.
と同時に,「好戦的」 「排他的」 というキリスト教をはじめとする一神教に対する考えが変わりますし,どれだけその教義に背いている信者が多いか,ということかがわかります.

それは仏教も同じで,とにかく 「仏様を拝んでおけば大丈夫」 みたいなところがありますから, 「宗教は川と同じである.下流に行くほど人々の生活の都合を受け入れ,汚れている」 という言葉を思い出します.

水は低きに流れ 人の心もまた低きに流れる
大変な修行はしたくないから,節制はしたくないから,でも信者ではいたい,恩恵は受けたい.という人々の勝手な都合を最も受け入れやすかった宗教,それがキリスト教なのかもしれません.

これを徹底批判したのがニーチェです.ニーチェ 著,適菜収 訳『キリスト教は邪教です!』は,これでもかとキリスト教を断罪します.
キリスト教徒ではない私は楽しく読みましたが,キリスト教徒からすれば心穏やかに読める本ではありません.

しかし,ニーチェもまたイエスの行為や教えを批判しているわけではなく,そのイエスの教えを捻じ曲げ,神の解釈を都合よく作った “キリスト教” を批判していることがわかります.
乱暴な表現ですが,その本質は土井氏の著書と非常に相関します.土井氏の著書を読んだ後であれば,結局ニーチェが言いたかったのは ,
「キリスト教よ,イエスの教えに戻れ!」
ということである気がします.

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