2009年10月3日土曜日

続 トレーニングの研究

昨日の記事をまとめますと,
⑴ トレーニングの研究として 「役立つ研究」 というのは受取手次第であるということ.
⑵ トレーニングの研究が目指すべき方向性というのはトレーニングをする者の満足 (納得) を得る知見を示すこと.
の2点です.

トレーニングという行為は人類のみが有する特殊な文化であり営みです.
ゆえにその行為にはトレーニング(訓練:Training)されるべき営みが必然的に平行しています.
トレーニングは手段であって目的ではありません.つまり,トレーニング研究というのは手段の研究をしているのです.

トレーニングには常に意思があり目標があります.
その目標は個々人によって違い,その目標達成に至るまでに選ぶ道も異なります.
さらにそれはトレーニングする者が満足(納得)することに意味があります.
繰り返しになりますが,トレーニングは最終的な目標を達成するための 「手段」 だからです.

ですから,誤解を恐れずに言えばトレーニング研究は客観的な情報としてまとめられているものであれば,後は受取手次第なので,どのようなものであってもいいとも言えます.

しかし,どのようなものであっても良いとは言え,理解し,納得させることができなければトレーニング研究としては価値が低いということになります.

通常,科学では理論の解釈を 「理解」 することが至上となっていますが,トレーニングの科学研究ではさらに 「満足(納得)」 させることが必要です.
別の言い方をすれば,トレーニング研究というのは 『トレーニングのスタイル』 を開発し売り込む行為にほかなりません.

つまり,新しいトレーニング方法を提案したり,クラシックな方法を再評価したり,またはトレーニング・スタイルのニューウェーブを創造することが トレーニング研究 の本質なのではないでしょうか.

主観が客観に先行することもトレーニング研究の特徴です.
「なんか良い感じがする」といった,トレーニングする者の満足(納得)さえ得られれば科学的データの了解を待たずして成り立つ分野でもあります.

最後に,トレーニング研究としての評価と価値について書いておきます.
昨日書いたことと重複しますが,トレーニング研究だからといって臨床,つまり現場が絶対と言うわけではありません.そういう視点は大切でしょうが,それだけではないのです.

例えば,戦場を知らない者であっても,優れた銃を開発した研究者は評価されます.
しかし,その銃のトリガーを戦場で引いた者が評価されるわけではありません.その銃のトリガーを引いて評価されようと思えば,戦果を挙げなければならないのです.でもこれは “銃の研究” とは違います.
これについて別の角度からもう少し付け加えるなら,その銃を使った新戦術を考案すれば,それは研究結果として評価されます.しかし,新戦術を戦場で実践したからと言って “戦術の研究として” 評価されるわけではないのです.
これらの違いはわかってもらえたでしょうか.いずれも戦場における「手段」を研究したものです.トレーニングと同じです.

「手段」 を研究するのですから,「新しい方法」や「効果の検証」 を主張したり,「運用方法」 を主張をすることが基本になるでしょう.
もっと大事なこととしては,目的達成の手段として成り立っているかどうかを検証することです.
昨日の話に戻れば,『体力を高めれば競技力が高まるか?』『そのトレーニングで生活水準が高まるか?』 ということの検証です.

繰り返しますが,こうした主張,言い換えれば研究を 「役に立つ」 と判断するかどうかは別問題です.体力を高めることが競技力の向上に必要だと考えている人には,両者の関係性を検証する研究は役立ちません.具体的なトレーニング方法が役立つわけです.

旧日本帝国軍では優れた戦闘機を開発・研究していましたが,実戦では役に立たないとして自信のあった艦船に資源を注ぎました.
古代中国大陸では火薬・銃の研究が盛んであったにもかかわらず,役に立たないとして利用価値を低く見積もっていました.
旧日本帝国はアメリカの戦闘機によって艦船を沈められ,中国は優れた銃を開発した日本に圧されるという歴史を踏んでいます.

「役に立つ」ということにこだわった話をすれば,トレーニング研究といった「手段」の研究としては,提示された研究がどのような場面や状況で役立つのかを再研究することも重要なことなのかもしれません.


まだまだ私としても主張がまとまっておらず散文で申し訳ないのですが,参考になれば幸いです.