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続・英語教育について
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以前の,
■英語教育について
の続きです.
英語教育の強化と,大学の授業の英語化が喧しい昨今.
これについて,たまに知り合いの先生(前任大学の方)ともフェイスタイムでお話しさせてもらうことがあるのですが,そこでの議論をここでも書いとこうと思いました.
まず,上記の記事で書いたことをザックリまとめますと以下のようなものになります.
(1)英語教育の強化は,ダメ,ゼッタイ
(2)中途半端な英語教育になってしまうことは火を見るより明らか
(3)他教科の時間を喰ってしまい,悪影響が多い
(4)日本語での教育が疎かになると,思考力が低下する危険性がある
(5)日本語能力が疎かになることで,思考力が低下する危険性がある
というものです.
ついでに言うと,これだけグローバリズムとか,世界を相手に活躍がどーのとか騒がれ,それに乗じて英語・英会話ブームに湧いた十数年(数年ではない.十数年である.もうそろそろ数十年ではないだろうか).
それでも英語を十分に操れない人が多い時点で,英語を流暢に操り話せるようになるためには,教育上の「義務化」以外の何らかの「動機因子」が必要であることは容易に推測できます.
そうしたことをすっぽかしておいて,義務教育としての英語の強化とか,大学の授業を英語でやるとか,完全にイカれている,という主張がその記事でした.
今回の記事でも「大学の授業の英語化」を主なテーマにしてみます.
大前提として,日本の大学事情からしても「日本の大学は日本人のためにある」のです.
しかしながら,私も大学人の一人ですから,より詳細に言うと,「日本の大学は日本語を母語(乃至,第一言語)とする人のためにある」ということにしておきます.
日本人以外でも,第一言語が日本語という人はたくさんいますので.そういう人が高等教育を受けるために,日本の大学があるのです.
各国の「大学」は意識的にしろ無意識的にしろ,作為的にしろ無作為的にしろ,そのようになっていると考えられます.
なぜなら,その国(地域)の未来を背負って立つ人材の育成と陶冶が,大学教育の目的になっているはずだからです.
そうでなければ大学で学び,学ばせる意味が見出せません.
そのような大学の機能から考えてみると,「英語教育の強化」というのは無駄な労力にしか映らないのです.
そもそも,日本の高等教育の歴史を紐解くと,
「西洋の知識を日本語に訳すこと」
が主であったことがわかります.
明治維新の前後がその舞台で,日本の大学もこの頃(1873年:明治6年)に誕生しています.
ただこの「西洋の知識を日本語に訳すこと」なんですけど,「日本の大学教育は西洋学問の翻訳作業で,オリジナリティがない」と揶揄されるところでもあります.
が,それは大学教育を盛り立ててきた先人たちの努力を正統評価しないことになります.
翻訳作業をなめてはいけません.
翻訳作業というのは責任重大な作業であり,価値のある重要な作業なのです.
この翻訳作業において,現在では普通に使っている「科学」とか「経済」とか「自然」といった言葉に息が吹き込まれました.
たしかに,西洋の学問である,西洋哲学や科学,工学といった新しい学問は,それまでの日本にはない魅力的な学問でした.
この西洋学問を広く日本人の中に落としこむことで,日本を強国へと導く道があるはずだと考えた先人たちは,西洋学問を日本語で理解できるように粉骨砕身します.
つまり,海外の優れた学問を日本語で学べる状態へと日本の教育水準を高めることが,高等教育の黎明期であった先輩方の仕事だったのです.
翻訳することの目的とは,ひとえに「後の世の者達のために」だったはずです.
(そりゃ皆が皆とは言いませんけど,概ねそういう気概だったはずです)
※ちなみに当時も,難解で煩雑な翻訳作業をするよりも,
「グローバル化していく19世紀末の世界にあって,日本人に英語教育を施したほうが良いのではないか」
という現在と酷似した議論はもちろんありまして,これについては我らが土佐藩出身の馬場辰猪らが猛烈に反対して今に至ります.この時代,土佐藩は要所要所で良い事してくれています.
では,「後の世」である成熟してきた(一概にそうは言えないけど)現在の大学教育が目指すべきものは何か?
それは,日本語によって新たな学問や思想,科学技術を創出することではないでしょうか.日本語による日本語ならではの思想や技術を創り出していくことが,先輩方が夢見たところだったと考えられます.
もちろん,研究の場にいる我々のような者たちの多くは,日本語以外の言語を操れることは大きな武器になりますし,普遍性の高い学術的な発想をするために大事でしょう.
外国語を解することが仕事の一つとも言えるからです.でもこれは仕事だからであって,能力とは直接関係ありません.
学生にとっても,外国語を解読することが学術的な思考力を高めるための “行程” の一つであることも重々承知しています.それは過去記事でも書いてきました.
なぜなら,外国語の文献を読まなければ,外から見た日本のことも分からないわけで,最新の研究は英語論文ですから,それを把握しておくためにも重要です.
しかし,そうした語学力は行程であって “目標” ではないのです.
その目標とは「学術的な思考力を高めること」です.
間違っても「英語で学問できるようになること」ではありませんし,ましてや「英語を使って世界の舞台で活躍できる」ために英語教育を強化するなんぞ笑止千万と言えます.
むしろ私には,当時としては高等な外国語の学問を日本語で学べるように努力してきた方々の想いを踏み躙る行為にしか見えません.
これは先輩方への裏切りです.万死に値します.
日本語で思考し,日本語で解することすら困難な学問をすることが,日本の大学の使命です.
英語だか何だか知りませんが,薄っぺらい母語以外の言語でも解せる程度の学問をするために,日本の大学があるのではありません.
そんなもの,適当な自己啓発スクールでやってくれ,ということです.
※その手のスクールをバカにしているわけではないので念のため.
私の心の奥で湧き出る「反・英語教育強化論」の流れを辿っていくと,どうやらここが源流のようです.
細かい論点は,過去記事である
■英語教育について
をご確認ください.
■英語教育について
の続きです.
英語教育の強化と,大学の授業の英語化が喧しい昨今.
これについて,たまに知り合いの先生(前任大学の方)ともフェイスタイムでお話しさせてもらうことがあるのですが,そこでの議論をここでも書いとこうと思いました.
まず,上記の記事で書いたことをザックリまとめますと以下のようなものになります.
(1)英語教育の強化は,ダメ,ゼッタイ
(2)中途半端な英語教育になってしまうことは火を見るより明らか
(3)他教科の時間を喰ってしまい,悪影響が多い
(4)日本語での教育が疎かになると,思考力が低下する危険性がある
(5)日本語能力が疎かになることで,思考力が低下する危険性がある
というものです.
ついでに言うと,これだけグローバリズムとか,世界を相手に活躍がどーのとか騒がれ,それに乗じて英語・英会話ブームに湧いた十数年(数年ではない.十数年である.もうそろそろ数十年ではないだろうか).
それでも英語を十分に操れない人が多い時点で,英語を流暢に操り話せるようになるためには,教育上の「義務化」以外の何らかの「動機因子」が必要であることは容易に推測できます.
そうしたことをすっぽかしておいて,義務教育としての英語の強化とか,大学の授業を英語でやるとか,完全にイカれている,という主張がその記事でした.
今回の記事でも「大学の授業の英語化」を主なテーマにしてみます.
大前提として,日本の大学事情からしても「日本の大学は日本人のためにある」のです.
しかしながら,私も大学人の一人ですから,より詳細に言うと,「日本の大学は日本語を母語(乃至,第一言語)とする人のためにある」ということにしておきます.
日本人以外でも,第一言語が日本語という人はたくさんいますので.そういう人が高等教育を受けるために,日本の大学があるのです.
各国の「大学」は意識的にしろ無意識的にしろ,作為的にしろ無作為的にしろ,そのようになっていると考えられます.
なぜなら,その国(地域)の未来を背負って立つ人材の育成と陶冶が,大学教育の目的になっているはずだからです.
そうでなければ大学で学び,学ばせる意味が見出せません.
そのような大学の機能から考えてみると,「英語教育の強化」というのは無駄な労力にしか映らないのです.
そもそも,日本の高等教育の歴史を紐解くと,
「西洋の知識を日本語に訳すこと」
が主であったことがわかります.
明治維新の前後がその舞台で,日本の大学もこの頃(1873年:明治6年)に誕生しています.
ただこの「西洋の知識を日本語に訳すこと」なんですけど,「日本の大学教育は西洋学問の翻訳作業で,オリジナリティがない」と揶揄されるところでもあります.
が,それは大学教育を盛り立ててきた先人たちの努力を正統評価しないことになります.
翻訳作業をなめてはいけません.
翻訳作業というのは責任重大な作業であり,価値のある重要な作業なのです.
この翻訳作業において,現在では普通に使っている「科学」とか「経済」とか「自然」といった言葉に息が吹き込まれました.
たしかに,西洋の学問である,西洋哲学や科学,工学といった新しい学問は,それまでの日本にはない魅力的な学問でした.
この西洋学問を広く日本人の中に落としこむことで,日本を強国へと導く道があるはずだと考えた先人たちは,西洋学問を日本語で理解できるように粉骨砕身します.
つまり,海外の優れた学問を日本語で学べる状態へと日本の教育水準を高めることが,高等教育の黎明期であった先輩方の仕事だったのです.
翻訳することの目的とは,ひとえに「後の世の者達のために」だったはずです.
(そりゃ皆が皆とは言いませんけど,概ねそういう気概だったはずです)
※ちなみに当時も,難解で煩雑な翻訳作業をするよりも,
「グローバル化していく19世紀末の世界にあって,日本人に英語教育を施したほうが良いのではないか」
という現在と酷似した議論はもちろんありまして,これについては我らが土佐藩出身の馬場辰猪らが猛烈に反対して今に至ります.この時代,土佐藩は要所要所で良い事してくれています.
それは,日本語によって新たな学問や思想,科学技術を創出することではないでしょうか.日本語による日本語ならではの思想や技術を創り出していくことが,先輩方が夢見たところだったと考えられます.
もちろん,研究の場にいる我々のような者たちの多くは,日本語以外の言語を操れることは大きな武器になりますし,普遍性の高い学術的な発想をするために大事でしょう.
外国語を解することが仕事の一つとも言えるからです.でもこれは仕事だからであって,能力とは直接関係ありません.
学生にとっても,外国語を解読することが学術的な思考力を高めるための “行程” の一つであることも重々承知しています.それは過去記事でも書いてきました.
なぜなら,外国語の文献を読まなければ,外から見た日本のことも分からないわけで,最新の研究は英語論文ですから,それを把握しておくためにも重要です.
しかし,そうした語学力は行程であって “目標” ではないのです.
その目標とは「学術的な思考力を高めること」です.
間違っても「英語で学問できるようになること」ではありませんし,ましてや「英語を使って世界の舞台で活躍できる」ために英語教育を強化するなんぞ笑止千万と言えます.
むしろ私には,当時としては高等な外国語の学問を日本語で学べるように努力してきた方々の想いを踏み躙る行為にしか見えません.
これは先輩方への裏切りです.万死に値します.
日本語で思考し,日本語で解することすら困難な学問をすることが,日本の大学の使命です.
英語だか何だか知りませんが,薄っぺらい母語以外の言語でも解せる程度の学問をするために,日本の大学があるのではありません.
そんなもの,適当な自己啓発スクールでやってくれ,ということです.
※その手のスクールをバカにしているわけではないので念のため.
私の心の奥で湧き出る「反・英語教育強化論」の流れを辿っていくと,どうやらここが源流のようです.
細かい論点は,過去記事である
■英語教育について
をご確認ください.
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