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やっぱり本気で農業のこと(PL480 通称,残飯処理法)

後期の授業が始まったり研究準備が慌ただしかったりと,少し更新が遅くなっておりました.
それに,ついつい体罰問題を先に取り上げてしまいましたが,今回で農業問題に一区切りつけようと思います.

最後は,
「農業問題の源流をたどると,食習慣と食文化,のみならず日本文化への執着と愛着に行きつく」
ということです.

これまでの話を総まとめしながら書いてみたいと思います.

でも触れましたが,農業はその地域・国の文化を担っているものです.

その記事内容の繰り返しになりますが,もう一度おさらいしますと,
文化(culture)は耕作(culture)が語源とされています.
そしてさらにその源を辿れば,「面倒をみる」という意味になります.
 
つまり農業というのは,その国の文化を育み,その国の面倒をみる役割を持っているわけです.

このブログでは上記の記事以外でも至るところで触れていることですが,そういった国の根幹や文化を育む役割がある業界には既得権益があるのです.農家もそれに入ります.
林業,漁業,土木,教育,医療といったことにも同様のことが言えます.

これを分かりやすく解説した書籍に出会いました.三橋貴明 著『国富新論』です.
この夏は「我が意を得たり」のオンパレードでしたが,これもその一つでございます.

三橋氏は,国家には「階層」があり,なかでも農業や土木,医療,教育,防衛といったものは,国家の根幹・基礎を形作る「階層」であり,規制緩和や市場競争といったものに簡単に曝してはいけないものだと説きます.
まったく同感です.

そんな中でも農業は,直接的にはその国の食文化を担っていると言えます.
その国の風土に合わせた作物が育てられ,田園,茶畑,みかん畑といった日本ならではの風景が形作られます.

もちろん,時代の流れとともに農作物が変わっていくのでしょう.ですが,それは国土や食文化に調和したものでなければいけません.
ある日,思いついたように変化させるわけにはいかないのです.

なぜって,農作物は自然を相手にしているわけですから,消費者の都合に合わせて「あらよっと」って感じに方針転換できないからです.

ところが,それをやらかした稀有な国があります.
日本です.

左図を御覧ください.
恐ろしいまでの食生活の変わり様です.
肉類,乳製品,油脂が大幅に増加しています.
なお,このデータだと「小麦」の消費量が増えていないように見えますが,それは1960年以前のデータが農林水産省に無いからです.
あとでご紹介しますが,1960年以前に一大事件が発生しています.
逆に言うと,「その事件以降,この50年間,小麦の消費量が増えているわけではない」という事実は重要なキーワードです.

「経済が豊かになることで,日本の食文化は欧米化した」などと奇妙奇天烈なことを恥ずかしげもなくドヤ顔で唱えている人もいますが,なんで経済が豊かになるとその国の食文化が欧米化するのでしょう?
欧米も経済成長すると,食事が欧米化するのでしょうか?意味不明です.
呆れる理屈ですが,それを信じていた時代があったことは事実なので,それはそれ.

でも,もうそろそろ一区切りつけましょう.経済成長するから食事が欧米化するのではなく,経済成長する過程において,欧米の農産物輸出を押しつけられるから,しかたなく食事が欧米化するのです.
「豊かになることで,欧米の農産物が手に入るようになるから」と考えている人は,気持ちがいいほど素直な方なので,そのまま欧米文化に追従をお願いします.

というか,実際に「欧米の食文化が理想,先進的」とキャンペーンをはっていた時代があったのだそうです.
それを真に受け,本気で欧米の食事に憧れていた人もいるのかな.我々より年配の方々にはご記憶があるのでしょうか?

日本の食文化が欧米化したその正体,それは「PL480」です.
これも以前の記事で触れていますが,ここで詳しく解説しておきましょう. 

PL480 (Public Law 480)についての表向きの解説はWikipediaに掲載されています.
法律の趣旨は以下の様なものです.
「あぁ大変だ.余剰農産物を抱えて困っているアメリカ農家がいるよ.その一方で,食べ物がなくて困っている貧困国があるみたい.そうだ,そんな可哀想な国に,アメリカで余っている農産物を買ってもらおうよ.すごい!みんな揃ってハッピーになる,なんて素晴らしい政策なんだろう!」
という,正義の味方っぽく振る舞っておきながら,実は徹頭徹尾自分の都合でしかないという「アメリカの法則」発動でして,相手国の事情や伝統,文化なんてお構いなしのアメリカらしい法律です.

そのようなわけで,アメリカは国内で売れ残って困っている麦やらトウモロコシやら肉やらを,農家の救済,輸出と称して他国に“押しつけた”時代がありました.それが1950年代です.
これが「PL480」という法律だと知ったのは私も最近ですが,一般には「余剰農産物処理法」として知られています.
通称「残飯処理法」が,案の定,日本に適用されます.敗戦間もない日本は仕方なく受け入れます.

買った物は消費しなければいけませんので,なんとかして麦やら乳製品やらを食べることになります.
でも,日本の食文化が染み込んだ人々が,いきなり洋食なんて受け入れられるわけがありません.
そこでターゲットになったのは「将来の日本人」,おわかりですね.
学校給食で消費することになりました.
パンや脱脂粉乳といったものが日本の給食に登場した理由は,このアメリカの残飯処理のためです.
つまり,アメリカの残飯処理のため,日本は国をあげて食事を洋食化させたわけです.

アメリカの本音は,余剰農産物の処理ではありません.輸出先の国の食料供給バランスをアメリカ依存にさせることです.
食料は生命に直結しますから,一度とりついてしまえば延々とその国の血を吸い続けることができます.ある日突然「輸入やーめた」とは言えないものですから.
このアメリカの作戦は見事に成功したと言っていいでしょう.

農林水産省HPより
それでも国士官僚・政治家は少なからず存在します.昭和51年,米飯給食が始まります.反撃の始まりです.

左図を御覧ください.米飯給食が普及していく様子がうかがえると同時に,昭和51年まで学校給食に米はなく,給食で普通に米が食べられるようになったのは,つい最近のことなのだと思い知らされます.

当時の文部省の通達を,■米飯給食の実施についてでみることができます.
その実施理由に「米飯の正しい食習慣を身につけさす・・」と書いてありますが,鬼気迫るものを感じます.

最近も,■学校における米飯給食の推進についてという通知を出していますが,ここでは明確に食料自給率に言及しています.
分かっている人は分かっているのです.食料自給率,ひいては食料安全保障の問題が,日本の食文化,食習慣と直結していることを.
この点については,農林水産省の■我が国の食料事情に詳しく載っています

むしろ私は当時の文科省の通達に「米飯導入は、食事内容の多様化を図り・・」と表現しているところから,作者の唇を噛む思いが伝わってきます.
なんで稲作文化の日本で米飯導入することが食事内容の多様化なのでしょう.さぞかしこれを書いた人は悔しかったでしょう.そして,米食文化の死守復活を願って書いたことと察します.

日本の食料調達がアメリカ依存になればなるほど,アメリカの言い分を日本は聞くしかない状態を続けることになります.これを日米同盟を確固たるものにするための外交だと断ずるのは危険です.
食料と防衛.国民の生命に直結するこの2つを他国に依存するというのは,正気の沙汰ではありません.
ですが,これを「外交・政治上,仕方がないこと」だとか「メリットもある」だとか,果ては「グローバルを目指す歴史の必然」などと呑気に構えてられる人は幸せでなによりです.

察しの良い方はもう気づいたでしょうが,「PL480」,これは逆立ちして見ても,地球が三角になっても日本の農家を壊滅させる政策です.当時もみんな分かってたはずです. 

日本の国土と自然,技術と気概によって育まれてきた農業が,急激な食生活の洋食化に対応できるわけもなく.
あれよあれよ,という間に米の消費量は減っていきました.
それが左図です.

敗戦国日本は仕方なく「食の欧米化」を受け入れ,当たり前ですが日本で生産される食料が必要とされなくなったのです.
米を作れど,食べてくれない.市場には米が余る.価格が暴落する.ということで減反政策が行われます.

そんなわけで,食料自給率を限りなく100%にしようとする人の選択肢は2つ.
1)穀物輸入量を低下させる
2)輸入している穀物を国内で栽培する

いずれも茨の道ですが,私としては穀物輸入量を低下させる(そして日本食の徹底)という方略が,この国の文化を守ることにもなるのでベターだと考えています.
もともと稲作のノウハウもあるのですから,わざわざアメリカに都合のいい食生活を続ける道を選ぶ理由が見出せません.

農林水産省HPより作成
左の表はヒトが健康に生きていくための栄養バランス(PFC比)を示したものです.
日本の食事がどれほど優れた健康食なのか,お分かりいただけるかと思います.

同時に,こうした食文化を少しずつ蝕んでいくのが,食生活の欧米化であることは明白です.
1980年と2012年のPFCバランスを比べても,少しずつ「欧米化」しているのが見て取れます.

ここまでくると,日本の食文化を守らない理由が見当たりません.

つまり,食料自給率の問題だけでなく,健康問題の観点からも日本の食文化を守るためのキャンペーンをはる必要がありそうです.

ましてやグローバリズムがどうのこうの,TPPがどうのこうのと喧しい昨今ですが.
基準や発想,価値観をグローバルにすることが,どれほど愚かなことなのか,もうそろそろ気がついても良い頃でしょう.他国のことは知ったことではありませんが,少なくとも日本のためにはなりません.

さて,再び農業問題に戻します.まとめていきましょう.

「輸入拒否?でも,ご主人様であるアメリカの要求を突っぱねるのは難しいだろう」
という意見があって然りでしょう.否定はしません.
ならば,政治と消費者に翻弄された農家の所得補償は,倫理的に考えて当然でしょう.むしろ,来るべきアメリカ弱体のXデーまで,なんとかして日本の食文化,伝統文化を引き継ぐためにも最大限の保証が必要です.

「当時は食料に困っていたのだから,この顛末は仕方がないのでは?」
という意見があって然りでしょう.それもそうです.
ならば,食料に余裕が出てくれば輸入を断る気骨が必要です.が,それを日本はせず,逆に減反政策をしました. つまり,農家の機嫌もとり,輸入先の機嫌もとったのです.
ようするに,日本の文化なんてどうでもいい,農業問題と食文化は別問題,と考えていた人が少なくなかったという反省はした方がいいと思います.

「麦の輸入を規制するとパン屋に不利な状況になる.特定の分野を潰しかねない方針はダメだろ」
という意見があって然りでしょう.
ならば,どこかが不利になる状況にもっていく政策自体を否定するのですね.であれば,「農業改革だ.弱い農家は淘汰だ」と声をあげる理由がわかりません.矛盾していることが分かっていますか?パン屋は残してOKで,農家は淘汰されてもOKだという理屈はないのでしょ.

「いやいやいや.市場が求めるものを出すのが農家というビジネスモデルだろう.変化に対応しきれない農家は淘汰されるべきだ」
という意見も認めますよ.私は懐が深いですから.
ならば,日本の食文化,古代から受け継がれている稲作文化を衰退させるという十字架を背負ってください.
そして,トウモロコシ畑や麦畑へと農地転用する農家への交渉と,何年にも渡る栽培ノウハウの研究,その事業費を捻出することが,あなたの進むべき農業対策です.私にはスゲぇ遠回りに見えますが.

「農業の多様化が大事だ.稲作だけでなく,野菜や果物を重視して稼げる農業という視点も大事では」
という意見もくっついてくるでしょう.
ならば,全力でアメリカや中国の靴をなめて生きてください.どっかで戦争するってことになったら,ホイホイついて行きましょう.トヨタやソニーが欲しいって言われたら差し出しましょう.そうすれば,世界同時食糧難といった未曾有の危機に,少しは食べ物を分けてくれるかもしれません.

国内の農家だって,飢饉や食糧難になれば都市部に食料は出しませんからね.第二次大戦の時でもそうでしたから.
自分の家族が飢えるのと,都市部の皆が飢えるのと,天秤にかける必要もありません.そうでしょ?

こういうオプションがあることを踏まえ,改めて農業や農家のことを,どのように考えるのか.
面倒臭く見えてきたでしょ.そうです.面倒臭いのです.

どこかを改善・改革しようとすると,別のどこかが衰退したり不具合を起こす.それが農業問題なのです.
平時の感覚で効率や金儲けを目指せば,国民の生命と安全を脅かすことになる.それが農業問題なのです.

一連の記事で伝えたかったことというのは,農業問題は一筋縄ではいかないということ.
そして,農業問題に取り組む際の判断材料は,正しいとか間違っているとかじゃなくて,この国の文化をどのようにしたいのか,という思想や国家観の問題になることです

どっかの国(フランスだったかな)の諺に「青年の食事を見よ.その国の未来が見える」というものがあるそうです.
よく食習慣や健康問題とからめて使われることが多い諺のような印象ですが,実はこれは農業問題のことでもあります.
食べる物が変われば作るものも変わる.作る物が変われば文化も変わる.文化(culture)は耕作(culture)が語源とされていますからね.

「国体や文化なんて変わってもいいよ」という人を否定はしませんし,少しずつ変わっていくものだという理解でもおりますが,急激に変化することを私は許容できない,それだけのことです.