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人間はスポーツする存在である

前回,最近話題になった, 「オリンピックで負けたのにヘラヘラと「楽しかった」はあり得ない」のはなぜか? と同時に, そうした発言が批判されて然りなのはなぜか? という矛盾した部分を記事にしました. ■ 負けたのに『楽しかった』はダメでしょうけど,けどね. 結構長い記事になってしまったのですが,体育・スポーツというのは私自身の専門でもありますので,ちょっと熱くなってしまうところがあります. 今回は,前回の記事の最後にも取り上げた「人間の活動(存在)そのものがスポーツである」という点です. 今回も長くなることが予想されるので,読み切りやすい,なるべく短い記事になるよう頑張ってみます. 人間の存在そのものがスポーツである・・・ スポーツの魅力とは,スポーツが人間の本質を物語っているものに他ならないからである・・・ 「おいおい,スポーツごときで大きく出たな」 「逆じゃね?人間の様々な活動が,スポーツにも反映されていると考えられないか?」 と思われるかもしれませんし,見方によってはそうなのですが. まぁ.ちょっと大袈裟に言ったほうが読み始めてもらいやすいかな,という部分もなくはないのですけど,そのまま最後まで読んでくれれば幸いです. とは言え,これについて直感的に考えましても,政治・経済や農耕,建築,それに科学といった,現在(有史以来)の人間らしい活動が成立するに先立ち,人類は「スポーツ」をしていたのであろうことは,十分に想像できることでございます. 故に,スポーツから全ての人間らしい営みが始まったとも言えるのではないか,ということも,十分な説得力をもって迎えられることなのではないでしょうか. 詳細はこれから説明しますが,これはヨハン・ホイジンガという著名な歴史家にして哲学者が言っていることを,「 スポーツ 」というものを強調して私なりに拡大解釈したものです. ホイジンガはその主著 「ホモ・ルーデンス」 において,人間が創り上げてきた文化は,すべて「 遊び 」ながら育まれていると言います.「遊び」には文化を創造してゆく機能があるというのです. ところで,このホイジンガの主張を誤解している人もいるので念のため申し添えておくと,人間の文化は「遊び」が出発点,「遊び」が起源である,ということ ではありません (ホイジンガ自

「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.

せっかくだからということで,ソチ五輪シリーズ第三弾. 今日でオリンピックも最終日ですね. 私は行かないのですが,パラリンピック関係者が同僚にいるということもあり,まだまだソチ五輪は注目しているところです. メダルラッシュに湧いた日本人選手,フィギュアの採点問題,森元首相の失言などなど,いろいろあったソチ五輪でしたが,今回の記事ではもうチョット広くオリンピックそのもの,だけでなく「スポーツ」全体に関わることを取り上げてます. ちょうど良い題材が,これもソチ五輪中にあった, 「負けたのにヘラヘラと『楽しかった』はあり得ない」 竹田恒泰氏の五輪選手への「注文」が賛否両論 というやつです. つまり,国費をかけて選手をオリンピックに送り込んでいるのだから,選手はそのことを自覚して行動・発言するべきである,という論旨ですね. ※今回のは長い記事ですので,後日,短めにしたものを書きました. ■ 簡易版・「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね 後述しますが,今回の件で一般世論の反応が健全であることがうかがい知れたので良かったなぁと個人的に思うと同時に,実は竹田恒泰氏のような考え方というのはスポーツ関係者に多いことを(冷静な観点で)知っておいてほしいのです. ネット上にソースが見当たら無いので名前は出しませんが,日本代表選手やその指導者の中には,こうしたことを公の場(学会とか講演会とか)で発言している人も結構いるんです(「ボールを網の中に蹴り入れる競技」なんかでは,この考えは徹底されています). ですので,竹田氏のような考え方というのはスポーツ関係者の中では非常にポピュラーなものなのです. ネットのニュースや取り上げ方をみる限りでは,竹田氏が押され気味のように映るのですが,こうした考え方というのは選手や監督サイドからすると普通に持っている感覚である,ということは頭の片隅においておいてほしいところです. むしろ私がビックリしたのは,「負けたのにヘラヘラと『楽しかった』はあり得ない」という発言に対し,こんなにもたくさんの「批判」のツイートやコメントが出たこと. これはかなり意外でした. ソチ五輪シリーズ第一弾■ いい人達なんだそうです でも出てきた選手達やその関係者が聞いたら,「おいおい,大衆ってこんなに移

例の浅田選手への森元首相の発言

先日に続き,ソチ五輪シリーズ第二弾というところです. 今回は森元首相のフィギュアスケート・浅田真央選手への失言について. ネットニュースを見ている限りでは,予想外に大問題になっているようですので,ボツネタにするつもりだったんですけど再度著すことにした記事です. つまり,ちゃんと水を差しておこうと書いとくことにしました. そのうちページが消えちゃうかもしれないですが,本件についてのニュースサイト,見れるうちは以下を参考にどうぞ. 森元首相 浅田選手は「大事なときに必ず転ぶ」 浅田を「見事にひっくり返った」と森元首相 「がんばってる選手に対してなんて言い草だ!さすが森元首相,失言の王様」 という浅はかな受け取り方をした人もいれば, 「発言の全部を見てみれば,ニュアンスが違ってくる.さすがマスゴミ,切り貼りの王様」 という受け取り方をした方々もたくさんいるようです. アンケートサイトもできちゃうくらいです. 森元首相の発言,どう思った? 本件についてのブログ記事なんかもいろいろあるようです.見れるうちに以下を参照ください. 森元首相による浅田真央選手への「放言」「暴言」。NHK会長の発言と同じ”根っこ”が見え隠れする 森元首相の発言問題からみる,メディアの闇 森元首相「真央は必ず転ぶ」失言批判、メディアの恣意的報道か~趣旨を無視し一部切り取り 森東京五輪組織委員会会長の失言と浅田真央の底力 森元総理の発言報道に激怒して発言全文を読むと、ありゃりゃ??? 森喜朗さん(元首相&東京五輪委員長)、転んだ浅田真央DISって炎上 私としましては, キーワード: マスコミ,自民党,スポーツ報道 ということをもって,うんざりするような話題なので,どうせこうなるだろうと思っていたところ,やっぱりこうなったなという感想です. マスコミが恣意的な切り貼り報道をすることは普通のことですし,むしろそれを商売にしている人達に対し,「そんなことしちゃいけない」などと優等生発言をしたところで仕方ないところです.酪農家に対して「動物を殺しちゃいけない」というようなもんです. マスコミとしてはお金を稼ぐためにやっていることですから,彼らの生活のことも考えてあげなければいけません. ある程度のアホらしさ,クズっぷりを許容してあげる

いい人達なんだそうです

今日はソチ五輪について短く. 私も仕事柄(というか活動領域柄),知り合いの方々がいろいろな立場からソチ五輪に関わっておりまして,その内部事情といいますか,そういう話も聞かせてもらうことがあります. そんな中でも,少し話せる範囲内で. 「怖い奴だと思われているんですが,実は私はいい人なんです」 という決めゼリフで知られる田母神俊雄氏が,東京都知事選挙で落選してしまい気を落としておりました私ですが,同時期より開催されたソチ五輪では日本人選手の快進撃に感嘆しております. まさかここまで活躍してくれるとは予想しておりませんでした. 非常に頼もしい限りでございます. さて,「いい人」の反対はというと,悪い人といいますか,つまり評判が悪い人がいるわけですが,冬季スポーツで「評判が悪い」というと「スノーボード選手」と言われることがあります. ことの発端は前回大会であるバンクーバー五輪において,「例の選手」が身だしなみや態度(ハンセーしてま〜す)がことのほか批判対象になったことにあります. その他のスノーボード選手も似たような身だしなみであったことと,「スノーボード競技」がおかれている状況として,オリンピックやワールドカップに本腰を入れない人が多い(X Gamesという大会の方が有名・格上なため)ことにより「本気度が感じられない」ということも災いして,「スノーボード選手は性格が悪い」ということで波及してしまった経緯があるようです. 大学院の後輩になる人が,この「スノーボード」の選手サポートに関わっておりまして,やはり“そういう”見方をされることを嘆いておりました. 御多分にもれず,やはり皆が皆「例の選手」のような人たちではないわけでして. とは言え,その方も最初はスノーボードの担当になった時に「変な奴らが多いのではないか」と警戒していたようです. が,その方いわく,「彼らの多くがいい人達なんです.北国の人らしいというか,素朴で素直で,こちらの指導したことをちゃんと取り込んでくれるし」とのこと. チャラチャラしてる,とみなされることの多い彼らのファッションにしても, 「有名選手や周りのボーダーがああいうファッションをしているから,憧れや “皆そうだから” という理由で着ている」 とも言っておりました. こういう誤解,というか,例って他にも

基礎演習をなんとかしよう

「どうせ普通のやつと大差ない」と思いつつ,憧れの一瓶を購入. ブレンデッドウイスキー「響 12年」であります. 本日到着,早速開封,おそるおそる試飲. 「!!!!違う・・・」 全然違うのですよ,他のウイスキーとは. ビックリするぐらい旨いのです.1割くらい値段補正がかかってるでしょうが,それでも噂に違わずとびきり旨い!いやこれマジで神がかり的な作品です. さすが日本のウイスキー,全くクセがない.かと言って味が弱いわけではなく,華やで芳醇な味わいは下戸の私でもストレートでいけてしまう. もったいないから水で半分に割ってみましょう.するとどうでしょう.なんとも伸びやかな香りと舌触り.「水で割った」という感じがなく,「それ」ですでに完成している,そう思わせる水割りです. 恐るべし最高峰のブレンデッドウイスキー. よーし!この調子で17年ものも・・・,ウッ..,た,高い....,(もっと出世してからにしよう) ・・・ということを,まずはどうしてもお伝えしたく,思わず書いてしまった上で,以下の記事に入ります. 多くの大学で「初年次教育」と位置づけられて1年生を対象に行われている演習形式の授業があります. たいてい「基礎演習」だとか「入門演習」などと呼ばれている科目です. その目的とは, 大学での学びを有意義なものとするために,大学生として必要なスキルを修得すること(そしてたいてい,文章技術・レポートの書き方,議論の仕方,図書・資料の検索方法を学習する) なんてことになっています. この授業,やり方次第では有意義なものになる(はずな)のですが,どうしても悪い意味で「適当」な扱いになってしまうものとして,業界では結構有名です. やってる我々としても(その全員ではないだろうが),演習としての意義を見出せずにいる.そんなところです. 本学の学生たちからもすこぶる評判が悪く,これは前任校でも似たようなものでした. 実際に聞いてみると, 「子供じゃないんだから,レポートの書き方とか,図書館の使い方(学内案内含む)とか,そんなことのために授業一つ使わなくても・・・」 「結局,あの授業ってなんだったんですか?」 といったようなところ. そうなんですよねぇ,やってる私たち自身がそんな感想を持ってるわけですし. だったらやめろよ

子供のコミュニケーション能力は社会の鏡

うちの大学でも入試が始まりました. 受験生の緊張した面持ちをよそに,私は, 「机の上に置けるものは,黒鉛筆,シャープペンシル,消しゴム・・・・」 と,用意されているセリフを読み上げ, 「解答はじめ」 あとは黙って, 【今年のスキーどうしよっかなぁ...,そろそろブーツ買い替えたほうがいいかなぁ...」 などと教卓を前に仁王立ちして,黙々と思案する時間に耐えるだけです. あまりに暇なので,監督者の誰もがやるのが余った問題冊子の「読書」. 【うへぇ〜.これチョ~むずくネ?分かるのこんなの?】 と思いつつ,体ほぐしに巡回した際に,何人かの受験生の解答を見て【へぇ〜.それが答えなんだぁ.よく知ってるねぇ】と確認し続ける1日であります. さて,前回は,ものづくりの現場における新入社員の基礎学力とコミュニケーション能力の低下を取り上げました. ■ 子供の学力は社会の鏡 特に基礎学力について長々とお話しましたので,今回は「コミュニケーション能力」についても,基礎学力と同様の考察ができるのではないかという記事です. 「若者のコミュニケーション能力が低下している」というのは,太古より人類が嘆き続けている悩みです. 毎度毎度,実感できる水準で低下し続けているのであれば,かれこれ何千年も経っているのですから,人類における「若者」はそろそろ取り返しのつかないほどのキチ◯イになっていてもよさそうです. そうなっていないとすると,この解釈は「世代間ギャップ」という,これまたポピュラーな言葉で説明できそうなのですが,いかがなもんでしょうか. それでもここでは仮に,ある種の「若者のコミュニケーション能力」が低下しているとしましょう.そう思いたくなる時,私もありますし(自身,まだ若者のつもりでいるけど). 我々の頃からも言われていましたが,「元気がない」「能動的でない」「指示待ち族」「模範解答的」というのがステレオタイプでしょうかね. ですが,そうしたコミュニケーション能力の低下というのは,上述した「学力低下」と同様に,日本社会や企業といった「大人」の側のコミュニケーション能力が低下してきていること.言い換えれば, 日本社会全体が,若者をはじめとする人間に求めているコミュニケーション能力(方法)が,これまでとは別のものに変化(シフト)してきていること

子供の学力は社会の鏡

9―3÷1/3+1=? 新入社員の正答率4割 「9―3÷1/3+1」(1/3は、3分の1)の答えは? ある大手自動車部品メーカーが、高卒と大卒の技術者の新入社員をテストしたところ、正答率は4割にとどまった。中部経済連合会が3日に発表した、ものづくりの競争力についての提言に、能力低下の事例として盛り込まれた。  この大手部品メーカーは毎年、同様の算数テストを行っており、1980年代の正答率は9割だった。  基礎学力の低下のほかにも、中経連が会員企業に行った調査によると、企業が学生に求める能力と、実際の能力に差が広がっている。企業が採用の際に重視する能力は「コミュニケーション」がトップの87%。一方、学生に低下を感じるのもコミュニケーションが59%と最も多かった。  こうしたギャップから、特に中小企業で、若手社員の離職につながるケースが増えている。中経連は今後、「ゆとり教育で希薄化した初等教育の充実を図る」「授業にディベートを採用し、コミュニケーション能力を養う」ことなどについて、国や教育機関に改善を求めていく。 (答えは「1」) 朝日新聞社2月4日  前々回の記事, ■ 計算方法が分かれば良い・・・,のかな,どうだろ で取り上げていたこととよく似た事例がニュースになっていました. やっぱり最近の20歳前後の人はこういう傾向にあるのでしょうか? ただ,この事態が件の「ものづくり」の現場において問題になるのかどうか,それは別に分析しなければならないのでしょうけど. 「能力低下の事例として盛り込まれた・・・」と書いていますが,本当に能力が低下しているのかどうか,あと,記事の後半にあるコミュニケーション能力が “養われていない” のかどうか,それは彼らが30歳や50歳になってからでないと分かりませんからね. ある種の学力,とりあえずここでは「基礎学力(計算力)」としておきますが,そうしたものは低下(変化,シフトと言ったほうが適切かもしれないが)している可能性はあります. この点について今回は論じてみましょう. ところで,「コミュニケーション能力の低下」というのは,毎年,毎回,毎時代取り沙汰されることです. 逆に,若者のコミュニケーション能力が上がっているという時代・民族・社会集団を聞いたことがありません. つまり,これは人類の