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基礎演習をなんとかしよう

「どうせ普通のやつと大差ない」と思いつつ,憧れの一瓶を購入.

ブレンデッドウイスキー「響 12年」であります.
本日到着,早速開封,おそるおそる試飲.

「!!!!違う・・・」
全然違うのですよ,他のウイスキーとは.
ビックリするぐらい旨いのです.1割くらい値段補正がかかってるでしょうが,それでも噂に違わずとびきり旨い!いやこれマジで神がかり的な作品です.
さすが日本のウイスキー,全くクセがない.かと言って味が弱いわけではなく,華やで芳醇な味わいは下戸の私でもストレートでいけてしまう.
もったいないから水で半分に割ってみましょう.するとどうでしょう.なんとも伸びやかな香りと舌触り.「水で割った」という感じがなく,「それ」ですでに完成している,そう思わせる水割りです.
恐るべし最高峰のブレンデッドウイスキー.
よーし!この調子で17年ものも・・・,ウッ..,た,高い....,(もっと出世してからにしよう)

・・・ということを,まずはどうしてもお伝えしたく,思わず書いてしまった上で,以下の記事に入ります.


多くの大学で「初年次教育」と位置づけられて1年生を対象に行われている演習形式の授業があります.
たいてい「基礎演習」だとか「入門演習」などと呼ばれている科目です.
その目的とは,
大学での学びを有意義なものとするために,大学生として必要なスキルを修得すること(そしてたいてい,文章技術・レポートの書き方,議論の仕方,図書・資料の検索方法を学習する)
なんてことになっています.

この授業,やり方次第では有意義なものになる(はずな)のですが,どうしても悪い意味で「適当」な扱いになってしまうものとして,業界では結構有名です.
やってる我々としても(その全員ではないだろうが),演習としての意義を見出せずにいる.そんなところです.

本学の学生たちからもすこぶる評判が悪く,これは前任校でも似たようなものでした.
実際に聞いてみると,
「子供じゃないんだから,レポートの書き方とか,図書館の使い方(学内案内含む)とか,そんなことのために授業一つ使わなくても・・・」
「結局,あの授業ってなんだったんですか?」
といったようなところ.

そうなんですよねぇ,やってる私たち自身がそんな感想を持ってるわけですし.

だったらやめろよ,という声が聞こえそうですが,そういうわけにはいかない大人の事情があるのです.
こうした授業の発端というのは,
「最近の学生はレポートすらまともに書けない.議論の仕方を知らない.なに?だったらそれを教えろ,それが大学だろだって?そんなもの図書館に行って自習してから出直しなさい.えっ!図書館の使い方をしらないだと.あちゃ~」
とか,
「◯◯っていう学生いたでしょ.彼,大学をやめるそうです.馴染めなかったようですね.学内に友達がいればなんとかなったのかもしれないんですけどねぇ.友達作りを促進するようなこと,授業でできないですかねぇ」
というところからです.
つまり,学生側からの「文句言う前に,だったら教えろ」という要求もあったのでしょうけど,それ以上に,教員側からの「そういう基本的なことも教えておかないとダメでしょう.授業にならないんだから」という要求もあったためなのです.

文章の書き方を知らない,議論の仕方を知らない,図書館の使い方を知らない,友達の作り方を知らない,だからそれを教えれば良いのではないか.そういう流れです.
ところが,少なくない大学教員は気づいているのですが,上記のことを「それを目的とした授業」として教えることはできないのです.
なぜかというと,これらと大学生活を順風満帆に送ることとは擬似相関だからです.

つまり,「文章術,議論術,図書館の使い方,友人関係がしっかり出来る人は,大学生活を有意義に送れる」というわけではなく,大学生活を通して「文章術,議論術,図書館の使い方,友人関係を学んでいく」ものだからです.
別の例で言えば,足が速く持久力もある人だからサッカー選手になり,遠投力があり腕力も強い人だから野球選手になる,というわけではないことと一緒です.
いずれも,そのスポーツをやっているから足が速く,遠投力がつくわけで,もしくは,足を速くしようとトレーニングし,投球練習に精進するのです.大学の学びも同様です.

ちゃんと書けていないレポートや卒論は明確に減点したり,落とせば良いのです.アカハラだと言われ(脅され)ようが,ダメなものはダメだという授業を展開すると,学生の文章術はついてきます.
まともに走れなければレギュラーになれず,ちゃんと投げられなければ負ける,スポーツ選手がトレーニングするのと一緒です.

もちろん指導も必要でしょう.ですから,ここがダメだと赤ペンで指摘を入れれば良いのです.
私自身,ブログでこれまでにも書いていますが,ネット文書コピペのレポート肯定派です.なぜかというと,学生たちがインターネット上とは言え資料を集めてきたことに違いは無く,作業上のこととしてタイピングを簡略化した.それだけのことだからです.レポートに違いはありません.
ですから,レポートのコピペがダメなのではなく,その内容がダメであることを指摘して,改善するように指示をすればよいわけです.
ただ走るだけではダメで,ドリブルできなきゃいけない.変化球ばかりでは打たれるぞ,という指導と一緒ですよ.

それを面倒がる教員(履修者数が膨大という理由も含む)や,ネットや書籍にある文章を批判的に見れない教員はレポート課題を課さなけれよいのです.
私も履修者が多い授業ではレポートを課しません.見れないからです.
質問カードを書かせて対処しています.例は■質問させるを参照のこと.

議論にしてもそうです.議論できなければ単位を出さなければよいのです.議論させる授業をやりたいのでしょう?であれば,議論できなきゃ単位が出ない.当然の処置です.

そんなことをしていれば,いやでも学生は「なんとかしよう」とします.そうなると図書館を使うでしょう.係員に聞いたり,友人や先輩に聞いたりするでしょう.めでたく図書館の使い方が分かるようになります.
私なんかは,もともと学力レベルが半端無く低かったので(今でもだろうけど),ほぼ毎日図書館で勉強方法を調べながらの学生生活でした(あの大学のレベルなのに).そうしなければついて行けなかった,そいういう危機感がありましたから.
結果,図書館の使い方なんて嫌でも知りますし,裏ワザも覚えます.
※例えば,その大学では枚数制限のあるコピーカードが学生に配られるのですが,それを無限使用できる裏ワザです.コピーカードをカードリーダーに挿入し,まずは必要枚数コピーします.その後,素直に【取り出し】ボタンを押さず,背面の主電源をオフ&オン.すると,コピーカードの使用量がゼロで返ってくる.という誰にも言えない裏ワザがありました(2010年よりシステム変更に伴い実行不可能).【注意】私がやったとは言っていませんよ.

ネットの使い方にしてもそうです.「PubMedとかCiNiiを調べれば,論文らしい論文が引っ張ってこれる」それを正攻法だという姿勢で教えても,学生には伝わりません.
「そのサイトを使えば楽できる」そんな味をしめさせるような授業を行い,必要性を感じさせることです.そのためには,「これは論文として認めない」という冷酷な評価を下さなければ価値を見いだせないのです.

私自身,CiNiiを見つけた時の感動を今でも覚えています(PubMedの日本版がどこかにないか,ずっと探してた).よし,これでコピペが楽になる.という意味でね.でも,そうやって学生の学術的活動は広がっていくんではないでしょうか.
切羽詰まった学生は■【やってはいけない】卒論・ゼミ論を1日で書く方法のような記事を検索するでしょうし,逆に,私みたいな教員であれば,そうした記事に書かれていることの何がダメなのか予め知っているわけですから,ダメなものはダメだと言えばいいのです.

というわけで,大学生活における友人関係というものの位置づけも,学生各位によって明確になってきます.
友達100人できるかな,なんてノリではなくなります.


・・・というようなことを「言える」だけでなく,実際に「やれる」のも本年度からだったのですけどね.
ちょっとキツいかなぁ,かわいそうだなぁ,なんて思うこともありましたが,やらせれば学生はできるもので.
私にできたんだ,うちの学生ができないはずはない.ガッハッハッハ!

今なら笑ってられるんですけど・・・,
去年までは,手紙の書き方とか電話のかけ方,本の読み方(「まずは目次を読んでみましょう・・」など)とかも「基礎演習」で教えていました.
内心,【やべぇ~,この授業やべぇ~よ】と思いつつ,それを全クラス「足並みそろえてやる」というのがその大学の方針でしたので.従っておりました.
3年目だった去年,辞めるつもりだった去年は,それでも結構フリーダムに好き勝手やってる部分もありましたが.

授業は統一されたテキストにより・・・,
えーとですね,驚くことに,レポートの書き方から手紙を書き方,友達作りまでを網羅した大学1年生用のテキストが作成され,販売されているのです.Amazonとかで覗けます.興味のある人はどうぞ.

なぜ “足並みそろえる” のかというと,そうしないと教員によって教え方が違ってくるため不公平になるからです.
「◯◯先生は教えてくれなかった.◯◯先生は楽で面白かったと聞いた」というクレーム(?)予防ですよ.
そうすると,前回の記事■子供のコミュニケーション能力は社会の鏡とつながってきましたね.
そうです.諸悪の根源はこうした思想です.

最後に,基礎演習そのものを私は否定しているわけではないので,今年できなかったことを書いておこうと思います.
1年目の今年は守りに入っていましたので.でも,どうやら結構自由にできるんだな,ということが分かってきたので,2年目は・・・,

何か一つのテーマを徹底的に掘り下げるトレーニング

ということをしてみようと思います.
え?それすらやってなかったのか.って?
さておき,
アイスブレイクとか学内設備の紹介とか,はっきり言ってどうでもいいことだということが5年間の教員経験(プラス,自分の学生経験)から導き出されたことです.
あと,実は議論,ディスカッションというのもクセモノです.
下手の考え休むに似たり,とは言い過ぎですが,議論するための力(事前知識,ルール)がないままに実施しても,昼下がりのカフェでの談笑と同レベルになってしまいます.
「分からなくても,とりあえず発言することが大事」だなんて,バカバカしくて指導したくないですから.分からないなら黙ってろ,これが私流.よし,それでいこう.

調べてきた内容について,さらに調べる,それをさらに調べる,もっと調べる.
それを繰り返すこと.これなら,嫌でも図書館に行くでしょうし,調べ方を調べるでしょう.きっと友達とも議論するはず(あの先生ウゼー,っていうのも含め).それが真っ当な大学生の議論の一歩です.

これこそが大学生に必要な能力,いえ,「手順」ですから.