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子供のコミュニケーション能力は社会の鏡
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うちの大学でも入試が始まりました.
受験生の緊張した面持ちをよそに,私は,
「机の上に置けるものは,黒鉛筆,シャープペンシル,消しゴム・・・・」
と,用意されているセリフを読み上げ,
「解答はじめ」
あとは黙って,
【今年のスキーどうしよっかなぁ...,そろそろブーツ買い替えたほうがいいかなぁ...」
などと教卓を前に仁王立ちして,黙々と思案する時間に耐えるだけです.
あまりに暇なので,監督者の誰もがやるのが余った問題冊子の「読書」.
【うへぇ〜.これチョ~むずくネ?分かるのこんなの?】
と思いつつ,体ほぐしに巡回した際に,何人かの受験生の解答を見て【へぇ〜.それが答えなんだぁ.よく知ってるねぇ】と確認し続ける1日であります.
さて,前回は,ものづくりの現場における新入社員の基礎学力とコミュニケーション能力の低下を取り上げました.
■子供の学力は社会の鏡
特に基礎学力について長々とお話しましたので,今回は「コミュニケーション能力」についても,基礎学力と同様の考察ができるのではないかという記事です.
「若者のコミュニケーション能力が低下している」というのは,太古より人類が嘆き続けている悩みです.
毎度毎度,実感できる水準で低下し続けているのであれば,かれこれ何千年も経っているのですから,人類における「若者」はそろそろ取り返しのつかないほどのキチ◯イになっていてもよさそうです.
そうなっていないとすると,この解釈は「世代間ギャップ」という,これまたポピュラーな言葉で説明できそうなのですが,いかがなもんでしょうか.
それでもここでは仮に,ある種の「若者のコミュニケーション能力」が低下しているとしましょう.そう思いたくなる時,私もありますし(自身,まだ若者のつもりでいるけど).
我々の頃からも言われていましたが,「元気がない」「能動的でない」「指示待ち族」「模範解答的」というのがステレオタイプでしょうかね.
ですが,そうしたコミュニケーション能力の低下というのは,上述した「学力低下」と同様に,日本社会や企業といった「大人」の側のコミュニケーション能力が低下してきていること.言い換えれば,日本社会全体が,若者をはじめとする人間に求めているコミュニケーション能力(方法)が,これまでとは別のものに変化(シフト)してきていることの帰結と考えられなくもないのです.
こうした点を炙り出したのが押井守監督の「スカイ・クロラ」なのではないかと考えているのですが,その詳細は,■「スカイ・クロラ」小説と映画を比較してみたを読んでください.
先に結論を言っておくと,
これについては,ここ最近の流れとは考えていません.戦後,ずっとそうだったと私は思っておりまして,その結果がここにきて滲出していると考えております.
ちょうど就職活動が始まった大学3年生.ゼミの学生からも,
「実際のところ,コミュニケーション能力ってなんですかね?」
という質問が出ていました.良い質問です.
「相手に自分の言いたいことを伝える力ですか?」
「問題なく交流を進める力ですか?」
などと聞いてきてましたが,それはチョットしっくりこないですね.
やっぱり,失敗せずに,誰も傷つかずに,という視点が強いのだと感じました.
つまり,彼らのコミュニケーションにおけるデフォルト設定というのは「誰からもイチャモン,クレームがつかない話し方」というものである可能性が高いのです.
ですから,教育的指導ということで説明したのが,
「様々な人との交流(やりとり)を,問題を起こさず進めていく能力ではなく,問題が発生した時にそれを乗り切る能力のことだよ」
というものでした.
この考え方からすると,たしかにコミュニケーション能力は低下しているのだと思われます.“若者の” ではなく,社会全体が.
(よって,私が指導した「問題が発生した時にそれを乗り切る能力」をつけても,現代日本社会では評価されない可能性があるということです.H君すまんね)
コミュニケーション能力が低下していることを示す典型なのが,最近ニュースになっていたテレビドラマ「明日,ママがいない」とか村上春樹氏の小説への批判(中頓別町のタバコのポイ捨て)です.(靖国参拝とか従軍慰安婦もそうなんですが,ややこしくなるから割愛)
いるでしょ.「クレームが出ている」ということを,やけに気にする上司や組織.
多くの場合,そいういうのって有能な人物や組織とは評価できないですよね.お下品な言葉で言えば,ケツの穴が小せえと評されます.
だって,クレームの有無と物事の正否は別ですから.
実は,冒頭の大学入試の話と無関係ではありません.
大学内部,つまり身内の入試ではそれほどでもないですが(最近は“それほど”になってきたと年配の先生方は言うけど・・),特にセンター試験などでは監督者への要求が非常に機械的なのです.笑っちゃうくらいに.
気分が悪そうな受験生がいても,「大丈夫?」などと声をかけてはいけません.特定の受験者へのエコひいきになるからです.この場合,倒れたり嘔吐といった誰もが「大変だ」と認識できる事態になってから対処するのが正解です.
これは,全国一律・一斉,完全なる公平さを謳うことによって発生した現象です.
(そうした厳格さを求める国民性が,さまざまな “日本発の独特な” テクノロジーを生むというのが,前回の記事の話だったけど)
つまり,多くの不特定多数の人が交わる場であり,且つ,様々な不測の事態が起こりうる場であるにも関わらず,そうした場においても絶対に失敗しないこと,そして,誰もが傷つかない(クレームがこない)ことの両輪を追求した総本山,それがセンター試験です.
たしかに,その若者の人生を左右するとも言われる大学入試やセンター試験でありますから,円滑に運営するために「完璧」を求めることは褒められることではありますが,それも程度によります.
もうここまで来ると,どういった場合にどう行動すればいいのか?どの対処が正解か?なんて把握しきれません.
よって,とりあえず出たとこ勝負の気持ちで挑み,結果,何もなければラッキー,不測の事態が起こったら「周知徹底しておりませんでした.申し訳ございません」と謝るしかないと考えるのみでございます.
※これまた適切なクレーム対応と謝罪方法というマニュアルにそって.
とまぁ,センター試験や大学入試なんかが典型ですが,それだけではなく,社会全体の流れとしてマニュアル絶対主義,公平さ(同一条件・環境)を提供することへの執着があるわけです.
そんなような社会に新規参入していく若者からすると,その社会で認められるためには,当然のことながらマニュアルにそった模範解答のようなコミュニケーション能力を理想とし,鍛えるでしょう.
だって,クレームに追われ,失言で揚げ足を取られ,それに適切な対応をしたかではなく,事前に予期できなかったのかが問われる「大人」を見ていたら,子供のコミュニケーション能力もそちらにシフトするというものです.
それが若者のコミュニケーション能力が低下していると評されることの正体ではないでしょうか.
私はなにも「相手や世の中のことを考えず,各々が言いたいことを勝手気ままに好き放題言い散らかせば良い」などと言っているのではありません.
人間というのは,存在している限り誰かに迷惑をかけているものです.
大事なのは,そのような中にあって,いざという時にその場でどのような振る舞いができるのか,ということが問われているのではないだろうか?ということ,そして,それこそがコミュニケーション能力と呼ばれるものではないかということなのです.
受験生の緊張した面持ちをよそに,私は,
「机の上に置けるものは,黒鉛筆,シャープペンシル,消しゴム・・・・」
と,用意されているセリフを読み上げ,
「解答はじめ」
あとは黙って,
【今年のスキーどうしよっかなぁ...,そろそろブーツ買い替えたほうがいいかなぁ...」
などと教卓を前に仁王立ちして,黙々と思案する時間に耐えるだけです.
あまりに暇なので,監督者の誰もがやるのが余った問題冊子の「読書」.
【うへぇ〜.これチョ~むずくネ?分かるのこんなの?】
と思いつつ,体ほぐしに巡回した際に,何人かの受験生の解答を見て【へぇ〜.それが答えなんだぁ.よく知ってるねぇ】と確認し続ける1日であります.
さて,前回は,ものづくりの現場における新入社員の基礎学力とコミュニケーション能力の低下を取り上げました.
■子供の学力は社会の鏡
特に基礎学力について長々とお話しましたので,今回は「コミュニケーション能力」についても,基礎学力と同様の考察ができるのではないかという記事です.
「若者のコミュニケーション能力が低下している」というのは,太古より人類が嘆き続けている悩みです.
毎度毎度,実感できる水準で低下し続けているのであれば,かれこれ何千年も経っているのですから,人類における「若者」はそろそろ取り返しのつかないほどのキチ◯イになっていてもよさそうです.
そうなっていないとすると,この解釈は「世代間ギャップ」という,これまたポピュラーな言葉で説明できそうなのですが,いかがなもんでしょうか.
それでもここでは仮に,ある種の「若者のコミュニケーション能力」が低下しているとしましょう.そう思いたくなる時,私もありますし(自身,まだ若者のつもりでいるけど).
我々の頃からも言われていましたが,「元気がない」「能動的でない」「指示待ち族」「模範解答的」というのがステレオタイプでしょうかね.
ですが,そうしたコミュニケーション能力の低下というのは,上述した「学力低下」と同様に,日本社会や企業といった「大人」の側のコミュニケーション能力が低下してきていること.言い換えれば,日本社会全体が,若者をはじめとする人間に求めているコミュニケーション能力(方法)が,これまでとは別のものに変化(シフト)してきていることの帰結と考えられなくもないのです.
こうした点を炙り出したのが押井守監督の「スカイ・クロラ」なのではないかと考えているのですが,その詳細は,■「スカイ・クロラ」小説と映画を比較してみたを読んでください.
先に結論を言っておくと,
これまで,失敗しない方略を選ぶこと,誰も傷つかない関わり方が大事だということを殊更説いてきたにも関わらず,今更アントニオ猪木バリに「夢をもて.バカになれ.元気があれば何でもできる」と言われても参っちゃうということです.
これについては,ここ最近の流れとは考えていません.戦後,ずっとそうだったと私は思っておりまして,その結果がここにきて滲出していると考えております.
ちょうど就職活動が始まった大学3年生.ゼミの学生からも,
「実際のところ,コミュニケーション能力ってなんですかね?」
という質問が出ていました.良い質問です.
「相手に自分の言いたいことを伝える力ですか?」
「問題なく交流を進める力ですか?」
などと聞いてきてましたが,それはチョットしっくりこないですね.
やっぱり,失敗せずに,誰も傷つかずに,という視点が強いのだと感じました.
つまり,彼らのコミュニケーションにおけるデフォルト設定というのは「誰からもイチャモン,クレームがつかない話し方」というものである可能性が高いのです.
ですから,教育的指導ということで説明したのが,
「様々な人との交流(やりとり)を,問題を起こさず進めていく能力ではなく,問題が発生した時にそれを乗り切る能力のことだよ」
というものでした.
この考え方からすると,たしかにコミュニケーション能力は低下しているのだと思われます.“若者の” ではなく,社会全体が.
(よって,私が指導した「問題が発生した時にそれを乗り切る能力」をつけても,現代日本社会では評価されない可能性があるということです.H君すまんね)
コミュニケーション能力が低下していることを示す典型なのが,最近ニュースになっていたテレビドラマ「明日,ママがいない」とか村上春樹氏の小説への批判(中頓別町のタバコのポイ捨て)です.(靖国参拝とか従軍慰安婦もそうなんですが,ややこしくなるから割愛)
その特徴として,とにかくまずは「クレーム」がクローズアップされるのです.この件,調べてみるに,両者に何らかの問題があったことはたしかでしょう.軽率な企画や著述だったのかもしれません.
でも,こうしたことに対し,この日本社会は「クレームが出ている」という点を大々的に報じ,その「クレームが出ている」ということを論議してしまうのです.
つまり,「クレームが出ていること(それそのもの)が問題だ」ということで,このことについて賛否の論議が始まるわけです.
ドラマや小説といった「作品の出来」の話ではないのです.
いるでしょ.「クレームが出ている」ということを,やけに気にする上司や組織.
多くの場合,そいういうのって有能な人物や組織とは評価できないですよね.お下品な言葉で言えば,ケツの穴が小せえと評されます.
だって,クレームの有無と物事の正否は別ですから.
「傷ついた人がいるのだから,それを取り上げることは大事なのではないか?」
という声もあるでしょう.
でも,芸術や美術作品というものは往々にして特定の人に損害を与えるものです.賞賛と罵倒を浴びながら発展していくのがこの分野です.
でもここで問題にしたいのは,件のドラマや小説の良し悪しではなく,「傷ついた人がいるから・・・,」ということ “そのもの” を問題視して議論を始めていたら,突き詰めていったその先にあるテーマというのは,
つまりこういうことです.
人と人との交流,世に出す芸術作品,公的な発言・発信などなど,こうしたものには総じて “誰も傷つかない適切な加減”というものがあって,人は,それを正確に選択できるか否かが問われている.それがコミュニケーション能力だ.
ということを,日本社会が了解しつつあることを示唆しているのです.
これは,私からすれば「コミュニケーション」の放棄です.誰からもイチャモンがつかないことを目指すということは,そういうことだからです.
日本社会がコミュニケーションを放棄することを推奨・邁進している流れのただ中にあって,若者のコミュニケーション能力の不足を嘆くのは,これまた学力低下と同様にシュールな状況と言えるでしょう.
こんなことを言うと,しょうもない犯人探しが始まります.でも,ネットの影響とか,日教組の影響とか,メディアが悪いなどと,どこか特定の領域に責任や原因があるわけではありません.ただなんとなく,皆が「快」と感じる方向に進んできた,そして,失敗や誰かを傷つけることを極度に「不快」としてきた,その結果のように思います.
でも,芸術や美術作品というものは往々にして特定の人に損害を与えるものです.賞賛と罵倒を浴びながら発展していくのがこの分野です.
でもここで問題にしたいのは,件のドラマや小説の良し悪しではなく,「傷ついた人がいるから・・・,」ということ “そのもの” を問題視して議論を始めていたら,突き詰めていったその先にあるテーマというのは,
では,誰も傷つかずに済む方略とはなんでしょうかというものになることです.
つまりこういうことです.
人と人との交流,世に出す芸術作品,公的な発言・発信などなど,こうしたものには総じて “誰も傷つかない適切な加減”というものがあって,人は,それを正確に選択できるか否かが問われている.それがコミュニケーション能力だ.
ということを,日本社会が了解しつつあることを示唆しているのです.
これは,私からすれば「コミュニケーション」の放棄です.誰からもイチャモンがつかないことを目指すということは,そういうことだからです.
日本社会がコミュニケーションを放棄することを推奨・邁進している流れのただ中にあって,若者のコミュニケーション能力の不足を嘆くのは,これまた学力低下と同様にシュールな状況と言えるでしょう.
こんなことを言うと,しょうもない犯人探しが始まります.でも,ネットの影響とか,日教組の影響とか,メディアが悪いなどと,どこか特定の領域に責任や原因があるわけではありません.ただなんとなく,皆が「快」と感じる方向に進んできた,そして,失敗や誰かを傷つけることを極度に「不快」としてきた,その結果のように思います.
実は,冒頭の大学入試の話と無関係ではありません.
大学内部,つまり身内の入試ではそれほどでもないですが(最近は“それほど”になってきたと年配の先生方は言うけど・・),特にセンター試験などでは監督者への要求が非常に機械的なのです.笑っちゃうくらいに.
気分が悪そうな受験生がいても,「大丈夫?」などと声をかけてはいけません.特定の受験者へのエコひいきになるからです.この場合,倒れたり嘔吐といった誰もが「大変だ」と認識できる事態になってから対処するのが正解です.
これは,全国一律・一斉,完全なる公平さを謳うことによって発生した現象です.
(そうした厳格さを求める国民性が,さまざまな “日本発の独特な” テクノロジーを生むというのが,前回の記事の話だったけど)
つまり,多くの不特定多数の人が交わる場であり,且つ,様々な不測の事態が起こりうる場であるにも関わらず,そうした場においても絶対に失敗しないこと,そして,誰もが傷つかない(クレームがこない)ことの両輪を追求した総本山,それがセンター試験です.
たしかに,その若者の人生を左右するとも言われる大学入試やセンター試験でありますから,円滑に運営するために「完璧」を求めることは褒められることではありますが,それも程度によります.
もうここまで来ると,どういった場合にどう行動すればいいのか?どの対処が正解か?なんて把握しきれません.
よって,とりあえず出たとこ勝負の気持ちで挑み,結果,何もなければラッキー,不測の事態が起こったら「周知徹底しておりませんでした.申し訳ございません」と謝るしかないと考えるのみでございます.
※これまた適切なクレーム対応と謝罪方法というマニュアルにそって.
とまぁ,センター試験や大学入試なんかが典型ですが,それだけではなく,社会全体の流れとしてマニュアル絶対主義,公平さ(同一条件・環境)を提供することへの執着があるわけです.
そんなような社会に新規参入していく若者からすると,その社会で認められるためには,当然のことながらマニュアルにそった模範解答のようなコミュニケーション能力を理想とし,鍛えるでしょう.
だって,クレームに追われ,失言で揚げ足を取られ,それに適切な対応をしたかではなく,事前に予期できなかったのかが問われる「大人」を見ていたら,子供のコミュニケーション能力もそちらにシフトするというものです.
それが若者のコミュニケーション能力が低下していると評されることの正体ではないでしょうか.
私はなにも「相手や世の中のことを考えず,各々が言いたいことを勝手気ままに好き放題言い散らかせば良い」などと言っているのではありません.
人間というのは,存在している限り誰かに迷惑をかけているものです.
大事なのは,そのような中にあって,いざという時にその場でどのような振る舞いができるのか,ということが問われているのではないだろうか?ということ,そして,それこそがコミュニケーション能力と呼ばれるものではないかということなのです.