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厄介な教員は切り捨てても良いか?

この記事は,ちょっと前に書いている
危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」
の続編みたいなものです.
危ない大学ほど「厄介な教員」が増加する傾向にあるので,その傾向と対策をご紹介したものです.

これについては,「だったら,そんな厄介な教員は切り捨ててしまえばいいじゃないか」と思われたかもしれません.
でも,そういうわけにはいかないのが教育現場ですので,そこらへんのことを詳しく述べておこうというわけです.

厄介な教員は切り捨てても良いか?
ダメです.
もちろん,この手の記事では毎度毎度のことですが,「程度の問題」ではあります.
ですが,そうした業務に支障が出るような教員であっても,「あぁ,こいつ邪魔だから」と言って切り捨ててよいかと言えば,それはやっぱりダメなのです.

なぜか?
一番大きい理由としては,「大学教育」という場において,厄介な教員という存在が本当にネガティブな存在としてだけで評価されていいものなのか? これが甚だ疑問であるから,ということを挙げておきましょう.

大学という場には様々な学問領域にいる教員が集まっています.
こうした様々な学問領域を研究する教員から,学生はモノの考え方を学ぶのが大学というところなのですが.
教育の難しいところは「学生をこういう状態にさせたら成功」というものが無い,乃至,卒業させる段階では未知数であるところにあります.
※これは大学教育に限らず,教育業界全般に言えると思います.

それ故,大学の教員は,自分が研究してきたこと,その研究方法,その研究領域における哲学・思想を学生に伝えることしかできません.
こういうのはよく,「ノコギリや金槌を渡して,その使い方を教えることはできるけど,それで何を作ったら良いのかは教えられない」というような比喩で表現されますが,まさにそれです.
もちろん,師事している教員が作った作品をコピーして自分の手で作ってみる,というのもありでしょうし,実際のところそれがゼミと呼ばれる授業なのかもしれません.
ですが,いつかは自分の手で自分だけの作品を作れるようになってもらうのが大学を卒業するということです.
※私個人的な現在の大学教育への不満を一つ言わせてもらうと,作品や完成品に関するウンチクはいろいろ勉強させているけど,道具の使い方や道具の存在を知らずに卒業させる場合が多いのではないかというところです.が,まあこれについては機会を改めます.

ですから,ある一部の人々にとっては「厄介な教員」であっても,別の人々からすれば「魅力的な教員」である,という状況は常にあり得ます.
特に一般的なものとしては,学生から見た教員と,教員間における教員の評価はかなり違ったものになる,ということです.
学生からすれば優しく朗らか教員に見えてもも,教員間ではいい加減で業務に支障をきたす教員,なんてことはよくあるでしょう.
逆に,教員間では頼れるタフマンであっても,学生から見れば融通の効かない厳しい教員,なんてことはよく見られる状況だと思います.

後者については,実際に私が母校での教育実習で目の当たりにしたことです.
生徒時代には苦手としていたその教員は,実は教員間や管理職との仲介役を勤めており,生徒に厳しく当たる役も進んで買って出ていたことを教育実習で知ることになります.
普通,教員は生徒に厳しく当たることを嫌がります.生徒と衝突することはエネルギーがいりますし,望むところではないからです.それでも教育である以上,厳しく当たらなければいけない時があります.
そうした役を率先して引き受けていたら,そりゃ生徒からは嫌がられる存在にはなるでしょう.ですが,その教員がいなければ学校としての秩序管理が滞ってしまうのです.

これは分かりやすく一般的なケースかもしれませんが,もっとレアなケースであっても重要です.周囲の圧倒的大多数から嫌われていても,ごく少数,ごく一部において教育的な価値がある教員はいるものです.
そうした教員を「厄介者だから」とか「無能だから」と切り捨ててしまうことは,すでにその組織自らが「教育機関」であることを捨てているに等しい.そう思います.
教育現場において各員が成している役割や仕事というのは,そんなに簡単に定量化したり客観評価できるようなものではありません.

ところが,そうした教員を「厄介者だから」と切り捨て始めたのが昨今の大学のようです.
理由は以前の記事でも説明しましたが,経営や運営に余裕がない大学(多くの場合,「危ない大学」)は,なんとかして教職員を一手に統率しようと目論むからです.学内外で評判が良くない教員は切り捨ててしまった方が何かと安全で効率的と考えることに起因します.

運営側からすれば,「まともな教員だけ残して経営すれば安全だ」という狙いかもしれません.
しかし,そんな「厄介者を切り捨てる大学」に奉職している教職員からしたら,「明日は我が身」と思うようになります.
厄介な教員であっても簡単に切り捨ててはいけない理由の二つ目はそれに端を発するもので,大学全体のパフォーマンスに影響するということです.

仮に厄介者ランキングというのがあって,レベルA(優秀)以降,B,C,D(超厄介)が存在するとします.
ある時,大学がレベルDを切り捨てると,次はレベルCの教員たちがビビり始めますよね(自身の立場を自覚できていたらの話ですけど).
レベルCの教員たちは何をするかというと,自分自身をレベルAは無理でもレベルBの教員たちと同等レベルに見せるように努力・・・,すればいいのですが,世の中そんなに甘くないことを知っているのが大学教員ですので,レベルBの足を引っ張ろうとします.もっとも頻発するのは,ミスやトラブルを誘発させる行為です.

レベルCが目論んでいるのは,自身の評価アップではなく周囲の評価ダウンです.そっちの方が確実性が高いですし,「あいつも私と同じミスをしているぅ〜」っていう訴えの方が効果的で明確だからです.
なぜかって言うと,評価が半年や単年度,イベント毎といった非常に短期間でワンポイントのものだからです.
評価アップをするためには時間がかかりますからね.即効性のある評価ダウン工作の方が好まれるのだと思います.

「なんて非建設的なことをしてんだよ・・・」って思われた方.はい.とても非建設的です.とてもじゃないけど大学教育どころではありません.かくしてその大学では,高等教育っぽいパッケージに包まれた昼ドラが展開されることになります.全体のパフォーマンスは下がりまくりです.運営側の思惑とは裏腹に.

こういう状況は早く是正していかなくちゃいけないなぁって,今は当事者じゃない私は少しだけ気にしているところです.

とは言え,「切り捨ててしまってもいいんじゃないか」と言いたくなる大学教員はいるわけでして.
もし「切り捨ててもよい教員」という存在がいるとすれば,大学教育を成し得ていない教員,それに逆行している教員であると言えるでしょう.
具体的には,各学問分野における学術的な規範・ルールに則った健康的で建設的な議論ができない教員です.


「じゃあ,大学教育とは何なのか?」についての記事は
大学について
大学について2


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