2015年3月26日木曜日

高校で得てほしいこと

前回は私の母校・黄柳野高校の宣伝のような文章でしたので,今回はそこで省略していた話をしたいと思います.
今月で高校を卒業する生徒,来月から大学生になる学生もいることでしょう.例えそうした皆さんであっても「高校で学ぶべきこと」を伝えておきたいのです.
つまりそれは「高校を出た者が頭の片隅に置いといてほしいこと」です.

前回の記事では,私の母校・黄柳野高校で学べることはこれだ,ということで以下のようにまとめました.
自分にとって都合の良い事は,必ずしも他者にとって都合の良い事ではない.ということを実生活を通してその身に刻むこと.そして,「ルール」や「権利」といった建前論を振りかざした生活では八方塞がりになっていく「実生活」の中において,それでも自分が自由になるにはどうすれば良いのか?
ですが,これは実のところ「学校」という場であればどんな学校でも学ぶべきことです.それは小学校であっても,中学,高校であっても同様です.
ただ,ここ最近の学校現場の話を聞いておりますと,上記のことが学びにくくなっているのではないか,そういう危惧があります.
※それだけに,現在の日本に黄柳野高校の存在価値は高いというのが前回の記事.

これをもうちょっと普遍的な形で言うと,学校ではある一定のルールのもとで勉強させ,自分達(生徒)に権利があることを謳いはします.しかし,こうしたルールや権利というのは必ずしも自分達にとってポジティブに機能するわけではなく,結局は他者との折り合いをつける中において用いる手段であり,道具なのだということを学ぶのが学校ということです.

「なぜ法律のとおりに事が進まないんだ」とか,「私には権利があるはずだ」という訴えをよく耳にしますが,そうしたことをあまり主張し過ぎる人のことをこの社会では何と呼ぶかというと,それは「ガキ」であり「子供」です.
これはルールや権利に価値が無いと言っているわけではありません.そうした画一的なモノの見方を改めさせることが,少なくともこの国の学校が成すべき仕事だと思うのです.こうしたガキや子供を大人にするのが学校の重要な使命の一つではないでしょうか.

“学力の向上” という知識の伝達も重要な学校の役割ではありますが,それは家庭教師や塾でも十分機能するでしょう.学校はそれだけのためにあるわけではない,つまりは,学校の存在価値は上記のようなことを学ばせるところにあると思うのです.

このような「世の中の不思議」に興味をもった学生は,いよいよ大学で学ぶべきなのです.
自然の脅威に興味を持ったなら自然科学を,社会の複雑さに興味を持ったのなら社会学を専攻することになります.
大学で効果的な勉強をしてもらうためには,物事は多面的で矛盾がたくさんあるものだ,という態度と姿勢であることが大事になってくるのです.

つまり,「学校では国民として必要十分な知識や技能を身につけるため,校則(拘束)がかかった状態で「常識的なモノ」を勉強してきてもらったが,実はそうした「常識的なモノ」というのは真理ではなく,常に疑ってかからなければいけないものであるため,今後はそれを疑うための「モノの考え方」,真理を探求するための「モノの考え方」を身につけてもらう」というのが大学教育なのです.
「教科書を信じるのが学校,教科書を疑うのが大学」と言ってもいいでしょう.

そうすると「だから大学は就職予備校になってはいけないのだ」とか,「教科書を信じたままエリートや知識人になることほど社会に害を成すことはない」という話をしたくなってしまいますが,今回はそれは省きます.本文末に関連記事を置いていますので,そちらをご参照ください.

前回の記事で引用した福田恆存 著『人間・この劇的なるもの』の文章を,もう一度以下に示します.学校教育を考える上で重要な示唆を含んでいるからです.
真の意味における自由とは,全体の中にあって,適切な位置を占める能力のことである.全体を否定する個性に自由はない.
多くの人は「自由」が好きです.最近(昔からだろうけど)の学校では自由を謳うことも多くなりました.
ですが,この自由は疑ってかからなければなりません.

そもそも “子供が思いつくような自由” など存在しないという態度でかからなければいけないように思います.それが学校の,そして教師の務めかもしれません.
そのことを教えるのは家庭では難しいかもしれないからです.自由を阻害する他者としての要素が強い教師であるからこそ,その役回りができるのかもしれません.

自由を阻害するのは教師だけではないでしょう.クラスの同級生,先輩・後輩,事務員などなど,そうした自由を阻害する他者を設定できる空間が学校なのです.
子供が様々な「他者」と関わる機会が減ってきていると言われる現在,学校が果たすべき役割は大きくなっていると言えるのではないでしょうか.

その役割とはつまり,誤解を恐れずに言えば「生徒の自由を阻害する」という役割です.
そして,教師に求められる技能とは「自由が阻害された中において,それでもその生徒が自由を得るための力」をトレーニングさせることではないかと思うのです.
それが福田の言う「適切な位置を占める能力」なのかもしれません.

以前,ある人(教員志望の人)が私に尋ねてきたことがあります.
「人は努力しても報われるわけではない.これを子供に教えることはダメなんでしょうか?」
重要なことだから教えるべきだと答えました.当然,どのように教えるのかという伝え方の問題になるでしょうが,これは決して悪い教育ではないと思います.
むしろ,人は努力すれば報われるということを本気で信じる人が大量発生することほど地獄な社会はありません.

さらに福田は言います(『人間の生き方,ものの考え方』より).
自分が何かをやりたいと思うとき,それを邪魔するもの,つまり壁は必ずあります.規則も壁であり,いわゆる交通道徳のようなものも壁であります.すべて壁ならざるはないのです.―中略― その時,私たちはいろいろな工夫をして壁の向うへ行こうという努力をする.それが一種の積極的な自由なのですが,今の人びとは,壁のない状態を作るのが自由だと考えているのではないでしょうか.
そのようなわけで,現在の教育機関,こと学校は自由になりましたが,かえって生徒の自由はなくなっているという危惧があります.
学校は,生徒に “自分が全体の中のどこに位置していて,どのように振る舞うことが適切なのか” ということを学ばせ,“そしてそれこそが実は自身の自由を得ることにつながるのだ” ということを,その時には自覚できないにしても,その身に刻ませることが大事なのではないかと思うのです.


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