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こんなパンフレットの大学は・・,おっと危ない

このブログにおける「こんな◯◯な大学シリーズ」を楽しんでいる人に送る記事です. そんなニュースがありました↓ ので,ちゃんと反応しておきたいと思います. ■ これが「大学案内」とは まるでファッション誌「近畿大学案内」 (Yahoo!ニュース:産経新聞) 以下,記事より引用. まるでファッション誌-。近畿大学(大阪府東大阪市)が大学案内を一新させ、話題を集めている。これまで多くを占めていた各学部のカリキュラムや研究内容はほとんど掲載されておらず、学生たちのファッションや部屋をスナップ写真で紹介し、“おしゃれなキャンパスライフ”を前面に押し出す内容になっている。 とのこと.やはりこうなって来るのですね. ※ちなみに,昨今の大学パンフレットを憂いた過去記事はこちら↓ ■ こんなパンフレットの大学は危ない  なんですけど,それを凌駕する大学パンフレットが新聞記事になっているというわけです. 記事中には, これまでの形式を打ち破った方法に、受け入れてもらえるかなどの不安もあったという。しかし、大学に寄せられている声は、「見やすい」「おしゃれ」など、好意的なものが多く、担当者はほっと胸をなで下ろしている。 ということが書かれていますが,こういうパンフレットって溺死しそうな大学では以前から作成されていましたので,こういう知名度のある大学でも始まったのだ.と,そういう見方をした方がいいと思います. それに,「見やすい」とか「おしゃれ」という声を好意的だと思っているようですが,でもこれって大学のパンフレットへの反応としてどうよ,って.そういう感じです. あっ,すみません.パンフレットの担当者を叩くのは私の本意ではありません. 彼らなりに一生懸命仕事をしたのです.私も担当者だったら同じ事をしたでしょうし,同じ反応をしているはずですから. ただ,その様子は欲望に耐え切れずドーピング注射をその腕に打ち込んでいるスポーツ選手にだぶるものがあります. 哀しいですね. 記事の最後には, いかに大学の魅力をPRしていくか、少子化にともない、大学は学生集めに躍起だ。 グラフィティのプロデュサー、黒田佳史さんは「今後は、このような大学案内がスタンダードになっていくだろう」と予想した。 とありますが,その予想は当たると思います. こうした流れ

こういうのも大事じゃない,大学教員が言うこんな指導

これまでの記事はこちら↓ ■ (1)新聞を読め ■ (2)とりあえず自分の意見を出してみよう 3つ目はこちら. (3)付加価値をつける この言葉の前には,「学生に」とか「大学に」とか「授業に」とか,そんなの. 通常の人間の感覚からすればキチガ◯だと思われかねませんので,普通はおくびにも出さないはずの言葉です. ところが,何食わぬ顔で言ってる教員がいます. これは大事,大事じゃないという次元の話ではないのかもしれませんが,こんなことを言っている教員が考える「付加価値」とは何か,そこが問題になります. 学生自身が言うんだったらまだマシです. 「僕に/私に,付加価値をつける」 って,そうですね.ただのバカですよね.これならバカなだけで済みます. もちろん,私としては友達にはなりたくない人種です. こういう手合は,付き合いを続けているうちに必ず面倒を起こします. もしくは,こちらの精神衛生上よろしくない言動を繰り返すはずです. だから最初から付き合いません. 当然,目の前にそんなこと言う学生がいたら怒鳴りつけます. こんなことを口走っているのが大学教員である場合,私の経験から言っても碌な奴はいません. 彼らには驚くほどの共通パターンがあります.たいてい,自分を「デキる教員」だと勘違いしていて,且つ,一定数の初見さんからはそう思われている場合が多いのですが,学内外で変なトラブルを頻発させます.なぜか皆これです.不思議です. あと,彼らはこのセリフを無意識的な「カッコつけ」のために言っている場合も多い. 無意識的,しかもカッコつけ,だからこそ問題です. つまり,こういうことを言っている教員は,大学において学生が享受するべき「価値」が何なのか,さほど気にしていないということを暗示しています. 気にしていないから,考えたこともないから「付加価値」などという言葉を安易に使えるのです. 「これってただの比喩だろ.気にしすぎ」と仰るかもしれませんが,ここで問題にしたいのは品格とか質のことです.おおよそ真っ当な人間の表現ではありませんから.大学教員だって言っていいことと悪いことがあります. これはちょうど,普通のサラリーマンが会社にフンドシ一丁で頭にパンストかぶって出勤しているようなものです. それを見つけた人のほとんどが1

これも大事じゃない,大学教員が言うこんな指導

前回の続きです. ちなみに前回はこちら↓ ■ (1)新聞を読め 今回はこれ. (2)とりあえず自分の意見を出してみよう 大学での学びは教員と学生が対話をすることにより効果的なものとなります.議論をしなければ大学での学びは無意味と言っても過言ではないかもしれません. ところが,学生の側からの活発な議論が展開されることは少ないものですから,思わずそれを促そうと教員が口にしてしまうのがこれです. さらには「本学の学生は積極性が低いから」と比較対象が不明瞭な分析をしてみたり,「日本人は自己主張が苦手だからねぇ」などと,よくよく考えてみたら知性や学術性とは無関係なことで煽ってみたり,しまいには「分からなくてもいいから言ってみよう」と根性論に似た何かを指導しようとする人もいます. きちんと考えた上での意見なら議論や問答の価値はあるのですが,「とりあえず口に出してみよう.まずは自分の意見を表に出すことが大事」という場合,学生は “きちんと考える” という手順を踏んでいないことが多いかと思います. きちんと考えないままに意見を出したところで,学術性の高い議論を展開することはできません. でも,この「とにかく意見を表明することが大事」という指導をする教員が多いこともたしかです.かく言う私もついつい言ってしまうことがあるのですが,ホントは良くないことです.多用は避けたいですね. ですが, 「よく分からなかったけれど,とりあえず意見を言ってみたら話が盛り上がった.とりあえず出した意見が元で,話が進んでいった」 なんてことも聞きます. だからやっぱり「とりあえず意見を出す」というのは良いのでは? ということも聞きます. それを狙ったのがブレイン・ストーミングという手法だったりするのですが,私の経験上,こういう手法や状況で展開される議論は低レベルなものに終わることが多いです. 既知のもの,つまり常識的な認識の組み合わせにしかならないからでしょう. 一方で,大学での学びにおいて求められているのは,知識を組み合わせる力ではなく,思考を練り上げる力です. もちろん両方大事なのですが,より高度なトレーニングが必要なのは後者のほうです. いろいろな学問分野がありますが,大学という場において共通してトレーニングするべきは,考える力です. ある一つの

そんなに大事じゃない,大学教員が言うこんな指導

「大学でこういうことを学ぼう」ということで, ■ これが身につけば大学卒業 ■ こういうのも大学教員に教えてもらった方がいい みたいなものをご紹介しました. 逆に,こういうことはそんなに大事じゃない,けど,うっかり大学教員が口走ってしまいそうになるものを挙げてみます. どこの誰に向けた記事なのか分かりませんが,とりあえず学生向けのつもりで書いていきます. 今日思いついたのは以下のものです. (1)新聞を読め どれだけ新聞を読んだところで大学で身に付けること,すなわち学術性とは結びつかないことは,当の大学教員がよく知っているはずなのですが,一般社会で通用している事を利用した方が説得力が出てくるので思わず言ってしまいがちです. 実際,そういうことを学生や教職員を前にスピーチしている人もいます.「最近の学生は新聞を読まない.君たち学生は新聞を読んで社会の出来事に関心を持ちなさい」と. しかし,新聞の記事イコール社会の出来事ではないことは当然のことです. 新聞社の記者やデスクが興味を持っていること,これがすなわち社会的に重要な事だということでもありません. 「新聞を読め」という指導をする大学教員は少なくありませんが,その一方で,新聞をほとんど読まない人種が多いのもまた大学教員です. 「どうせ新聞なんか大衆迎合商売の権化だろ.僕には関係ない」というスタンスです. しかもそれで困ることはありません. 社会人の多くが「新聞を読まなければ」と思っているのは,その記事を知っていることが仕事で有用だからです(と私の友人が言っていました). 相手と話を合わせられるとか,話のネタになるとか.つまり,社会人は新聞の記事から学んでいるつもりはないようです. そりゃそうですよね.必要なものしか読まないということは,その必要性を理解しているという時点で訓練にも啓発にもなっていないのですから. その一方で,大学での勉強というのは,(新聞に限らず)得られた情報の価値を見出す能力を身につけることです. 毎日熱心に新聞を読んでいるのに「ナントカ都構想」に賛成する人もいれば,まったく新聞を読まなくても「ナントカ都構想」の危険性を察知できる人もます. ようするに,新聞を読んで社会に関心を寄せておくことが大事なのではなくて,目の前にした課題の中身をどのよう

大阪都構想:住民投票の結果

本日,大阪市で行われた住民投票の結果が出たようです. とりあえず,結果はこれで良かったと思います. 前回の記事ではないですが,多くの大阪市民が科学的に物事を捉える態度を示せたということですので. まずはこのジュリアナ東京的な騒ぎが静まることに一安心です. 良かったです.と同時に,さすが浪花節,やっぱり大阪人は東京人よりは賢いと思いました(でも,“マシ” という意味で). ただ,逆に言えば大阪でも少なくない人々が 「今のままならどうせジリ貧なんだから,このシステムを大きく変えてみよう.今よりは良くなるはず」 などという,冷静になって考えれば失笑モノの発想で投票に向かったことを推察できる結果でもあるわけです. だいたい,他の政令指定都市,市町村で問題になっていないことが,なんで大阪市では問題になるのか.おかしいでしょ. それに対していきなり「都構想」とか・・,もうね,論理的,科学的に考えたらイミフーなことですよ.賛成派だった人々も,これを機会にもう一度「現実に目を向け,今出来る事をやり切ってみる」という姿勢で大阪市のことを考えてもらえればと思います. もう一度言いますが,他で出来ているんです,大阪市で出来ないということはないのです. (逆に言えば,それでも大阪市で出来ないと言うのであれば,それは大阪市の皆様がアホやということを示すことになるのですから) まあ,確かに大阪市の問題点がいろいろと表に出てきた機会ではあったと思います. もちろん,「それが本当に問題なことなのか?」は問題にするべきだとは思いますが. 過去記事でも繰り返していますけど, 「私にとって不都合な状態が展開されるのは,きっとその裏で都合よく生きている人がいるからだ」 と考えて, 「だったらそういうシステムを変えてしまえば上手くいく」 とか,仕舞いには, 「都合よく生きている奴を叩けば上手くいく」 いう発想になるのは,まともな人間ではありません. いろいろなところに配慮しながら進めるのがまともな政治です. 気がついた時に「あ,昔と比べて変わってきたなぁ」と感じるくらいが調度よい変革なのだと思います. その身で体感するほどの変革は,どこかに歪みや闇を作っているはずです. 関連記事 ■ 『Deus ex machinaな日々』とは何か ■ 東

これが身につけば大学卒業

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今日,こういう記事を見つけました. 著者は京都大学の藤井聡先生です. 大阪都構想は、マジで洒落にならん話(2)~「対案がないぞ!」というデマ編~ できればリンク先の記事を読んでほしいのですが,一言で要約すれば, 「得体の知れない事に手を出す時は,まずは冷静になって手を出すべきか否かをしっかりと考えることが大事」 ということです. 上記の記事では「対案を出せ」という言論とその態度に対する反論がありますが,これについては私も以前, 「ウンコを食べようとしている奴を止めるのに,対案を出す必要はないだろ」 というのを書いたことがありますので,よかったら以下の記事もどうぞ. ■ 「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚 さて,「得体の知れないものを前にしたら,まずはしっかり考える」 めちゃくちゃ普通のことのようですが,実はこうした方略をとる人は意外と少ないものです.私的なことであれ,公的なことであれ,熱狂したまま,浮足立ったままに物事を判断してしまいがちなのが人間というものです. 適切な判断ができる人間になりたいと願う一方で,サイコロを投じるように運に任せて物事を決めることを「粋な判断だ」と礼賛したりするものです. しかし,「賽は投げられた」と言ってルビコン川を渡ったユリウス・カエサルにしても,最初から出たとこ勝負の運に頼ったわけではなくて,ギリギリまで思考を繰り返した挙句の決断だったはずなのです. これはいわゆる「人事を尽くして天命を待つ」ということですが,結果を「運」に任せるまでに,やるべきことをやるのが我々人間のすべきことであり,その人事の尽くし方を学ぶのが,大学における学びの一つです. これについて,前回の記事に引き続き,私の恩師に登場してもらいましょう. 先生が授業で紹介していたもので,今でも記憶に残っているのが「何のために大学で勉強するのか?」ということについての,『男はつらいよ』の1シーンの引用です. 満男 「おじさん,質問しても良いか」 寅次郎「あんまり難しいことは聞くなよ」 満男 「大学に行くのは何のためかな」 寅次郎 「決まっているでしょう.それは勉強するためです」 満男 「じゃ,何のために勉強するのかな」 寅次郎 「ん,そういう難しいことを聞くなと言ったろ.つまり,あれだよ.ほら,人間長い

こういうのも大学教員に教えてもらった方がいい

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先日,ゼミの学生と一緒にゼミ飲み会を開きました. 今年は男子学生ばかりなので,比較的気楽に飲んでいられます.酔って騒ぐ面倒な奴もいないし. そこで彼らにも言ったのが, 「旨い物,旨い酒がなんたるかを知っとけ.それが学士の資格の一つだ」 というものです. 私もそうでしたけど,学生というのは「安い・多い・不味い」ものしか食べていないものです. 今どきの学生なら尚の事です. だからこそ,学生は教員を伴う飲み会の席では遠慮なく「良い物」を食べるべきなのです. 「いいかお前ら,普段食えないものを,ここぞとばかりに食うんだよ」 と・・・,まぁ,私が独身貴族をやってる身だから言える事かもしれないんですけどね. ですが,私も学生時代はゼミの先生に旨いものとは何か? を教えてもらったわけですので,次は私が振る舞う番だと思ってやっています. 今でも思い出します.恩師の言葉, 「君らは本当に旨いものを知らないからそんなこと言うんだ.それは教養がないということだ」 そんなに旨いものを知らないと言い切るなら,旨いものを食わせてくれよと思っていたら,本当に旨いものを飲み食いさせてもらいまして. 実際,それで「あぁ~,ホントに旨いものってこういうんだぁ」とね. んで,それはやっぱり「教養」だと,今となっては実感します. いろいろあるんですが,やっぱりワインとそのツマミについては勉強になりました.そこら辺で売ってるチーズじゃダメなんですね,みたいな.あと飲み方のウンチクとか. 以来,適当なものを飲み食いしちゃいけない・・,というか,それなりのものじゃないと満足できなくなりました. だからと言って私もワインに入れ込んでいるわけじゃなくて,そこは師とは別の道を歩むのも良いかなと思い,ここ3〜4年,私はずっとウイスキーです. あれってあれですね.ウイスキーって残念ながら味と価格が比例しますよね. だけど,一度上質なものを口に入れてしまうと,残念なことに元に戻れないんですよ. ドリップコーヒーをはじめたら,インスタントに戻れないのと一緒です. 店なんかに行って,適当に頼んじゃうと苦労します. こういうことは大学卒業生という(一応の)「エリート」には伝えておかねば. 彼らを上質なものを選択する人間にするのが,我々の使命でもある ,そう思

井戸端スポーツ会議 part 21「スポーツ・運動をすると,本当に気分が良くなるんですよ」

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記事を「短くしよう,短くしよう」と思っているのですが(目標は1000字程度),ついつい長めになってしまいます. なので今日は本当に短めにしたいと思います. スポーツや運動をするとストレス解消になる.気分が良くなる. という話を聞いたことがあるかと思いますが,これは本当です. 「なんだか気分が優れない」「ストレスが溜まっている」という人は,ぜひとも “少しくらい無理をしてでも” スポーツや運動に取り組むことをオススメします. この話,科学的にちゃんと実証されているものでして,例えば,運動習慣のある人とそうでない人の「気分(POMS尺度での調査)」を比較した研究では, 上図のように,気分を構成する各種因子のうち 「活気」が高値を示す ことが分かっています. こうした運動習慣のある人がPOMS尺度で「活気」が高値を示し,逆にその他が低値を示すことを「氷山型」と表現します. また,運動を実施することで気分(Beckの抑うつ尺度での調査)に影響を与えることを実証した研究としては, 上図のように, ランニングや筋トレをすることで「抑うつ」の程度が低下する ことが分かっています. この実験ではランニングや筋トレを実施し始めて1ヶ月くらいから抑うつの程度が下がり, その効果は運動を休止しても残る ことが示されています. ちなみに,「運動でストレス解消」ということがよく言われますが,この点については科学的な研究ではまだ解明されていないようです. ただ, スポーツや運動の実施が,少なくとも気分を良くして,抑うつや不安感を低下させる という実証研究は多数あるわけです. なお,どんな運動やスポーツがいいのか? どれくらいの運動強度がいいのか? というところですが,そこまで気にする必要はなく,以下を参考にしてもらえればと思います. 1)レクリエーションレベルのスポーツ(種目は問わない) 2)体操やストレッチング,柔軟体操でもOK(実施時間の目安は20〜30分程度) 3)ウォーキング,ジョギング(実施時間の目安は10〜30分程度) 4)筋力トレーニング(30分程度) いずれも,実施していて気分が良く,その後に疲労感が残らない程度の強度と時間. 別に運動能力が高まらなくても大丈夫(トレーニングだからといって気張らない). 定期的

井戸端スポーツ会議 part 20「プロレスはスポーツである」

さっきまで大学時代の後輩とその仲間たちと共にフットサルに興じていました. スポーツはいいものです. で,帰りに家の近くのラーメン屋に立ち寄りますと,隣の客2人が「プロレスとは〜」と熱く語っておりました. その2人が話していた論点でもあるのですけど・・・, プロレスはスポーツだろうか? この点について今日はお話してみたいと思います. 結論から申しますと,プロレスはスポーツです. よく, 「プロレスは両者がリングで息を合わせて立ち回り,どのように戦うのか,その勝敗さえも予め決っている.つまり真剣勝負になっていないからスポーツではない」 ということで, 「プロレスはショーである.見世物である,興行である」 という意見が出ます. しかし私は,だからこそプロレスはスポーツである. むしろ,スポーツの本質がプロレスにこそある, と言いたいのです. スポーツとは何か? その詳細については,過去の私の記事を再読してもらえればと思います. 本文末にリンクを置いていますので,そちらもどうぞ. まず,プロレスはスポーツではないと考える人が多いのはなぜか? という点が問題になります. 八百長まがいの事前打ち合わせをしない競技,真剣勝負の競技を「スポーツらしい」と感じるのは,野球やサッカー,マラソンといった人類の歴史上,極めて歴史の浅い「近代スポーツ」のことを多くの方々が「それこそがスポーツだ」と認識しているからに過ぎません. しかし,打ち合わせなしの真剣勝負をすることがスポーツだ,というのは人類がごく最近になって作り上げた考え方です. いや,そう言い切ってしまうのも良くありません.スポーツは真剣勝負をするものです.真剣勝負をすることがスポーツの魅力でもあるのですから. ですが, 真剣勝負だけではスポーツにはなりません .どのような真剣勝負なのか? そこが重要になります. 多くの人がスポーツらしい真剣勝負と言った場合,勝敗にこだわることと同義として捉えます. ところが,多くの人が「真剣勝負をしている,いかにもスポーツだ」と考えている種目においても,勝敗だけにこだわっているわけではないことはご承知のことと思います. 例えば,サッカーではケガで倒れた選手がいればボールを外に出したり,野球でむやみに敬遠球を投げるのは憚られるのです.

大学のグローバル化について同窓生と話してみた

ここ最近の記事が立て続けに「大学のグローバル化」に関することだったことも影響しているのか,昨日,一緒に酒を酌み交わす機会があった高校の同級生とこれについて話をしてみました. いずれも大企業ではないものの,グローバルに展開している企業に勤めている者達で,彼ら自身,海外出張を何度も経験しております. 飲み会の会場になったお店も,そのなかの一人が先日まで滞在していたベトナムの料理を出す店でした.お店選びもベトナムに行っていたというその彼が設定したのですが,本場とどれだけ違うか興味があったからとのこと. ちなみに,そんなに味は違わないとのことでした. で,そのグローバル人材についてですけど,彼ら曰く, 「英語が喋れるかどうかよりも,行けと言われりゃ行かなきゃならないのだから,そこに余裕をもって対応できる胆力があるかどうかだと思う」 とのことです. 対応できる「能力」ではないところがミソです.「胆力」なのです.別の言い方をすれば,根性とか,達観できるかとか.そんな感じだそうです. 現地の取引先とか社員との細かいやり取りについては,現地通訳とか英語が得意な人材を連れて行ってなんとかするので,あとは何かと発生する行き違いとかトラブルとか,そういったものにどのように対処するのかが問われるんだそうですよ. これが彼ら「社会人」がいうところの「コミュニケーション能力」なんでしょうね. かなり以前に書いた記事に, ■ 子供のコミュニケーション能力は社会の鏡 というのがありますが,そこで取り上げたことと類似しておりました. つまり,コミュニケーション能力というのは,「そつなくこなす能力」とか,「失敗しない方略がとれる能力」といったことよりも,「 問題が発生した時にそれを乗り切る能力」 のことを指すのではないか? それを別の表現にすれば「胆力」とか「根性」などといった体育会系なものになるのではないか? ということです. もちろん彼らにしたって,「さまざまな国や地域,会社を相手に一人で対応できる人材は欲しいし,自分もそうなりたい」ということだそうですが,そこまでの能力は実際のところ求めてはいないらしいです. 要求はすれど,必要ではない.そんなところでしょうか. 中には高い語学力がなければ就けない企業もあるのでしょうけど,それは極一部のことです

最近の大学のシラバスは

大学に通ったことのある人は,「シラバス」というのを御存知かと思います. シラバスというのは,履修する授業がどのような内容なのか,その授業計画について担当する教員がまとめて冊子にしたもののことです. 最近では大学だけでなく学校でも取り入れるところもあるそうです. このシラバス,以前はその授業で学習することをざっくりと書いていたのですが,いつの頃からか授業計画を可能な限り詳細に書くようお達しが来るようになりました. さらには,できるだけシラバスに書いた通りの授業を展開するよう注意が来るようになり,さらには毎回の授業の内容も具体的に書けと指示が出るようになりました. だから「シラバスってどんなもの?」と言われても,年代によってちょっと認識が違うんです. なので,微妙に歳がバレたくない女性は回答に少し気をつけましょう. さらに言うなら,ここ最近は冊子という紙媒体で学生に配布する大学も減ってきて,ウェブ閲覧のみとか,データCDとして渡すところもあるそうです. で,その弊害(?)として,学生がシラバスを全く見ず・読まずに授業をとるようになってきている状態にあります. キャンパスライフを送った者にとっては懐かしいそんなシラバスですが,近年,それを英語化しようという動きもあります. もう既に英語化している大学もいくつかあります. このシラバスの英語化,はっきり言って紙の無駄遣いだけでなく,労力の無駄遣いにもなりますので,検討している大学は是非とも中止することをオススメします. なぜか? まず,このシラバスの英語化というものですが,一体何のためにやろうとしているのか? という点を抑えたいところですよね. その理由ですが,表向きは, 「海外の学生が,受けようとする授業科目を把握・選択しやすくするため」 というものです. 初めてお聞きになった方としては恐らく御自分の耳を疑って信じてくれないであろう,あまりにトンチンカン過ぎる理由であることは私も重々承知しております. 少なくない内部の教職員もそう思っていますから. 「その理由」の理由としては,いわゆる「グローバル化」を進めたいので,その進展が目に見える形にしたいというものです. でも,きっと留学生は日本語のシラバスを自分の国の言葉に訳して読むはずです. だいたい,その留学生は日本

子供は親が躾ける―政治家も一緒

売国としか考えられないような政策を進める政治家がいます. ところが,そうした政治家に対し, 「彼は裏ではこんなふうに考えているんだ」 とか, 「今は世間を欺くためにやっているのであって,長期的には良い方向に進むんだ」 もしくは, 「まずはこの国にかかる圧力を避けるために行動しているのであって,そのうち反撃するんだ」 といった養護を唱える支持者がいるんです. しかし,これは大変危険な支持の方法です. 仮に,その政治家が本当に裏で別に考えていることがあって,それが長期的には良い方向に進むように画策しているのだとしても,支持者はそれを表立って, 「彼は裏ではこう考えている」 などと養護してはいけません. それはちょうど,不良少年の親が, 「この子は本当は悪い子じゃないんです! 今はこんなことをしていますが,将来きっと良い子になります!」 と世間の前で大声を張り上げ,訴えているようなものです. さらには,返す刀で, 「じゃあ完璧な子供なんているんですか! あなたの子供さんは立派なことしてるんですか!」 と逆ギレしちゃってるかもしれません. いや,もちろん私はこの親を信じてあげたいですし,その子供にもきっとそういう側面があるのだろうとは思います.完璧な人間なんていません. ですがこれは,人に迷惑をかけたり不道徳な振る舞いをし,恨みをかうような行動をとっている子供に対し,その親がとるべき態度ではありませんよね.それと一緒です. その政治家を信じて支持している,つまりその政治家という子供を生み出した親がすべきことは,世間様から出ている文句を真摯に聞いた上で,あらためて子供を信じて躾けることでしょう. 別にその子供と縁を切れ,とか,ケーサツにツーホーしてブタ箱にぶち込んでしてしまえ,などと言いたいわけではないのです. (程度によってはそれも必要だろうけど) 政治家を「きっと裏ではこう考えている」などと養護することは,不良少年を「あなたは悪いことをしていないのよ.大丈夫,信じてるから」と甘やかす親と同じになります. 政治家とて万能ではありませんし,票がなければ生きていけないわけですから,目先の評価や水面下の事情を知らずに決める政策だってあるでしょう. それについては国民がしっかりと対応しなければいけません.地道に

スーパーグローバル大学という舞台を斜め下から覗いてみると

スーパーグローバル大学に選ばれると大変な目に遭う.ということを前回お話しました. それでもなんだかんだと「スーパーグローバルを目指そう」という流れが根強く大学内部にあるわけです. これは一体どういうことか? 今日はその点について,内部にいる者の一人として感じていることをお話しましょう. 心の底から「これからの時代は大学もグローバリズムに対応しなきゃいけないんだぁ」と考えている真性のアレな教員は放っとくにしても,そういう真性でない教員でスーパーグローバルにしぶしぶながら手を挙げる人はどういう背景を持っているのでしょうか. 大きく分けると3タイプ. それを以下にお示しします 1)それを正しい大学改革の方向性だと信じたい研究肌教員の「頼みの瀬」 これまでの大学改革は「教育に力を入れる」という点を強調して各大学粉骨砕身しておりました.とは言え.何をもって教育に力が入れられているのかという判断は難しいものです. 勢い,授業評価アンケートや就職率とか,つまり学生の満足度などというものを優先する経営方針が実践されておりました.それは特に「研究肌教員」からすると我慢ならない,お子様ランチ的な大学運営だったのです. 大学はそんなところじゃない.研究が大事なんだ.大学はもっと研究者を優遇するべきなんだ.という不満が研究肌教員には募ります. そこに現れたのが,「俺達は国際的に活躍しているんだ」と自負する彼らの自尊心をくすぐる「スーパーグローバル」です. スーパーグローバル大学という考え方に問題点はたくさんあるけど,とりあえず目下,俺達の立場を認めてくれる思想であるに違いない.これが稼働すれば,少なくとも自分はその流れの主流に乗れて優越感には浸れるはず. というわけで,スーパーグローバルに反対する気持ちが弱いという人がいるのです. 2)教育研究に自信はないけどオーラル英語に自信のある教員の「最後のバッターボックス」 若い頃に海外滞在経験があったり,海外旅行が好きだということで英語でのコミュニケーションが得意な人が教員にもおります ところがそういう教員の中には,教育をやらせればチャランポランで学生からの評判も悪く,おまけに研究もろくなことをしていない.そんな感じで無常にも時は経ち,箸にも棒にもかからない人物になってしま