2016年4月30日土曜日

満員電車と宣教:苦行の日々なのか?

昨日の記事で「エホバの証人」について触れました.巡回員の方々とのやり取りについてです.
今日は珍しく昼まで自宅にいたのですが,そしたらエホバの証人がチャイムを鳴らしてきたのです.昨日の今日ですから少々驚きました.
久しぶりだったので話だけでも聞いてあげようかと思いましたけど,面倒なので切りました.

かなり以前,教育教材の訪問販売をやったことがあるのですが,あの販売員にとって最も嫌な客の対応は,話を聞くだけ聞いて最後の最後に「でも買いません」と断られることなんです.
自分たちだって自信のある商売をしているという自覚はありませんから,脈ありかもしれなければ藁をも掴む思いで万策を弄します.その上で断られるのはけっこう堪えます.
お客さんとしては断るタイミングを逃してしまい,たまたま時間もあるし話だけでも最後まで聞いてやろうか,という温情をかけているのでしょうけど,それは販売員にとって最も心身へのダメージが大きい対応です.
断るつもりなら最初から「とっとと帰れ!殺すぞ!」と言われたほうがマシなんです.
「あぁ,間違いなく脈なしだ」とスッキリ判断できますので.

だからその後(学生時代以降)は,エホバの証人みたいな人たちが訪問してきても手厳しく追い返すことにしています.その方が巡回員のためでもあると思うんです.
別に彼らが嫌いなわけじゃありません.彼らには彼らの信じる道があるのでしょうけど,私はその道を歩むつもりはありませんから,これは仕方がない.

でも,よくあんな宣教の巡回をやってられるな,と思います.むしろ尊敬するくらい.
今回の巡回員は若く美人な女性と,朗らかな雰囲気の老女とのペアでした.
若い方が説明を始めたのですが,これがまたたどたどしい話し方です.「えーっと,あーっと,そのぉー」と困った表情をしながら必死で宣教してきます.目も泳いでるし.
まだ慣れていないんですね.就活を前にした大学3年生の面接練習をしているようでした.

あちらからすれば,私は至ってぶっきらぼうな男に見えたでしょうけど,心の中では「がんばれ,もっと明るい雰囲気を出して.セリフも抑揚をつけてスムーズに」と応援しているのです.
態度と心中は必ずしも合一しません.

それにしてもツラい活動ではないでしょうか.苦行です.
これから暑さが厳しくなってきますので,どうかお体に気をつけてくださいとしか言えません.言ってないけど.


ところで,私は本務校での勤務以外に非常勤講師として他大学の授業にも出講しています.
担当するコマが1限目なのものですから,普通に向かえば通勤ラッシュと重なります.

実は私,関東にずっと住んでいながら,非常勤講師を始めるまでは「東京の通勤ラッシュ」というものを経験したことがありませんでした.
本務校には自転車か徒歩で通っています.勤務地と自宅は近いほうがいい.これが私の持論ですので.

これまで通勤ラッシュというものから一切関わってこなかったものですから,いよいよ皆が忌み嫌う「通勤ラッシュ」デビューだと思ってちょっとワクワクしながら駅のホームに立ちます.
そしたら,おぉっ凄い凄い,溢れんばかりの人だらけ.最初から気分が悪くなります.

で,電車に乗り込むと,これまた滅茶苦茶な状態.これでもかと言わんばかりに詰め込む詰め込む.
人人人.
身動き一つ取れないとはこのことです.

そして乗り換え.改札口の間を行き交う人の往来が半端ない.肩やバッグが当たるのは当たり前.それでいて周りには無関心.とんでもない所だなここは.
改札で行列ができています.改札を通ってホームまで降りる階段.そこも行列ができています.
さすが東京,行列のできる街です.

やっとこさ電車に乗れたと思っても,そこもやっぱりぎゅうぎゅう詰め.
目の前にいる中学生の顔が歪んでいる.今にも死にそうだ.

到着.
降車してホームに降り立つ開放感といったらありません.
エホバの証人の皆さん聞いてください,これが神の王国ですよ.神の王国はここにあった.

我思う.
よくこんなことを毎日やってられるな,と.
無性に,無意味に,わけも分からず腹が立ちました.何をしているんだ私は,と.

次の週からは,7時半頃に非常勤先に着くように設定しました.
すると途端に人が駅から消えたではありませんか.余裕で座席に座れます.
1時間ズラすだけでこんなに違うのかと感動です.
以後,大学近くの喫茶店で1時間ほど時間を潰してから出講することにしています.

あの苦しみを毎日味わっていると,そのうち慣れてくるんでしょうか.とてもじゃないけど人間のやることじゃない.私は慣れない.慣れない自信がある.だから1回で懲りました.
他の皆様も,こうして楽に通勤すればいいのにと思いますが,人には人の生き方があります.それを強要するつもりはありません.
死ぬかと思うような満員電車を選ぶのも,その人の生き方です.
なんだかこの国の政治経済と似ていますね.否,その国の世相や政治経済が,通勤電車にも現れるのです.
態度と心中は合一しませんが,行動と心中は合一します.

エホバの証人の宣教巡回も一緒なのかもしれません.
ああやって苦行をすることで,自分に何かをに言い聞かせているのかもしれない.
通勤ラッシュに耐える人々の顔も,それと似たものがありました.
圧迫と拘束,無秩序な錯綜の中で人は,しっかりと前を向いて生きている.
恐ろしい.
人は苦しみに虐げられることで,自分を肯定できるようになるのです.

そして分かったことがもう1つ.
昨今話題となっている「組体操」とか「人間ピラミッド」ですが,きっとこういう通勤ラッシュに耐える心身を鍛えているんだなと.
危険を覚悟の上でも,東京都周辺の学校では必修にする必要があるかもしれません.

逆に,地方では組体操は不要です.

2016年4月29日金曜日

左翼に友人知人が多いんです

不思議なことに,私の友人・知人・知り合いには共産主義者や社会主義支持者が多いんです.
私は反共産・反社会主義的な考えを持っている人間なのに,なぜか周りにはその逆の人が多い.

学生時代からの先輩・後輩,同級生は熱心な共産党支持者ですし,いつもお世話になっている先輩教員も社民党支持.ある時期二人三脚のように仕事をしたことがある人は本格左腕の共産党員で,そのお父様は共産党議員でした.
かなり左翼濃度の高い人間関係でしょ?

じゃあ私はいつも周りから虐められていたのかと言うとそうではなく,むしろ熱心に共産主義や社会主義が何故ダメなのかを彼ら/彼女らに説いていました.

日本共産党や社民党の人たちが嫌いなわけではないのです.
支持者の人達にしたって,普段付き合ってる分には何のわだかまりも害もありません.
あと,心の底から「この国が社会主義体制になればいい」と考えている人ばかりでもなく,とりあえず理想を掲げているだけのところもあります.

それに,共産主義や社会主義の考え方を好きになる気持ちも分からなくはないし,時と場合によっては日本共産党や社民党の方が良い提言をしていることもあります.
だから彼ら/彼女らを頭ごなしに否定することはしません.あちらの言いたいことはしっかり聞くスタイルです.
その代わり,やんわりと「共産主義や社会主義の発想が人間を滅ぼすのですよ」という趣旨の批判をします.
「こんなに共産主義に理解があるのに,なんで支持してくれないんですか?」と言われることもしばしば.理解することと支持することは別なのですけど,こういうのって難しいものです.

もしかすると,自覚していないだけで私は社会主義者じゃないのか? そんな疑問を自分に投げかけてみたこともあります.
まあ,これについては誰かからの評価を受けてみないことには分かりません.外部評価という奴です.
ただ,私としては「人は自由じゃないし平等でもない.世の中は合理的に動くわけではない」と考えているので,「そうなるはずだ.それを目指している」という社会主義や共産主義は受け入れられません.このブログ名もそうした想いからつけたものです.
これについての詳細は■『Deus ex machinaな日々』とは何かを読んで下さい.

逆に興味深いのは,上述した私の友人知人にも “左翼のくせ” に「自由」「平等」「博愛」「合理性」といったものに懐疑的な人が多い.これも結構不思議です.
私からすれば,「そういったものに懐疑的なのに,なんで左翼をやってるんですか?」と聞きたいくらいです.
むしろ,こういうのを最近の右翼・保守を自称する方々が好んでいるのが滑稽です.
八紘一宇の精神とか最近よく耳にします.

そう言えば,学生時代にエホバの証人が自宅に押しかけていました.まだ私もその時は時間もあったし,この人たちの相手をしてあげていました.
あぁいうの,巡回員っていうんですか? そういう人が定期的に来るので,玄関先で「ものみの塔」とか「目ざめよ!」という雑誌を広げながら,神は何をしたいのか,我々は何をすべきなのか,などという話を聞かされたものです.
そのうち,新約聖書も一冊無料でいただきました.貰えるものは貰うスタイルです.
ただし,なんかの集会とかイベントがあるから来てくれ,と誘われても行きません.
だからでしょうか,いつだったか「こんなに熱心に聞いてくれているのに,なぜ集会に来てくれないんですか,不思議な人ですね」と言われました.

社会主義思想を唱える人たちと,エホバの証人の巡回員は良く似ています.
安倍信者とかネトウヨと呼称される人は,それに輪をかけて酷い.
エホバの証人の方が,雑誌とか聖書をくれるだけまだマシです.

共通しているのは,いずれも宗教であること.
そして,相手に自分のことを理解してもらえたら,その考え方を受け入れてもらえると思っていることです.
受け入れてもらえると思っているということは,「相手の考え方を変えられる」と思っているわけです.自分の考え方を変える気はないのですから,かなり強引な手法や宣伝が用いられます.とても醜い.

私もブログを使っていろいろ言っていますが,世の多くの人に考え方を改めてもらおうという意図は,実はそんなに大きくありません.
例えば大学改革に反対する記事をたくさん書いてきましたが,
反・大学改革論
なぜ大学改革をやってはダメなのか(2)
これに賛同してくれる人の数は,有力者であるほど少ないでしょう.

なぜかというと,大学改革はどんな形にせよ「進むもの」だからです.
でも,それに皆してホイホイついていくことは避けるべきです.どうせ変わっていくものですから,変えないような力学を働かせるのが健全な在り方だと思います.

他の教育問題にしたってそうです.
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
ベビーシッター事件から考える保育
いずれ国民の多くが納得するように改革されていきます.そう遠くないうちに日本の子育て・教育は壊滅するでしょう.

そして,少なくない人々が「こんなはずじゃなかった」と嘆き,後悔することになります.
でも,改革を進めていく最中にあって,それを感じ取れる人は多くありません.残念ながらそれが人間社会です.だからそのことを現時点で分かっている人が抵抗勢力になる必要があります.
もちろん必ず負ける抵抗ですが,変革を遅くすることはできます.

こんなこと言ってると,「そんなチンタラやってたらだめだ!」といきり立つ人が現れます.
そして,「日本のあるべき姿を取り戻すのだ.改革の時だ」と勇ましく声を張り上げ,具体的にはデモ行進とか募金とかやり出します.
どこの左翼,社会主義者なのかな? と思って見ていたら,実は右翼だったという笑えない冗談が最近はブームのようです.
そう言えば,「西宮市,日本を変えたい!」と泣き崩れるほど熱心な人もいました.

2016年4月28日木曜日

井戸端スポーツ会議 part 28「東京五輪のエンブレム」

一足遅い気もしますが,先日決定した東京五輪の「エンブレム」について触れておきます.
ニュースはこちら↓
<東京五輪エンブレム>作品A「組市松紋」に…作者は野老氏(Yahooニュース)
そのデザインについては,
江戸時代に「市松模様」として広まったチェッカーデザインを日本の伝統色である藍色で描いた。形の異なる3種類の四角形を45個組み合わせて違いを示し、国や文化・思想を超えてつながり合う多様性も表現した。
とのことです.

そして,Yahoo!ではエンブレムについてのアンケート調査もやっていて,そこでは,
6対4の割合で「納得できない」が多いようです.

一波乱あったエンブレム問題ですから,どのようなものが出てきてもイチャモンがつくものと思われます.

厳しすぎるレポート課題で学生からの不満が湧き上がったった後,それじゃ訂正しようと言うことで普通のレポート課題のレベルにしても,やっぱり不満をたらたら言う奴はいるものです.それと一緒かと思います.

特段の問題がなければ,エンブレムなんてなんでもいいのです.

エンブレム問題について取り上げた以前の記事で私はこんなことを書いています.
これまでに “華やかで映えるデザインの五輪エンブレム” なるものがあるんだろうか? というところですが.
そういう「まとめサイト」があったのでご覧になってみてください.
歴代オリンピックのロゴデザインまとめまぁ・・,どれも特別なにかを感じるものはありませんね.ロゴなんてそんなものでしょうし,そんなもので良かったりするんだとも思います.


実際,過去のエンブレムを見てみても,そんなに凄いものはありません.
前回の東京大会のエンブレムが「日の丸」だったわけですから,
「右傾化」が喧しい昨今の日本・東京には「菊の御紋」が相応しいのではないか,
むしろ逆に,東京都のマーク(イチョウ)をシンプルにのせるとシュールじゃないか,
というネタを用意していたのですが,どうやら今回のエンブレムで落ち着くのではないかと思います.

エンブレムは,何かと使いやすいデザインがいいと思います.
例えば,ジャージやスポーツ用具,メダル,記念品などにエンブレムを印字・刻印することになるかと思いますが,そこに映えるデザインであれば「使いやすい」と言えるでしょう.
今回選ばれたデザインなら,仮に白黒(単色)印刷や彫刻(エンボス加工)をしても「東京五輪2020」であることが解しやすいはずです.

それに,このエンブレムならテレビやビデオ作品などで「動かす」ことができます.
エンブレムの輪を回すことはもちろん,市松文様のパーツ一つ一つをくるくる回してみたり,五輪用の中央の白円を上に引き上げつつ文様を変形させてパラリンピック用のデザインに変える,といったアニメーションを作ることが容易です.

そういう意味でも,かなり優れたエンブレムデザインだと私は思います.
エンブレムよりも面倒なことが多いTOKYO2020ですが,まずは懸念されていたことの一つが片付いて良かったですね.

2016年4月26日火曜日

やわらかめの「被災地訪問とか募金とか」

前回の記事にびっくりしてしまった方もいるかもしれません.
面と向かって話してしまうと,デリケートな人だったら泣き出してしまうような内容でした.

そこで今回は,その内容を補足するという意味も兼ねて,もうちょっとやわらかめの記事を書くことにします.

前回の記事で言いたかったことのエッセンスとしては,
基礎基本をないがしろにして取り組む活動は,いずれとんでもない方向に走り始める
ということであり,それが「被災地訪問」とか「募金活動」といったシビアなものだと,そのうち取り返しのつかない状況に追い込まれる危険性があるので,今のうちに「空気読めない奴」が冷や水をかけておいたほうがいいだろうという趣旨だったのです.

日本には「バレンタインデー」という風習があります.
もう既に本来の「バレンタインデー」ではありません.それについては言わずもがな.詳細は割愛しますが,ひとまず確認の意味で述べておくと,本来は「恋人たちが愛を誓い合う日」ということで,その日に互いにプレゼント交換をするのが主流のイベントなのです.

詳細はバレンタインデー(Wikipedia)を読んでもらうとして,日本のそれを以下にまとめますと,
「女性が愛する男性にチョコレートをプレゼントする日」として,なぜか始まった日本のバレンタインデーは,そのうち「チョコレートをプレゼントする際に愛の告白をする日」ということになってきます.
ですが,“愛の告白をする” っていうのがなんだか重すぎるし恥ずかしいと考えた女性の方々は,「義理チョコ」なるものでジャミングをかけ「本命チョコ」の隠密性を高めました.
これは敵ながらあっぱれです.

義理チョコですが,それを受け取る男性としても「お返し」をしなければいけないという空気が流れだし,お菓子メーカーの後押しを受けつつ「ホワイトデー」が誕生します.

そのうち「日本のバレンタインデーは本来のバレンタインデーじゃない」という指摘がうねりを作ると,昨今は「2月14日はチョコレートを購入する日」という部分だけが残り,
女友達同士でチョコレートやお菓子を購入して楽しむ「友チョコ」,
男性が女性の好むチョコレートを買ってあげるスタイルである「逆チョコ」,
たんに自分がチョコレートを買うだけの「自分チョコ」
などが企画されており,日本のバレンタインデーは一層カオスな状況を作り出しているのです.

こうしたバレンタインデー本来の趣旨を踏まえないまま始めた日本の「2月14日」ですが,つまりは冒頭述べたように,
基礎基本をないがしろにして取り組む活動は,いずれとんでもない方向に走り始める
ということです.
だから「保守思想」が大事なんだということにもつながるのですが,バレンタインごときでそんな仰々しい話はよしておきましょう.

ようするに,日本のバレンタインデーの迷走っぷりと同様に,被災地訪問や募金活動にも同じようにこの力学が働くであろうことが容易に想像できます.だから誰かが冷や水をかけなければいけないのです.

募金箱を抱えて立ち続けるのに飽きた奴は,きっと走り出します.
駅前や住宅街を,募金箱を抱えた人が行き交うようになるかもしれない.マンションを駆け巡って集める奴を,犯罪者だと思って暴行する事件も発生します.

コンビニだけじゃなく,風俗とかキャバクラでも募金を始めだすでしょう.今でもやっているかもしれませんが,それを堂々とメディアで紹介し始める.そして「女の子と遊んで気持ちよくなって,それでいて社会貢献できるんですよ」なんてことが「なるほど,これだったら後ろめたくない」などと言って了承される可能性があります.
強姦事件が多発するからってんで,被災地訪問する風俗店が注目されるようになるかもしれません.
そのうち,被災地のために一肌脱ぎますとか言って,ヌード写真を発表するアイドルも出る可能性だってある.

これ以外にも,今じゃ考えもつかないような手法やアイデアが横行する可能性があります.
平民のノブレス・オブリージュは暴走します.やらない善よりやる偽善に楽しみを見出してしまうのが平民です.
それを抑えるための冷や水が必要なんです.

そう言えば以前,氷水をかぶって寄付金を募る奴らがいました.
こういう連中には冷や水を浴びせても無意味かもしれませんが.

日本の政治制度上,被災地の復旧・復興は政府と自治体が取り組むのが基本です.これが最大限機能するよう調整することが大事になってきます.
被災地訪問や募金活動を「被災地を救うための国民のアクション」だということで野放しにしてはいけません.
こう言うと怒り出す人もいるでしょうが,あれはあくまで売名行為,自分の快感を得る行為です.そこはきちんとおさえておかないといけない.

前回も書きましたが,被災地訪問や募金活動それ自体を否定してるわけではありません.
それによって何かが好転することだってあるかもしれません.
ですが,あってもいいけど,無くてもいいものです.
もっと言うなら,あってもいいけど,無いほうがいいものです.
AKB48とかも,そういう存在でしょう.

被災地への募金や訪問支援が手放しに「善い事」としてまかり通るようになったら,いずれ図に乗って「被災地を救うのは国民一人一人の善意だ」などと言い出します.
「別にいいじゃないか,それが理想的な国民の姿だ」などと言う人もいましょうが,国民一人一人の善意ほどあてにならないものはない.
これは,国民一人一人に善意がないと言っているわけではありません.あてにならないと言っているのです.
だから,国民一人一人の善意を予めその身に染み込ませている「政府」という存在を用意しなければいけないのです

「自分たちが被災地を救っている」と思い上がった連中が増えてくると,被災地の復旧・復興についても,「あぁしろ,こうしろ」と注文をつけてくるようになります.それが適切な注文だったらまだいいですが,たいてい民間感覚で注文するに決まっています.
コスパを重視したり,メガソーラーを作ろうとするのです.

もし自分の今の境遇よりも,被災地の方が優遇されているんじゃないかと感じたら文句をつけだすでしょう.被災地の復興も大事だが,それ以外の地域(っていうか自分)の生活も大事にしてくれ,とか.

そういう態度の国民が増えてくると,民意を受けて存在している政府もそれに応じた行動をとるようになります.
結果,復旧・復興はどんどん遅くなる.
復旧・復興が遅くなることが普通になると,日本における災害復興はそれでいいという認識になってきます.こうなったらお終いです.

東日本大震災でもそれが現れたのではないかという場面は結構ありました.
なんにせよ,政府や現地の方々が全力で被災地の復旧・復興に取り組めるような状態を作り出すことに関心を払うことが大事ではないでしょうか.
今は表立って問題にされていないかもしれませんが,被災地訪問や募金活動に潜んでいる毒素は,そうしたことへの足かせになるものです.

2016年4月25日月曜日

被災地訪問とか募金とか

熊本地震をきっかけに言いたいことが次々出てくるので,そのまま書き綴ることにします.
今回は被災地訪問とか募金活動のことです.

いつの頃からか,大規模災害があった地域への芸能人の訪問がブームになっています.
募金活動も相変わらず盛んだし,しまいには「私は◯◯円募金しました」などと公表する人もいたりします.
世も末です.

まず芸能人の被災地訪問ですが,どう考えたって迷惑極まりない話です.
ニュースを見てみると,いついつどこそこに誰が被災地訪問するのか,誰が行かないのか,といったことが記事になっている.
挙げ句の果ては,今回の熊本地震だと,
水前寺清子「なぜ行かないのと言わないで」被災地入りしない理由明かす
とかいう話で盛り上がっています.

水前寺清子さんは熊本出身なのだそうです.でも,だからといって熊本に被災地訪問しなければいけない理由があるのでしょうか.あるわけない.
記事によれば,水前寺さんは被災地の友人から「今は来ないで」と言われているから行かないのだそうです.この友人の方は賢明だと思います.余震が続くなか70歳にもなる女性に来てもらっても危ないだけ.

被災地訪問するとしても,ジャーナリストや政治家,天皇陛下なら許されるとは思います.この人達には被災地訪問の価値があるからです.
ですが,どうでもいい芸能人が被災地を訪問したところでどんな価値があるのか.甚だ疑問です.

というか,あれは明らかに売名ですよね.誰もがそれをわかっているはずです.
こう言ってはなんですが,売出し中か落ち目の芸能人が率先して飛びつく活動のようにみえてなりません.
こんなにダイナミックな売名行為がまかり通るようになった社会の方が恐ろしい.こういう風潮は初期段階でさっさと止めなければいけないと思います.そのうち更なる過激な言動に発展するでしょうから.

老若男女問わず不思議な影響力を持つ芸能人もたしかにいるし,まじめに被災地訪問している芸能人の方もいらっしゃるのでしょう.それはそれで尊敬しますが,まじめな人であれば尚の事,ご自分がなさっている事がどのように飛び火していくのか考えてもらいたいものです.

弱者である被災地としては「来ていただいてありがとうございます」としか言いようがありません.こういうのって意外と拒否できないものです.
追い返すような事を言えば,「せっかく復興の後押しになる機会を芸能人が用意しているのに,それに水を指すのか」と言われかねませんので.
それに,「芸能人の被災地訪問により,被災者の顔に笑顔が戻った」というストーリーが大手を振って了解されるもんだから,どうしても批判しにくいわけです.

芸能人の売名行為であることが了承されていながら,それを支援活動ということで了解しておく奇怪な現象.これはこれで興味深いのですが,極めて不愉快です.
「やらない善よりやる偽善」というのが動機だとされるようですが,なにが善でなにが偽善なのか自覚できているならまだ間に合います,早くやめたほうがいい.
「偽善」よりも「善行」の方が大事に決まっています.当たり前の話です.


もう一つの「やらない善よりやる偽善」が,募金活動です.
今回の熊本の震災でも,またぞろ募金活動が始まりました.
募金活動について堂々と批判するつもりはありませんが,私個人としてはこういう大災害があっても募金はしないことにしています.

日本は,募金活動しなきゃ救助・復興できないような国ではありません.それくらいのこと,この国で何年か暮らしていれば分かるはずです.
救助活動や瓦礫撤去をしたいけど,救急隊や作業員に支払う賃金が足りなくて用意できませんでした,というのは聞いたことありません.そもそもこういうのは予算があろうがなかろうが準備してやることなので当然ですが.

じゃあ復興にかかる費用としての価値が募金活動にあるかと言うと,それも怪しい.
復興や補助金にしたって,国が必要なだけ予算を立てれば済む話です.義援金や寄付が少なければ,その分を国庫から多く出すだけのこと.
その予算は国民の税金から出ているのですから,募金しなくても我々のお金は被災地に流れるようになっています.

「これはノブレス・オブリージュの精神だ」とか言い出す人もいますが,バカ言っちゃいけない.日本のような政治体制のなかで,そこらの平民や芸能人ごときがノブレス・オブリージュの精神なんか発揮できるわけがありません.身の程を知るべきです.

ノブレス・オブリージュの精神が本当にあるなら,黙って分からないように寄付すべきです.誰がどういう経路で寄付したか分かる状況にするのは最悪です.
(もちろん,黙ってたけどバレたというのは違いますよ)
というか,ノブレス・オブリージュの精神が無いもんだから「寄付しました」などと公言しだすわけで.
それにつられてまた別の奴もやりはじめる.

そのうち「義援金の使い道はどうなっている」とか「正しく行き渡っているのか?」とか文句が出てきて,詐欺の疑いもかけはじめます.実際に詐欺もある.
ノブレス・オブリージュの精神があるなら,そんなこと最初から気にしなければいいのに.気にするくらいなら自分勝手に金を出すべきではありません.

公的機関の会計係にしたって,被災地にさまざまなルートから義援金とか寄付が入ってきたら,その状況把握が面倒なことこの上ないでしょう.どこそこには潤沢に入ったけど,こっちには少ない,じゃあ公的資金のバランスも調整しないといけないな等々...,ただでさえ忙しいのに,余計な仕事増やしているだけなんじゃないか,そんな苦労が目に浮かびます.
で,調べたら実際そうでした↓
http://www.asahi.com/articles/ASJ4Q42JXJ4QUEHF004.html(朝日新聞)

義援金や寄付金の行き先がどうしても気になるなら,そして,本当にノブレス・オブリージュの精神があるなら,記録を残さず国に振り込めばいいんじゃないですか? その方が誰もが助かるはずです.というか,そのために「政府」があるんだし.

私にはノブレス・オブリージュなどという高貴な精神はありません.もし私にも出来ることがあるとすれば,例えば熊本に誰か友人がいるとして,そいつがのっぴきならない理由で今にも死にそうだというのなら,お金の100万や200万はもってけドロボーとばかりに差し出すでしょう.
でも,知らない人なら話は別です.知らない人に個人的にお金を差し出すのは変な話ですよ.だから知らない人の救済は税金という形で協力し,政府に任せています.

何をするにも基本を大事にすべきです.
救助や復興は自治体と国が主導し,消防,警察,自衛隊,そして医療関係,土木建築関係の方々がそれに取り組むことが基本となります.
そこで働く方々に支払う賃金や,必要となる資材費用が国庫から用意できない非常事態になれば,はじめて義援金が価値を持ちはじめるのです.そんな事態にはなりませんけど.

実際,東日本大震災ではお金が余って困っていましたね↓
東日本大震災の復興予算、計9兆円が使われず!5兆円は未だに国庫の中!(2015年3月時点)

それでいて復興作業は遅々として進まないと困っているわけで↓
(東日本大震災5年)「復興遅れる」首長45% 3年前の見通しより(2016年3月)

つまりお金が足りないのではなく,使い方がマズいのです.
人手不足で人件費が高まり,資材費も高騰しているのに事業予定価格は低いまま.そんな状態で仕事が進むわけがありません.
人手不足の解消方法(←2014年時点での状況)

赤字覚悟で仕事を引き受ける企業なんてそうそうありません.だから復興の基盤であるインフラ整備や住宅開発は進みませんでした.未だ15万人以上が仮設住宅です(2016年3月現在).
インフラと住宅がないところに町なんかできるわけありませんし,仕事もなければ都市部に人は出てしまいます.人が居ないところが復興などするわけがない.

なのでこれは政府の舵取りの問題ということになりますが,それ以上に留意したいのは,こうした政府の舵取りを許してきたのも国民だということです.
※細かい話はコチラでしました→■震災のたびに思うこと

まとめますと,こうした諸々の不協和音の元凶と思われるのが,
やらない善よりやる偽善
と,
ノブレス・オブリージュの精神
なのです.

偽善なのに「やった」という規程事実の認識を持ち,平民のくせに貴族面をしたがると,いよいよ「震災復興に自分たちも主体的に関わっているんだ」と勘違いする奴が現れます.
専門家や為政者(貴族)がやるべきことに,平民感覚で口出ししようとする連中が増える.これが厄介です.

実は大学教員にも募金活動が好きな人はいるものです.
以前,教授会が終わったあたりでそんな教員が募金箱を取り出し「皆様もご協力下さい」とか言いながら箱を抱えて部屋を回りはじめました.
迷惑極まりない話です.

ノブレス・オブリージュの精神がある人なら,この募金はきっぱりと断ることでしょう.代わりに別の形で必死になって貢献できることを探すはずです.
先ほど言いましたように,私はノブレス・オブリージュの精神は持ちあわせていませんので,財布から500円玉を取り出して入れてあげました.

「おいおい募金してるじゃないか」と思われたかもしれませんが,私にとってこれは被災者のためではなく,その募金箱を抱えた教員に対する500円なのです.
乞食に対する「施し」のようなもの.決して被災者のためを想った行動ではありませんでした.
結局のところ,募金活動なんてそんなものではないかと思うのです.

※なお,本記事は全ての被災地訪問や募金活動の意義を否定しているわけではございません.誤解無きようお願い申し上げます.

2016年4月24日日曜日

続・みんながんばれ(このおぞましき震災対応)

さて,前回の記事を踏まえて結論に入ります.
みんながんばれ

熊本で震災が起きてから10日が経ちました.

当時子供だった私にとって「震災」として鮮烈だったのは阪神淡路や奥尻島で,最近だと新潟中越と東日本というのがありますが,その度に日本国政府の対応がいろいろと問題視されるニュースも同時に見てきたわけです.

何から何まで完璧に対応できるわけなどなく,必ず反省点を残すのが普通で,むしろその反省点を踏まえて次に来る震災に対応しようとすることが大事になってきます.

そんなわけで,では今回の熊本地震での政府対応はどうかとネットニュースをチェックしていましたが,どうも中央・東京から遠いからなのか,反応が弱いという印象でした.

「反応が弱い」それ自体が反省点ではないかと思うくらいです.
しかし,よくよくニュース記事を並べてみると,「反応が弱い」んじゃなくて,なにかしらの意図が隠されているんじゃないかと考えさせられます.

震度7の地震が起きて,しかもその後も震度5クラスが10回以上も発生している今回の震災は,只事ではないと捉えるのが通常の感覚ではないかと思うのです.
ところが結構な勢いでのんびり構えている.
これはどうしたことかと思っていろいろ調べてみたら,案の定,こんなネット記事がありました.

「自民党・安倍首相の対応は迅速.やっぱり社会党や民主党とは違う!」と褒め称えるのを目にすることがありますが,そりゃ阪神淡路や東日本大震災の反省から,災害発生時の法律や条例が整備され,以前と比べて
「初期対応が鍵になるため,その判断がシステマティックになっている」ことや
「自衛隊の主体的判断が緩和されている」ので当然のことです.
仮に今,私とか村山富市,マック赤坂が首相をやっていても初期対応に変わりはありません.つまり,民主党やスマイル党だったらダメで,自民党だったから良いということではないのです.

むしろ問題となるのは,初期対応以降のことです.そこに政府対応の独自性が出ます.

今回の地震はというと,震度7の地震が都市部で発生し,その後も大規模な余震が続き,現地やメディアから被害状況が報告されるものを見れば,「もしかすると,意外とこれはたいした災害ではないのかもしれませんね」では済まされないことは明らかです.
ところが,何日経っても「熊本地震(現時点での名称)」は激甚災害指定されませんでした.

そして昨日23日に熊本で現地視察をした安倍首相は,明日25日に激甚災害指定をするとのこと.

これをみて,自民・安倍支持者はこんなことを言い出すのです.
「激甚災害指定というのは,地方公共団体からの被害報告を受け,発災してから1ヶ月〜2ヶ月後に行われるもの.早い時期に指定したところで今現在行われている救助や復旧には何の足しにもならない」
参考■激甚災害制度Q&A(内閣府)

たしかに安倍・自民叩きありきで批判している輩もいるのですが,ここで問題なのは激甚災害指定が “遅かったこと自体” ではありません.
じっくり腰を据えて調査報告をすることで被災者が減ったり犠牲者が蘇ってくることなんてあるまいし,明らかな激甚災害を,なぜ激甚災害指定せずに2週間近くも判断を引っ張ったのか? という点です.
上述した山口県の豪雨のほか,過去の震災・災害では明らかな大災害であれば詳細な被害報告がなくても直ぐに激甚災害指定されています.

とすると,ここから類推するに安倍首相はこう考えていたとしか思えない.
「発生後すぐに激甚災害指定をしてはマズい理由があった」
もしくは,
「願わくば熊本地震を大災害ではないことにしたい」
そういうことでしょう.そう捉えられても仕方がないではありませんか.

それを裏付けるように,こんな記事も.
15日の段階で蒲島郁夫県知事が「激甚災害の早期指定」を求めていたが、安倍首相はこれを一週間以上無視したあげく、今日になってやっと、週明け25日(月曜日)に激甚災害指定を閣議決定することを表明した http://lite-ra.com/2016/04/post-2182.html
つまり,15日の段階で震災現場から「どう考えても大災害だから,激甚災害指定してください」という要望が出ているのに,あえてそれを25日まで引っ張ったということですね.
なにかのっぴきならない理由があれば別ですが,そうでなければ確信犯です.

激甚災害指定を遅らせたことには諸説あるようで,1つ目は,23日まで激甚災害指定をしなかった理由として,自民党が候補者を出している北海道5区衆院補欠選挙を睨んだアピールをしたかったという説.
つまり,本日24日の北海道衆院補選に合わせて,その前日である23日に現地入りして,そこで激甚災害指定を声高に宣言することで,「被災者から直接現状を聞くとともに、地震対応に全力で取り組む姿勢をアピールする狙い(読売新聞)」があるということ.
熊本地震を「タイミングのいい地震だ」と公言する議員もいるくらいですので,政治家にとっては何かとタイミングのいい話であることは事実なのでしょう.

もう1つは,激甚災害指定をしてしまうと「大災害」であることを認めてしまうことになり,それだと安倍政権に都合が悪いから,判断を引き伸ばして大災害ではないことにできないかずっと思案していたのではないかという説.
なぜ熊本地震を大災害と認めたくないのか?
憶えておいででしょうか.来年4月からの消費税引き上げについて,安倍首相は「リーマン・ショックや東日本大震災のような事態が起こらないかぎり実施する」と言っていたことを.
だからメディアも今回の熊本地震の発生を受け,20日の記者会見で菅官房長官にこんなこ
とを聞いています.
記者:今回の熊本の地震を受けて、消費税を来年4月に引き上げるという考えには変わりないでしょうか。
菅:そこについては、全く現時点においては変わらないということです。
(中略)
記者:現時点において消費税については変わらないとのことですけども、かねてから、リーマン・ショックか大震災のようなことが起きなければ、先送りはしないとのことですが、だいぶ地震の全容が見えてきた今、今回の地震については東日本大震災のようなものには当たらないとお考えでしょうか。
菅:経済の好循環を力強く回していく、ここに政府として全力を取り組んでいるわけでありますから、そうした状況ではないというふうに判断しています。
菅義偉官房長官、熊本地震 は「大震災級という状況ではない」(ハンフィントンポスト)
ところが,いくらなんでも大災害過ぎて,どうにもこうにも取り繕えなくなった.
どうせ激甚災害指定することになるなら,いっそ,24日の衆院補欠選挙に合わせて利用してしまえ.
そんなところなのかもしれませんね.

何がおぞましいかって,徹頭徹尾,政府与党の都合で震災対応をしているということです.
そこに一切の邪念がない.否,邪念しかない.

安倍政権は,自分たちのやりたいことが予め決まっていて,しかもそれをなんとかゴリ押しできないかと必死のようです.
つまり,前回の記事で言う「ガンガンいこうぜ」状態なのです.
あまりにもガンガンいこうとし過ぎて,被災者支援よりも自分たちの理想国家実現のほうが大事.先に目標達成ありきで,それ以外の現実を無視してしまっている.
ようするに,環境に合わせた抑制がきいていないのです.こういうのは身体運動科学やスポーツ科学においても重要なテーマとされていますが,それはまた別の話.

「いのちだいじに」を徹底しろとは言いませんが,せめて「みんながんばれ」という姿勢で取り組んでもらいたいものです.

前回記事

2016年4月23日土曜日

みんながんばれ

前回の記事とは打って変わって,とりとめのない話をします.

ドラゴンクエストというRPGを御存知でしょうか?
プレーしたことはなくても,名前くらいは知っている人は多いかと思います.第一作目が登場したのが1986年で,その後はⅡ,Ⅲ,Ⅳとナンバリングされながら進化を続けます.ナンバリングされているシリーズとしては,現時点で「ドラゴンクエストⅪ」まで出ている日本を代表するテレビゲームです.

私が始めてドラゴンクエストをやったのは中学生くらいの時で,「ドラゴンクエストⅤ」でした.
『ドラゴンクエストⅤ-天空の花嫁-』
シリーズ屈指の名作として知られ,その中でも特徴的なイベントとしては,ゲーム進行途中で主人公が2人の女性キャラクタのうちのどちらか一方と結婚することを選択する,なんていう設定があるのです.
この花嫁の選択はその後のゲーム展開に多大な影響を与えるということもあり,どちらの女性キャラを結婚相手に選ぶのが良いか,能力的にも道徳的にもいまだ議論される人気のゲームです.
『ドラクエ5』主人公の花嫁は「ビアンカか?フローラか?」

そんなの物語の構成上もビアンカ一択だろうと思っていた私ですが,どうやら私の弟はフローラ派のようでして,戦闘能力を第一に選択すればフローラとのこと.こういうところでも兄弟の特徴が出て面白いものです.

実際のところ,結婚相手はどっちでもいいと思っていて,むしろ「キラーパンサーこそ俺の嫁」だったわけですが,私が当時中学生ながらにこのゲームをやっていて気になったのは,ブロンド女か青髪女のどちらを選択するのかではなく,モンスターとの戦闘時に選択することになる「作戦名」です.

このゲーム,戦闘場面で以下のような作戦選択画面が表示されまして,名称に応じた戦い方が展開される仕組みになっています.
・みんながんばれ
・ガンガンいこうぜ
・じゅもんせつやく
・じゅもんつかうな
・いのちだいじに
※事実上の “作戦” ではない「めいれいさせろ」という選択肢もありますが.

さすがに中学生ともなると,世の中のことを多角的に見るようになるもので.
こういうところでの「選択」も理屈をこねたくなる年頃なんですよね.

細かい戦術やゲーム設計上の話は別にしても,「みんながんばれ」が第一候補だろうと思うのです.その次が「いのちだいじに」でしょうか.

逆に私としては,「ガンガンいこうぜ」を選ぶ人の気が知れない.
なんですか,「ガンガンいこうぜ」って.
とてもじゃないですが,まともな知性をもちあわせているとは思えません.「こんな作戦を選ぶ奴,頭がおかしいんじゃないか」と子供ながらに考えていました.

ちなみに「ガンガンいこうぜ」というのは,敵であるモンスターの残りHP(体力ゲージ)や,自分のMP(魔力ゲージ)の残数を気にせず,そのキャラの最大の攻撃を景気よく繰り出すという作戦なのですけど.

荒野や草原,洞窟の中で遭遇するモンスターを前に,ガンガンいこうとしている勇者様御一行なんてあり得ないでしょう.倫理的に考えてもおかしいわけです.

でも,こういう感性って実は非常に大事ではないかと未だに思います.
たかがテレビゲーム,されどテレビゲーム.
おかしいでしょ,「ガンガンいこうぜ」っていう作戦を選ぶ感性.
フローラを花嫁に選ぶより,よっぽどおかしい.

ドラクエで「ガンガンいこうぜ」なんていう作戦を選択する奴は,後先考えずに行動する奴が多いはず.
つまり,「ガンガンいこうぜ」を選択する奴は,きっとスーパーグローバル大学を推進しようとするだろうし,橋下・維新の会を応援するし,TPP交渉に賛成するし,民族や国境にこだわる時代は過ぎ去ったと言い出すような奴である可能性が高い.
もっと言えば,スターバックスではグランデを買い,行列のできるラーメン屋に並び,暑いからってエアコンの設定温度を16度にしようとするのがこうした連中です.

だいたい,作戦のようでいて,まったくもって作戦じゃないのが「ガンガンいこうぜ」なのです.とにかく派手に火力を出せばいいという指示なわけでしょ.つまり,策をろうしているようでいて,まったくもって策を講じていない.

それを「作戦の一つ」として認識している時点で,頭がおかしいとしか言いようが無い.
繰り返しますが,こういうのは作戦ではありません.たんなるお祭り騒ぎのようなもの.そういう態度でモンスターがウヨウヨいる世界を「冒険しよう」とするメンタリティが,当時中二だった私には極めて胡散臭いものとして映ったわけです.

意地でも「ガンガンいこうぜ」は選択肢ないぞ.
そう固く誓ってプレーしたのも,今では良い想い出です.

2016年4月22日金曜日

震災のたびに思うこと

今回の熊本地震のニュースやネット記事でもたまに見かけますし,東日本大震災の時にも目にすることが多かった意見に,
「被災地が過疎地域なら,いっそ復興させずに都市部に人を集めたら良いのではないか?」
というものがあります.
被災した地域は復興させずに,そのまま緩やかな衰退を目指そうというものです.その方がコストをかけずに済むからという理論だと思われます.

それに関連して,ちょっと有名なジャーナリスト(評論家?)が以前にこんなことを言っているのを見ました.
「日本は人口が増えすぎなんですよ.人が多いもんだから,都市部から人がどんどんへんぴなところまで侵食していって,今じゃ住まなくてもいいようなところにまで家を建てちゃって,そんなところに膨大なコストがかかっている.だからこれからの日本はもう一度,人を都市部に戻す必要があるんですよ」
(記憶している限りなので,正確な発言内容ではないのですが,そのような趣旨でした)

冗談で言ってるんだと思いたいのですが,どうやら無邪気に目を輝かせているので本気のようです.

人を都市部に戻す? なにをトチ狂ったことを言っているのか.
そもそも,今ある都市部のほとんど,中でも東京・首都圏は,地方の村や町から人を集めて作られた場所じゃないですか.東京は田舎者の集まりだとも言われます.

だいたい,私の地元にしたって,東京,ましてや江戸に人が住み始める前からあった村落ですよ.歴史として調べられないくらい以前から,日本の至る所に町や村落はあったのです.
今ある都市部から徐々に人が広がっていったかのような認識でいることが恐ろしい.

現在の都市部に人が集まっているのは,人が集まるように誘導したからです.インフラが優遇されていれば,当然,そこに人は集まります.
実際,この地域では慢性的な転入超過です.
東京圏、11.9万人転入超(日本経済新聞2016.1.29)
その他にも,上の新聞記事にもあるように愛知,大阪,福岡の転入超過が顕著です.

ようするに「都市部に人を集めなければ・・」なんてことを心配しなくても,実際そうなっています.

さて,話を震災復興のコストパフォーマンスに戻しますと,上記のようなド直球な意見表明はしないにしても,震災復興するにもコスパを重視するという考え方で事の成り行きをみつめている人は少なくないのかもしれません

ただこの「コスパを重視」という考え方,どれだけ教育界に悪影響があるかをこのブログではくどいくらい繰り返してきたわけですが,これは日本という国にも同じことが言えると思うのです.

震災のたびに出る冒頭のような意見は,都市部に人が集まったら「震災復興のコスパが良い」と考えているからでしょう.
ですが,現在の都市部に人を集めても震災対策としてはコスパは良くなりません.これにはいろいろ理由が考えられています.

ここでもう一度,冒頭取り上げたジャーナリストの発言に戻りましょう.
人が多いもんだから,都市部から人がどんどんへんぴなところまで侵食していって,今じゃ住まなくてもいいようなところにまで家を建てちゃって,そんなところに膨大なコストがかかっている.
このジャーナリスト,調べてみたら都市部の出身でした.
「人口が多い場所」を中心に,そこから波紋が広がるようにヒト・モノ・カネ,そして文化の移動があると考える人には,都市部の人が多いように思います(適当).あと,こういう人って妙なナショナリズムと「日本観」を持っていることが多い.
ちなみに,そういう人を私は「中国人っぽい」と評して以前記事にしたこともありました.詳細はそっちを読んでください.

まぁそれはさておき,震災復興のコスパのために都市部に人を集めることがどれだけ危険なことか,2つの観点から危惧されています.

その1つ目は,「一極集中している中にあって震災が起こると大ダメージになるため,震災対策としては国力を地方に分散した方がいい」というものです.
「都市部に人を集めた方が・・・」という考え方を進めていくと,「一部の都市への集中」を経て,いずれ「1つの都市への集中」へと収斂していくことになります.つまりこれは,より強力なスポットへと収束していくうねりを持った考え方なのです.
一極集中している方が経済的に有利だということも,それを後押しするでしょう.
最終的には東京一極集中によって完成し,東京大震災によって完結します.

2つ目は,「都市部に集中させた方がいい」というのであれば,どの都市に集中させた方がいいのか? ということを考えることになるのですが.「都市部に人を集めた方が・・」という人たちは,今現在の都市部に人を集めようとしているのではないかと思います
しかし,今現在の都市部に人を集めても,中長期的にはコスパは悪いのです.

これは東日本大震災とオリパラ招致の時に話題になったので覚えている人もいるかもしれません.スイスの保険会社が発表した,
自然災害で危険な都市ランキング・リポート(←PDFページ英語)
です.
で,その危険な都市ランキング第1位が,東京・横浜でした.
スコアを見ると他の追随を許さないぶっちぎりの1位のようで,この地域は遠くない将来壊滅することになっています.その予定でいなければいけません.
なお,東京・横浜だけでなく,他の日本の都市も上位入賞しています.そのランキングを示すと,
1位:東京・横浜
2位:マニラ
3位:珠江デルタ
4位:大阪・神戸
5位:ジャカルタ
6位:名古屋
7位:カルカッタ
8位:上海
9位:ロサンゼルス
10位:テヘラン

というわけで,日本が今後「人を集めた方が良い都市」は,東京・横浜,大阪・神戸,名古屋以外の都市ということになります.
「コスパ」を考えるなら,リスクの高いところに人を集めるのは良くないことですから.

というか,6位の名古屋は別にしても,東京・横浜,大阪・神戸というのは日本の東西の中心地ですよね.
そしてこれらは,日本の歴史上は最近になってゴリ押し公共事業によって都市化された地域であることがなんとも皮肉なものです.
ゴリ押し公共事業で無理やり都市化したのだから,災害に弱いのは当然です.そんなところに住もうとする人も,もともと少なかったのでしょう.

えぇ.結論としては,「都市部に集中」を謳う人たちを皮肉りたかっただけです.
現在の日本は「都市部への転入超過」が進行しており,その転入超過している都市のほとんどが「危険な都市」に指定されているということは,なんとも興味深い,皮肉な話ではありませんか.

目先のコスパを考えると都市部に人口が集中してしまうのでしょうが,長期的に見れば地方を都市化させておくことが大事です.
最悪なのは,これらの都市部,とりわけ東京で震災が起きることによって, “仕方なく” 地方に人口が移動するという事態です.
でも,現状を見ていると,なんだかそんな状況になりそうなのが残念です.

2016年4月16日土曜日

現実を考慮した規制(法)なら効果的

熊本を中心に大きな地震が発生しました.
犠牲者は現時点で34名と出ています.

その上で,まだネット配信記事では「不謹慎」だと思われているだろうし,「被害報告の途中」だということもありましょうから多くのメディアではこの話には触れられていませんが,最大震度7の地震が,そして震度6強が政令指定都市である熊本市を襲ったにしては,やっぱりこの被害は小さいと言えるでしょう.
ただ,大きな余震が続いているようですので,予断は許されませんが.

1995年の阪神淡路大震災を知っている者としては,震度7が都市部を襲ったというこのニュースを聞いた時点で,1000人以上の被害が出るかもしれないと思わされました.
倒壊した家屋とその火災がたくさん映しだされていた阪神淡路大震災からすると,今回は家屋の倒壊や火災は少ないようです.
その時の死因のほとんどが圧死だったということで,家具の転倒を防ぐ震災グッズが注目されていましたし,阪神淡路大震災以降に叫ばれた,建築物の耐震化の啓蒙と法規制が功を奏したのではないかと考えられます.
具体的な法律は↓
建築物の耐震改修の促進に関する法律(平成七年十月二十七日法律第百二十三号)

日本は地球の中でも地震が多い地域です.そんな地域にある国としては,甚大な被害が出る可能性がある部分をしっかりと規制する.
耐震化に関する法律は,その後発生した地震でも少なくない命を救っているはずです.

これまでに取り上げてきた「自転車運転取り締まり強化」にしても,そういう話を「逆の観点」から指摘したつもりですが,この点,規制強化によって功を奏した事例は何かあるのかと言われれば,その代表的なものが「飲酒運転の取り締まり強化」でしょう.

当時,非常に話題となった飲酒運転の取り締まり強化.平成15年(2003年)と平成19年(2007年)に厳罰化されたわけですが,それによって下図のように飲酒運転による事故は激減しています.
昨年(2015年)の死亡事故件数は201件でしたので,取り締まり強化前の平成12年:1191件と比べると,なんとその17%にまで減少していることになります.
内閣府『交通安全白書』(2009)より
ところが当時は,取り締まり強化の影で少なくない人々から,
「飲み会の帰りが大変」
「タクシー業界の利権じゃないのか?」
「ちょっと飲んだぐらいでは事故なんてしない.やり過ぎじゃないか」
などという不満が聞こえたものです.

飲酒運転の取り締まり強化をすることで困る人がいるか考えてみましても,まぁ,いませんよね.明らかに飲酒運転はドライバーの利益しか産んでいないし,それによって被る不利益が広く大きすぎる.
そのようなわけで,これは現実を考慮した規制なら明確に効果が現れてくることを示す典型例でしょう.

そう言えば,当時学生だった私がアルバイトをしていた焼肉屋の大将は,この飲酒運転の取り締まり強化を苦々しく思っておりました.どうすれば飲酒運転の検問をくぐり抜けられるか,我々バイト学生に仕事終わりに賄い料理を食べさせながら,その対処方法をいろいろ語ってくれたものです.
曰く,その最良の手段は,「検問で止められたらその場で焼酎を飲んだらええんや」とのこと.そうすれば「今ここで酒を飲んだことにできるやろ.せやから常にダッシュボードにワンカップ大関を準備しといたらえぇねん」というわけです.
もちろん私としては「ワンカップ大関は焼酎ではありませんよ」なんて野暮なことは言いませんし,それで検問をくぐり抜けることにはならない上に余計に罪が重くなるだけじゃないかと思いましたが,だいたい飲酒運転を意図的にしようとする人間はダメな奴が多い.きっと,酔えるならワンカップ大関と焼酎のどちらでもいいという奴です.だから酒を飲んでも運転しようとする.その焼肉屋の大将もそうでした.
だから当時の私は「勝手に死ねばいいのに」と思っていましたが,飲んでる自分だけ死ぬわけじゃないのが飲酒運転による事故です.

話を戻せば,地震が多い日本においては,やはり地震に対処する規制や法律が整備されるべきでしょう.
1995年の阪神淡路大震災の教訓を糧に建築物の耐震改修の促進に関する法律ができたわけですが,2011年の東日本大震災後もそうした法律ができました.それがこれ↓
強くしなやかな国民生活の実現を図るための防災・減災等に資する国土強靱化基本法(平成二十五年十二月十一日法律第九十五号)

建築物の耐震化の次は,国土の耐震化というわけですね.
ただ,前者の法律が施工されてから「耐震化詐欺」などが横行したように,法律を作ったとしてもその裏で何かしらネガティブな影響があるものです.しかし,耐震化詐欺が発生するから耐震化しなくてもいいということにはなりません.
詐欺は詐欺でしょっぴけばいい.

飲酒運転の取り締まり強化という,一見なんの悪影響が無いと思えることをしても,「俺は飲んでも事故らないから,取り締まり強化は迷惑だ」などという焼肉屋の大将みたいな人がいるくらいですから.案の定,国土の耐震化に対しても焼肉屋の大将みたいな人はいるようです.
公共事業改革市民会会議(Q&Aここがおかしい国土強靭化)
ぜひこのリンク先のQ&Aを見てほしいのですが,どれもこれもQ(問い)の方がA(答え)よりも正論にしか読めません.わざとやってるんじゃないかと思えるくらい.
代表的なのがこんなやつ,
Q3.防災・減災対策としての公共事業は必要ではないですか?
A.インフラ整備だけでは防災・減災に対して効果は限定的です。同基本法案では防災・減災等に関する記述は抽象的な内容にとどまっており、どのように被害を想定し、対策に優先順位を設けるのか明確ではありません。このような「強靭化」では防災・減災に乗じたバラマキの一方で、真に必要な対策まで共倒れになりかねません。
これをAとQを逆にしてみましょう.そのまま反論になります.
Q.インフラ整備だけでは防災・減災に対して効果は限定的ではないですか?
A.限定的であっても防災・減災対策としての公共事業は必要です.同基本法案では防災・減災等に関する記述は抽象的な内容にしており、どのように被害を想定し、対策に優先順位を設けるのか各地域の事情は異なるため,研究調査の余地を残しています。「強靭化」は防災・減災に乗じたバラマキとなる可能性もありますが、真に必要な対策がとれないまま共倒れになってもいけません。
こういうふうに,「問い」が既に「答え」になっているものは,どこまで行っても議論は平行線になります.別にそれが悪いというわけではありません.考え方はいろいろあって良いと思いますから.
ただ,政治と公益に関することですから,どこかで一方の考え方を採用すべきところが出てきます.
上記であれば,
「インフラ整備は防災減災に限定的だ」と,「公共事業は防災減災に必要だ」
のいずれかということになります.
普通,後者です.限定的であっても必要なものはやる.それが国を与る者の責任です.

「交通事故を防ぐために,飲酒運転の取り締まり強化をしても効果は限定的だ」と言ってもいいですし,検問前で酒を飲みだすバカが現れるのも仕方ないですが,それでも普通は取り締まり強化をする.明らかに公益に資するからです.

公共事業という名が示している通り,公共のための事業ですから,どうにかして予算を工面しなければいけないものです.簡単に削っていいものではありません.
必要性のあるものは採用するのが常識というものです.
今回の熊本での地震も,なんらかの形で日本の公共事業の教訓としてもらいたいものです.

今後も救助と復旧が続くかと思います.作業にかかっている人々の無事と,より多くの方々の救命をお祈りします.


PS.
それだけに,気になっているのが私の実家がある町です.
まともに耐震化できているか疑問.
日本一の津波(34m)が押し寄せることで有名になったあの町です.
以前取り上げたことがあるので,こちらもどうぞ■全滅の町,黒潮町


2016年4月11日月曜日

現実を考慮した規制(法)でなければ逆効果

たまには短い記事を書こうと思いました.
今後もたまに短い記事を書いていくつもりです.

先日,このブログでも何度かご紹介している和田慎市先生からメールをいただきました.
※和田先生に関する過去記事はこちら↓

コメントしていただいたのは先日書いた以下の記事でして,
続・そう言えば,自転車取り締まり強化の影響はどうなった

その記事で私が伝えたい本質をズバリ指摘していただきました.嬉しい限りです.
指摘していただいた点,私がこのブログで書いてきた多くの記事全体に通底している考え方でもありますので,本ブログにおいて重要な観点の一つでもあります.
それはつまり,
「現実を考慮した規制(法)でなければ逆効果」
ということです.
そして,そんなことになっている状況を最近良く目にしますよね,ということなのです.

これはなにも「理想を目指して法整備をすることがダメだ」と言っているわけではありません.そんなふうに安直に捉える輩がいるので注意が必要です.

法を大事にするのは当然のこととして,その取り締まりをどれだけ厳格に徹底するかは現実を考慮したものでなければ意味をなさない,場合によっては逆効果になることだってあるということを言いたいのです.
ようするに,「手段が目的化している事例が,ここ最近の日本でよく見られますよね.我々の教育現場でもそうでして・・」ということを訴えているわけです.

それを今回は道路交通法における「自転車の運転」をテーマに取り上げたということ.
さらに和田先生からは,この「現実を考慮した規制(法)でなければ逆効果」について,昨今の学校教育現場において取り沙汰されている事件・課題についてもご指摘されていました.
(これについてはまた機会をあらためて取り扱いたいと思います)

自転車運転取り締まり強化以外にそれが指摘できるものとしては,このブログの常連記事である大学改革とか,教育界では「いじめ防止対策推進法」とか,昨今の話だと「マイナンバー制度」とか.
あとは底抜けに有名なのが憲法9条とか.それに関連して安保法制の中の集団的自衛権の話とか.そんなのです.

いずれにも共通するのは,理想を追い求めるのは大変結構なのですが,その理想となる状況にするために考案された手段(法,規制,取締等)がどれだけ現実的なのか慎重に検討されたとは思えないまま実行されようとしている点.

このブログを読んでいただく上での重要なキーワードだと位置づけています.

2016年4月9日土曜日

なぜ大学改革をやってはダメなのか(2)

前回の補足と続きです.前回記事はこちら→■なぜ大学改革をやってはダメなのか

前回記事で展開した議論に反論がある方もりましょう.例えば以下の件.

文部科学省(中央教育審議会)では,2012年の時点では,
国民、企業そして学生自身の学士課程教育に対する評価は総じて低いと言わざるを得ない。(―中略―)高度成長社会では均質な人材の供給を求めた産業界や地域が今求めているのは、生涯学ぶ習慣や主体的に考える力を持ち、予測困難な時代の中で、どんな状況にも対応できる多様な人材である。
予測困難な時代において生涯学び続け,主体的に考える力を育成する大学へ
などと言っていたのに,2015年になったら,
産業界と連携しつつ,どのような職業人にも必要な基本的な知識・能力とともに,実務経験に基づく最新の専門的・実践的な知識や技術を教育する
実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議
などと言い出してきているわけで.
これってつまりは企業や産業界(あと,国民)の都合で大学教育をするような方向に大学改革が進んでいるんじゃないかということなのです.

それについて,
「いや,そこまで深刻になる必要はないだろう.大学を従来の『研究教育型』と,新しく『職能指導型』に分けるだけの話で,それが日本社会や国民のためになるのであればOKではないか」
という反論もあるかもしれません.

もちろん,私はそうした『職能指導型』の教育機関の存在を否定しているわけではありません.それはそれで存在すればいい.やりたい教育者がいるならやればいいのです.
ですが,これまでに検討され,そして今まさに進行している「大学改革」を見ると,その先の大学教育全体のことを安心して眺めていられないのです.

なぜか?
専門職大学を取り上げた過去記事,■専門職大学に思うところ(3)で詳しく述べていますが,「どのような仕事にも必要な職業能力」なんてものを4年間かけて学ぶことに何の意味があるのか?ということです.
だいたい,「専門職大学」などと言うくせに「どのような仕事にも必要な能力」を養成しようとすること自体,明らかにフザケています.もしくは思慮が浅い.
私に言わせれば,もうこの時点でアウトです.とてもじゃないですが確固たる思想と信念に基づいた政策とは思えません.
さらに始末が悪いのは,専門職大学の母体として想定されているのが「低偏差値・経営難大学」であろうこと.

今ここに生きている中にあって仕方ない側面もあるのでしょうけど,だとしてもこういう政治的な形で「高度な知性と技能を有する者」と「従順な労働者」を “特性的” ではなく, “競争的” な環境条件から分けて作り出そうとする発想自体,ヤバイと思わないことがヤバイのではないかと考えるのは私だけなんでしょうか?

「近代の病,ここに極まれり」とも言いたくなりますが,そんなこと言ってるとまた「あなた共産主義者ですか?」などと言われかねないのでやめておきます.
でも,こうなってくるとマルクスの気持ちも分からなくもないですよ.

これまでの記事の繰り返しになってしまいますが,
大学教育は,受けられるものなら国民の出来るだけ多くの者に受けさせることが理想です.
それは「職業能力の養成」という形ではなく,学術に基づいた正しいモノの考え方,捉え方を涵養することです.
大学改革をするなら,そういう方向にすればいい.そう思っています.

前回の記事でも触れましたが,現在の政治経済はあまりにも酷い.ですが,それを生み出しているのは選挙に足を運ぶ国民です.現在の政治経済の有り様は,国民にとっての写し鏡なのです.
だとしたら,今後このような政治経済を続けないためにも,国は高等教育に投資をしなければいけない,そういうことになるはずなのです.
より具体的に言えば,大学が経営難に陥って学生募集で競争しなくてもいい状態にしなければいけません.学生募集で競争するから,こんな無惨な大学教育になっているのですから.

ところが,どうやら国(政府)はそういうことにはしたくないらしい.学生募集で競争する状況が好ましいと思っている節があります.
それってつまり,この国の政府(それを選ぶ国民)は,今の若者に,学術に基づいた正しいモノの考え方・捉え方を身につけてもらっては困ると(あるいは無意識的に)思っているのではないか,と疑いたくもなります.
なぜなら,そんなことされたら自分たちがやっている非論理的で不道徳的,非教養的な上に非建設的な言動がバレてしまう.そんなところでしょうか.
それゆえ,「黙って働いてもらえばそれでいい」を地で行く「専門職大学」なるものを要望し,それを実現しましょうとばかりに動き出してしまう.

もっと言えばこの件,「産業界の声」を発しているつもりの「有力な発言者」とやらが,苦しい自分の会社経営から逃れて,倒産しそうになったら会社を売っ払って大学教員に転職しようと画策しているだけなんじゃないの? ということも邪推したくなりますね.

それはそうと,とにかく私が言いたいのは,
「現在進行している大学改革は,多くの国民が求める “短期的欲求” と,一部の者が求める “長期的利益” を満たすために存在しているだけなんじゃないのか?」
ということです.
要するに,卑小で不埒な理由で進んでいるのが現在の大学改革なのです.
だからこの大学改革はダメだと言っているのです.


関連記事

2016年4月8日金曜日

なぜ大学改革をやってはダメなのか

大学によっては既に授業が始まっているかと存じます.
今年も学生の教育を頑張ろうと意気込んでいる方も多いと思いますが,このブログでよく取り上げる,
「危ない大学」
に限らず,現在の少なくない大学においては,それが満足にできないと嘆いている先生方も多いのではないでしょうか.
※危ない大学とは何か? 気になる方はコチラ→■「教職員用」危ない大学とはこういうところだ

昨今の大学は「改革」と称していろいろな教育劣化策を講じてきています.なので我々教員一同(一部を除き)困っています.

大学改革によって,この教育機関の何かが好転しているという話は聞きません.
「何が改革だ.ぜんぜん良い方向に向いていないじゃないか」
そのように嘆いている先生方は少なくないでしょうし,それ故,こんなフザケた私のブログを読んでくれている大学関係者もまた少なくないようです.
実際,こういう記事に興味を持つ読者の母数はそう多くないはずなのですが,例えば上述の記事だと約2万件の閲覧数があります(Googleのカウント記録による).

大学教員になってしばらくして,この「大学改革」があまりにバカバカしいので,これを進めることで誕生するだろう「危ない大学」を,面白おかしく取り上げてきたわけです.
その嚆矢となる記事が,■反・大学改革論のシリーズです.
もう4年前の記事なんですね.私も若かったなぁ.光陰矢の如し.

当時は,「大学教員たるもの」と肩肘張っていたところもあって周りが見えていなかったですし,「この大学改革を進めていくのはダメだ」ということを伝えることばかりに記事作成の気が向いていて,では,
「なぜ大学改革をやってはダメなのか」
について論ずることが手薄になっていました.今回はそれをテーマにします.

このブログを読んでいる「大学関係者」の中にも,もしかすると,
「大学改革で困っているし良くなっているとは思えないんだけど,それに対する反論ができないんだよなぁ」
という人が多いのかもしれません.そして,
「改革しなければ立ち行かなくなる中にあって,いっそ,この流れに乗ってしまっていいんじゃないか」
と,煮えきらずに悩みながら2016年度の授業に向かっている人も少なくないのかもしれません.

なので今回は,「大学改革」がいかに支離滅裂なものか,「改革案」に突っ込みを入れることにします.
大学改革の何がどうダメなのかを知ってもらえれば,少なくとも皆様の気が紛れるのではないでしょうか(先に言ってしまうと,これは「気が紛れる」だけの話です).

今回も文部科学省のHPを参照しましょう.今回はこれ↓
中央教育審議会大学分科会大学教育部会「審議まとめ」
その中にある,■予測困難な時代において生涯学び続け,主体的に考える力を育成する大学へ(←PDFのページ)
をご覧ください.
ちょうど私が■反・大学改革論を書いた時期(2012年)に作成された,大学改革計画の最終章のようなものです.現在進行中の大学改革の原典ですね.
おぞましい物を見せられますよ.

まずタイトルからしておかしい.
「予測困難な時代において・・・」
予測可能な時代などあったのでしょうか? それは何時の時代でしょう.まぁ,そんな調子でやってたら日が暮れるので,要点だけにしていきます.

【1ページ目より】
平成初頭以降の種々の大学改革の取組の中で、以前に比べ、大学の教員は教育に多くの時間を割くようになっており、授業改善のための様々な工夫も進んできている。しかしながら、国民、企業そして学生自身の学士課程教育に対する評価は総じて低いと言わざるを得ない。
であるならば,その素直な診断は「大学を改革したこと」が間違っていたということになります.大学改革,授業改革なんぞに取り組んだ結果,今があるのです.
その後の文章も支離滅裂で,それらを逐一引用して論じたいのですが割愛します.気になる人は原典にあたってください.失笑できます.

それを端的に示す文言はこちら.
【3ページ目より】
高度成長社会では均質な人材の供給を求めた産業界や地域が今求めているのは、生涯学ぶ習慣や主体的に考える力を持ち、予測困難な時代の中で、どんな状況にも対応できる多様な人材である。
大学改革は倒錯しているとしか思えません.憐れみを覚えます.
以前,■専門職大学について思うところのシリーズを書きました.そこで取り上げたように,2015年の大学改革の一つである「専門職大学の設置」の提案理由が,
「産業界と連携しつつ,どのような職業人にも必要な基本的な知識・能力とともに,実務経験に基づく最新の専門的・実践的な知識や技術を教育する」
というものだったことを思い出してほしいのです.
文科省HPを見たい人はコチラ→実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議
2012年に大学改革の方針を打ち出してから3年後,2015年には専門職大学の設置が提案されたのです.

つまりこういうこと.
「今の時代,どのような仕事にもつける均質な能力の人材はいらない.だから,どのような仕事にも必要な知識・能力をつける大学を用意しよう」
さっぱり理解できません.トチ狂ってるんでしょうか.

はっきり言えば,産業界の都合で大学教育をいじろうとしているだけなのです.
どうせこういうことでしょ.
(2012年当時→)今の時代は予測困難だから,我々産業界もそれで苦労してるんだ.そんな時代にあって,大学はぬるま湯に浸かった学生指導をしている.激動する時代に対応できる独創性ある学生を出せ.
(そして3年後→)予測していたよりも不況が酷くて新人教育に割いている時間がない.独創性なんかいらないから,さっさと即戦力となる学生を出せ.

まさに,時代は予測困難だったのですね.ご愁傷様です.
ただ,この方針転換にしたって周回遅れだと私は思うのですが,それはこの際ひとまず脇に置きます.
大学や大学教員も,自分たちがこういうのを相手にしているということを留意すべきです.
「社会からの要望があるので・・」などと言っている暇はない.相手は明らかに無責任かバカ,もしくはその両方だからです.
この手の奴らは,放っておくとつけあがってきます.

それが証拠に,こんなことを書いています.
【6ページ目より】
今求められてるのは、この質的転換を進める具体的な行動を直ちに始めることである。これを通じて我が国全体に必要とされている様々な改革に資することができる。
たしかに,大学改革が実現することとはつまり,我が国の知性が「改革バンザイ人間」を礼賛する存在になることを意味します.
そんな「改革バンザイ大学」から生み出される「量産型 改革バンザイ人間」が世に蔓延ることを思うと,これはバカにしている状況ではないのかもしれません.

【7ページ目より】
大学関係者、文部科学省等の関係機関は、学士課程教育の質的転換がいわば「待ったなし」の課題であり、若者や学生、産業界や地域社会等、我が国全体にとって極めて切実な問題であることを改めて認識する必要がある。
もともと改革を止める気なんかさらさら無い,ということです.
改革することが前提で進めているから「待ったなし」なんですね.

そう言えば最近,それと似たようなことを言って選挙をした日本の首相がいます.たしか,
「この道しかない」
だったような気がします.

経済政策3本の矢と言いながら2本しか打たず,
デフレ下で消費増税して再増税も検討し,
デフレ状態の最中にあって「もはやデフレ状態にはない」と言い,
奪われるだけで得るものがないTPP交渉を始め,
人口が減ってきたからと移民を入れ,
中国が脅威だからと集団的自衛権を容認したのに南スーダンで中国軍を護衛させ,
日本文化を大切にしたいと言いつつ小学校からの英語教育を推進し,
瑞穂の国の資本主義とか言いながら岩盤規制をドリルで壊すと言い,
景気が良くなってきたから女性も働けるようになったんだと言い放ち,
慰安婦問題は解決する問題ではないのに謝罪によって「解決」させたかのように見せる

そういう首相がこの国にはいて,もっと問題なのは,そんな首相を,
「本格派の保守政治家だ」などと評し,
「だったら代わりは誰かいるのか」と逆ギレし,
「それでもこの首相しかいないから」と消去法による「支持」.いや,もはや「師事」する国民がいることです.

たしかにこれは「予測困難な時代に入った」のかもしれません.凄いですね.
と同時に,こうした事態こそ大学改革をやってはいけない理由の最たるものなのです.

まともな思考力があれば,この首相は,
「保守派」ではなく「改革派」だし,
「憂国の士」ではなく「売国奴」だし,
「秀才」ではなく「バカ」です.
早く政権から引きずり下ろさなければいけない.一刻も早く.

昨年,シー◯ズっていう学生団体がいましたよね.バカ左翼だということで有名でした.
でも,過去記事の■なぜ右翼・保守的言動をする人にバカが多いのかでも書いたように,この点,右翼よりも左翼の方がまだマシです.この国の行く末を思えば,同じバカなら左のほうがやってることは正しい.

いやそうは言っても,大学はバカ左翼を生み出すだけではダメなのです.
きちんと物事を筋道立てて考え,正しい答えを紡ぎ出そうとする人を育てなければいけません.
そういう人であれば,上記の首相を「保守派」とか「憂国の士」だとは捉えないでしょう.

少なくとも現在の日本には,本来の大学教育において目指している「正しく物事を捉えようと努力する」卒業生が少ないのでしょう.
だからこんな首相がのさばることを許してしまう.

例えば1つの学級(クラス)を想像してみてください.その中に,論理的・道徳的な人間が一定数いれば,その集団は安定しますよね.ところが逆に,非論理的・不道徳な人間が一定数いると,その集団は荒れてしまいます.そんな経験のある先生はいらっしゃると思います.
大学は,前者をこの日本社会に一定数排出し続けるために存在していると言っても過言ではないのです.
そしてそれは,「文系よりも理系のほうがいい」とか,「今時そんな領域を研究してなんになるんだよ」といった損得勘定で判断されることになってはいけないのです.

いろいろ書いてきましたが,結論的に言いたいのは,現在の日本で大学をいい加減に改革すると,もっと酷い政治が展開されるようになるかもしれない.それを食い止めるためにも,まっとうな大学教育を受けた卒業生が安定的に輩出できる環境を守らなければいけません.
もっと言うなら,この現在の日本の有様は,
「大学ごとき経済と産業の都合で改革してしまえばいい」
と発想できてしまえる社会が生み出しているとも言えるでしょう.
だからこそ,価値の多様化と思想情報の氾濫が加速度的に進んでいく中にあって,古典的な大学教育が今ほど求められる時代はないのではないかと思うのです.


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2016年4月5日火曜日

面倒見の良い先生になる方法:初年次教育

文部科学省のホームページに,こんなのがあります.
日本の大学では、教育内容・方法等の改善がどれくらい進んでいるのでしょうか。(文部科学省HPより)

「どんどん悪化していますよ,お前らのせいで」
と答えたい問いですが,今回はそういう本質的な話をしたいわけではありません.
そういうのは過去記事を読んでもらうとして,どんどん悪化していく大学教育の中にあって,それでもそれに従わなければいけない人々のための参考になればと思い,キーボードを叩いております.

これはちょうど,「住んでいるマンションが耐震構造基準を満たしていない」とか「災害危険エリア内だった」という悩みを解決することも大事ですけど,目下,排水口が詰まって逆流してくるとか,隣のベランダからタバコの煙が流れ込んでくるといった悩みについて考えることも大事.それと一緒だと思ってください.

桜舞い散るこの季節,さっそく今週・来週から授業が始まるという大学の先生方も多いのではないでしょうか.
今回のテーマは「初年次教育」です.
科目名として「基礎演習」とか「基礎ゼミ」とか「初年次演習」などといった名称がつけられているのが代表的な初年次教育です.
やる側にしてみると結構悩み多い授業でして,一部の教員達からは「クソ演習」とも呼ばれています.

ところで,上記の文科省HPの先では,こんなことを取り上げているのです.
該当するPDFページはこちら:平成 25年度の大学における教育内容等の改革状況について
その18ページをご覧ください.「初年次教育の実施状況」というのがあります.

最近の大学は,“授業内容・方法等の改善” の一つとして,初年次教育というのに取り組んでいます.
文章やレポートの書き方,ノートの取り方,プレゼンの仕方,図書館の使い方,あとは将来の就職に向けた意識づけなどが,その実施内容です.
文科省のデータにもあるように,平成25年時点でほぼ全ての大学(94%)で取り組まれている授業です.

最近の大学のことをよくご存知ない方にとっては,「え!? そんなこと教えてるの!?」とビックリされるかと思います.
たしかに以前は「Fラン大学が学生の底上げのために取り組むもの」といった目で見られていました(それはそれで間違った認識なのですけど).

その先駆けとなるものは十数年前からありましたし,もっと言えば,各大学では初年次生(1年生)を対象とした,その大学独自の「学生入門」的な授業は既に実施されていました.
当初は「学問に対する心構え」とか「学術性とは何か」といったことを,それまで学校の「生徒」であった入学生に,大学の「学生」となるための姿勢を染み込ませる目的で設置されていたようです.

ところが,ここ最近(2000年代初頭から)は,
「そういうのも大事だけどさぁ,今の学生は本も読まないしレポートも書けないような奴らだからさぁ,そんなお堅いことを1年生に問いても不毛な気分になるんだよねぇ」
といった意見が学内・教員からも頻出することから,せっかくだからこの「学生入門」的な位置づけとなっている授業の時間を,
「図書館の使い方」とか
「レポートの書き方」や
「プレゼンの練習」
なんかに当てた方が効率的ではないか,ということになってきたのです.

少なくない教育者は,何の脈略もなく「本の読み方」とか「文章の書き方」とか「発表の仕方」なんてものを教授することはできないと考えます.
私に言わせれば,これらが「出来ない」とされる人なんか日本人の多くにはいなくて,あとはどれだけ「要求に対して(脈略の中で)適切に取り組めるか」が問題となるはずのことです.

「おいしい料理の作り方を教えてください」と言われたら,困るでしょ? それと一緒です.
どんな種類の料理を作るのか,使える道具は何があるのか,時間は,誰に出すのか,そもそも何をもって「おいしい」と定義するのか,といったことが何も提示されないまま教えることはできません.
勢い,「俺は教えられるぜ!」と自信のある人がしゃしゃってきて,
「どうだ!これが俺が作ったラーメンだ!作り方はこうだ」と言っても,
「ラーメンは好きじゃない」「辛すぎる」「ガス代が高くなる」「時間がかかる」「私今ダイエット中」「マンゴープリンを作りたかった」
などと文句を言われることが多いのが初年次教育なのです.

ところが,それを「やれ」と言われて困っている.というのが大学教員の現状.
でも,意外とこういう「なぜ我々は困っているのか」について議論されることは少ないのです.不思議ですね.

多くの場合,初年次教育とされる授業はその大学の専任(所属)教員が多数で手分けして担当します.
私が学生の頃に受けた “初年次教育” は,定年退官された非常勤講師の先生が担当していましたが,最近はそんなことをする大学は少数でしょう.
「責任ある授業なのだから,自分とこの学生の面倒は,自分とこの教員がみる」というスタンスであることが多いものです.実のところは,まさに “面倒” な授業だから非常勤講師にお願いするのは忍びない,というところなのですけど.

前置きが長過ぎるのでここで切ります.

そんなわけで,初年次教育のキーワードの一つに「面倒をみる」というのがあるのです.
この際,初年次教育の意義や課題は気にしないでいきましょう.

「面倒をみる」というマインドを持った活動になっていますので,良くも悪くも “面倒見の良い教員” は初年次教育で初年次生の面倒をみようとします.
ですから,新任の大学教員,そして初年次教育を初めて担当する教員の皆さんに向けて言いたいのは,「面倒見の良い教員(大学)」がどんなことをしているのか御手本とすれば,あなたの初年次教育の参考になるのではないかということです.

入学したての学生たちは,期待とともに不安を抱いている存在です.そんな彼ら彼女らの心を掴むために,面倒見の良い教員は何をしているのか.
例えばこんなことです.

(1)「図書館の使い方」を教える前に,面倒見良く「図書館への行き方」を教える
バカなんじゃないか,などと思ってはいけません.
「図書館の使い方とか言う前に,そもそも図書館すら行ったことがない学生が多いんだよねぇ」っていう意見を基に,図書館がどこにあるのか,どんな構造になっているのかツアーコンダクターのように振る舞うのが面倒見の良い先生です.
必要に迫られたら友達や事務員に聞くでしょ,などという放任的な態度では初年次教育は務まらないのです.
図書館だけじゃなく,情報ルーム(PC室とか)や学生相談室の場所も教えるのも良いかもしれません.
ここまでくると,もはや教員の手抜き・時間潰しのためにやってるんじゃないかと感じることがあっても,それは言ってはいけないのです.

(2)「レポートの書き方」を教える前に,面倒見良く「漢字の復習」や「ことわざクイズ」をやる
気でも狂ってるんじゃないか,などと思っていはいけません.
レポートや論文でろくな文章が書けない学生は,漢字もろくに書けないし,簡単なことわざ・慣用句も知らない.だからそれをテスト方式で,なんなら興味を持ってもらうようにクイズ形式にすることで「まともな文章」が書けるようになると考えるのが面倒見の良い先生です.
短い文章でもいいから厳しく添削を繰り返せば良いんじゃないのか,などという根性論では初年次教育は務まらないのです.
辛くとも,なるべく元気よくやりましょう.

(3)「本を読ませる」前に,面倒見良く「新聞を読ませる」
頭がおかしいんじゃないか,などと思っていはいけません.
文字を読む機会そのものが減ってきている.そんな低次元の学生が多くなってきたのだから,まずは新聞でも読みなさい.最近の政治経済のニュースにも興味が湧いて一石二鳥,といった感じで教えるのが面倒見の良い先生です.
本や資料を読まないと単位が取れない課題を課せば済むことでしょ,などという冷徹な思考では初年次教育は務まらないのです.
来週までに,自分とこの学部学科と関係する記事を探して発表しましょう,などと言ってみるのも面白いかもしれません.

(4)「プレゼンの練習」をする前に,面倒見良く「TEDやジョブズのプレゼン」を見せる
大学の勉強と何の関係があるのよ,などと思ってはいけません.
人前で発表するということ,是則,プレゼンである.カッコ良くクールにプレゼンすることができることは,カッコ良くクールな人間であることを意味する.といった思考でもって,大学生活はもちろん,就活にも役立つことを教えるのが面倒見の良い先生です.
TEDって何?ジョブズって,この前死んだスティーブ・ジョブズのこと? などという野暮な世間知らずでは初年次教育は務まらないのです.
活発な学生が多いクラスであれば,プレゼンコンテストをやってもいいでしょう.

(5)「ネットで提出を義務付ける」前に,面倒見良く「紙媒体でも受け付ける」
それ意味無いでしょ,などと思っていはいけません.
ネットが使えない学生もいる.これはアクセシビリティに関する問題だ.だったら紙媒体でも受け取ろう,というバリアフリーな精神の持ち主が面倒見の良い先生です.
提出物のネット利用を義務付けたいなら,そうしなければいけない環境にしないとダメでしょ.そんなことだから,いつまで経ってもPCやネットに不慣れな学生のままなんですよ,などという人として配慮に欠けるマインドでは初年次教育は務まらないのです.

(6)「履修計画」を立てさせる前に,面倒見良く「学生生活プラン」を立てさせる
なにそれ? などと思っていはいけません.
自分が履修しようと思っている授業はどういうものなのか,なぜそれを履修しようと思っているのか,深く考えないまま適当に授業を履修する学生が多い.ということを嘆き悲しみ,まずは学生生活によって何を得たいのか,どういう進路に進みたいのか明確にするべきだと考えて,「1年生の時に取り組むこと」「4年間で取り組む目標」といった学生生活プランを,小一時間かけて作成させるのが面倒見の良い先生です.
さっき書かせた「学生生活プラン」のプリントが,教室でシワくちゃになって捨てられていますよ,などという冷笑を浴びせるようでは初年次教育は務まらないのです.

(7)「ノートの取り方」を教える前に,面倒見良く「講義の聞き方」を教える
世も末だ,などと思っていはいけません.
ノートがきちんと取れない学生は,そもそも講義をきちんと聞けていなからだ.講義の聞き方をしっかり教えることで,学習効率は高まるはずだと考えるのが面倒見の良い先生です.
短時間のスピーチ(みたいな講義)をやって聞かせ,「今話した内容で一番重要だったことはなんでしょう?」などとクイズを出します.「分かりません」という学生がいたら,「では,次はノートを取ってみましょう.ノートの重要性が分かります」といった展開を始めます.
悪いことは言わない,やめた方がいい,などという非生産的な文句をつけるような人には初年次教育は務まらないのです.


上記の他にもいろいろありますが,まずはこれらを初年次教育で実践していけば,あなたは面倒見の良い先生として確立していくでしょう.

面倒見の悪い先生は,
「やってもやらなくても同じでしょ.以前より改善させていると言うのなら,何がどのように改善しているのか言ってみろよ」
などと偉そうな態度でふんぞり返っているわけですが,そんなことは気にしないに限ります.


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2016年4月4日月曜日

【追記】続・そう言えば,自転車取り締まり強化の影響はどうなった?

前回の記事に対し,こんなご意見をいただきました.
「そうは言っても,自転車取り締まり強化は,長い目で見たら危険運転防止のために重要なのではないか?それによって自転車事故が一時的に増えてしまったとしても,長期的な視点からすると通過しなければならない現象ではないか」

私は別に「自転車の危険運転防止の啓蒙をするな」と言っているわけではありません.
危険な運転は非難されなければいけないだろうし,そうした注意を呼びかけることは重要だと思います.
ですが,現状の道路交通状況において “正しい自転車運転のルールを徹底する” ということは,逆に危険な運転を増加させることになりはしないか? という推測を述べているのです.
ルール上の正しい運転をすることと,それによって安全になるか否かは別ですから.
※なので,この推測が本当かどうか,それに焦点を当てた研究調査が求められると思います.

過去記事で散発的に書いていることを,ここでもう一度まとめておきます.

以下の2つのグラフをご覧ください.
これは,交通事故死亡者数の割合を,年齢層別・状態別に示したものです.

平成27年 交通死亡事故の発生状況及び道路交通法違反取締り状況について 警察庁(2016)



平成27年 交通死亡事故の発生状況及び道路交通法違反取締り状況について 警察庁(2016)

このように,自転車に乗っている状態で事故って死亡した方について年齢層別に人数と割合をみると,圧倒的に子供と高齢者が多いのです.
※これは歩行者にも同じことが言えそうですが.

逆に,15歳以上から50代前半ではその数が一気に少なくなります.
これは「正しい自転車運転ができているか否か」という問題よりも,おそらくは運動能力や判断力といったものが影響していると考えるのが妥当ではないでしょうか.

ですから,「正しい自転車運転なるものが啓蒙された年(平成25年,平成27年)」には,自転車単独事故(自爆)による死亡者数(絶対数)が増加したのではないか? と推測したのが前回の記事です.
ルールに従い危険な車道に出てしまい,恐る恐る運転するものの操作を誤って事故るという可能性です.

とは言え.こういう状況下で国民全体に向けて「正しい自転車運転のルール徹底」を説くことが全く無意味だとは言いません.
しかし,そもそも自転車における事故を頻発させているのが子供と高齢者であることをみると,現状,
「自転車に対し不親切な運転をする自動車が多く,自転車にとって不親切な設計の車道」
に,
「運動能力と判断力に劣る子供と高齢者が乗る自転車」
を走らせるよう仕向ける事のほうが危険ではないか? ということなのです.

そしてさらに,今回の「自転車運転取り締まり強化」のニュースが踊る中で実は少なくない人が知ったであろう,
「な〜んだ,自転車って車道を堂々と走っていいんだ」
という認識を生じさせてしまい,でも,
「自転車と一緒に走ることに慣れていない自動車ドライバーが多い車道」
を走らせると,これまた重大事故が増えるのではないか? という懸念があるのです.
これは,自動車やバイクを運転している人にとっても厄介なものだと思われます.

ですから,昨年6月から始まった「自転車運転取り締まり強化」という方策は,かなり危険な動きではないかと思っていたのです.

そしてこれについて前回の記事で,
平成27年は自転車運転の取り締まり強化をしたにも関わらず,
自転車運転事故による死亡者数は増加し,
しかも「違反による事故」は低下せず,むしろ増加しており,
統計上増加した事故の発生パターンも,当初から懸念していたものと一致する.
ということを述べさせていただきました.

ここでポイントなのは,取り締まり強化によって,
「違反者が増えた」のではなく,
「違反して事故死する人が増えた」ということです.

それをグラフにしたのが以下.
平成27年 交通死亡事故の発生状況及び道路交通法違反取締り状況について 警察庁(2016)より作成

これを見て「いやいや,増加じゃなくて,横ばいだろ」と捉えてもらっても構いません.私が言いたいのは,「横ばい」でもダメだということです.
取り締まり強化したのですから,「違反者が増えた」のは分かります.
ですが,「違反して事故死する人」は,本来なら取り締まり強化によって減るはずなのです.それが取り締まり強化をする意義なのですから.
が,そうはなっていない.
これは結構な問題だと思いますよ.

そんな批判ばかり言って,ではどうすれば良かったのか? 
ということですが,過去記事にもあるように,まずは「歩道の拡充,道路・路肩の幅員増加」を進めることが先ではなかったかと思うのです.
もちろん,全国各地の道路をいきなり充実させるのは難しい話でしょうけど,いらぬ犠牲者が出る可能性をおさえつつ進めるためには,取り組む順番が逆ではなかったかと考えてしまいます.

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2016年4月2日土曜日

続・そう言えば,自転車取り締まり強化の影響はどうなった?

昨年の11月に,
そう言えば,自転車取り締まり強化の影響はどうなった?
という記事を書いていました.

昨年の6月1日から始まった,自転車運転の取り締まり強化の影響を11月時点の統計データから読み解こうとしたものです.
この「自転車取り締まり強化」を覚えておいででしょうか?
コチラを参照→警察庁:自転車運転者講習制度(PDF)

最近,自転車事故が増加している(実際のところは増加していないが),危険な運転をする輩が多い,などといったマスコミ世論の影響もあったのかもしれませんが,自転車運転のルール徹底の機会となった動きだったと記憶しています.

しかし,これについて私のブログでは,
「道路整備をせずにルールだけ強化しても無意味だし,むしろ,自動車・バイク側の意識が変わっていない道路交通状況で本来の自転車のルールを徹底しようものなら,逆に重大な死亡事故が増えてしまうのではないか?」
という懸念を表明してきたわけです.

そして,上述した■そう言えば,自転車取り締まり強化の影響はどうなった?の記事は,6月以降(11月時点)に発表されている統計データを見ると,どうやらその傾向がありそうだ.というものでした.
その記事では,「平成27年の最終報告を見ないと分からない部分もある」ということにしていましたので,今回は先月3月3日に発表されていた警察庁の統計データを使って分析してみたいと思います.

まず大枠を捉えておきましょう.
下表は,交通事故における死亡者数の内訳です.
平成27年 交通死亡事故の発生状況及び道路交通法違反取締り状況について 警察庁(2016)
過去11年間分:平成17年〜27年度のものです.
ご覧のように,近年は交通事故での死亡者数はいずれの状況下においても低下していました.
ところが,警察庁の報道用発表にもありましたが,残念なことに今年は自転車と歩行者の死亡者数が増加してしまったのです.
これが分かりやすいように,平成17年の死亡者数を1(100%)として,その割合としてグラフ化したものが下図です.
平成27年 交通死亡事故の発生状況及び道路交通法違反取締り状況について 警察庁(2016)より作成
そうは言いましても,ずっと下がり続けてきたなかでの微増です.数字だけ見れば,つい先日とも言える2年前(平成25年)と変わらないのですから.
これをもって警察の取り組みの劣化や,歩行者や自転車のマナー・エチケットの悪化ということにはできないでしょう.
それだけに,このように数字が “ピョン” と跳ね上がる現象には,例年とは違う何かしら特異なものが隠れている可能性があるのです.
それが今年は「自転車ルールの徹底」にあるのではないかと勘ぐられるわけです.

※歩行者についての分析はまた別に譲るとして,今回は昨年から注目していた
「自転車運転に関するルール徹底の動き」の視点から考えてみたいと思います.

それが今年は「自転車ルールの・・・,というわけですから,他の年も気になるのかと言うところですけど,例えば平成25年も “ピョン” と数字が跳ね上がっていますね.

では2年前の平成25年の死亡事故に特徴的なものは何だったのかと言うと,
「自転車単独での事故(自爆)」
だったのです.
実はこの傾向は今年も同じところがありまして,以下をご覧ください.
自転車事故における事故類型(どんな事故だったのか)を示したのが下表です.
平成27年 交通死亡事故の発生状況及び道路交通法違反取締り状況について 警察庁(2016)

見づらいかもしれませんが,青字で示した事故類型「車両単独」をご覧ください.
その他の事故類型は,経年による死亡事故の減少と随伴して動いているのに対し,車両単独事故は経年変化が少なく,平成25年と平成27年の事故増加の動きに随伴して増加しています.

この原因について信頼性の高い分析は難しいのですが,両年に共通しているものとしては,私が覚えている限り(私も過去記事でそれらに反応しているという意味でも),
「メディア等を通じて “正しい自転車運転” に対する啓蒙が頻発した時期」
ではないかと思います.
つまり,多くの自転車使用者が「ちゃんとルールに従った運転をしないといけないんだな」ということを気にした時期と重なるわけです.

ようするにここで言いたいのは,正しい自転車運転を心がけてしまうと,自爆が増えるということです.
なぜ自爆が増えるかというと,これは完全に私の憶測になってしまいますが,道路交通状況が自転車運転のために適切な環境でないのに “正しい運転” なるものをやろうとしてしまった結果,無理がたたって事故につながった,という可能性です.

ではもう少し分析を進めて,今年の自転車死亡事故増加に伴って特異的に増加した事故は何か? という点を考えてみましょう.
もう一度さきほどの自転車事故の類型表を見てみますと,近年ずっと続いていた自転車事故減少の動きを逸脱している項目が見つかるはずでして,それが怪しいわけです.
そういう目で下表をみると,
平成27年 交通死亡事故の発生状況及び道路交通法違反取締り状況について 警察庁(2016)
このように,自転車事故における元々主因であった,車両相互における「出合い頭衝突」なのです.
出合い頭衝突事故はずっと減少の一途であったのに,ここにきて増加したわけですね.

話をまとめましょう.
昨年(平成27年)は自転車走行ルールを徹底して事故防止に務めたはずの年でした.
ところがその期待とは裏腹にに,自転車死亡事故は増加してしまいました.
この死亡事故の増加に特異的な動きは何か分析してみると,
「自転車単独事故(自爆)と,出合い頭衝突」
ということになります.

このことは,過去記事でも述べているように,
「自転車運転の取り締まり強化」という社会的な動きによって,自転車を運転する者(なかでも特に「高齢者」)の行動変化を促し,それが結果的に死亡事故を増加させることにつながった」ということになりはしないか?
という危惧が現実のものとなっているように思います.

さらに言えば,
「出合い頭衝突事故が増加してしまった」
という現象については,過去記事である■「自転車は車道を走らない方が安全だろう」でも述べた,
「自転車は車道を通る」を徹底させたり,
自動車道の直ぐ脇に自転車専用レーンを作っても,
死亡事故(重体に至る事故)を減らすことにはならない可能性がある
という懸念も当たってしまった可能性があります.事故が増える理由としては,
(車道を通ることを徹底したり)専用レーンを用意したところで,自転車がスピードを出すようになってしまって,結局,出合い頭や右左折時の事故が増えてしまう.なんてことになりはしないでしょうか
という理屈でした.

「たまたま今年は例外的に重大事故が増えただけ」ということであればいいのですけど,昨年6月から始まっている「自転車運転の取り締まり強化」は,良い方向を向いた方策だったとは思えないのです.

私が住んでいる周りだけの感覚ですけど,ここ最近は警察も「自転車運転のルール徹底」をしているとは思えません.
皆例年と変わりなく,歩道を走り,右側通行し,イヤホンをつけて走っています.

もともとそれで自転車事故が減ってきていたのですから,むしろルールの徹底によって自転車事故が増えたのではないかと思えるほどですが,実はそれを類推できるデータもあるんです.
それが下図.自転車死亡事故における,「自転車側の違反の有無」について示したものです.
平成27年 交通死亡事故の発生状況及び道路交通法違反取締り状況について 警察庁(2016)より作成
残念なことに,「違反あり」による死亡者数がここ最近ずっと減少傾向にあったのに,昨年の平成27年は増加
取り締まったはずなのに増えていて,しかも死亡者数も増えている.
過去記事でも疑っていた,「環境が整っていないのに取り締まり強化だけすると,むしろ危険運転は増えてしまうのではないか?」ということが的中したのではないかと思わされます.

これはちょうど私達大学教員が,授業中の私語を止めさせて勉強がしっかりできるよう「私語の取り締まり」を強化したのに,むしろ私語は増えてしまい,しかも成績まで悪化したというのと一緒です.さらに皮肉を言えば,ここ最近は私語が減少傾向にあったはずなのに,という感じ.
でもこれは笑えません.

とは言え,これは昨年6月から始まったことによる影響を,1年を通してみているわけですので,今年(28年度)のデータがどうなるのか興味深いところです.