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女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

こんなネット記事がありました.
女子大は「体は男性、心は女性」の学生を受け入れるべき?(Yahoo!意識調査)

私は「大学次第」だと思っています.
別にどっちでもいいです.
大学がやりたい教育方針と,在学生との相互関係のなかで決めればいい.

ちなみに,世論の意識調査としては,
受け入れるべき:22%
受け入れる必要はない:61%
わからない/どちらとも言えない:17%
(2017年4月4日現在)
となっています.

まあ,この手の話,つまり性的マイノリティにかこつけた「男女平等はどこまで進めるべきか?」とか「男女差別の象徴的事象」に関する話は,あの手この手で現れてきますが,一つの指標としては「トイレを男女共同にするべきか?」「女性専用車両を取りやめるべきか?」といったところに行き着くかと思います.

女子トイレに男性の姿形をした人が入れる社会になった時,女子大にも男性の姿形をした人が気兼ねなく入れるようになるでしょう.

「大学とトイレを一緒にはできない」と言い出す人もいるかもしれませんが,いやいや,両者は基本的には同じことです.

実際,男子トイレに女性(特に清掃員)は入ってくるし,女性専用車両以外には女性も乗れます.女性はメンズ服を簡単に着れますが,男性がレディース服を着るのは容易ではありません.
男子大が早々に廃れ,女子大が根強く残る理由はここにあると思われます.

この問題の本質は,
「内面とは外面のことである」
「男性は女性の領域には入れないが,女性は男性の領域に入れる」
という,ちょっと哲学な話になっていくのですが・・・.

そんな難しい話は抜きして,ひとまず女性という存在はそういうものだと捉えておきましょう.
どうしても気になる人は,
 
を一読することをオススメします.

そもそもこれに明瞭な答えはありませんし,皆で気合を入れて論じあったところで,社会的に良い考えが生まれるわけでもない.
大局的にみれば,こんなことにグチグチ言う方がおかしいんです.

この際,女子大の存在意義を見直したほうがいいのでは?
などと知ったような口を聞く人もいますが,事はそんなに大げさな話ではありません.
女子だけの環境で学びたいという要望があり,女子だけで学ばせたほうが学習が円滑に進むという経験則と現実がある以上,この上なにを論じる必要がありましょうか.

私も女子大で授業をやった経験もありますし,同性のみ(女子だけ/男子だけ)のクラスや講義を受け持ったこともあります.
全てが全てとは言いません.でも,やっぱり同性のみで行なう授業の良さというのはあるものです.

「ひらめき」とか「共感」といったものに違いが出てくるんだと思うんです.特にコミュニケーションを伴う場合,そこで作り出される学習空間には,同性同士ならではの「我々」という意識が強くなる.
これは,異性を交えた授業を否定しているわけでも,同性同士だと偏った学びになるということを意味するわけでもありません.
そういった学習空間による学びを活用しない手はないという話です.

こんなこと言っていると,「どうせ社会に出たら異性との競合になるのだから」などという浅薄なコメントをする人もいます.
いつも思うんですが,こういう人って本当に社会に出た経験があるのでしょうか?
社会人になればこそ,余計に同性としか向き合わない,という状況に置かれている職場や仕事は多いものです.

いや,そんな話をしているわけではないのです.
例えば,人は効率よく記憶系の勉強をしようと思ったら,一人で机に向かい,心静かにノートを開くでしょう.
これに対し,「実際に知識を使う場面は机とノートに向いている場面とは限らない.人と向き合い,肉体作業をしている時もあるのだから,そんな勉強に意味はない」とでも言うのでしょうか.
まあ,そんなことを言う人もいますけど,私がここで言いたいのは,勉強をするという行為において,どの手段が最も優れているか?などという話はできないのであり,学習させよう/しようとする事に応じて最適で特徴的な手段は存在するということです.
難しそうに述べてしまいましたが,なんのことはない.目的に応じて最適な手段があり,手段によって特徴的な効果が現れるのだから,それを考慮して進めましょう,というだけのこと.

そもそも,女子大の学生にしたって,向き合うのは男子教員や男子職員,門を出れば男性がいる一般社会なわけで,女子大の内部というのは(主に男性が妄想するような)そこまで異質な空間ではありません(少なくとも私の感覚では).
強いて言えば休み時間中に学生でごった返す廊下を歩くと香水の匂いがきついとか,ふいに体育館のドアを開けたら,そこで学生が着替えてたという場面に出くわすくらいでしょうか.なお,こういうのに遭遇しても意外と嬉しくありません.

あと,よく耳にする「女の子をもつ保護者(特にパパ)が,女子大なら安心して通わせられる」という話ですが・・・.なにに安心しているのか知りませんけど,「女子大の方が男性関係が激しい」ということは我々の業界では常識です.抑圧されたものへの反動でしょうかね.歳頃の娘をもつパパは,女子大への進学には気をつけましょう.
「女子大に通うと男性と向き合う機会が減る」というのは普通に考えても有り得ません.

話が脱線しているので戻します.
さて,「女子大で性的マイノリティを受け入れられるかどうか」の話ですが.
今のところ,姿形を女性として振る舞える人のみ受け入れられるというところでしょう.もちろん,「体は女性,心は男性」の人は女子大に入れるということを意味します.別にいいんじゃないですか,それで.
判断の指標としては,冒頭に述べたようにトイレと一緒です.

これは「女子大はトイレみたいなものだ」と言っているに等しいわけですが,別に侮蔑しているわけではありません.
むしろ,女性を「姿形」を基準としてフィルタリングしていることは,この社会の常識基準を確認するために存在してくれていると言っても過言ではありません.
姿形というのは大事ですから.

これを「保守的だ」と捉えるか,「新しい潮流に逆らうものだ」捉えるか.

私から一つ言えることは,女子トイレに男性の姿形をした人が入るのを許容できない社会において,これと類似したことを女子大でやれば,この国の「教育」に壊滅的ダメージを与えるであろうということです.
これは,べらぼうな話ではありません.「そのうち慣れる」などと片付けてはいけない話です.

で,結局「体は男性,心は女性」の人はどうすればいいのか?
共学にいきましょう.

冒頭に述べたように,なんだかんだでその大学の教育理念次第なんですけど,女子大って「女性の姿形をしている」ことが(当の大学教員たちも無自覚ですが)学びの重要な前提になっているので,「男性の姿形」をしている人がわざわざ女子大に通う必要はないと思いますよ.
それこそ,女子トイレでなければ用をたせない男性はいないので.