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「悪魔の証明」を振りかざす奴
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森友学園・加計学園の問題が喧しい昨今,私もそれを記事にしてきました.
ところで,こういった話題に限らず,最近耳にすることが多くなってきたキーワードに,
「悪魔の証明」
があります.
■悪魔の証明(wikipedia)
悪魔の証明とは,
「無いことを証明することはできない」
というものです.
言い換えるならば,「有ることを証明することしかできない」
つまり,「被告(訴えられた側)には,自身の潔白を証明する義務はない」
そこから転じて,
「有った(有罪だ)と主張する側に,それを立証する責任がある」
という使われ方をします.
上記の解釈だけでもいろいろ注釈が必要だったり誤解があったりするのですが,それはこの際脇に置いといて,昨今この「悪魔の証明」がやたらと乱用されているのではないかと危惧しています.
たまにフェイスタイムを使って酒を交えた談笑をしている大学教員の先輩がいるのですが,先日この話題になりまして,
「最近さぁ,取ってつけたように『悪魔の証明』を持ち出してくる奴がいるけど,あれムカつくよね」
ってことで盛り上がりました.
別に悪魔の証明という考え方が間違っているって話じゃないんです.
使い方の問題なんです.
以下,あくまで「例えば」の話ですよ.
例えば,某国の政権与党にスキャンダルが出たとして,極めて怪しいということで追及があったとします.
それに対し与党支持者たちは,
「無いことを証明することなどできない.それは悪魔の証明だ.有ったと言う方が証拠を出してこい」
と反論する時なんかで用いられます.
そこまではいいんです.
問題はここからです.
続けて与党信者たちはこう言い出します.
「証拠が出せないのであれば,悪魔の証明に照らして与党は無罪だ」
でも,それは違います.
こういうのを「無知に訴える論証」と言います.
■無知に訴える論証(wikipedia)
「悪魔の証明」の方は有名になったんですが,こっちはまだマイナーですね.
無知に訴える論証とは,
「『Xであることが証明できないのであれば,Xではない』というのは間違い」
というものです.
悪魔の証明と類似するものとして,
「『Xではないことが証明できないのであれば,それはXである』というのは間違い」
とも言えます.
なんだか頭が痛くなってきた人もいるかもしれません.
でも,難しい話ではありません.
つまりは,
「根拠を示さなければ,その主張に説得力はない」
という,極めて普通のことなのです.
ちなみに,
「Xであることが証明できないのであれば,Xではない」
が間違いというのであれば,では正しくは何なのかというと,
「Xであることが証明できないから,Xであるかないかは分からない」
になります.
一般に「悪魔の証明」のほうが理由頻度が高い理由としては,
1)無いことを証明しなければならない存在(一般的には私人としての個人)が,それを求められる「場」において非権力者(裁判における被告人など)である
2)無いことを証明できなかったことによる損失(罰則など)が極めて大きい
3)無いことを証明するために割くエネルギーが膨大であり,それに留意しつつ活動・生活することが困難である
ということによります.
でも,無いことを証明するための努力が求められることに変わりはありません.
例えば,殺人事件なんかでは「アリバイ」が求められますし,痴漢事件なんかでは「自分がどこにいたのか? どんな体勢だったのか?」を訴えなければいけません.
無いことを証明することはできないからって,ふんぞり返って「有ることを証明しろ」ということにはならないのです.
翻って,上記の政権与党の例はどうでしょうか.
上記の例であれば,行政を司っている政権与党のスキャンダルですよね.
国家運営の信用に関わる重大なことです.
その信頼性が問われているのですから,オープンにしたら国家存亡の危機に陥る可能性があるという機密情報でない限り,これらを開示するなどして「スキャンダルが無いことを(「証明」できなくとも)「了解」させる責任」は存在します.
なぜなら,行政府は国民や国家間から存在と行動が「信用」されることで成り立っているからです.
信用されなくなったら終わりです.
国民からは退陣要求やクーデターという攻撃を受け,国家間であれば戦争や経済制裁といった攻撃を受けます.
つまり,「信用」によってその存在や行動が成り立っている国家の行政を司る政権与党は,(詳細な議論は必要であろうが)「信用」がなくてもその生存が許されている個人や私的集団とは異なるものであり,常にこの「信用」を得る努力と仕組みが義務付けられていると言っても過言ではありません.
ばっさり言ってしまえば,より大きな信用が求められる存在,すなわち「政治家」や「政権」ほど,その信用を失墜させる事態が発生した場合に,それが「無いことを証明」する必要があるということです.
言い換えるならば,政権与党はその存在の性格からしてスキャンダルが出る事自体が「信用」を失っていることの現れと診ることもでき,その信用回復のためにも様々な手段を講じて「疑われていることが無かったことを証明する」必要があるのです.
「無いことを証明するのは『悪魔の証明』だ」などと悠長なことを言ってる場合ではありませんし,そもそも疑いをかけられるようなことをする方がおかしい.
もちろん,国家運営のためには清濁併せ呑む必要が有ることは百も承知.
だからこそ,信用を失うようなことはバレないようにやるべきだし,それがバレたのなら無能であったと評するしかありません.
私も過去記事で繰り返しているように,
「しょうもないスキャンダルを速やかに終息できない政権は,さっさと退陣した方がいい.しょうもないスキャンダルを揉み消したり対処できないのに,どうして国家存亡の危機に対処することができようか」
という話なのです.
なにも難しい話ではありません.
「政治家」「政権」という信用が大事な存在は,常に信用されるよう留意する必要がある.信用を失うような訴えがあった場合に備えて,それがデマであることを証明するための準備をしておけ.
ただそれだけのことです.
これは政治や行政に限ったことではありません.
信用が大事な存在は他にもたくさんあります.
上の方では「信用がなくてもその生存が許されている」と述べた一般企業や個人間のやりとりだって,信用が無いより有った方がいいということにおいては同じことでしょう.
なにかの疑いをかけられた時,
「無いことを証明することはできない.それは『悪魔の証明』だ」
などと言い逃れしますか?
そんなこと言ってたら,論理的には勝てても信用を失って,人間としての社会生活上極めて不利になります.
一般企業にしたって,信用と責任が求められる事柄については,自分たちの身の潔白を示すための予防線を張っておいたり,「無いことを証明する説明資料」を常に準備できる状態にするのが普通です.
個人についても,彼女や奥さんに対し,
「浮気であることが証明できないのであれば,それは浮気ではない」
などと言っていたら,ぶん殴られるか別れ話をもちかけられるのがオチです.
だから,どうせ浮気するにしても,バレないようにすべきです.
それは政治においても同じであり,それができないのであれば政権担当能力が無いと評価するしかないのです.
悪魔の証明を乱用してはいけません.
「それは悪魔の証明だ」
とふんぞり返って論じる精神性が,この社会から「信用」を消してゆくのです.
PS
ところで,上記のような話にはこんな反論もあるでしょう.
「悪魔の証明」を求められて滅亡してしまったとされる国があります.大量破壊兵器が「無いことを証明しろ」と迫られたイラク・フセイン政権です.
では,フセイン政権は悪魔の証明をしなければならなかったのか? ということですね.
悪魔の証明をつきつけられることと,それにどう対応するかは別の話です.
フセイン政権としては「無いことを証明することはできない」という趣旨のことを訴えたでしょうけど,それよりもアメリカ側の攻撃したいという思惑のほうが強かった.
フセイン政権には,それを退けるだけの材料がなかった.
それだけの話だと思います.
ところで,こういった話題に限らず,最近耳にすることが多くなってきたキーワードに,
「悪魔の証明」
があります.
■悪魔の証明(wikipedia)
悪魔の証明とは,
「無いことを証明することはできない」
というものです.
言い換えるならば,「有ることを証明することしかできない」
つまり,「被告(訴えられた側)には,自身の潔白を証明する義務はない」
そこから転じて,
「有った(有罪だ)と主張する側に,それを立証する責任がある」
という使われ方をします.
上記の解釈だけでもいろいろ注釈が必要だったり誤解があったりするのですが,それはこの際脇に置いといて,昨今この「悪魔の証明」がやたらと乱用されているのではないかと危惧しています.
たまにフェイスタイムを使って酒を交えた談笑をしている大学教員の先輩がいるのですが,先日この話題になりまして,
「最近さぁ,取ってつけたように『悪魔の証明』を持ち出してくる奴がいるけど,あれムカつくよね」
ってことで盛り上がりました.
別に悪魔の証明という考え方が間違っているって話じゃないんです.
使い方の問題なんです.
以下,あくまで「例えば」の話ですよ.
例えば,某国の政権与党にスキャンダルが出たとして,極めて怪しいということで追及があったとします.
それに対し与党支持者たちは,
「無いことを証明することなどできない.それは悪魔の証明だ.有ったと言う方が証拠を出してこい」
と反論する時なんかで用いられます.
そこまではいいんです.
問題はここからです.
続けて与党信者たちはこう言い出します.
「証拠が出せないのであれば,悪魔の証明に照らして与党は無罪だ」
でも,それは違います.
こういうのを「無知に訴える論証」と言います.
■無知に訴える論証(wikipedia)
「悪魔の証明」の方は有名になったんですが,こっちはまだマイナーですね.
無知に訴える論証とは,
「『Xであることが証明できないのであれば,Xではない』というのは間違い」
というものです.
悪魔の証明と類似するものとして,
「『Xではないことが証明できないのであれば,それはXである』というのは間違い」
とも言えます.
なんだか頭が痛くなってきた人もいるかもしれません.
でも,難しい話ではありません.
つまりは,
「根拠を示さなければ,その主張に説得力はない」
という,極めて普通のことなのです.
ちなみに,
「Xであることが証明できないのであれば,Xではない」
が間違いというのであれば,では正しくは何なのかというと,
「Xであることが証明できないから,Xであるかないかは分からない」
になります.
一般に「悪魔の証明」のほうが理由頻度が高い理由としては,
1)無いことを証明しなければならない存在(一般的には私人としての個人)が,それを求められる「場」において非権力者(裁判における被告人など)である
2)無いことを証明できなかったことによる損失(罰則など)が極めて大きい
3)無いことを証明するために割くエネルギーが膨大であり,それに留意しつつ活動・生活することが困難である
ということによります.
でも,無いことを証明するための努力が求められることに変わりはありません.
例えば,殺人事件なんかでは「アリバイ」が求められますし,痴漢事件なんかでは「自分がどこにいたのか? どんな体勢だったのか?」を訴えなければいけません.
無いことを証明することはできないからって,ふんぞり返って「有ることを証明しろ」ということにはならないのです.
翻って,上記の政権与党の例はどうでしょうか.
上記の例であれば,行政を司っている政権与党のスキャンダルですよね.
国家運営の信用に関わる重大なことです.
その信頼性が問われているのですから,オープンにしたら国家存亡の危機に陥る可能性があるという機密情報でない限り,これらを開示するなどして「スキャンダルが無いことを(「証明」できなくとも)「了解」させる責任」は存在します.
なぜなら,行政府は国民や国家間から存在と行動が「信用」されることで成り立っているからです.
信用されなくなったら終わりです.
国民からは退陣要求やクーデターという攻撃を受け,国家間であれば戦争や経済制裁といった攻撃を受けます.
つまり,「信用」によってその存在や行動が成り立っている国家の行政を司る政権与党は,(詳細な議論は必要であろうが)「信用」がなくてもその生存が許されている個人や私的集団とは異なるものであり,常にこの「信用」を得る努力と仕組みが義務付けられていると言っても過言ではありません.
ばっさり言ってしまえば,より大きな信用が求められる存在,すなわち「政治家」や「政権」ほど,その信用を失墜させる事態が発生した場合に,それが「無いことを証明」する必要があるということです.
言い換えるならば,政権与党はその存在の性格からしてスキャンダルが出る事自体が「信用」を失っていることの現れと診ることもでき,その信用回復のためにも様々な手段を講じて「疑われていることが無かったことを証明する」必要があるのです.
「無いことを証明するのは『悪魔の証明』だ」などと悠長なことを言ってる場合ではありませんし,そもそも疑いをかけられるようなことをする方がおかしい.
もちろん,国家運営のためには清濁併せ呑む必要が有ることは百も承知.
だからこそ,信用を失うようなことはバレないようにやるべきだし,それがバレたのなら無能であったと評するしかありません.
私も過去記事で繰り返しているように,
「しょうもないスキャンダルを速やかに終息できない政権は,さっさと退陣した方がいい.しょうもないスキャンダルを揉み消したり対処できないのに,どうして国家存亡の危機に対処することができようか」
という話なのです.
なにも難しい話ではありません.
「政治家」「政権」という信用が大事な存在は,常に信用されるよう留意する必要がある.信用を失うような訴えがあった場合に備えて,それがデマであることを証明するための準備をしておけ.
ただそれだけのことです.
これは政治や行政に限ったことではありません.
信用が大事な存在は他にもたくさんあります.
上の方では「信用がなくてもその生存が許されている」と述べた一般企業や個人間のやりとりだって,信用が無いより有った方がいいということにおいては同じことでしょう.
なにかの疑いをかけられた時,
「無いことを証明することはできない.それは『悪魔の証明』だ」
などと言い逃れしますか?
そんなこと言ってたら,論理的には勝てても信用を失って,人間としての社会生活上極めて不利になります.
一般企業にしたって,信用と責任が求められる事柄については,自分たちの身の潔白を示すための予防線を張っておいたり,「無いことを証明する説明資料」を常に準備できる状態にするのが普通です.
個人についても,彼女や奥さんに対し,
「浮気であることが証明できないのであれば,それは浮気ではない」
などと言っていたら,ぶん殴られるか別れ話をもちかけられるのがオチです.
だから,どうせ浮気するにしても,バレないようにすべきです.
それは政治においても同じであり,それができないのであれば政権担当能力が無いと評価するしかないのです.
悪魔の証明を乱用してはいけません.
「それは悪魔の証明だ」
とふんぞり返って論じる精神性が,この社会から「信用」を消してゆくのです.
PS
ところで,上記のような話にはこんな反論もあるでしょう.
「悪魔の証明」を求められて滅亡してしまったとされる国があります.大量破壊兵器が「無いことを証明しろ」と迫られたイラク・フセイン政権です.
では,フセイン政権は悪魔の証明をしなければならなかったのか? ということですね.
悪魔の証明をつきつけられることと,それにどう対応するかは別の話です.
フセイン政権としては「無いことを証明することはできない」という趣旨のことを訴えたでしょうけど,それよりもアメリカ側の攻撃したいという思惑のほうが強かった.
フセイン政権には,それを退けるだけの材料がなかった.
それだけの話だと思います.