2017年9月7日木曜日

体育学的映画論「告白」

興行的には大成功した作品ですので,見たことがある人も多いものと思います.
告白(wikipedia)
2010年に公開された,監督:中島哲也,主演:松たか子の映画です.

私はつい最近になって見ました.
学生の頃はTSUTAYAを利用してたくさんの映画を見ていましたが,2008年頃から数年前までは映画から離れた生活をしておりましたので,この映画のことも知りませんでした.
かなり興味深い作品でしたので,先日,気になったので原作も読んだほどです.

見たことがない人もいるかもしれませんので,ウィキペディアから「あらすじ」を引っ張ってきます.
とある中学校の1年B組、終業式後の雑然としたホームルームで、教壇に立つ担任の森口悠子が静かに語り出す。「わたしは、シングルマザーです。わたしの娘は、死にました。警察は、事故死と判断しました。でも事故死ではありません。このクラスの生徒に殺されたんです」一瞬にして静まりかえる教室内。この衝撃的な告白から、物語は幕を開けた。
映画でもこの「衝撃的な告白」から始まるのですが,その時の女性教師役である松たか子さんの演技が非常に上手いので,ここで一気に惹きつけられます.
冒頭のこの30分間だけで十分な作品じゃないかと思わされるほどですが,実際に,原作者によればこの部分だけで一つの作品だったようです.
告白 (湊かなえ)(wikipdida)

映画としてのエンターテイメント性の高さもさることながら,私としては本ブログで度々取り上げているテーマと共通することが興味深かったんです.
具体的に言えば,「世間の目」「大衆の反応」「いじめ問題」「教育の役割」といったところでしょうか.
こうした点は,原作の小説よりも映画のほうがよく現れています.映画監督によるところが大きいのかもしれません.

「少年法により裁くことができない『犯人』への復讐劇」というスタイルで進行する物語ですが,当然のことながら,そこで描かれているのは少年法に関する問題提起などという陳腐なものではありません.

「衝撃的な告白」から年度が明けたこのクラスでは,殺人犯と目される生徒への「いじめ」が始まります.
「お前,ぜんぜん反省してねぇだろ!」と吐き捨て,物が投げつけられる.私物が捨てられる.
そんな調子で盛り上がっていく加害者へのクラスメイトによる私刑は,いじめられている人物がどのような立場にあるかを踏まえても,クラスメイトの側に醜さが感じられます.

相手は殺人犯なのだから,これは「いじめ」ではなく制裁ではないか?
そんなわけで,この『制裁』を拒む生徒に対してもクラスメイトは牙を剥く.「人殺しに味方して,あんたには感情がないの?」

どうして人殺しに味方することができるのか?
それは他者に対して理解する姿勢があるかどうかです.
映画の視聴者の側には,その姿勢が強制的に与えられています.だから殺人犯へのいじめを醜いものとして見ることができる.

クラスメイトたちには,自分たちが「いじめ」をしている自覚なんてありません.相手は殺人犯なのですから,絶対的に正義は我の側にあると考えています.
ですが,こういう正義は疑ってかからなければなりません.

彼らは正義の鉄槌をくだしているフリをして,自分自身が楽しんでいるだけなのです.
誰も本気で殺人犯を制裁しようとなんて考えていない.本当に制裁しようと思ったら,本当に「反省しろ」と思ったのなら,どうすれば「制裁」や「反省」になるのか考えるはずですよね.
でも,クラスメイトたちはそれをしません.
これは中学生,ガキだからではありません.
大人もそうです.
大衆は「本当に向き合わなければならない事」には興味がないからです.

本当に向き合わなければならないのに,それが面倒くさかったり,実のところ興味がないというのであれば,関わらなければいいだけのことです.
でも,それでは楽しくないのが大衆というものです.
原作には,犯人への「制裁」を拒んだ女子中学生によるこんな語りがあります.
ほとんどの人たちは,他人から賞賛されたいという願望を少なからず持っているのではないでしょうか.しかし,良いことや,立派なことをするのは大変です.では,一番簡単な方法は何か.悪いことをした人を責めればいいのです.それでも,一番最初に糾弾する人,糾弾の先頭に立つ人は相当な勇気が必要だと思います.立ち上がるのは,自分だけかもしれないのですから.でも,糾弾した誰かに追随することはとても簡単です.自分の理念など必要なく,自分も自分も,と言っていればいいのですから.
(中略)
愚かな凡人たちは,一番肝心なことを忘れていると思うのです.自分たちには裁く権利などない,ということを・・・.
(中略)
悠子先生,直くんと修哉くんが人殺しなら,ここにいる子たちは何ですか?
いじめ問題や,それによる自殺などが発生すると,ワイワイガヤガヤ炎上することが好きな人達がいます.
そういう構図がすでに「いじめ」であり,事の解決にも,事態の収拾にも,ましてや今後の改善にもつながらないことは明白です.
それに対する理屈を捻り出す人もいます.「いじめの加害者は『制裁』を受けるという空気にしなければ,いじめは無くならない」などというものです.バカですね.

実際,上述した女子中学生は,映画ではこんなことを言います.
たぶん,みんな弱虫だから,悠子先生が突きつけた真実から逃げ出したくて,バカになりすましたんです.
このクラスは2年生です.だからなのか,この女子生徒の語りも中二病なところがありますが,それでも必死に考えようとしています.
人は,バカにされまいともがく一方で,都合よくバカであることを望む.
彼女はクラスメイトをそう評し,それに踊らされる新任教師をバカにしました.

この映画や原作小説では,女性教師による犯人への復讐という視点から始まり,最終的にも結ばれるのですが,事件に関するその他の関係者それぞれのモノの見方も示されていきます.
個々人が抱いている周囲の人物や事態への評価がそれぞれ異なること.これらに各々の言い分があり,そしてそれは「(我々視聴者には与えられている)全体像」を知らないために発生していることが,物語を進めるにあたり明らかになっていきます.

私としては,犯人の一人の母親(映画では木村佳乃が演じている)の心情を考えると居た堪れない気持ちになります.こういう状態になる前に,なんとかならなかったのかと気が滅入るんです.

女性教師が退職した代わりに赴任してきた「熱血バカ教師」なんか,読者や視聴者に対してもかなりのフェイクでしたね.
彼はたしかに熱血バカ教師ではありましたが,それでも本当に熱血だったのだし,何より彼の行動は,実は前年度担任である女性教師の指示によるものだった.
小説では,どうしてあそこまで熱血バカ教師を演じていたのか説明もあります.
なにより,新人教師がこんなクラスの担任を受け持ってしまったことは不運だったとしか思えません.

教師という仕事を簡単に考える人が多いんですけど,とても難しいことなんです.
生徒にバカにされていることが分からない教師なんて,そう居ませんよ.たいてい分かっているんです.でも,だからと言って明日から事態が好転するなんてことはない.
皆が皆,生徒の心をつかむ才能がある人間ではありませんから.
それだけに教育に関する相談相手は重要です.
作中の熱血バカ教師の相談相手は,娘を殺した生徒に復讐しようと目論む教師でした.これも不運ですね.

物事は多面的に見たほうがいい.
当たり前のことですが,それが実際には非常に難しいことと,それを怠った時に何が現れるのかを示している映画が本作です.