2018年7月30日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 55「学徒動員」

スポーツの記事なのに「学徒動員」とはどういうことか?
2020年オリンピック東京大会のことなんです.

先日,学生の頃から仲が良かったとは言え,中年にもなった我々大学教員が,故あって合宿所で一泊することになり.
そこで研究とか教育の話をお酒を交えて(面白おかしく)議論する機会がありました.

その話題の中に「オリンピック東京大会における,学生ボランティアをどうするか」というのがあったんです.
ぶっちゃけ,結構困っています.

以前から「学生ボランティアを出せ」とか「海外チームの合宿地・練習地を用意しろ」といった類の要望はあったんですけど,このたび文部科学省・スポーツ庁より大学に以下のような要求が入りました.
東京五輪・パラ「授業避けて」国通知、ボランティア促す(毎日新聞 2018.7.27)
スポーツ庁と文部科学省は26日、2020年東京五輪・パラリンピックの期間中にボランティアに参加しやすいように全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間を繰り上げるなど柔軟な対応を求める通知を出した。
多くの大学は7~8月が試験期間となる。通知では学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避けることを促した。授業開始時期の繰り上げや祝日の授業実施は学則などに基づき、学校の判断で特例措置を講じることができる。
当初の想定以上に学生ボランティアが集まっていないから,とのことです.
当たり前です.
文部科学省はこれまでに「大学は授業をシラバス通りしっかりやれ」「学生は授業に出席することが義務」「大学は学生が授業に出席しているかどうか管理しろ」といった圧力をかけてきました.
大学の授業なんてのは数回休むのは当たり前だと思っている30代以上の人たちには想像できないでしょうが,今の大学でその感覚は通用しません.

結果,現在の大学生は授業にちゃんと出席するようになり,授業に出席することが目的となっています.
その帰結として,大学も学生も,「授業出席」に支障をきたすようなシステムや行為を極力排除するようにりました.「部活の試合があるので休みます」とか「ゼミの活動で休みます」なんて理由は,授業を欠席できる理由になりません.これはボランティア活動も同じ.普通に「欠席」です.
一応,各大学独自の規定によって授業担当教員宛に「欠席理由書」「欠席への配慮のお願い」といったものがありますが,用意されない大学もあります.
原則は「欠席扱い」です.
私の授業でも,例えそういった書類を受け取ったとしても,いちいち理由を判断したり考慮するのが面倒なので,一律「欠席」にしています.こっちの理由は良いけど,こっちの理由はダメ,などと判断するのは公平性が保てないからです.欠席した分のマイナスは,出席態度と試験結果で取り戻せということにしています.

そんな中で,オリンピックごときのためにボランティア活動しようなんて思うわけがないでしょう.
それもこれも,元はと言えば文部科学省が仕向けたこと.
そのくせ,今になってオリンピックがあるからって「授業をしなくてもいい」とか「ボランティアを出せ」って,どうなのよ.
なので,これって「学徒動員ではないのか?」という話も出てきているわけです.

そもそも,なんで学生ボランティアを要求してくるのか?
スポーツ庁からの通達にはこうあります.
平成28年4月21日付け28ス庁59号で通知したとおり、学生が、オリンピック・パラリンピック競技大会等に参加することは、競技力の向上のみならず、責任感などの高い倫理性とともに、忍耐力、決断力、適応力、行動力、協調性などの涵養の観点からも意義があるものと考えられます。さらに、学生が、大学等での学修成果等を生かしたボランティア活動を行うことは、将来の社会の担い手となる学生の社会への円滑な移行促進の観点から意義があるものと考えられます。(30ス庁第236号より抜粋)
たったそれだけの理由です.
それだけの理由で,ボランティア活動できるように大学のスケジュールを変更しろと?
授業スケジュールや教務システムって,そんなにホイホイと簡単に変更できるものではないのです.

参加したい学生,参加できる学生だけボランティアすればいいのではないか.
いくらなんでも虫が良すぎます.
他の大学教員とも話していたのですが,「これも外国人留学生で対応できるよう規制緩和すればいいのではないか」と吐き捨てる人もいました.

繰り返しになりますが,オリパラでどうしてこんなにも学生ボランティアを要求してくるのでしょうか.
それは教育的価値があるからではありません.
大学の斡旋を通じて参加してくる学生ボランティアなら,ドタキャンが少ないからです.
上記の文言にしたって,これはあくまで建前です.本気にしてはいけません.

私も「神戸マラソン」を始めとして,関西地域のスポーツイベントのボランティア斡旋を担当していたことがあります.
そんな記事も書いたことがありました.

つまりこういうこと.
学生ボランティアと言っても2種類あるんです.
完全に自分の意思で参加するボランティアと,大学教員や部活指導者等の斡旋によって参加を促されたボランティアです.

前者には参加のモチベーションが高い人が多いのですが,反面,冷やかしに参加している人もいてドタキャンが怖い.しかもこのタイプは登録人数が少ないので,運営側としてはギャンブルな要素があるんです.

一方,後者は総じて参加モチベーションは高くないものの,斡旋した教員や部活指導者との人間関係を介して参加しているため,運営側の指示にも従順でドタキャンも少なく,必要人数が大量に確保できる上に,不必要とあらば簡単に切ることができます.端的に言えば,人数が読めて使い勝手がいいわけですよ.
全部が全部とは言いませんけど,大学でスポーツボランティアの斡旋業務をやっていた私としては,それが率直な意見です.

なにより悲しいのは,私も含め学生ボランティアを斡旋している人たちが,不本意ながらボランティア募集の時に使っていた「学生がスポーツボランティアに参加する意義」なる理由を,文部科学省・スポーツ庁が堂々と大学に向けて発していること.

責任感,倫理性,忍耐力,決断力,適応力,行動力,協調性の涵養.
授業で学んだことを生かす.
将来,社会に出た時に役立つ.

嘘じゃないけど,そんなに胸を張って言うことではありません.
っていうか,やっぱりこんなの嘘だし.ボランティアごときでそれらが身につくのなら,教育機関は指導に苦労していません.
これならまだ,「ボランティアスタッフの人数が確保できないから,オリンピックを無事に開催するためにも,大学と学生には人員確保の役割を担ってほしい」とお願いされた方が筋が通ります.

私もボランティアを広域に募集する際には「責任感がぁ〜」とか「キャンパス外での学びがぁ〜」とか「社会に出たときにぃ〜」などと歯の浮くような文言を使いますが,いざ集まった学生たちにこんな言葉はかけません.
必要とされているからやる.やりたいからやる.
ボランティアをすることによって自分自身が何かを得るのは結果であって,それを参加の理由にしてはならないのです.

ましてや大学の授業スケジュールを変更してまで取り組ませようとすること.
文部科学省とスポーツ庁は,まずは,そうまでしてオリンピックを開催しなければならない意義や魅力を,大学に示すことが礼儀ってものではないでしょうか.


2018年7月22日日曜日

やっぱり多くの国民に等しく大学教育が受けられる機会を与えることは重要だと思う

前回の記事では,昨今話題の女子大とトランスジェンダーの問題を取り上げましたが,もう一つ最近の話題である「大学教育無償化」について,それを推進する方向での意見を提示しておきます.

このブログでは,7年くらい前から「大学教育はチャラいことせずに硬派にいこう」と主張する一方で,「難関大学,高偏差値大学以外は役に立たないから潰せ」というのも間違いだと繰り返してきました.
で,そのこころは「大学教育をあまねく国民に享受させよう」というものです.

「無謀だ」「そんな予算がどこにある」「低偏差値の子供を大学に行かせてもお金の無駄」といったご意見もあるかと思いますが,これは次代を担う子供をどのように育てるのか? という日本人としての心意気の問題だと考えられます.
私としては,現状,国防費や福祉予算は据え置いても教育にかけた方が,皆さんが気にする「コスパ」は良いと思っています.

何年か前に,ある学会で研究のポスター発表をした際に,その場で安藤寿康先生という方とディスカッションする機会がありました.
我々の研究に興味を持ってもらえたようで,いろいろ興味深い質問をいただいたのですが,私はその時は安藤先生のことを,質問をしてきた研究者の一人として捉えていたのですけど,あとでこの学会に講演者として招かれた先生であることを知りまして.
その講演内容が非常に面白かったことと,私が常々考えていた体育・スポーツ論や教育論とも親和するものだったので,その後,著書も読ませていただきました.
例えば以下のようなものです.
 

一言で言えば,
「人間のパフォーマンスは,育った環境条件が同じであれば『遺伝』の影響が大きい」
というもの.
さらに言えば,
「教え上手な教師に習おうと,教え下手な教師に習おうと,その子供にとっての中長期的な教育効果に差は無くなる」
ということも,様々な研究データを根拠として主張されています.

これについては,御本人も講演や著書でも「安易に受け取られて誤解されることが多い」と困っているようですが,決して「遺伝で全てが決まる」わけでもないし,「教育を受ける意味がない」というわけでもないことが重要です.
つまり,教育においては「学校で教師から指導を受ける」という環境条件が同じであれば,あとはそこで子供がどのように育つのかは遺伝によるところが大きいということ.
逆に言えば,学校教育を受けた者と受けなかった者とであれば,そこには差が現れるわけです.

安藤先生の著書から引用すれば,例えば一卵性双生児の研究では,一方は優良大学を卒業,もう一方はFラン大学を卒業したとしても,一定期間が経って両者の社会的地位(所得・収入など)を比べると,そこに差はなくなっている場合が多いんだそうです.
たまたま通っていた高校レベルや入試対策の違いによって,入学・卒業した大学レベルが異なったとしても,そこから先の「社会人としての振る舞いやスキル」は遺伝によるところが大きいからです.だいたい7〜9割くらいが遺伝の影響だそうですよ.
ただし,ここで問題なのは「だから学校・大学教育なんて不要だ」というわけでないこと.
両者は,学校や大学の教育を受けるという「環境条件」が同一だからこのような結果になるんです.ここがこの現象を理解する上でのポイントになります.

別の観点からこの現象を見てみます.これは以前,私の後輩である東京都の高校教師から聞いた実話です.
あるクラスの担任を受け持っているその教師は,指導スキルに問題があることが校内でも危惧されていたそうです.社会人としても問題があるとされ,例えば会議でも不適切な言動をすることで有名.
実際,クラス運営もヤバいので生徒たちからも不安視されていました.
「生徒の名前を覚えていない」なんて当たり前で,「ホームルームや授業中に『先生』が寝る」,「学園祭の用意を生徒に丸投げ」,「進路指導を一切しない」等々,メチャクチャな先生だったそうです.
しかし,このクラスの生徒はなぜか「教育困難校」とされる当該高校の中でも不思議とトラブルや問題を起こさない.しかも,クラスの平均学力は学年トップ.
一生懸命親身になって生徒指導しても,トラブルが絶えず,勉強しないクラスがたくさんあるのに,どうしてコイツのクラスは安定しているんだ?
そんなわけで学校が調査してみると,どうやらこのクラスの生徒たちは「この担任に自分たちのことを任せると冗談抜きでヤバいことになる」ということで,自発的に勉強するようになり,生活態度も節制し,進路も自分で決めるようにしていることが分かりました.
絵に描いたような反面教師ですね.

もちろん,この教師は「現代日本社会」においては極めて問題のある教師です.
受け持った生徒やクラスが,たまたま重大事件を起こさなかったから,マスコミや保護者に糾弾されずに済んでいるとも言えます.
教師失格の烙印を押されても仕方無いでしょう.
しかし,ではこの教師が「生徒に悪影響を及ぼしているのか?」「悪い人間を育てているのか?」と問われれば,これは判断や評価は難しいことが分かってくれるかと思います.
と同時にこの事例が教えてくれるのは,人間とは,与えられた環境下で課題に取り組む中にあって,その最適解をひねり出すということ.そして,それこそが教育の本質なのではないか.

この問題教師は,たしかに一般的に認識されている「良い教育」はしていないかもしれません.
やっていることも極めて非常識.このクラスは当初,大混乱だったことは想像に難くありません.
ですが,彼なりに「高校教育(中等教育)」を生徒にしっかり授けているわけだし,それによる効果もタイムラグを置いて現れている言えます.

教育の語源である「エデュケーション(Education)」には,その人が持っている能力を「導き出す」という意味があります.
能力は植え付けるものではなく,引き出すもの.
まさにその通りだということです.

では,話を大学教育無償化につなげましょう.
現在,日本で取り沙汰されている大学教育無償化構想は,「無償化する代わりに,政府の要望を聞き入れさせる」こととの抱き合わせで進んでいます.
具体的には,「卒業に必要な単位の1割以上を企業の実務経験のある教員が担当する授業とすること」とか,「外部理事を複数任命すること」といったこと.
だからとても危険です.
大学無償化、支援対象に私立大学などから異論(大学ジャーナル 2018.5.28)
「大学を支援する政策なんだから,政府の要望を聞くのは交換条件として当たり前じゃないか」と思う人は結構多いと思いますが,それがダメな理由は過去記事でいっぱい書いていますし,ある意味このブログ全体の一貫したテーマなのでここでは割愛します.

大切なのは,大学で行われている高等教育を多くの国民が受けられる機会を,純粋に増やすことです.
何かにつけて今の政府は,大学を「就職予備校」とか「職能養成学校」にしたがりますが,重要なのは高等教育の普及です.
高等教育は役に立たないからと,社会や世間の要望を取り入れることではありません.大学は学術研究を追い求めて,そのエッセンスを学生に振り掛けていればいいのです.
それによって学生がどのように育つか,それは本人の資質(遺伝)にかけるしかありませんが,まっとうな高等教育を受ける機会が与えられることは,国や社会全体のことを考えれば決してマイナスにはならないことを意味します.

では「高等教育」とは何か?
それは「モノの考え方」を身につける機会です.
これは,昨今流行している「考える力」とは微妙に違います.
以下,昔の記事で書いたものをそのままコピペしたものですが,大事なので繰り返しておきます.

大学において学生が学んでいるのは,それぞれの教員が授業で扱うモノに対する「考え方」です.
例えば「経済学」であれば,その教員が「経済」や「経済学」というものをどのように捉えているのか,その「考え方」を学ぶのです.決して「正しい経済学」なんてものではないし,もともとそんなものは存在しない.

ときどき,「大学で学んだことは実社会では役に立たない」とか「5年もすれば価値は下がる」などと言われることもありますが,これこそ大学の授業を「何かに役立てるための “パッケージ” を手に入れる場」だと勘違いしている典型です.
大学は職能養成学校になってはいけないし,そもそも大学では職能養成できない理由がそこにあります.

大学教員が学生に受け取ってもらいたい事とは,この世界を見つめる上での羅針盤となる「モノの考え方」なのです.
具体的な例で言えば,学生が将来一人で,もしくは誰かと或る “それ” について議論しなければいけない際に,より正しい結論や答えを紡ぎだすための体力をつける時間が大学の授業と言えるでしょう.
それはどのような科目であれ関係ありませんし,何年経っても価値は下がるものではないのです.

誤解を恐れずに言えば大学の授業に「答え」はなく,「考え方」が問われているのであって,それゆえ「教師」ではなく「(答えを探し求めている者)研究者」が授業を行っています.

ところで,学校教育や高等教育をあまねく国民に享受させることは,決してバラ色の未来を約束するわけではありません.
冒頭にご紹介した安藤先生も解説していますが,教育が平等に普及すればするほど,『遺伝』による差が明瞭になっていくのです.
すなわち,どうしようもない格差,越えられない壁が明らかになってくることを意味します.

しかし,それがどうしたというのでしょう.
もともと,人間の才能には差があること,その能力の上限に差があることは本能的に知っていることではないか.
だからこそ,そうした差を認めた上で,お互いが与えられた役割をこなしつつ楽しむスキルを養う機会が必要になります.
それが如実に現れるのが身体能力であり,体育・スポーツの場ではないかと私は考えています.
教育において,わけても高等教育にこそ「スポーツ教育」が必要な理由がここにあります.
大学における体育授業の意義

そのへんも含めて,あとは以下の関連記事も読んでください.

関連記事
道徳教育は体育でやりましょう

2018年7月11日水曜日

続・女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

最近,こんなニュースが大学界を騒がせています.
「心は女性」の男性受け入れへ…お茶の水女子大(読売新聞 2018.7.3)
心と体の性不一致学生入学検討へ(NHK 2018.7.3)
いきなり出てきたものではなく,この話題はかなり以前から取り沙汰されていました.
私も1年くらい前に記事にしたことがありますし,仲間内でも「もしトランスジェンダーの学生が希望してきた,どうするんだろうね」などと話していたものです.
女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?
今回の記事は,その続きとします.

なお,この話題は日本に限ったものではありません.
【スミス大学】アメリカの名門女子大、トランスジェンダーの入学が可能に(ハフポスト 2015.5.4)
アメリカ・マサチューセッツ州にある名門女子大「スミス大学」が5月2日、トランスジェンダーの学生の入学を2015年秋入学から許可すると発表した。男性に生まれたが、女性としてのアイデンティティを持つ学生は入学の対象となる。一方で、女性に生まれた後に男性のアイデンティティを持つ学生の入学は許可されない。
過去記事でも書いているように,私は「どっちでもいい」と思っていますし,結局のところ「大学次第」だと考えています.
大学の教育方針に沿うのであれば,生物学的性差も社会学的性差も「こうでなければならない」という判断基準はないと思いますよ.

「この際,女子大の存在意義を見直したほうがいいのでは?」などと言い出す人もいますが,事はそんなに大げさにする必要はありません.
女子学生だけの環境で学びたいという要望が存在しており,女子だけで学ばせたほうが学習が円滑に進むという教育者たちの経験則と現実があるのですから,この上なにを論じる必要がありましょうか.
同じことが「男子校」にも言えるわけですから.

もし「女子大」とか「女子校」の存在意義を論じるとすれば,少なくとも日本の女子大学が誕生した理由である「女性の高等教育機会の提供」は既に達成されているものと考えていいでしょう.
かつて,日本の高等教育(大学)には女子は遠ざけられていましたので,それを補うものとして女子大学が設置された経緯がありました.
しかし,その差は非常に小さくなってきており,2017年の内閣府調査によれば,大学進学率は男子:55.6%に対し,女子:48.2%です.
また,男女ともに入学希望者が多い難関大学とされるいくつかの共学大学においても,入学者の割合は女子のほうが高いところもあります.

あと,女子大にどんな恨みがあるのか知りませんが,なんだか執拗に文句つけてくる人もいるんです.
例えば,「どうせ社会に出たら異性との交流があるのだから,大学は共学にすべきではないか」といった,それこそ男性的発想.
どうやら世の中には「女子大=閉じられた秘密の花園」というエロ漫画的妄想を抱いている方々がいるんですけど,落ち着いて考えてもらえれば,そんなわけないことに気づいてもらえるはずです.
詳しくは過去記事に書いているので,そちらをどうぞ.
女子大に「体は男性、心は女性」の学生を受け入れられるか?

とは言え,ここで簡単に説明すれば,教壇に立つ教員は私みたいな男性教員の方が比較的多いし,事務職員だって男性の方が多い.トイレの清掃に入ってくる用務員さんも男性だし,学生も門を出れば普通の社会で生活する一般人.クラブ活動やサークルで他大学の男子学生と交流することも多く,男性社会から断絶された空間などではないのです.

ただ,私が今回のニュースで驚いたのは,「体は男性」の学生を,日本の女子大が受け入れることを検討していることです.意外と早いペースで価値観の変化が起きているんですね.
逆なら普通にあり得るかなって思っていたので.つまり,「体は女性で,心が男性」の方.
まあ,そういう人は既に以前から女子大に入学していたのでしょうけど.

ここで私が再度問題にしたいのは,「体は男性,心も本当は男性」という学生をどのように判別するのか?ということです.
繰り返しますが,私はその女子大学がどのような教育をしたいのか? が最も重要な判断基準だと考えていますので,あんまり外野から意見するとおせっかいな話になることを承知の上です.
でも,内面を重視して外面を脇に置くような姿勢には,ちょっと違和感があります.
実際,お茶の水女子大学の説明では以下のような状況.
「心は女性」の学生、事前申告で確認 お茶の水女子大(日経新聞 2018.7.10)
受験前にトランスジェンダーであるとの事前申告があれば、大学が確認して受験を認めるという。(中略)トランスジェンダーの場合は事前に申し出てもらい、大学が資格に該当するか確認する。具体的な確認方法については未定。
つまり,現時点では「体は男性,心も本当は男性」という学生をどのように判別するのか未定のようなんですね.

私は,女子大であればこそ「本人の心が女性」であれば入学OKという基準には疑問があります.
というのも,大学教育というのは,人と人との交流によって成り立っていくものであり,本人の主観だけでなく,他者からの評価も重要な教育資源になります.相手が女性か男性かの判断にしても,決して無視できない基準です.

そもそも,女子大学は「女性への高等教育機会の提供」をその目的の一つとして誕生しています.
そしてそれは,女性という「戸籍」上の性の問題であり,女性らしい「外見」という性の問題でもあります.
つまり女子大学というのは,他者から「女性」として扱われている人間のために用意された高等教育機関であり,他者から「女性」として扱われている人間が集う大学という性質が強いところです.

お互いを「女性」として認識し合えている環境下にあって,女子大らしい教育が成り立つと言えますし,実際,私も女子大での授業のオリジナリティはそこにあると実感しています.
よって,本人が「私は女性」という認識を持っているからと言って女子大学に入学するのは無理があるように思うんですよ.
言い換えれば,本人が自分のことをどう思っているか,ということよりも,周囲の人間がその人をどのように思っているのかが大事なんです.
別に外見差別や性差別をしているわけではなくて,大学教育や学友との学びにはそういう側面があるっていうことです.
(そもそも,どちらかって言うと私は,女子大学に歴史的意義はあっても「将来的に女子大学は不要」と考えているタイプですし)

もちろん私も,「本当に心が女性」かどうかを判別できるのであれば,そうした人を女子大学に入学させるのは歓迎します.
けど,現時点では時期尚早だと思います.判別基準も曖昧なんだし.

「女子大入学の条件は外面だ」なんて受け取られるような事を言うと,「性の多様性が・・・」といった文句が出てきそうですし,実際にお茶の水女子大学の説明会ではそのような言葉が出たようです.
お茶の水女子大「性には多様性がある」 トランスジェンダーの女性を受け入れる理由を説明(ハフポスト 2018.7.10)
本人の主観を重視するのであれば,共学に入学するのが正統でしょう.
わざわざ女子大に入学する理由がないじゃないですか.「学習の機会」という意味においては,上述したように既に女性であることによるハンディキャップは無くなっています.

だからこそ,現在の女子大の存在意義とは,お互いを「女性」として捉え合う環境での学びの空間の存在です.その学習環境の意義は認めます.
逆に言えば,そうした学習環境の提供に疑問があるのであれば,それこそ女子大学であることについて疑問を呈する時期だと思うんです.

2018年7月9日月曜日

田舎暮らしへの失望に失望

昨日,こんなニュースを見ました.
昨日に限らず,この手のニュースはしょっちゅう目にします.
田舎育ちの都会生活中の私ですから,この手のニュースには感慨深いのでコメントしておこうと思いました.
以下,お暇だったら読んでください.

恐怖の実話!悪夢と化した「夢の田舎暮らし」(Yahoo!ニュース 2018.7.7)
子どもが産まれたら、人も土地も開放的なところで育てたい──。
東京生まれの東京育ちだった石沢友美さん(仮名)は、子どもを身籠もったと同時に、東京・吉祥寺から山梨県峡北地域のある集落に移住を決めた。3年前、32歳のことだった。
(中略)
だが住み始めてほどなく、最初の“事件”に直面する。ゴミが出せないのだ。
移住に当たっては役所の窓口にも何度か足を運び、生活の仕方などをいろいろと聞いたつもりだった。だが、ゴミが出せない、というのはまさかの展開だった。
「高さは人の背丈ほどもあって、幅はそれこそプレハブ小屋並みの長さの立派なゴミ集積所があるのは知っていたんです。市の有料のゴミ袋を買ってそこに出せばいいものと、頭から考えてしまっていて……」
移住して間もなく、ゴミ出しに出向いたとき、目の合った人から「あんた、名前は?」と訊かれ、丁重にあいさつを返した。
するとほどなく、自宅に地元集落の役員だという初老の男性が現れたのだ。
「あれ(ゴミ集積所)は組(集落)のもんだから、組に入っておらんもんはあそこには出せん」
友美さんはこう応じた。
「では、ちゃんと会費をお支払いして組に参加させていただけませんか」
だが、組長(町内会長)と相談してきたという男性が再び自宅を訪れ、こう告げた。
「悪いけんど、組長がうちの組にはよそから来たもんは入れんっちゅうとるから」
「じゃあ、ゴミを出せないの?  そんなバカなことって……」
バカはお前だ.と言いたい.
都会だって,ゴミ集積所は指定の場所にしか出せないでしょう?
お金を払ったからって,誰でも捨てられるゴミ捨場なんて怪しい要求が成り立つわけがない.都市部でもゴミの集積・処分問題は深刻な課題だというのに.
それと一緒だということが分からないのですね.
(こういう「社会的課題」に対する無頓着が「都会VS田舎」問題の本質にあるのですが,それは後述します)

生粋の田舎育ちである私には,そこに書かれている内容が手に取るようイメージできます.どういう「ゴミ集積所」なのかも明瞭に察しがつく.
鮮明にイメージできるからこそ,この「石沢友美さん(仮名)」のやっていることがどれだけ非常識なのかも分かります.
まあ,都会育ちの人たちの多くにはチンプンカンプンなのでしょうけど.

上記記事のリンク先に行って読んでもらうといいのですが,他の事でもあたかも「田舎の慣習に振り回されて困っている」ような書きぶりになっていますが,それってのは,人と人とが作り出す「社会」を構成・運営していく上で当然のことを要求されているだけのこと.
都会ではそれらが公営サービスとしてオートマチック化されていて,この都会育ちの人間たちには見えていなかった,それだけのことです.

細かいこと抜きにして,結論から言いますよ.
結局のところ,移住してきた都会育ちの人が田舎の人に嫌われるパターンとは,自分自身がその社会を構成する一部になろうとせず,なんでも「金」で解決しようとするからです.
言い換えるならば,それまでその地域の人々が長い年月をかけて培ってきた「関係性」によるバランスを,金銭という虚構の価値によってイコライズできると考えている.
そのくせ,「田舎は排他的」だとか言い出す.
本当に排他的なのは自分自身であることに気づきもしない.
社会的サービスを享受するためには,その地域社会への貢献が必要なのに,その貢献を金銭的なもので済ませられると考えているんです.
(これは「ふるさと納税」がうまくいかない理由の一端ではありますが,今回は割愛します)

そのゴミ集積所だって公営のものではなく私的な場所なのだから,普段から管理やメンテナンスをしてくれている人がいるわけです.
つまり,ここはあくまで私有地を使って,その地区の知り合い同士で私的に共有している「ゴミ箱」なんですよ.
さらに言えば,これは記事中には書かれていないので推察するしかないことですけど,そこに捨てられたゴミの中でも,公共のゴミ回収車が持っていかないゴミを処分場に運搬しているのは,その地区の誰かが担当している可能性大ですね.たいてい,大型トラックを持っている若手のオッチャンがやっているものです.私がもし地元・実家で生活していたら,その担当は私だと思います.

ようするに,このゴミ集積所というのは都市部のように回収ルールが決まっているところではなく,ゴミ処分場に自分たちで持っていくために用意しているスペースであると考えられます.
公共サービスが行き届かない地域の場合,そういうスペースがよくあります.
そんなところを,どこの馬の骨とも知らない人に使わせるわけないでしょう.勝手に出してる輩がいたらキレるわ.

さらには「お金を払うからゴミを出させてくれ」って,人を舐めてんでしょうか.
これはちょうど,宅配ボックスが無いマンションで「アマゾンとかの荷物を受け取りたいけどいつも部屋にいないから,お金を払うので貴方の部屋で受け取ってくれ」って見知らぬ部屋の住人から言われているようなもの.
それってお金の問題じゃないし,お金もらってもやりたくない.っていうかお前,誰? ってなるでしょ.

都会人が田舎に移り住んできて言う「排他的」とか「古臭い慣習に縛られている」というお定まりの文句は,たいてい,一歩引いて考えてみたら理不尽でぶっ飛んだ文句である可能性が極めて高い.
(ちなみに,田舎の宅配便は,不在の場合には隣の家が受け取ります.宅配業者もそのあたりの事情は知ってる場合が多いですから)

実際,それを匂わすように,上記記事の続きにはこうあります.
地域に住んでいる者が、有料のゴミ袋を購入しながら、ゴミ収集のサービスを受けられない。この状況に異議を唱えた友美さんに、役所の言い分はこうだった。
「集落のゴミ集積所は集落の私有地にある私有財産で、公共財ではないのでどうしようもできません。もし、移住の方が何世帯か集まって新たにゴミ集積所を作ってもらえれば、そこに回収には行きます。新たにゴミ集積所を作るに当たっては補助金も出しています」
「移住者こいこい、と謳う一方で地元でゴミひとつ出せない状況を変えられないのは役所の怠慢、不作為ではないのか。この時代に『あそこの組長は頑固だから……』で行政指導ひとつできない場所が、日本の移住人気ナンバーワンだなんてふざけたことを謳わないで欲しい」
ふざけてんのはどちらでしょうか.
基本的なところに立ち戻りましょう.ゴミは,自分で処分するものです.
いくら都会人であっても,これは子供の頃に教えられたはず.

だから田舎では自動車が必須と言われます.
その足が無いお年寄りは,隣近所の人が対応します.どうしても無理な場合は役所が対応する.
で,その人的資源が足りていないから困っている,っていうのが昨今ニュースなっているわけですね.

さんざん文句つけて,結局この記事の人は別の場所へと移り住んで落ち着きます.
集落で数々の恐怖体験をした末に、友美さんはやはり移住者夫婦の紹介で、わずかな距離にある、移住者が多い別荘地域に転住したのだ。そこには大阪や東京から来て子育て、田舎暮らしを満喫する多くの移住者が集まって住んでいる。
ゴミ出しはもちろん大丈夫だし、なにより「もの申す」などと称して人気の少ない神社の境内や公園に呼び出されることもなく、「厄介者」などという時代錯誤の暗い表現などとも無縁の新天地だ。
最初からそうすれば良かったのです.
公共サービスが行き届くような人口密度があって,伝統文化や慣習がなく,新しく開発している地域の方が移住者にとって心的ストレスが低いことは常識的に考えて分かるはず.
むしろ,どうして最初に伝統集落に住むことを選んだのか?

記事にあるこの人は実在する個人なのかどうか不明ですが,破天荒なキャラクタであることが察せられます.きっと周囲からは「周りの人のこと考えないよね」って言われてるんじゃないかな.
記事を読む限りでも,最初の移住理由が「土地や人が開放的」ということで,展望の良いところを選んでるわけです.そこには「社会」に対する考慮がないんですね.
「土地や人が開放的」っていう理由も,都会での人間関係が嫌になって,田舎であればそれが開放されるとでも考えていたんじゃないか?
つまり,この人にとっては田舎の「土地」も「人」も,自身の生活を満足させるための備品や風景でしかなかったんですよ.

長期の観光旅行みたいなもの.
「ホームステイで現地の生活を満喫する」って勢いよくやってきたものの,やっぱり辛くなったのでホテルで滞在することにしました.ここなら周囲の人たちも皆「観光客」だから気楽だね,って.
それと同じことを言っているわけですから.

もっと言えば,記事中の人が落ち着いたという地域にしたって,あと30年くらいすれば立派な「新規入居者に厳しい田舎の集落」になるであろうことは容易に想像できます.
こういう人間模様を描いた文学作品やSF小説などは山ほどあるのでイメージしやすいでしょう.

もちろんこれは,「空き家バンク」なる制度でこの人にこの家を紹介した役所の責任とも言えます.ちゃんと移住理由を確認しておくべきでした.
超ド田舎育ちの私からすれば,田舎の伝統集落になんの縁も知人もなく移住するなんて自殺行為だと考えます.
こういうところは,都会人でも分かるようにマンションで例えれば「ルームシェアリング」しているようなものです.まして,伝統的な所であれば,新規入居者は「居候」のような立場と思ったほうがいい.っていうか,それくらい想像できなくて人間は務まらんだろ.

人間は古来,土地を拓いてきたし,そのために他者と関係性を結んできました.
生活空間だけがぽっかりと断絶された状態で存在することなどないのです.
しかし,都市部ではそうした「土地」や「人」への意識が極めて希薄になります.
それは,超ド田舎育ちの私が,大学生時代から都市部で生活するようになって身に沁みて感じていることでもあります.
なかなか言語化できないものですけど,自分が社会に対し何も関与しなくても,その生活空間が成り立ってしまう空虚さであり,言い換えれば「気楽さ」です.

そもそも,当たり前ですが田舎の人たちにしたって「新規入居者に厳しくしたい」と思っているわけではありません.
その土地の生活に馴染んでもらって,同じ土地の同居人として助け合って暮らしていきたいと考えています.
だって,「移住者VS田舎人」のトラブルとは,どれも「その地域にとってのトラブル」を回避するために起きていることだからです.

もっと言えば,メディアで「移住者VS田舎人」という構図でのトラブルが取り沙汰されることが多いだけで,もともと田舎ではこうした人間関係のトラブルは発生しており,別に移住してきた人だけを目の敵にしているわけではないんです.
複数の人間が集まって定住するためには,社会を形成する必要があります.そのためには「排他的な人間関係」を築いていては成り立ちません.だから田舎では積極的にコミュニケーションが図られるし,要望や要求がストレートです.
それに対し「田舎は排他的」だと感じている人が多いのは,自分の生活空間や生活パターンを侵されたくないという思いが強すぎる,すなわち,「本当に排他的なのは自分自身」であり,「他者に無頓着で無関心」であることに気づいていないのですよ.

画して,都市部では「排他的な個人」と「他者への無関心」がミックスされて,社会は田舎よりも混沌としてきます.
その例は数多.
小池百合子とか橋下徹みたいな人間がトップに座ったり,そうかと思えば蓮舫とか辻元清美みたいな人間が支持を集める.
これが都市部の怖いところです.あんなキチ○イじみた政治家は田舎では当選できません.

例えば,このブログでも結構取り上げていた「築地市場・豊洲移転問題」なんかが典型です.
騙された? いえ,判断力の問題でしょ
築地市場土壌汚染問題今更何故報道
あんなの,当事者(漁業,小売店)の人たちに判断を任せればいいじゃないか.と田舎の人間は考えますが,なぜかそれがニュースになる.しかも全国ニュースにもなる.

え? それは一つの問題について社会全体で捉えようとしているから,都市部が「排他的」「無関心」ではないことを意味しているのではないか,って?
違いますよ.排他的で無関心だから,あんなバカバカしいことに大騒ぎできるんです.

当事者の方々のことを思えば,こんな話は「市場の皆さんで落とし所をつくってください.私達は美味しいお魚が食べられればOKですので」となる.
より新鮮で安全な魚を扱いたいと考えるのが市場の関係者というものです.それが仕事ですから.だったら,そうした彼らの要望や利益を考えるのが大事でしょう.
ところが,そうした当事者の方々のことなんか考えもせず,「自分自身」に降り掛かってくる可能性があるとなったら,言いたい放題になるのが都市部の政治です.
事情を無視して専門的知識もないのに「安全ではあるが安心ではない」などと言い出したり,そういう煽り立てることが上手い政治家が当選しちゃったりする.
田舎なら「あいつは口先だけで周りの人間のことを考えないから,投票しないように」などと口コミが広がって嫌われます.
それもこれも,田舎において人間関係のトラブルが多いことと,都市部においては他者に無関心で排他的であることの裏返しです.

「田舎を飛び出す」という表現がありますね.
独創的なアイデアを受け入れてくれない,凝り固まった慣習に縛られた田舎を見限る若者を示唆する言葉です.
たしかに,田舎にはそのような部分があることは否めません.
一方,都市部では独創的な人間を受け入れるキャパシティもありますが,そのトレードオフとして「バカが許される」という部分があることも否めません.

都市部では,手に負えないバカがいても警察が逮捕してくれるし,大人しいバカは施設で対応してくれます.
田舎ではそうはいきませんので,皆でバカがのさばらないようお互いを注視しています.
田舎に移住してきた人が言う,「新参者は監視される」というのはそのためです.総人口が圧倒的に少ないのですから,一人のバカが現れるとその地域を破壊することにつながります.

危険なのは,都市部は人口密度が高いから,バカが少々いても埋没することです.
ちょっとバカな奴がいても,それを上回る大バカが近所に住んでたりする.
その大バカも周囲に似たようなバカが(絶対数として)たくさんいるから,「実は俺はたいしたバカではないのかもしれない」などと考え出す.
問題なのは,そうしたバカの自覚がない人間が繁殖していくことで,少しのバカはご愛嬌となっていくことです.
こうして「ただのバカ」だったはずのバカは,「愛嬌のあるバカ」とか「馬鹿にできないバカ」という評価を得て,社会のいたる所に蔓延します.

このような独創的なアイデアを持ったバカが蔓延した社会では,
安全な魚市場を安心ではないと煽ったり,
自国民にカジノをやらせようとしたり,
18歳のガキに媚を売ったり,
TPPに加入して自国の農業を破壊しようとしたり,
謎の伝統エチケットを流布したり,
電車に整列乗車したり,
ラーメン屋に行列をつくったり,
安倍晋三を国のトップに据えたままにします.

関連記事はこちら↓
築地市場土壌汚染問題今更何故報道
カジノの使い道
東京終了のお知らせ
もうちょっと本気で農業のこと(農家が農業をしないわけ)
恐怖!TOKYO GOOD MUSEUMとかいう謎のプロジェクト
整列乗車はマナーではない
じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚

というわけで,ここまで読んでくれた方は,その上で他の「田舎暮らしに失望した」系統のネット記事も読んでみてください.
その著者たちの,傲慢で無知蒙昧な傍若無人ぶりが手に取るように分かるでしょう.
耐えられない! 田舎は排他的だと実感したエピソード3つ(タイケン団 2017.8.17)
田舎に住みたくない理由8つ(今より少し良い生活 )
田舎が廃れていく理由は田舎者の陰湿さが原因(The Gizmosquito 2017.6.18)
お前バカか? って言いたくなるような理由やエピソードばかりです.


2018年7月5日木曜日

大学が置かれた現状を再確認

大学教育に関するニュースがたくさん出てきた今日このごろ.
実は切実な問題である・・,
の話でもしてみようかと,女子大での仕事経験のある私は考えていたのですけど,もうちょっと「世間の賑わし度」の高い方から取り上げます.

昨日からのニュースで出てきたコレ↓
東京医大理事長が便宜依頼、学長と息子合格指示(読売新聞 2018.7.5)
文部科学省の私立大学支援事業を巡る汚職事件で、受託収賄容疑で逮捕された同省前科学技術・学術政策局長の佐野太容疑者(58)(4日付で大臣官房付に異動)に対し、東京医科大学(東京)の理事長が支援対象の選定で同大に便宜を図ってもらえるよう依頼していたことが関係者の話でわかった。その見返りとして、理事長と同大の学長は、佐野容疑者の息子を同大に合格させるよう学内に指示していた。
各業界には,これといった証拠がないことや,それを公に晒すと自分の身も危ないから口にされていないだけで,よくある悪巧みというものが存在します.
今回の話もそれです.

当然ながら,そんな話題ですからその他の大学さんたちは以下のような反応になる↓
他大学「ありえない」選定の名誉欲しさに焦り?(読売新聞 2018.7.5)
私立大学の支援事業を巡る受託収賄事件で、問題となった事業の対象に選ばれた他の大学からは「あり得ない事件だ」と驚きの声が上がった。東京医科大は2016年度に落選しており、翌17年に選定された際には大学のホームページでPRしていた。専門家は「『選ばれた大学』という名誉欲しさに、焦りがあったのでは」と指摘している。
絵に描いたようなカマトトですね.
何度も例に出している,「高校野球の特待生は違反です,に対する反応」と同じ類のもの.
プロ入り前の選手に対する,スカウトからの「食事代(という名の賄賂)」なんかもその一種です.

あのさぁ,それが横行していることなんて,最初から知ってたでしょ? ってことなんですよ.
実際,このニュースが出てきた時,私はこんな大騒ぎになるとは思いませんでした.
やっぱり,その時々の世間の関心や嗜好が大きく影響するんでしょうね.
たしかに,よくよく聞けば大問題だし,それでいてしょうもない話なのが印象的な事件ですけど.

最近話題になっている学校・大学スポーツの「危険なラフプレー」についてもそうです.
あんなの,競技スポーツ経験者からすれば,そこら中で発生していることなんて知っています.
課題としなければいけないのは,頻発しないようにするためのシステム作りや工夫,発生した際の当事者に対する対応方法や処分の手続きについてでしょう.
カマトトぶってセンセーショナルに報道するのはやめてほしいですね.

今回の事件ですが,当然ながら,多くの大学が同じような不正をしているわけではありません.
こういう悪巧みをするのは,一部の大学経営陣や官僚だけであろうことは申し添えておきます.

それに,大学にはこの手の話題が好きな人がいるんです.
「選考に有利になる方法がある」とか,「あの人は文部科学省のお偉いさんと仲がいいから,助成金とか支援金の選定で鉛筆を舐めてくれる」とか.
政治的に動くことを得意とする教員や職員が,これぞ私が生きる道とばかりに目を輝かせる話題.
彼らにとっては,そうした政治的駆け引きやパイプの太さ,コネクションへの造詣の深さがステータスなんです.

別に,政治的に動く教職員を悪く言うつもりはありません.彼らの多くは,節度と法律を守って仕事しているのだろうし,そうやって政治的に活躍してくれる教職員がいないと組織というのは機能しませんから.

上記の新聞記事では,「専門家は『選ばれた大学』という名誉欲しさに、焦りがあったのではと指摘している。」とありますが,私見としては,「焦り」ではなく「政治的な活躍をこじらせた」可能性も高いと思うんですよ.
というのも,私はこういう類の大学トラブルは「大学としての名誉」よりも,「個人的なプライド」によって発生することをよく見てきたからです.

多くの教職員は,むしろ焦ってなどおらず,「いかにのんびり過ごすか」「いかに研究に打ち込めるか」「いかに学生を成長させるか」を重要視しています.
ところが,そうした「のんびり」とか「研究」とか「教育」に自分の存在意義や役割を見出だせず,政治的な活躍によって大学内での地位を確立している教職員がいて,そんな彼らが輝ける機会というのが今回のような場面だったわけです.
そういう意味では「焦り」もあったのでしょうけど.いずれにせよ個人的なものです.

問題なのは,こういう個人的なプライドや存在価値の発露が,大学運営に対し強力に影響している現状です.
もちろん,こうした人間関係と政治的な力学が大学運営において働いていることは以前からありましたが,その影響力が年々増加していることを肌で感じます.
どんどんヤバくなっていきますね.もう手がつけられないほどに.

※なお,こうした事態に対し,私はもう諦観しかしていません.
「もはやこれまで」とはこのことです.


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2018年7月3日火曜日

桂歌丸さん逝く

サッカー日本代表が,ベルギー代表に惜敗したことで持ちきりです.
今日も学生や教員の話題はその話題一色でした.
私としては,「案の定」な展開と結果だったこともあり,そんなに興味はありません.
とは言え,ベルギーを焦らせて本気出させたところは評価できます.
言い換えれば,それだけの実力差があったということですけど.

多分,良い意味でも悪い意味でも,これからサッカー日本代表は受難の時代がくると思います.例の「負けてるのにパス回し」の事件も含めて.
どういう事かというと,サッカー日本代表に対する評価がそれなりに高まったことから,マークされる存在にはなったこと.
これにより,これまでと違って勝ちにくくなるだろうし,特にワールドカップ予選リーグで勝ち上がることは難しくなるでしょう.
ちょうど,現在のイランとか韓国の立場みたいなものですね.
安定して勝てるようになるには,今後,もう一つブレイクスルーが必要になるかと思います.

いえ,そんなことより重大ニュースは桂歌丸さんが逝去されたことです.
昨日は私にとって休日でもあったので,朝からずっとHuluやニコ動で「笑点・大喜利」を見ていたんです.
「いやー,やっぱり歌丸さんは別格だなぁ・・」って見ていたところだったし,円楽(楽太郎)さんとの「やるかジジイ!」と「歌丸死亡ネタ」に安定感を感じていたところに飛び込んできたニュース.
あぁ,この日が来ちゃったかぁ・・,と.
私にとっては格別の思い入れがある方だったので,かなりショックです.

よく,歌丸さん司会時代を懐かしむ声がありますが,私は5代目円楽師匠が司会で,歌丸さんが回答者だった時代が笑点・黄金期だったと思っています.
木久蔵さんと楽太郎さんの間に入って,歌丸さんが両者に絶妙なツッコミと返しで,しかもわざとらしくなくコントロールする姿は,まさに神業でした.私も子供ながらに「この人はヤバい」と尊敬の念を抱いたものです.
まさに「歌丸半端ないって」

それより何より,歌丸さんの良さを引き出していたのが円楽さんの司会です.
youtubeとかニコ動に過去の大喜利がありますので,ぜひ見てみてください.すごいですから.

今の大喜利がどうのこうのというわけじゃないんです.今も面白いことは認めます.十分に楽しませてもらっているから.
ただ,歌丸さん回答者時代は6人のキャラクタに無駄がなかったですよね.
木久蔵,歌丸,楽太郎のトリオを中心に,小遊三,好楽,こん平が独自の笑いをとってくる.まさにスキがない.
小遊三さんの回答の安定感は凄い,外すことはほぼないでしょ.
好楽さんを悪く言う人もいるけど,あの人はハマったら一番面白いですから.
こん平さんは形式美ですね.存在してくれるだけで面白い.

大げさかもしれませんが,私にとっての「共同体」とか「組織」の在り方に関する基盤は,あの時代の笑点・大喜利メンバーが基になっているような気がします.
ああいうメンバーと,そのやり取りで仕事ができたら,一番充実した時間を過ごせるんだろうなぁって.

それぞれの個性を生かして潰さず,そして馴れ合うわけでもなく,互いを「了解」したなかで「在る」こと.
最高のパフォーマンスを発揮できる組織や集団の,見本のようなものだったと思います.

その中でも,歌丸さんの役割は大きかったですね.
司会時代だけでなく回答者時代から,木久蔵さんや楽太郎さんを活かそうと一生懸命に振る舞っていたのはひしひしと伝わってきましたし.

私も仕事や各状況においては,歌丸さんのような振る舞いをしていきたい.おこがましい話かもしれませんが,それが私の昔からの目標でもあるんです.