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28:2012年11月28日

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2012年11月28日(水)14時00分

 教授会が始まる1時間前になった。
 今日は昨日までと打って変わって暖かい。

 兵藤芳裕は、教授会の資料に目を通したい気持ちがありながらも、来週の越ヶ浦市教育委員会との会合の準備に手元が忙しい。
 やはり、打ち合わせ用として資料を用意しておいたほうがいいだろうかと考え、パソコンのワープロソフトを立ち上げた。

 何も入力されていない真っ白な新規作業画面が表示された頃に、学長室のドアがノックされる。
 兵藤の秘書である浜本希美がお辞儀をして入ってきた。
「あ、あの、学長・・・」
 浜本の顔色が優れない。

「あ、何?」
 兵藤は浜本に話しかけるが、その後に続くように、理事長の田之浦が入ってくる。

「あっ、理事長。どうされました? 教授会の件ですか?」
 兵藤は椅子から立ち上がり、デスクを迂回しながら前に出ていく。

「いや、兵藤先生。君に聞いておきたい事があってね。いやね、それとは別にね、まぁ、一緒なんだろうけどね。兵藤先生、今日は教授会を欠席してほしいんですよ、うん」

 兵藤は最初、田之浦が何を言っているのか読み取れずにいた。
 人は、予想を大きく超えた文脈は理解できなくなるものである。

「え? 理事長。私が今日の教授会をどうするって? 欠席って言いました?」
 兵藤はなるべく落ち着いて返答をする。
 いや、これ以外のリアクションがとれなかったというのが実際のところだ。

「いやね、兵藤先生。いろいろと今日まで大学をあげて錯綜しておりましてね。とりあえず、とりあえずでいいんですよ。兵藤先生は教授会を欠席してもらうと」

「いやいや、意味が分からないですよ。なぜ欠席するんですか?」
 兵藤は、田之浦の発する言葉の意味が素直に分からなかった。
「とりあえず、っていうのも不思議な話でしょう。どういう要件で?」

 田之浦は、口をへの字に曲げて来客用のソファに座った。
 兵藤もその正面に座る。

「兵藤先生、あなた、東郷先生を脅迫したって事になってるんですよ」
 田之浦は右の側頭部を掻きながら、最後に兵藤を一瞥し、すぐにテーブルに目線を落とした。

「えぇ! それは。それはちょっと」
 兵藤は前のめりになる。

「いやいやいや、まま、少し落ち着いて。落ち着いて」
 田之浦は、背もたれに体を押し付けながら、両手を開いて前に出した。
「とにかくね、とりあえず、兵藤先生は今日の教授会には出ない、ということで。それで対処しましょう」

 兵藤は前のめりの体を一転、ソファに深く沈み込む。
 なるべく冷静になるよう心がけ、自分の言葉を探した。
 そして、そのまま視線を宙に漂わせたまま話し出した。
「理事長。例え私が何か問題を起こしたとして、いきなり教授会に欠席というのは、それは少し拙速ではないですか。私に事情を聞くなり、東郷先生と面談させるなり、そのあとでもいいじゃないですか。いつからこんな話が出てきたんですか?」

 田之浦は鼻を掻く。
 執拗に瞬きを繰り返し、最後に少し長めに目をつぶった。
「えぇとですね。実は東郷先生が。一昨日、つまり月曜ですね。法人の事務局に現れてですね。私のところに直接。そう・・、物凄い剣幕で押し寄せてきたんですよ」
 田之浦は薄くなった頭髪を整えるように手櫛をあてる。
「それでですね。東郷先生の話によるとですね、私は兵藤先生からパワハラを受けている。脅迫されている。無能だとか、邪魔だとか、怒鳴りつけられて、それが著しい人権侵害だと。そんな事を言っているんですよ」

 兵藤は黙っていた。
 田之浦は目をつぶったまま顎を少し上げ、ソファに体を深く沈めた。
「それでですね。もう私は限界まで怒ったから、何をしでかすか分からないぞぉって、まぁ、ちょっと稚拙で意味不明な言葉ですけどね、そんなことを大声で、事務室で喚き散らすわけですよ。そりゃもう。ええ。凄い勢いなんですよ」
 田之浦は脚を組んだ。
「それでですね。こちらとしても東郷先生の訴えだけじゃどうしようもないから、兵藤先生と話し合いをしましょう、と。そうですよ、私たちも兵藤先生と直接話し合ってもらいましょうと、そんなことを提案したんですよ」
 田之浦は学長室の窓に目を移した。
 窓の先には桜の木が見えた。
「ですからね。東郷先生にはですね、兵藤先生からも事情を聞いておきますから、とりあえず、気を静めてください、と。そんなことを言ったわけです。だってねぇ、東郷先生が言ってる事が本当かどうか分からないのに、あの人の要求を聞くわけにもいかないでしょう。そしたらですね。東郷先生、ボイスレコーダーを出してきましてね。えぇ、これが証拠だっ、なんて言い出すわけです」

 兵藤は「ボイスレコーダー」という言葉の響きに驚いた。
「証拠」という言葉とのセットは、威圧感を与えるに十分だ。
 そのボイスレコーダーには何が入っているのだろうか?

「そのボイスレコーダーには何が入っていたんですか?」
 兵藤はそのまま聞いてみた。

「兵藤先生。兵藤先生はどう思いますか? というか、私もそれを聞きにここへ来たんですけどね」

「いえ、どう思うかと言われましても、何が入っているんですか?」
 兵藤には予測もイメージもできない。
「私がどう思うか、ということとボイスレコーダーの中身とは関係ないでしょう」

「はい、そうですねぇ」
 田之浦は一旦俯き、そして兵藤の方を見据えて話し出す。
「いやね。東郷先生と兵藤先生の会話が入っていましてね。ええ、たしかに兵藤先生が東郷先生を怒鳴りつけている。そんな会話なんですよ。まぁ、会話というより喧嘩に近いと言うか、まぁ、喧嘩というよりも・・・、そうですねぇ。うーん。兵藤先生が東郷先生を脅している、そんなふうに聞こえるわけですよ」

 兵藤は寝耳に水である。
 疑問に思ったことをそのまま口にした。
「と言いましても、あの、その、そうですね・・。いつの会話なんですか? ボイスレコーダーに録音してるっていうと、どういう会話なんですか?」

 田之浦は表情を変えずに返答する。
「先週の金曜の夜のやりとりだ・・、と東郷先生は仰っておりました。兵藤先生、お聞きしますが、東郷先生にボイスレコーダーに入っているような内容の事を言ったんですか?」

「いやぁ・・、そのボイスレコーダーの中身を聞いてみないとなんとも。はい」
 兵藤は嫌な汗が出てきていることを自覚した。

「ええぇ、そうですねぇ。法人の理事会として問題視したのは、『邪魔だ、仕事をしていない』ということと、そういうことを『教授会で話題にする』なんて発言でしょうかね。こういう会話が、東郷先生とあったんですか?」

 兵藤は、先週の東郷との会話を思い出した。
 たしかにそんな発言があったような気がする。
 ということよりも、兵藤が気になったのはそれではない。

「法人の理事会で問題になった・・、というのは・・、どういう意味ですか? あ、いやね、たしかに先週、東郷先生とは口論になりました。でも・・、いやぁー」
 兵藤は額に手を当て、溜息をつく。
 きっと目は泳いでいるだろう。

 田之浦は組んでいる脚を解いた。
 右斜め下を見ながら、田之浦も溜息をつく。
「えぇ、まあ、ボイスレコーダーに入っているわけですからねぇ。ここで裏とりをしたかったのは、まぁその確認がとりたかったのは、その会話が先週のものだということです。あとですね、東郷先生は先週の金曜だけでなく、その前日にも脅迫を受けていると言っていました。それに、それより以前にも、今回のシンポジウム担当の件で圧力といいますか、そんな態度で兵藤先生からコンタクトをとってくることがあった、と。そんな話をしているんですよ。これについては?」

 兵藤の顔が引き攣っていく。
 頭の中は真っ白、いや、灰色に広がっていく。

「ちょ、ちょっと待ってください。私は東郷先生を注意しようとしただけです。脅迫とか圧力とか、そんなつもりはありませんよ。それに、実際に東郷先生は学科会議でも迷惑がられていたんですからねぇ。それは福祉の学科の先生方も同意してくれるはずですよ」

 田之浦は頷きながら聞き、「えぇ、そうです。先週の教授会の準備の時にも、皆さんでそんな話をしていましたよね。たしかにそれはそうなんでしょう。その学科会議の件も、東郷先生から話が出てきました。東郷先生の話では、兵藤先生は他の先生にも手を回している可能性があって、それで学科会議でも自分に圧力がかかっていた、と。そんな事を言っています」

 兵藤にとっては全く意味が分からない話だった。
「いえ、そんな。他の先生に手を回すだなんて。そんな事しませんよ。一体誰なんですか、その他の先生っていうのは?」
兵藤の語気が強まる。

「東郷先生は、その教員の名前はおっしゃりませんでしたが、学科会議中に自分に高圧的な発言をする教員がいるということだそうで。なんでも、その先生と兵藤先生はつながっている、ということで。そんな話だったんです」

 兵藤の頭には清水の顔が浮かぶ。
 清水のことを言っているのか?
 もしかすると、学科長の鈴木のことか。
 たしかに鈴木とは派閥づくりをしていると言える。

 田之浦は続ける。
「でですね。私もここに来るまでにも、何名かの人に少しお話しを聞いているんです。すると、どうやら東郷先生が言うのと同じように、兵藤先生とその先生がつながっている、というような趣旨のことを話される先生もおりましてですね。えぇ、まぁ、そういうことです」

 学長秘書の浜本が、二人の前にお茶を出した。
 田之浦は軽く礼を言って湯呑みをとった。

 兵藤は、お茶が出されたことが見えなかったかのように話を始める。
「いや、その先生と私がつながっているとか、手を回しているとか、そんな事は別にしても、東郷先生と私との間の話には関係がない・・。つまり、そもそも別の話ですよね。どういうことなのかメチャクチャで意味が分からない」

 お茶を口に含んでなじませるようにした後、田之浦は話し出した。
「えぇ、その先生と兵藤先生がどういうご関係なのか分かりません。東郷先生の被害妄想かもしれませんしね。ただですね・・・」田之浦はもう一口お茶を含んだ。「今回の件を総合的に考えてみて、わたくし理事長の決定ということで、とりあえずは、今日の教授会には兵藤学長の出席を見合わせる、と。そういうことにしたんです」

 兵藤は背もたれに体を預けたまま田之浦を見据える。
 不満そうな表情をわざと作った。

 田之浦はその表情を読み取った。
「兵藤先生。それにですね。今回の件でいろいろと別の話も出てきておりまして。うーん、なんというか、本当ならまだ話すわけにはいかないのですが・・・、とにかく一旦は兵藤先生を謹慎処分ということにしようと思います」

 兵藤の顔に怒りが混ざった驚きが現れた。
「ちょっと! それはどういうことですか!」
 兵藤は体を起こし、前のめりになる。

 田之浦は気にしない態度を意識的にとっているのだろうか。
 冷静な表情で続けた。

「まだ理事会の決定ではないですけど、今からそういう会議をして、その後に正式に通達しますけどね。時間が時間ですし、それにもう、ほぼ決定する運びになっていますから、あらかじめ私の口から言っておきます。またご連絡します、数分後にその会議があるんです。私から確認したかったことは以上です。この確認作業がなくても、謹慎処分というのは変わらないものですから。まずは今日の教授会は欠席ということで・・・、そういう流れになっていくので。はい。そういうことで」

 兵藤はソファに座ったままだった。

 田之浦はお茶を全て飲み干し、学長室を出て行った。

 秘書の浜本が少し離れたところに立っている。
 理事長の出て行ったドアにお辞儀をしたところだった。
 浜本は振り返り、バツの悪そうな顔をする。

 兵藤の頭の中は混乱していた。
 不安や怒りが込み上げているわけではない。
 一体何が起こっているのか把握しきれていない。

 そのままソファに座り続けた。


 20分後、学長室に内線が入る。
 浜本がその内線をとり、「局長室に行ってきます」と言って出て行った。

 浜本が帰ってくると、その手に謹慎処分を命じる書類があった。

「こういうことだそうで・・・。これを兵藤先生に渡してくれ、と。はい」

「そうか、分かりました・・・」
 兵藤は立ち上がる。

 浜本を見て言った。
「どうなってるんだろうね。ぜんぜん意味が分からないよ」

 浜本は「はい」とだけ言った。


 教授会が始まった。
 議長である河内寛から、「今日は故あって学長が欠席になります」という発言がある。
「その点につきまして、理事長からご報告です。どうぞ田之浦理事長、お願いします」
 そう言って河内は、持っているマイクの電源を切って前に置いた。

 田之浦は自分の前にあるマイクを取って立ち上がった。
「えぇ皆さん。お疲れ様でございます。教授会を始めるにあたって、ご報告しなければいけないことがあります。さきほど河内学部長からお話しがありましたように、兵藤学長がこの場におりません。つまり欠席ということになっております。その理由ですが、今日の昼に、まぁ、さきほどと言ってもいいですが、臨時の理事会がありまして、それを開きまして、そこで兵藤学長の謹慎処分が決定しました」

 会議室に集まっている者達からは、声は出なかったが、無言のざわめきが起こった。

 田之浦は続けた。
「兵藤学長には、今はまだ詳しくお話できませんが、まず確定している事としましては、いわゆるパワハラがあったということです。特定の教員に対する執拗なハラスメント行為があったということで、これは深刻な人権侵害だと本学の理事会では判断しています。少なくとも、この事態をもって謹慎処分ということにしました。兵藤学長本人にも確認をとりまして、そのような行為を認めております。あと、現時点においてそれを裏付けるような証拠もありまして、これも学長職に相応しくない行動だと理事会は判断しました。これ以外にも、兵藤学長には学長職を勤める上で相応しくないと判断される言動や行為が報告されております。そうした疑いが晴れるまで、その調査が済むまで、まずは学長の任から外れてもらうことにしました。学長代行につきましては、副学長の岩崎先生にお願いすることになっております。兵藤学長はこれまで、彼なりの方針で大学の経営をやってきましたが、学長という影響力が強い立場でありながら、かなり自己中心的な行動が目立ちました。このまま彼を学長としておきますと、大学全体の損害になりかねない。そういう事もありまして、このような判断に至ったわけでございます。まずはそういうことで、ご報告ということにさせていただきます」
 田之浦はそう言って座った。

 河内がマイクをとった。
「えぇ、そういうわけでございまして。そうですね。この件で何かご質問等ございますでしょうか?」

 しかしすぐに理事長の田之浦が再びマイクを取って話しだす。
「ご質問ということですが、この件についてのご質問は、また別に設けてお受けいたします。今ここで対応するというわけにはいきませんので。河内先生、そういうことで。いいですかね。よろしくお願いします」

 河内はそれを受けて「あっ、はい、わかりました。ではこの件はこれで・・」と言って一呼吸おく。

 そして、いつものように教授会開催の挨拶をしてから議題に入っていった。

 大会議室の入り口付近の左隅。
 彼の定位置となっている席で、東郷洋二は親指の爪を噛みながらニタニタと笑っていた。
 隣に座っていた山崎祥子は、書類を手にしたまま居眠りをしている。




29:2007年9月11日