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29:2007年9月11日

4:300字程度で私をほめてください



大学は、移ろいゆくことのない理念、つまり教会のそれと同じような、国家を超越した、世界に広汎に通用する性格の理念に基づいて自ら固有の生命をもつのです。
カール・ヤスパース『大学の理念』


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2007年9月11日(火)10時10分

 まだ残暑厳しいキャンパスでは、新学科再編成の事務作業に増田信吾(ますだしんご)が取り組んでいた。
 増田は現在55歳。大学を卒業後すぐに青葉大学へ体育実技の非常勤講師として授業を担当し、その後、当時の専任体育教員・坂戸寛次郎(さかとかんじろう)に気に入られて、一本釣りでそのまま体育実技教員として勤めている。
 4年前から立ち上がったヘルスプロモーション学科の中心的な教員であり、昨年から教授へと昇進、および学科長となった。
 学内では行動派・改革派として彼を頼る教職員も多く、理事長の田之浦もそのうちの一人だった。
 事実、学士であり研究業績も著書もない増田を教授と学科長にしたのは、このたび新しく就任した田之浦理事長である。
 現在の大学業界では、健康を売りにすることで学生募集が安定することが知られていた。
 そこで田之浦理事長としては、このヘルスプロモーション学科の学科構成を核にして、大きめの規模の学科、ウェルフェアプロデュース学科として新設することを計画しており、増田にその音頭を取らせることにした。

 増田の研究室は、6号館2階の角部屋である。
 今、この部屋では教務課・課長の羽山康介(はやまこうすけ)を呼び出して、一緒に学科カリキュラムの最終調整をしていた。

 羽山は、増田の研究室の長テーブルで資料を広げて話している。
 年齢は53歳で、色白で細身の風貌は、いかにもインテリといった雰囲気を出している。
 一方の増田は、羽山とは対象的に、色黒で体格がいいスポーツマンである。

 羽山はカリキュラム資料を片手に、蛍光マーカーとボールペンでびっしりとメモ書きされた履修要項を指しながら言う。
「増田先生、こちらのスポーツ社会学と、そっちのスポーツマネジメント論のシラバスをうまく調整してもらえれば、予定している日本体育協会の資格要件単位を3年次の時点で取り切ることができるようになります。その方が、もし3年次で履修しきれない学生がいても、4年次で資格用の単位を拾うことが出来るようになるのですが、どうですかねぇ?」

 聞き慣れない言葉が溢れていた。
 増田は、なんとなく意味が分かるような気がするが、いまいち理解しきれない。
 顎に手をあて、首を捻ってみせる。
「うーん・・・、おい羽山、俺はちょっとしんどいな。どうしてもその調整というのをやらないとダメなのか? どういう調整なんだ?」

「どちらの授業も、来年から来られる新任の先生にお願いする科目です。一般的には、授業のシラバスは各先生に一任しているんですが、資格関連科目の場合、シラバス内容が資格付与団体の注文に合うかどうかが重要になってきます。そうした点を新任の先生にご理解いただいてですね、で、こちらの要望としては、いずれかの授業に一本化したいというわけです。2つとも授業を履修しなければいけないのではなく、どっちかの授業だけで資格取得できるカリキュラムにしたいわけです」

「うーん・・・、分かったような、そうでないような」
 増田はそう言って、「羽山、お前が良いと思うようにしてくれないか?」と打診してみた。

「そうしたいところですが、やはり、こうした判断は我々事務がするのはどうかと思いますし。そこはひとつ、学科長の判断で決定していただきたいのですが」と羽山は申し訳無さそうな返事をする。

 大学のカリキュラム調整は複雑過ぎて、増田の手には負えなかった。
 幸い、羽山は大学きってのベテラン事務員として教務関係を掌握している。
 羽山は数年前に一度、学生課へと異動になったことがあった。
 しかし、後任の教務課長やその他の事務員がてんてこ舞いになってしまい、大学当局は慌てて学生課を再編、そして急ぎ羽山を教務課に戻したこともある。
 相次ぐ学部学科の増改築と、学科を跨いだ資格関連科目のカリキュラム構成が超難解パズルになっているのは、青葉大学に限らず、少なくない大学教務の悩みのタネである。

 増田としては、羽山が拒否しない判断であれば、何とかなるだろうという安心感はある。
「今この段階で決めた方がいいのか?」
 なんとなく聞いてみた。

「ひとまず、最も安全で、新任の先生にも負担のない条件で始めてみるのもありかもしれません。完成年度を迎えてからの方が、変更がいろいろと利きやすいということもありますし」

「よし、分かった。安全策でいこう。とりあえずは学科新設の達成を最優先にして、そこで出てくる問題点には目を瞑るぞ。じゃあ羽山、それでやってくれ」

 羽山は承知し、研究室を出ていった。

 次は新任教員の選定である。

 若手の任期付き教員は公募にする予定だが、それ以外のコアメンバーは一本釣りにする方針である。
 それらの人選についても、田之浦体制の大学は、増田の判断に任せていた。

 公募による選定については、他の教員に指示を出している。
 コアメンバーの選定は増田が主動することにした。
 どうせ自分の好きにできるのだ。
 できるだけ都合のいい人選をしたいところである。

 増田は、現在まで青葉大学の体育実技の授業を一手に取り仕切ってきた自負がある。
 体育会クラブ活動はもちろんのこと、バイタリティのある発言や積極的な委員会活動によって、この小規模大学における存在感を示してきた。

 特に事務員には積極的に関わり、飲み会などを頻繁に開催して彼らを手懐けている。
 事務の中心メンバーを掌握しておけば、自分が委員会活動や事務作業をしなければいけない時にも、かなり楽ができるからだ。
 事実、この学科新設業務においても、これまでに注ぎ込んだ飲み会代を返してもらう勢いで、彼らに仕事を振っている。
 もちろん、これからのこともあるから、彼らを労うためにも飲み会には連れて行くつもりだ。
 今日も、羽山を大学近くの馴染みの居酒屋に連れていくことにした。

 増田は、最終的に絞った来年度用の新任候補リストを眺めた。
 来年度は4名の教員を補充する。
 この4名は純増のメンバーだ。
 なお、数年後にも定年退職する教員が何人か出てくるので、その後任人事も控えているが、それはまた後の話である。

 それぞれ、社会学系、経営学系、心理学系、歴史学系である。しかし、増田の頭には、各研究領域での業績についての考慮はなかった。
 あくまでも、この自分と上手くやってくれそうな人材、自分を引き立ててくれる人材がほしいのだ。
 実際、いろいろなトラブルや不測の事態に追い回される学科新設において、偏屈で面倒な性格の教員を雇ってしまい、大学自体が大混乱になる事例は多い。
 良くも悪くも、増田の命令を問答無用に聞き入れて動ける奴隷労働者がほしい。
 それが、新設担当者としての本音とも言える。

「そうなると、この4人だな」
 増田が選んだのは、非常勤講師として長年の付き合いがあったり、知り合いの大学教員から紹介された者たちだった。

 しかし、その人事の一つにストップをかけてきた教員がいる。
 マルチメディア学科の高坂真紀子(たかさかまきこ)である。
 今回の人事を主動するのは増田ではあったが、学内の規定により、当該学科とは別の学科からも、1名人事委員を選出しなければならないことになっている。
 その人事委員となった高坂が、4人のうちの一人である藤堂道雄を、採用する上で不適格だと注文をつけてきたのだ。

 増田は、今日明日中にでも、その調整をしなければならない。
 こういった学科主動の人事に、しかも理事長の肝煎りで進んでいる学科新設の人事に口を出してくる教員は少ないのだが、高坂は学内でも生真面目で通った老年の女性である。
 普段人当たりは優しいのだが、こうと決めたら絶対に譲らないところがあるのだ。

 高坂の研究室に直接行って交渉してもいいのだが、他の業務に気力と体力を奪われているのでその気になれない。
 まずは内線で話をしてみることにした。

 高坂とは普段話すこともないし、内線をかけたこともあまりないため、内線番号は知らない。
 電話機の横に置いていた番号リストを見ながら、高坂の番号を探す。
 見つけて番号を押した。

 高坂はすぐに出た。

「あ、高坂先生、増田です。いつもお世話になっております。あのぉ、先日お話しいただいた人事の件ですが。はい、先だってメールをいただいていたやつです。藤堂先生を採用するということなんですが、どうでしょうか、先程こちらからメールをしたのですが、はい、作り直した藤堂先生の履歴書と業績書を添付しております」

 高坂が応える。
「はい、ちょうどその資料を見ていたところです。えぇっとですね、これは私の意見というよりも、青葉大の人事の規定なのですが、研究業績が10ポイント以下の人を教員として採用することはできないはずですよね。ましてや任期なしの准教授としてですから。この資料を見ましても、私からの回答は、前回と同じになります」

 最近の青葉大学の教員採用人事では、採用できる教員に一定の基準を設けている。
 その一つが、教育指導歴や研究業績のポイント制だ。
 教育指導歴と研究業績ともに、それぞれ10ポイント以上必要というものだ。

 これは、過去の青葉大学における教員採用人事が、人脈とコネクションの色が強過ぎたことへの反動でもある。
 例えば教育指導歴では、非常勤講師を半期1回担当していれば1ポイント、大学等の専任教員であれば10ポイントが加算される。
 研究業績では、学会発表であれば1件あたり1ポイント、国内のメジャーな研究雑誌への筆頭著者での掲載であれば1件あたり5ポイントが加算される。
 そのような方式で、各種活動歴をポイントで評価できるようにしている。

 高坂は増田に説明を続けた。
「今回の藤堂先生の場合、教育指導歴は12ポイントありますから大丈夫ですが、研究業績は3ポイントです。あと7ポイント足りません。どうしても藤堂先生を採用するというのであれば、この研究業績をもっと増やせないでしょうか? 藤堂先生にこの件をご相談いただいて、業績書を工夫していただけると幸いなのですが」

「高坂先生、藤堂先生の研究業績が3ポイントということですが、これは10ポイントとして見ることはできないですかね。業績リストの、2番と3番は研究論文ではないでしょうか? であれば、合計して11ポイントになると思うんですが。ええ、どうでしょうか?」

「いえ、増田先生、この2番と3番ですが、これはこの学会が学会発表の後に発行している、抄録集へ掲載されたものです。私もこれについては調べてみました。サイニーにPDFが公開されています。どちらも同じ学会のもので、2ページにわたるものですから文章量も多いように思いますが、あくまでも抄録です。やはり、これを学術論文のカテゴリに入れて合計することはできないと私は判断します。藤堂先生を採用するのでしたら、どうか別の業績を加えていただくとか、もっと余人に代え難い理由や、特殊技能を添える必要があると思います。正直に申し上げまして、この藤堂先生には研究業績が全く無いと言えます。そういった方を大学教員としてお迎えすることは避けなければいけないと思います。それが私の見解です」

 このクソババアが。

 増田は、声には出さなかったが、苦虫を噛み潰した顔で窓の外を見た。

 増田にとって、藤堂道雄はどうしても採用したい人間だった。
 ここ数年ほど、青葉大学の体育実技の授業を担当させているのだが、増田のためにヤクザの子分のように良く動いてくれる奴だった。
 採用すれば、自動的に自分の子分が一人、それも専任教員の子分が一人増えることになる。
 さらに言えば、この高坂がケチをつけている研究業績が少ないことが、何より大事なのだ。

 高坂が放った最後の言葉、あれは増田に向けて発せられた皮肉、嫌味だと受け取っている。
 逆に言えば、増田にとって研究業績はコンプレックスでもある。
 つまり、自分より研究業績が低い奴を採用できれば、学内での自分の立場が少しでも楽になる。
 そう考えた。
 藤堂以外の、他の3人のメンバーも同様だ。
 研究業績がなるべく低くなるように選定している。

 増田はその顔のまま、猫なで声で高坂に言う。
「そうですか。分かりました。すみません、お手数をおかけしてしまいまして。では、もう一回藤堂先生とご相談しまして、業績書を作成し直したいと思います。すみませんが、もうしばらくご協力いただければと思います。すみません、高坂先生、引き続きよろしくどうぞぉ。はい失礼します」
 受話器をゆっくりと、しかし強く叩きつけた。

 増田はすぐにポケットから携帯電話を取り出した。
 藤堂に電話をかける。

 7回ほどの呼び出し音のあと、藤堂が出た。

「あっ、藤堂先生か? どうも、増田だけど。連絡したのはな、今回の青葉の人事のことだ。お前を採用するために、こっちで他の人事の先生方といろいろと調整してるんだがなぁ、あのなぁ、結論から言うぞ。お前には業績がないんだ。これ、なんとかしてくれないか。業績がないから、ポイントが足りないってことで、にっちもさっちもいかないんだ。これを乗り越えないと、お前は採れない。分かるな?」

 藤堂は自宅でテレビを見ていたが、増田からの電話に慌てて出ていた。
「えっ? えっ? えっ? ポイントですか? 業績が足りないってことですか?」

「そうだ。お前には業績がない。それが問題だ」

 藤堂は目をつぶった。
 大きく深呼吸。
 焦りと怒り、そして不安感が激しく沸き立つのを感じる。
 ここ最近、ずっとそうだ。

 お前には業績がない。

 この言葉を何度浴びせられたか知れない。

 大学で非常勤講師をやっていれば、エスカレーター式に大学教員になれる時代ではなくなった。
 そう言われたのが5年前だった。
 ではどうすればいいのか?

 それは修士号を持つことだと聞いた。
 この増田から聞かされたような気もする。

 大学院の修士さえ出れば、大学教員として採用してくれる。
 そう考えて急ぎ修士課程を修了したのが3年前。
 42歳の時だった。
 実際、同年代の友人知人にはそういったパターンで大学教員の職にありつけた奴がたくさんいる。
「私は研究論文なんて書けないですよ」と藤堂は言っていたが、これについては裏技があることを知った。
 指導教員におべっかを使ったり、学部上がりの若い修士課程の学生を脅したり煽てたりして論文を書かせれば、修士なんてなんとでもなる、ということだ。

 藤堂は、入試が事実上存在しない大学院、いわゆる、指導教員がOKを出せば入学できる大学院を紹介してもらい、その指導教員にひたすら媚びた。
 実際、うまくいった。
 さらに幸運なことに、その大学院の修士過程は修了審査が無いに等しかった。
 とは言え、藤堂としては状況をよく理解できなかったが、「大学院はじまって以来の前代未聞の事態」などと周囲から陰口を叩かれている自覚はあったものの、その大学でなんとか修士号を取得する。
 取ってしまえばこっちのもの。
 そのはずだった。

 ところが、この状態である。
 当てが外れていると認識している。

 これまで、3度ほど大学教員に採用されそうなチャンスがあった。
 しかし、いずれも最後の最後で「お前には業績がない」という言葉で消し飛んだ。

 藤堂は不満である。
 そもそも、業績というのはなんなんだ?
 何をすれば業績になるのか?
 学会発表も1度したことがある。
 A4紙・2枚にわたる文章も書いたことがある。
 院の指導教員からは「君は一人前だ」と笑って送り出してもらえた。
 これだけのことをして、なぜ研究業績が無いと言われなければいけないのか?

 それよりなにより、俺にはテニス選手を育てる能力がある。
 全国に知り合いのテニスコーチがたくさんいる。
 学校の教員というのは、クラブ活動によって学校の知名度を上げることも必要だ。
 いや、それこそが学校のレベルを上げる最も効率の良い方法である。
 箱根駅伝、高校野球甲子園大会、花園ラグビー、サッカー天皇杯、数えだしたらキリがない。
 テニスであれば、誰か一人を全国大会や世界ツアーに出場させれば、それだけで知名度は高まる。
 これによって学校のレベルも上がるというものだ。

 携帯電話のスピーカーから、増田の声が聞こえてくる。
「お前には業績がない」が頭で反響していた藤堂は、ずっと聞き流していた。

 増田は最後に、「そういうわけで、なにか業績を追加できるようだったら、なんでもいいから放り込んでくれ。それができないなら、今回の話は無しだ」と言った。

「えっ? えっ? えっ? すみません、もう一回言うてもらえますか?」

「だから、今まで出してくれてた3個の業績以外で、他に別の業績を追加できるようだったら、なんでもいいから放り込んでくれってことだ。そうじゃないと、今回はお前を採用できない。分かったか?」

「えっ? えっ? えっ? もっと増やすっていうのは、どういうことですか?」

「だぁかぁらぁ! 今のままだと研究業績のところのポイントが足りないからな。他にもっと増やす工夫をしないと、お前は採用できないってこと。研究業績になりそうなものを、なんでもいいから送れ。それをこっちで書き加えてやるから。分かったか?」

 藤堂は了解して、増田との電話を終えた。
 2つ折りの携帯電話を閉じたが、すぐに開いて連絡先を検索する。
 そして、南海大学の梨田祐介教授に発信した。

 梨田が電話に出る。

「あ、梨田先生ですか? どうもぉ、藤堂です。お世話になっております。すんませーん、ちょっとご相談なんですが・・・」

 藤堂は青葉大学の教員採用人事にかかっていることを梨田に開示して話した。
 梨田は、藤堂と一緒に仕事をする機会がある南海大学の教授で、スポーツ関連のイベントを研究と兼ねながら取り組んでいる。
 この人は、人事の話などは他言しない信頼のおける人だ。
 どうにかして、研究業績を増やす工夫ができないか相談してみることにした。
 梨田であれば、一緒に仕事をすることの多い藤堂の味方になってくれるかもしれない。

 梨田は藤堂の説明を聞き終えると、カジュアルな声でこう返す。
「ああ、なるほどね。藤堂先生の話は分かりました。その、青葉大学のシステムが分からないので確定的なことは言えませんけど、学会発表もポイントになるようなんですよね? だとしたらぁ・・・、うん、ちょっと時間をくれますか? 今、ちょっと待ってて、こっちで可能な限りのことをしてみます。そうですねぇ、えぇーと、ちょっと待ってくださいね」
 梨田は手元の手帳を見たり、近くの誰かと話しているようだった。
「うん、・・・はい、・・・あ、もしもし藤堂先生? じゃあ、3日後にお返事できるようにします」

「あぁーっ、ありがとうございます。ですが、梨田先生、どういうことをしてくださるんですか?」

「うん、あのですね、まず1つ目は、私たちが運営している小さい学会が今度の11月にあるんですけど、その学会に藤堂先生の名前を入れて、うちの院生に発表させます。3人いるから、3件が業績として追加できますね。で、これは藤堂先生にお願いなんですけど、藤堂先生も筆頭で発表してもらいたいんです。研究代表者の発表じゃないと、業績としてカウントしてくれない大学かもしれませんから。それが出来れば4件の業績ができますよね?」

「えっ? えっ? えっ? 学会発表をするんですか? 私が?」

「はい、あぁ、でも登録や抄録投稿はうちの院生がやるから、藤堂先生は当日学会に来てもられえればOKです。もう発表登録の申し込みは締め切ってるんですけど、我々が運営委員なんで、そのあたりはなんとでもなりますから。でも、口頭は今からじゃ難しいので、ポスターでいいですね?」

「あぁーっ、ありがとうございます! 助かります!」

「でも、それだけだと業績とは言えないかも知れないですよね。だから、2つ目なんですけど、紀要に藤堂先生の名前を載せます。ただ、これも今年の12月発行なんですけどね。うちの大学の紀要なんですけど、これに藤堂先生の名前を入れて、共同研究者ということで掲載したいと思うんですけど、どうでしょうね? これだと間に合わないかなぁ?」

 藤堂は、梨田が言っていることの意味が全く分からなかった。
 分からないなりに、とりあえず返事をしておいた。
「はあ、はい・・・、そうですねぇ、大丈夫だと思います・・・」

 梨田は説明を続けた。
「その原稿の締切がね、3日後なんですよ。で、この紀要なんですけど、投稿しちゃえば、ほぼほぼ掲載の運びになるんです。これも、うちの院生がやりますから。で、掲載決定が通知されるのが、最短で当日の9月14日なんです。3日後には掲載決定論文とか印刷中として扱えるんで、それでなんとかなるかもしれないですね。学会発表の方は、今からでも発表予定として書いてもらえればOKだと思いますよ」

「はあ、はい、そうですねぇ。ありがとうございますぅ・・・」
 藤堂は全く事の次第を理解できていないが、何か良い方向に向かっていることは感じた。


 梨田祐介は携帯電話を切った。
 手帳の9月13日のところに「紀要添削」と記入する。
 梨田は、自分の研究室のデスクに座っていた。
 そして、そのデスクを挟んで研究室の入り口近くに立っている大学院生に声をかける。「まあ、というわけだ」少し笑ってから言う。「じゃあ、明後日までにな、紀要の論文を書いてもらえるかな? いけるか?」
 もう少し強めに笑ってみせる。
 梨田としても、これが突拍子もない依頼であることを自覚はしているのだ。
 しかし、こうした依頼を楽しみながら引き受けてくれるのが、この院生の面白いところだ。

 橿原一如は応える。
「はい、まあ・・・、たぶん大丈夫だと思いますけど。でも先生、どんな内容で書けばいいですか? 変な論文は書けないですし、書きたくないですからねぇ」

「うん・・・、そのへんは橿原に任せるから。とりあえず、なんか書いといてくれよ。あっ、あれはどうだ、去年の調査データ。あれ、論文にしてないだろ。査読付きの論文には耐えられないデータだけど、一応さ、ペーパーとしてデータを残しておくのは、後々便利だったりするからな。この際、データの解析は甘くてもいいから、サンプリングしたデータを時系列で整理して、図表にでもして貼っといてくれよ。意外とさ、そういう論文の方がいろんな人が見るかもしれんぞ」

「はい、了解です」


 3日後、藤堂道雄は4件の学会発表が「予定」であり、1件の紀要論文が「印刷中」であることを増田信吾に伝えた。
 それらが何を意味しているのか理解できなかった藤堂は、梨田祐介と連絡をとって、これらを青葉大学にどのように伝えればよいか指示をあおいでいる。

 増田は高坂真紀子と何度か確認をとり、結局、10ポイントには少し足らなかったものの、藤堂の2008年度採用にこぎつけた。




30:2012年12月17日