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30:2012年12月17日

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2012年12月17日(月)14時30分

「ってことはさあ、藤堂をこの大学に採用させたのって、実は橿原君だったりするわけじゃない?」
 永山義春は頭の後ろで手を組み、自分の研究室の椅子に座って、背もたれに体重を預けている。
「なんてことしてくれたのさ。こんな悲惨な状況を作ったのは、他でもない橿原君なんだよ」と言って、堪えきれずに笑い出した。

「仕方がないじゃないですか。当時はそんな事情知らないんですから。梨田先生に言われるがまま、論文書いて、そこに藤堂先生の名前を入れたんです。たしか5番目くらいに入れたかな、いや、6番目だっけ」
 橿原一如はそう言って缶コーヒーを飲んだ。
 今日は2人とも缶コーヒーを飲んでいる。

「ちょっとさあ、梨田先生も梨田先生だよ。奴の危険な要望を、どうして受け入れちゃったのかね。とは言え、なんか梨田先生らしいとも言えるしね。ホントはダメなんだよ、そういうの。そもそも、その論文に藤堂は一切関与してないんでしょ?」

「はい、まったく。調査も実験も分析も場所提供も、なんにも」

「完全に業績づくりのためのデタラメな名前載せじゃん。こいうの、いまだに横行してるんだね。もう、僕の関連グループではご法度だよ」

「まあ、こうやって業績つくった藤堂先生みたいな大学教員が、この日本にはたくさんのさばっているんでしょうね。だってアイツ、マジで本当にリアルに文章が書けないんですよ。アイツが書いた文章って見たことないですから。そうじゃないですか? 日本語が読めてるかどうかも怪しい。かなり高い確率で、電化製品の取扱説明書は読めないですね。直感的なユーザーインターフェースが必須です」

「そりゃなんとなく分かるけどさぁ、でも、奴だって授業でパワーポイントのスライドを作ってるでしょ? 最低限、あれを作れるくらいの文章力はあるんだよね」

「いえ、永山さん、あれね、実は僕の先輩で、梨田研究室の卒業生の方が作ってるんです」

「はあっ?! なにそれ!」

「覚えてますか? 南海大学の体育実技の授業で、僕らにテニスを教えてくれてた非常勤の先生がいましたよね。はい、あの笹岡(ささおか)先生。そうです、元男子プロの、めちゃくちゃ丁寧で優しい人。この笹岡先生ってのが、実は藤堂にとっては高校時代のテニス部の先輩なんですよ。んで、笹岡先生がこれまた物凄く後輩思いの強い人でして。僕らもいつも凄くお世話になっているんですけど。その、思ってもらえる後輩っていう枠に、当然ながら、藤堂先生も入っているわけで。後輩である藤堂が大学教員になれて良かった、でも、どうやら授業のスライドが作れずに困っているらしい、じゃあ、俺が作ってやらないとな、って感じで」

「ちょっとちょっと、なんなのそれ! 意味が分からんのだけど」

「そんなわけで、意味が分からないくらい優しい笹岡先生が、ご自身が大学とか専門学校の授業で使っているスライドを、藤堂先生用に再編集して送ってあげてるんですよ。ちなみに、僕もそのスライドの一部をお手伝いで作ったこともあります」

「ほらほら、やっぱり橿原君も藤堂が生き残ることに関与してるんじゃん。なんで梨田研究室の人たちは、そんなに奉仕の精神を持った人が多いの? 梨田先生ご自身もさ、学内の人間関係の調整に尽くす人だよね。あの大学がなんとかスムーズに動いてるのも、梨田先生のお陰だし」

「梨田研の半分は優しさで出来ているんですよ。事なかれ主義かもしれませんけど。ところで、藤堂先生って、自分の授業がなんなのか理解していないくらいぶっ飛んでるじゃないですか。シラバスもあの人が書いてるものじゃないですからね。あれって、水本先生が初年度に書いた学科当初案を、そのまま毎年使い回しているだけですから。だから、いつぞやの授業見学の時みたいに、トンチンカンなことを言い出すんですよ。だって、自分で作った授業スライドじゃないんですから。おそらくあの人、スクリーンに映し出されたスライドを見ながら、自分も一緒になって勉強してるんだと思います。これはなんて書いてるんだろう? このグラフは何を意味してるんだろう? 次は何が出てくるんだろう、って。これが本当の意味での『共に学ぶ姿勢』を持った教員ですね」

「うん、さすが藤堂道雄は違うね。最近よく、アクティブラーニングとか反転授業とか言われてるけどさ、藤堂先生の方法はなんて呼ばれる授業なのかな? あまりに前衛的過ぎてついていけないよね。でもまあ、そもそもの話をすれば、アイツを採用しようと考えた、前の学科長の増田先生がダメなんだよ。なんで藤堂なの?」

「藤堂先生が、青葉大学に非常勤で何年か来ていた繋がりですよね。僕がここに来た当初は、お二人とも凄く仲が良かったんですけどね。まあ、水本先生も含めて、三羽ガラスというか、三バカトリオというか。そんな感じで学内では認識されていました。でも、一昨年くらいから急激に仲が悪くなったみたいですね。あの、教務課に羽山さんっているじゃないですか」

「ああ、あの切れ者の羽山課長でしょ」

「以前、飲み会でご一緒した時にそんな話になったんですけど、なんだかんだで増田先生のワンマン気質とか、上下関係を押し付けてくるところから亀裂が進んだと言っていましたね。3人ともそれぞれ厄介な性格をしていますし、3人とも自分が一番エラいって思いたい人たちですから」

「で、結局、増田先生VS水本・藤堂ペアって感じになったんだね。そこに来て、兵藤先生が学長になって、学科長が増田先生から藤堂に移ったわけだし。でも、藤堂を学科長にするのは、明らかにミスだよ。だって今年、まともに仕事ができないもん。そうなるんじゃないかという不安と、この予想が当たればいいなっていう期待があったけど、こうも壮絶なものになるとは思わなかったよね。ウェルフェアプロデュース学科に配属されてる助手の女の子さあ、あの子、本当に精神大丈夫なの? 死にかけてるんじゃない? 学科会議とかでもさぁ、あのバカが、突然意味不明な要求してくるでしょ。で、それが出来てない! お前は社会人失格だぁ! みたいなこと言ってさ、どっちが社会人失格なんだよって」

「瀬川(せがわ)さんでしょ。あの子、結構聞き流してるみたいですよ」と穂積里香がそこに割って入った。
 そう言えば、穂積もこの場にいたのだ。
 穂積はスマートフォンでニュースを読みながら、ペットボトルの紅茶を飲んでいた。
「あのバカがこういうキャラクターというのは既に諦めているみたいで、赤ちゃんをあやす感覚で対応しているみたいです。凄くメンタルヘルスのコントロールが上手ですよね。ウェルフェアプロデュース学科のディプロマ・ポリシーに即した卒業生と言えます」

 永山がそれに応える。
「ホントに? そりゃ凄いね。たしか瀬川さんて、保育士と幼稚園教諭の免許を持ってるんだよね。でも、赤ちゃんだと思わない方がいいよ。あの3人、三羽ガラスって言われてたんでしょ? だからカラスだよ。カラスと思った方が気が楽だよね。カァカァ、ガーガー煩いなぁって」

橿原が続ける。
「でもそれ、カラスに失礼ですよ。かなり高い確率で、藤堂よりカラスの方が知能は上ですからね、いやマジでホントに」

 穂積はペットボトルに口をつけ、そして話題を兵藤芳裕学長の件にした。
「一昨日の理事会で決まったんでしたっけ。兵藤学長、ついに更迭になっちゃいましたね」

 兵藤学長の更迭については、今日の昼休みに大会議室にて臨時説明会が開催され、公式に全教職員に周知された。
 週末に開かれた臨時理事会で、兵藤芳裕のこれまでの振る舞いを総合的に判断し、学長に相応しくないとして更迭処分となった。
 説明は終始、田之浦理事長が執り行なった。
 なお、大学教員としての職はそのままにされており、現時点で、自宅謹慎処分ということになっている。
 ちなみに、学生にはまだ周知されていないが、耳ざとい学生は、青葉大学の学長がクビになったらしいという噂を広げている。
 SNSでは、根拠が示されていないながらも、兵藤芳裕に対する学生のネガティブな評判から、きっとパワハラだという話で盛り上がっていた。
 ハズレではないから火消しをしにくい。

 永山は腕組みをして言う。
「状況がよく分からないけどさ、ここまで迅速に対応するのって、さすが理事長派閥だよね。あっという間に更迭にしちゃったよね」

 穂積がそれに応えた。
「証拠っていうのがあるらしいんですよ。どうやら、ボイスレコーダーみたいです。そこに、パワハラ発言の証拠が入っていたそうですよ」

「え? ボイスレコーダーですか。なんかえげつないですね」と橿原が言う。

「私もね、職員さんから聞いたんだけど、今どきはボイスレコーダーを持っておいて、何かの時には録音しておくといいってことですよ。実際、去年のハラスメント対策研修会でも、ボイスレコーダーはかなり有効だって講師の人が言ってましたしね。私も職員さんから勧められたから、小型で集音性能がいいのを一つ買っちゃった」と言って、テヘッと笑う。

 永山が笑いながら言う。
「ちょっとちょっと、穂積先生、ここでの会話を録音とかしないでよね。結構やばい会話が多いから」

「私はしませんけど。永山先生、そんなこと言い出したら、理事長とか普通に盗聴してるんじゃないですか? 内線とか、もしかするとコンセントの中とか盗聴器があるかも」

 橿原がそれに続けて言う。
「そう言えば、僕らが使ってる大学のメールアドレスって、普通に本学の情報処理センターの人が中身を見れるそうですよ。必要に応じて見てるらしいです。実際、情報処理センターの人が言ってましたから」

「えぇ! 橿原君、それホント? っていうか、橿原君さぁ、いろんな事務の人からの情報入手が凄いね」

「じゃあ僕、学内スパイとして生きていけるかもしれませんね。学長亡き今、理事長のところに身を寄せるようにしますか」と言ってニヤける。

「それよりさ、『必要に応じて』って、どういう基準なんだよ。それこそ、理事長とか幹部の思いのままってことなのかね?」

 穂積がそこに応える。
「去年というか、昨年度ですよね。覚えてますか? 井野先生っていう人が大学辞めたじゃないですか」

「井野先生?」と永山は尋ねる。

 橿原がそこに口を挟んだ。
「今年3月の、年度最後の教授会で、怒鳴り散らして途中退席した女性ですよ」

「あぁー、あの人。あの人がなんかしたの?」

 穂積が応える。
「あまり詳細な事情は公開されていなんですけど、一般公開情報としては、ゼミの学生への暴言と、アカハラが原因だってことになってるんですけど」

「あっ、そこでもボイスレコーダーが活躍したの?」

「いえ、ボイスレコーダーがあったかどうかは知らないですけど、学生へのアカハラの証拠になったのがメールの記録なんです。たぶん、内部調査委員か何かが組織されて、そこに井野先生のメールが提供されたんでしょうね」

 それに続けて橿原が言う。
「で、情報処理センターの事務の人曰く、そこで井野先生がやり取りしたメールの本文を精査して、その中から学生に対するハラスメントを窺わせるものとか、他大学の教員とのやり取りを吸い出してきたそうなんです。で、それを基にいろいろな証拠集めが始まったということなんです。だからですよ、井野先生の事件が、他大学の先生を巻き込んで大炎上したのは。他大学の先生からすれば、なんで自分たちのメールのやり取りが青葉大学の運営に漏れてるんだって驚いたんじゃないですか。それに、井野先生の学科、たしかマルチメディア学科でしたっけ。ちょうど去年の今頃、学科会議で学内調査委員を招いた上で事態の審議をしたらしいんですけど、そこでは井野先生の一連のメール送受信の記録がプリントされて配られたそうです」

 永山は天井を仰いだ。
「いやいやいや、それって有りなの? だってさ、それがOKになると、とりあえず攻撃したい教員がいたら、その教員のメールのやり取りを監視しておいて、それを基に証拠集めを先回りできるってことだよね。もっと言えば、意図的に陥れたり罠に嵌めることもできる」

 橿原は笑いながら言う。
「でもまあ、大学が用意したメールアドレスによる送受信ですからねぇ。そこは大学が自由に閲覧できるってことじゃないですか。どうしてもっていうなら、僕と永山さんのメールは、個人アドレスでやりとりしましょうよ」

「いや、マジでその方が良いよ。そうしようよ。橿原君のは、あのGメールでいいよね。そこに俺のアドレスをあとで送っとくから」

 穂積が腕組みをして言う。
「そんなことより、お二人は今後どうするんですか? 兵藤学長を追い落としたのは理事長派閥かもしれないですよね。粛清が始まるかもしれないですよ。お二人は学長派閥ですよね」

 永山も穂積のように腕組みをした。
「うん、そうだね。どうしよう」

 橿原がそれに応える。
「もうどうでもいいんじゃないですか? はっきり言って、こんなのに付き合うのは疲れますよ。それに、粛清って言ったって、何があるんですかね。ドラマとか漫画とかなら面白いネタになりますけど、実際には大したことないんじゃないですかねぇ」

 穂積が真顔で橿原に向かって言う。
「辞めさせられることになった井野先生って、別に大した事件を起こしているわけじゃないんですよ。いろいろな人に聞いてみたんですけど、暴言って言っても、よくありがちな学生とのいざこざと評価することもできることだったんです。でも、その火に油を注いだのが理事長派閥だったという話です。実際、井野先生は田之浦理事長と犬猿の仲でしたから。井野先生は、どちらかっていうと完全な研究者タイプじゃないですか。ほぼ毎年、科研を獲ってましたからね。一方の田之浦理事長は、学生目線を大事にしたがる教育ビジネス志向の人です。ドラッカーを参考にするくらいですから。とにかく邪魔で仕方がなかったんですよ。井野先生がいると、他の研究者タイプの教員が元気になっちゃうから、ここらへんで研究志向の芽を潰しておこうって思ったんです、きっと」

 その時、研究室のドアがノックされる。
 3人はそっちの方を向いた。
 3秒ほどして、ドアがゆっくりと開く。
 一条実咲が顔を出した。
「あっ、先生方ですか。すみません、お邪魔ですか?」

 穂積が腕時計を見る。
「やばっ、もう3年のゼミの時間じゃん。急がないと」と言ってペットボトルとスマートフォンを持って立ち上がる。

 橿原も缶コーヒーをゴミ箱に放り込み、部屋を出ることにした。


16時30分。
 橿原一如が、3年次ゼミを終えて研究室に戻ってくると、予想通りのタイミングで内線が鳴り始める。
 受話器をとると、藤堂道雄がいつもとは違う静かなトーンをわざとらしく演じながら、「時間があるんやったら、こっちの研究室においで」と言ってきた。

 学長更迭の件と関係があることは予想できたが、絶対不可避のつまらない話を聞かされることになるかと思うと気が滅入る。

 橿原の研究室は、体育館の南側の2階に設置されている倉庫のような空間だ。
 空調が著しく悪く、夏は暑くて冬は寒い。
 雨が降ったら湿気り、体育館でクラブ活動があれば騒音が酷い。
 研究室としては最悪だが、学内ではひと気のない場所でもあるため、その人生において可能な限り人間関係を広げたくないのが信条の橿原としては、そういう意味では気に入っていた。

 橿原は「ふぅ~っ」と息を吐きだしたが、それが溜息ではないことを自分に言い聞かせ、研究室を出た。


 藤堂の研究室についた。
 研究の「け」の字もないのに研究室とは、橿原は少しニヤついてしまう。
 ドアをノックし、返事があったので入った。
「楽屋だな」と橿原は思った。

 今回は、藤堂から不味いコーヒーは勧められなかった。

 藤堂は「まあ、そこに座っときや」と言ってデスクに向かい、書類の束を整理してみせている。
 その仕分け作業を観察した橿原は、手順が乱雑で統一性がないことを確認していた。
 同じ書類を何度もデスクの面の上でトントンと落とし、下端を揃える動作を繰り返す。

 俺は忙しいオフィスワークの時間を過ごしているんだ、ということを見せたいのかもしれない。
 仕事をしている合間に部下を呼んで談話する上司、という演技をしなくていいから、早く本題に入ってほしいのだが、藤堂のそうした前座舞台は1分ほど続いた。
 ちょっと長過ぎる。
 橿原は招き猫のポーズをとってみた。

 そうかと思うと、突然小走りで研究室を出た藤堂は、隣の研究室を覗きこんで、そこに増田信吾がいないことを確認して戻ってきた。
 ドアを丁寧に閉め、橿原とテーブルを挟んで対峙し、静かな声で切り出した。

「ええか、橿原、学長がクビにされたということは何を意味するか分かるか?」
 彼なりに目一杯の演出を施している。
 演劇のようだ。
 ちょっと江守徹に似ている。
 それを意識しているのか。
 やはりここは研究室ではない、楽屋である。

「いえ、わかりません」
 無表情の中にも、少年の要素を混ぜて橿原は答える。
 実際、何を意味するかなんて立場によって異なるだろう。
 もしかすると、橿原に解答を期待して質問しているのだろうか。
 そうだとしても、橿原には彼が喜びそうな解答は用意できない。

「学長は『やり過ぎた』んや。この大学は、そういう大学や。気に入らん奴は理事長がピシャーっと潰しにくるんや。怖いぞぉ。これまでずっと学長とベッタリやった水本先生も、今は完全にピシャーってなってるわ」
 両手を前に出し、忙しそうに動かしながら話す。
「今日、水本先生を見たか。元気ないやろ。会議室でも隅の方でこんなふうになってるわ」と、体を縮こませて見せる。
 身振り手振りを交え、手話のように話す藤堂。
 パントマイムだろうか。

 藤堂は、窓から見える大学本部棟の時計台に目を移す。
「あれがこの大学やで。見てみい、あそこは呪われとるわ」
 この部屋もそうだと思う。

「今から、学長の派閥は消されていくぞ。もう既に何人か潰しにかかってきてるからな。水本先生はもう将来は無い。あの人は学長と一緒になってやり過ぎたんや。もう先はないわ。あの人は周りに気を使わずパパパーっとやってしまう人や。けど、俺は中立を守っとったんや。水本先生に言われて仕方なく学長に味方しとったけど、それは組織の中でやっていくためのテクニックや」

 なんでそんな戦略を自慢気に橿原に話しだしたのだろうか。
 これは予想の斜め上をいく。

「俺はずっと周りを見てたんや。水本先生から言われたり、学長から何か言われたり頼まれた時も、ジッと動かんと、周りを見とったんや。これが大学という組織でやっていく方法なんやで。いろんなところに配慮して上手くやらなあかんのや。学長の側にもつくけど、理事長の側にも顔を出しておく。学生気分のお前にはまだ分からんやろけど、そうやって上手いこと配慮していくんが、社会人が組織でやっていく秘訣や」

 学生気分の橿原としては、そういうのを「金魚のフン」、またの名を「風見鶏」と評したくなるのだが、もう少し黙っておくことにした。
 そういう生き方を否定するつもりはないが、間違ってもそのような道を歩むつもりはない。
 これは生き方の問題だ。

 頑張って無表情でいるように努めるつもりだったが、そんな努力をしなくても無表情のままでいられた。
 話がとってもつまらない。
 相槌のパターンに変化をつけることだけに注力している。

「そうやって配慮していったら、見てみい。こうして専任になれるんや。そうやって学科長になっていくんや。水本先生はそれが出来ん人やったんやで。そやから歳の順をポォーンと飛び越えて、俺に回ってくるんや。俺しかこの学科をまとめられる奴はおらへんねん」

 さすがに笑ってしまった。
 そのまま「よっ、学科長」と言えば良かったのかもしれない。
 いや、それでも彼は喜んだかもしれない。
 吹き出して笑ってしまったことがバレないように、「あ~っ、そうなんですねぇ」と、「なるほど、そうなのか」 的な要素を相槌に混ぜておいたが、バカにしているように見えなくもない。
 いや、普通の人にはそう見えたはずだ。

 自慢話と脅しの要素を織り交ぜた、意味の分からない講釈はさらに熱が入る。

「お前も学長と仲良くしとったからな。気いつけなあかんぞぉ。この大学の教員の皆がお前のことをそう見てるぞぉ。橿原は学長から気に入られとる、学長の指示を受けてやっとる、と見てるぞぉ」

 だからなんなんだという態度が、橿原から滲み出てしまっている。

「お前が学長から学生をあずかって、いろいろやってるんも気づいてる先生はおるんやぞぉ。お前、社会福祉学科の鈴木先生とか、マルチメディア学科の齋藤先生とも一緒になんかやってるやろ。あれも全部みんな知ってるんやぞぉ。事務の姉ちゃんたちと夜な夜なサッカーして遊んどるのも、増田先生は嗅ぎまわっとるんやぞぉ。中村さんや鈴原ちゃん、あと、学科助手の瀬川とも仲良くしてるな。お前、あれはどういうことしてんのや? 増田先生はいっつも俺に聞いてくるんや、『橿原は若い女たちと何してんねん』て。増田先生は理事長とベッタリや。知っとるやろ。あれはお前を揺さぶるネタを探してんねんぞ」

 なにか脈略のないことを列挙している。
 疲れる。

 橿原が無反応であることが気になってきた藤堂は、語気を強めた。

「ええか、お前は俺が面倒をみることになってるんや。お前が何か事を起こしたら俺が尻ぬぐいするんやぞ。お前は今は黙っとったらええんや」

 いよいよ橿原は相槌に疲れてきたので、喉まわりをほぐす意味でも言葉を発することにした。
 少し咳払いをして言った。

「えーとすみません。あの、何が言いたいんですか?」

 しまった。
 自分でも驚くほどストレートな言い方になっていた。
 隠れて静かにオナラをしようと慎重に調節したつもりが、爆音を響かせてしまったようなものだ。
 文字にしてみれば軽い感じがするが、実際に口にすると、相手をハンマーで殴ったようなセリフである。

 藤堂は首を捻った。
「んっ・・・・、だから、だからぁ、今、言うてるんは、気をつけなあかん、いうことや」

 交通安全協会の人間でも、もう少し気の利いたメッセージを発しそうなものだ。
 橿原はもう一言付け加えることにした。
「であれば大丈夫ですよ。たとえどんな環境であろうと、私は私のやることをやるだけですから」

「だからそれじゃアカン、って言うてるんや」
 なんだか凄く必死の形相だ。

「何がですか?」

「学長がクビになったんや」

「それが私と何に関係するんですか?」

「お前は任期付き教員なんやぞ!」

「はい?」

「専任じゃないんや」

「だから、・・・ん~、あの、だからそれがどう関係するんですか? っていうことなんですよ」
 橿原は会話のテンポを少し落とすために時間を使った。
 自分でも少しムキになっている。
 それが自覚できる。

「任期付きはすぐに切られるんやぞ」

「いつ辞めても咎められない契約でもあるわけですけどね」

「そんなこと言うてたら切られるぞ」

「切ればいいじゃないですか。そのための任期付きでしょう」

「だからそれを言うな」

「なぜです。それを言うな、というのは?」

「専任になるためには、お前は気をつけて動かなあかんていうことや。専任になりたいやろ? 皆そうなんや。だから俺が出す指示に従っとけ。それがお前の生きる道や。俺は学科長なんや。これからお前には、理事長の命令を受けた増田先生から仕事がドバーっとくるぞ。そうなったらお前はダメになる。学長はクビになったんや。お前を守る人はおらんのや。俺の言うことを聞いとけ。俺は学科長なんや。お前をどうにでもできる力があんねん」

 やっとゲロってきたようだ。

 つまりは、学長更迭事件で橿原はビビっているだろうから、これを機に橿原を自分の支配下に入れておくよう仕向けておこう、ということだろうか。
 どこまでも手間のかかる奴である。
 だいたい、学長更迭事件で一番ショックを受けているのは藤堂自身なのだろう。
 だからこんなにピヨった姿になっている。

「すみませんが、私は誰からどれだけ仕事が来ようと、それは私がやれる範囲でのことであればやるだけですよ。不可能であれば調整する。それはこれまでと変わらないですから」というか、それを調整するのが学科長の仕事だ。
 しかし、ノミの心臓である藤堂にそれはできない相談である。
 今年1年間にしても、次から次へと橿原に仕事を放り込んできたのは、なにを隠そう学科長の藤堂である。
 藤堂は、他の学科教員に仕事を割り振るのが怖かった。
 仕事を依頼した際に批判されたり、不満を持たれるのが嫌で、結局、学科業務のほとんどを橿原に任せている。

 そんな橿原の状況を見かねて、永山義春や穂積里香が仕事を手伝い、果ては増田信吾や水本誠二が裏で業務エフォートのバランスを調整していた。
 ウェルフェアプロデュース学科における最大の障害は、学科長である藤堂に他ならなかったのである。

 学長更迭でここまで動揺している男だ。
 目が血走って顔も真っ赤である。
 だからこういう卑小な内緒話を、父子ほども離れた若者に吹き込んでいるのである。
 哀れである。

「たしかにそうですね。であれば、藤堂先生が言うように、ここは呪われてますね。私がやりたい仕事もできないわけですから。それに、理事長や増田先生からそんなに仕事がたくさん来るのなら、私は理事長派閥になるということですし、藤堂先生の仕事もできなくなりますので、あとは藤堂先生がご自分で頑張ってください。もっとも、そんなにダメな大学なら、ここで専任になる理由もないんですけどね」

 5秒間の沈黙が長かった。

 ちょっと言い過ぎた感はあるが、過去、これまでに言わなさ過ぎたという部分もあるかもしれない。

 藤堂の顔、および全身はフリーズ状態である。
 口は半開き、瞬きもしない。

 ん? 本当にフリーズしているようだ。
 マネキンに似ている。

 だがこの時、藤堂の脳内シナプスはフル稼働していたのだろう。
 なんとか解凍されて、言葉が出てきた。

「せ、せ、専任になったら・・・、ボーナスがもらえるぞ!」

 言うに事欠いてそれかよ、とも思ったが、予想を上回る器量の小ささには感心する。

「いやぁ、でも、私はお金のために大学教員やってるわけじゃないですから」

「お前、なに言うてんのや。みんな金のためにやってるんや。なんや、お前、金が欲しくないのか?」

 藤堂は驚いた表情でテーブルに両手を強くつき、橿原を凝視する。
 どうやら本気で問いかけているようだ。

 お前、金が欲しくないのか。

 そんなセリフ、初めて生で聞いた。
 水戸黄門の悪代官や、死亡フラグの立ったチンピラのセリフでしか聞ける機会はないだろう。
 むしろ最近だとベタ過ぎて、劇中のセリフとして採用されないのではないだろうか。
 貴重な体験ができたと、むしろ有意義な時間になったような気がする。

「いやぁ、そんなこと言われましても、そりゃ建前上は仕事ですからね、欲しいって言うのかもしれませんけど。実際のところ、そこまでして欲しくはないでしょう? それより、もっと有意義な人生にしたいですよ」

「なに言うてんねん、お前! この大学でどうしたいねん! 専任になったらボーナスが出る。ガバッガバッと入ってくんねん。皆、そのために頑張るんや」

「はぁ、そうですか」

「そうですかって、お前、どうしたんや! どうしいたいねん!」

「だから、どうもしませんて。むしろ、何をさせたいんですか。私は私としてやっていくだけですって」

「お前はいつもそうや。中央突破しようとする。そんなことしたら潰されるぞ。討ち死にしたら終わりやで。生き残った奴が勝ちなんや。生き残っていくためには何でもせなあかん。頭のええ奴は外堀を埋めるんや。流れを読むんや。お前は専任じゃないんや。潰そうと思うたら、俺でも簡単に潰せるんやで」

 やっぱりコイツが最大の敵じゃないか。

 それに、自分が何を言ってるのか分かっているのだろうか。
 これって明確なパワーハラスメントであり、脅迫である。

 まとめてみよう。
 つまり、この会談から読み解けた藤堂の思惑とはこういうことだ。

 学長が更迭され、今後は理事長サイド、そして、俺が嫌いな増田が実権を握る時代になる。
 きっと若手の橿原も引き込まれていってしまうだろう。
 でもそんなことされると、今まで俺の剣となり盾となっていた橿原が手元からいなくなる上に、なによりもその橿原の口から、俺が学長の側にいた過去がバレる。
 それでは俺の人生が終わる。
 橿原は俺がやってきたことを洗いざらいバラすだろう。
 なんとしてでも口封じをしなければならない。

 だって、これからは俺も理事長の寵愛を受けたいんだ。
 でも、これまで理事長サイドを徹底してこき下ろしてきた言動の数々があるし、それも橿原は理事長サイドでバラすだろう。

 ではどうするか。

 橿原に、学内ではお前が学長派閥だと思われていると脅してやろう。
 理事長派閥から睨まれているぞと脅してやろう。
 それで、どうすれば助かるか助言してやるから、俺の下僕になれ、と言えば、橿原が俺の元を去ることもないし、理事長サイドに近づくこともない。
 一石二鳥じゃないか。
 では何を助言できるのかって?
「気をつけろ」だ。
「助ける」とか「こうすればいい」なんて言えない。
 具体的に指示を出しちゃったら、俺の立場を明確にしてしまうじゃないか。
 それは避けたい。
 だって、これからは理事長や増田には嫌われたくないんだもん。

 といったところではないか。

 もし来るべきXデーに未知との遭遇があっても、宇宙人に向かってこの男を「我々と同じホモ・サピエンスです」とは紹介しないだろう。


 それに、中央突破だの外堀だのと、戦記ものを引き合いに出してアドバイスしているつもりなのだろうか。
 だとするなら、そこには大きな間違いがある。

 どうやら教養がない藤堂のために言っておくと、世界中の誉高き戦士は、勝利だけを目指していたわけではない。
 負けることが分かっていても、やらねばならぬ戦いはある。
 戦士とは、民族の誇りを背負う存在だ。
 彼らは優越よりも名誉を、出世よりも伝説となることを欲する。

 物質的勝利だけを目指した戦いは、物語や伝説にはならない。
 300人で何十万というペルシア軍を迎え撃って全滅したスパルタ兵。
 外堀を埋められ、落城の今際に中央突破で討ち死にと言えば、真田幸村が典型だろう。

 では彼らの行いは無駄死だったのだろうか。
 そうではない。
 たとえその戦いに負けたとしても、民族としての生き様、その民族の戦士としての振る舞い方を伝え残している。
 それは物語、神話となって民族にアイデンティティをもたらす。

 大学は学術研究とそれに基づく高等教育を探求することを誇りとし、依代としている。
 世間や時代から見離されようと、正しいことを正しいと発信し続けることが教育や教員の使命なのだ。
 それが大学という教育機関の教員としての生き様であり、今なお大学という教育機関が存在する意義である。


「ですから、大学のキャスティングボートを握る人が誰であろうと、私は私としての研究を続けるわけですし、大学教育を私なりに続けるのです。それは誰が上司であろうと、前の学長であろうと、理事長であろうと、増田先生であろうと、私のここでの活動には関係がないんです」

「そんなら、もうええわ。俺はどうなっても知らんぞ。まぁ、おまさんがどこまで自分だけで生き残れるのか見とこうやないか」
 藤堂はそう言い放ち、この会談をやめた。

 生き残ることが前提となっている者とは、通じ得ない話である。

 そもそも、藤堂自身が普段は「下の奴らは上のモンのために命を張るんや」とか言いながら、肝心な時に自分は逃げ出すような奴である。
 そんなに任侠の世界に憧れているのなら、兵藤芳裕や水本誠二のために、一暴れすればいいはずなのに。
 これは別に今回の一件で分かったことではない。
 橿原としては何年も前から呆れていた、藤堂の性格と行動の本質である。


 橿原は研究室を出る時、いつものように「はい、では、ありがとうございました」と言って出た。
 藤堂もいつものように「お~つか~れさ~ん」と明るく返した。

 何が「ありがたかった」のだろうか、と考えると結構面白いなと思いつつ、階段を降りていく。
「お疲れ」になったのはたしかだが。

 グラウンドを通って体育館にある自分の研究室に戻っていく。
 気分はすこぶる良かった。
 ちょっとずつ何かが動き出したような新鮮さがあった。

 3階にある藤堂の研究室からは、グラウンドが見渡せる。
 そこから、今そのすぐ下を歩く橿原を見ることは容易だ。
 もしかすると、窓から藤堂が見ているのかもしれない。

 橿原は振り返らなかった。
 お互いが目を合わせてしまう確率は高いように思えたからである。

 自分の研究室に戻ると、電気をつけていなかった部屋で、パソコンのスクリーンセーバーだけが明るくチラついていた。

 もう既に日は落ちていた。




31:2012年12月21日