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17:2012年8月30日

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2012年8月30日(木)10時40分

 次の日は、朝から強い日差しがテニス部員を襲う。
 今日は合宿最終日だ。
 8月の終わりともなると少し涼しくなると思っていたが、今日はその期待を見事に裏切っている。
 何もしなくても体力が奪われていきそうだ。

 練習スケジュールはシンプルである。
 午前中はシングルス、午後はダブルスの練習である。
 そこに細かい指示はない。
 部員同士で示し合わせてプログラムを作っていく。

 キャプテンである西崎祐実は、昨日のことがあったためか、少し元気が無い。
 どんな事件があったのか、それは部員も知っている。
 西崎も部屋で部員に愚痴っていた。

 一方、コーチである三井拓馬の全身痙攣事件は、藤堂道雄と岸本佳苗以外は知らない。
 藤堂は部員に言わなかったし、岸本としても呑気に皆に向かって言えるような内容ではないと認識した。
 この件を部員に知らせたのは合宿後である。

 西崎と藤堂との間で喧嘩があったことは、合宿におけるテニス部員に緊張感を与えた。
 それが良いのか悪いのか、その判断が難しい緊張感だった。
 午前の練習が始まっても、部員全体が少し大人しいのはこの暑さのせいだけではないのである。

「お昼は君らだけで食べたらえぇ」
 藤堂はそう言って昼前にテニスコートを出た。
 ハイエースに乗りどこかへ向かった。
 今はまだ、西崎と一緒にいるのが居心地よくないのだろう。

 三井コーチは自分のテニススクールのイベント運営があるため、今日の朝から帰っている。
 昨日のことは、ストレスが原因の過呼吸ということだ。
 病院で診たわけではないが、そんなところとだろうと本人が言っている。


「午前、終わりぃ」
 西崎の静かな合図で、午前練習は12時10分に終了した。

 ホテルの食堂で昼食をとり、午後2時からの午後練習に備える。

 午後1時30分になったが、藤堂はまだ帰って来ない。

 4年生集団がロビーでくつろぎながら、練習開始を待っている。
 4年生の佐藤美樹がこんなことを言う。

「ねぇねぇ、今日、すごく暑いからさぁ、藤堂も来ないしさぁ、練習ペース落としたら?」

 他の者も同意したいのだが、なんだかそんな気分にはならなかった。

午後1時50分だ。
「じゃあ、行こうか」と、ホテルに併設されているテニスコートに向かう。
 ちょうど1年生と2年生の集団が階段を降りてロビーに現れていた。


 練習を開始して1時間。
 ペアでクロスラリーをつなぐプログラムに取り組んでいる。
 ラリーが続けば良いというものではない。
 なるべく限られた範囲で、相手の取りにくいショットを打つ練習だ。

 第2コートでは、4年の佐藤と2年の中原彩音(なかはらあやね)が練習している。
 ラリーは8往復ほど続き、中原のバックハンドから放たれたボールはネットにかかる。
 ここでプレーは中断。
 立ち止まった中原の足元にボールが転がり戻ってきた。
 だが中原は俯いたまま動かない。
 中原は静かに、だが大きく揺れているようにも見える。
 様子がおかしい。

「彩音ちゃーん、もう一本いこう」
 佐藤が声をかける。

 突如として中原が奇声をあげだした。
「グギギギギイイイイイッ、ウイイイイィー!」

 およそ人間が発している声とは思えない。
 近しいとすればガーゴイルやゴブリンといった、そんな魔物の声だ。

 全員の目が第2コートに集まる。
 中原はそのまま倒れ込み、仰向けになって動かなくなった。

「え、どうしたの。え、中原?」
 佐藤が青ざめた顔で近寄ってくる。

 息はしている。
 むしろ、胸や肩が大きく上下する。
 息は荒いと言ってよい。

 第1コートにいた岸本が駆け寄ってくる。

「あれなんじゃない。熱中症」
 中原の頬や腕を触って体温が非常に高いことを確認しながら、岸本は他の部員に指示を出す。
 まずは日陰に運ばなければ。

 4人がかりで中原をコート横に担いで運ぶ。
 中原はぐったりしている。

 佐藤は膝から崩れ落ち、泣きだしている。
「彩音が、彩音が死んでしまうぅ。どうしよう・・・」
 佐藤は気が動転している。

 1年生たち3人は立ち尽くすだけだ。
 テニスラケットを大事そうに抱いて立っている、それしかできないようでもある。

 こんな時に限って三井コーチがいない。
 でも大丈夫だと自分達に言い聞かせる。
 中原が絶叫したのが気になるが、それでも今自分達がやれることは熱中症への対処だ。

 岸本は、3年生と4年生を中心に対処するほうが適切だと考えた。
 以前にも熱中症の対処はしたことがある。
 3年生と4年生なら、このホテルのこともよく知っている。
 製氷機は、ロビーから北側へ伸びる廊下の先の、自動販売機コーナーに併設されてある。

「氷持ってきたほうがいいですか?」
 3年生の辰野良子がすでに取りに行こうとしてくれていた。

 2年生に手伝ってもらい、コートを出たフェンス脇にある木陰に中原を運んだ。
 首周りや脇、股の間に、氷を入れたビニル袋をあてがう。
 こうすれば体温上昇が防げるだろう。
 大学の救急処置の授業がここで役立った。

 そうだ、藤堂に連絡しなければ。
 岸本はバッグから携帯電話を取り出し、藤堂の連絡先を検索。
 20秒間ほど呼び出し音を聞いた気がする。
 藤堂は出なかった。

「ちょっとぉ! 出ろよ!」

 そう怒鳴っていたら、向こうからかかってきた。
 岸本は着信ボタンを押す。

「あっ、監督、岸本です。あの、中原が大変なんです。大声あげて倒れたんです。今、コートの横に寝かせてます」

「なんやて、もう一回言うて」

「だから、中原が倒れたんです。今、コートの横に寝かせています」

「えっ? えっ? えっ? なんやて、もう一回言うて」

「だぁかぁらぁっ、中原が大変なんですっ。倒れてます!」

「そりゃ大変やっ。どうすんねん」

「どうしますか? 今、コートの横に寝かせてます」

「どないすんねん!」

「だから、どうすればいいですか? 救急車を呼びましょうか?」

「ちょい待てぇ! 救急車は必要なんか?」

「いや、分からないです。でも呼んでおきましょうか?」

「中原はどうや? 聞いてみ」

「聞けないです。倒れてます」

「なんで救急車がいるんや。そんな簡単に呼べるもんちゃうで。なんで倒れたんや?」

「わからないです。大声あげて倒れたんです。今、体を冷やしています」

「おい、冷やしていいんか? 大丈夫なんか?」

「いえ、わからないです」

「おえ! 分からんてどういうことやねん! お前ら一体何をしたんや、なにがあってん。まあええわ。どうしてほしいか、中原に聞いてみ」

「だから中原は・・・」
 岸本はなんだか悲しくなってきた。
「あの、監督は今どちらにおられるんですか?」

「お? お? あ、俺か? 私は今スーパーです」

 敬語だ。

「監督、どうしておけばいいですか。どれくらいで帰ってこられますか。病院とかに運ぶようにしましょうか?」

「えっ? えっ? えっ? なんやて、もう一回言うて」

 ダメだこいつ、使いものにならん!
 岸本は般若の形相で電話を切った。

「ねぇ、とりあえず練習を中止しておこうよ」
 岸本はリーダーの西崎に言った。
 それまで混乱した顔だった西崎だが、今は中原の落ち着いた様子を見て西崎自身も落ち着いてきた。
 3年生以下に、各自でコートを片付けてホテルで待機するように、と指示を出した。

 15分ほどすると中原は普通にしゃべれるようになった。
 衰弱しているように見えるが、顔色は悪くない。

 20分もすると、立って歩けるようになった。
 だが、「歩かないほうがいいよ」と佐藤に言われ、とりあえずベンチに座っておいた。

 30分もすると、藤堂がホテルに帰ってきた。

「どや?」
 藤堂は、駐車場に面しているフェンス越しに、中原を探しながら聞いた。

「大丈夫です」
 ポカリスエットを飲みながら、気怠そうに中原は返す。

 出入口へまわってコートに入る。
 中原が元気そうだとはいえ、部員のショックの色はコートに少し残っていた。

「まぁ、とりあえず練習あがろか」
 藤堂は指示を出し、手を2回パンパンと叩いた。

「練習終了や」
 もう一度言ったその言葉で、ようやくテニス部員は行動を開始した。
 とはいえ、そこにいるのは3年生1人と、4年生4人の計5人だった。

 まだ日は高い。
 4時前ぐらいだろうか。
 だが、この状況で練習を続ける気にはなれないだろう。
 普通の熱中症、つまり、静かに倒れる熱中症というものであれば、ここまでの衝撃は残さなかったかもしれないのだが。
 今回はちょっと趣向が違う。

 藤堂は側頭部をかきむしった。
 溜息。

 そして、ラケットをカバーに入れようとしている岸本の方を向いた。
「おえ! 岸本・・。お前、ちょっと来んかい!」
 藤堂は低く鋭い声で岸本を呼ぶ。

「はい。なんでしょうか?」
 驚く岸本は、恐怖を感じながらも、その指示に従って走り寄った。

「おえ、お前、なんで中原の体を冷やしたんや?」
 なんだろう、この人ちょっと怖い。
 藤堂がこういう時は碌なことがない。

「はいぃ、あの状況だと、熱中症じゃないかと思ったので」

「お前なぁ、気をつけな、熱中症の時は、体を冷やしたらあかん場合もあんねんぞ」

「はいぃ・・、そうなんですか?」

「そうやぁ、気をつけなあかんのや。覚えとけよ」

 岸本は諸々を含め、納得出来ない気持ちもあったが、熱中症への対処についてはそうなのかもしれないし、言い返したところで建設的ではないと悟った。

 なお、あとで救急処置のテキストを読んでみたが、冷やしてはいけない場合などありはしなかった。


 そういえば今日は合宿最終日だった。
 藤堂は、最後の挨拶くらい格好良くまとめておこうと、主務の岸本に部員をテニスコートに集めておくよう指示を出す。
 いくぶんか涼しくなった16時40分のテニスコートに、選手が集合した。

「今日はこれで終わりや。そして、この合宿も今日で終わりや。最後、中原があんなことになって、満足のいく締めにはならんかったけどな」

 その言葉が放たれた瞬間、部員全員の間に共通理解を導くシグナルが走った。
 テニス部員の間だけで受信できる、暗号化処理されたデジタルシグナルだった。

「このバカ死ねばいいのに」
 例えば岸本の場合は、そのようにアナログ変換された。

 その後も藤堂は締めの挨拶を続けたが、皆、何を言っていたか覚えていない。




18:2012年9月1日