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2012年8月29日(水)16時20分
滋賀県大津市のホテルのロビー。
テラスからは琵琶湖の湖面と、そこにかかる琵琶湖大橋が眺められる。
見晴らしの良いホテルだが、バブル時代に作られたことを匂わす古代ギリシャ調のハリボテ造形が、経年劣化によってその寂しさが助長されている。
青葉大学は夏休み中であり、藤堂が監督として率いるテニス部は、合宿のために宿泊している。
このホテルにはテニスコートが3面あり、それを使用している。
ここを利用した合宿をするのも、藤堂が赴任して毎年のことだから5回目だ。
今日の練習は終わったようだが、藤堂は主力選手が自分に反抗的態度をとることに気をもんでいた。
その選手とは西崎祐実(にしざきゆみ)である。
なんとか改善の糸口を見つけないとと考えていたが、なかなか難しい。
「女の扱いは難しい・・・」そうキザったらしく思ってみるものの、起きている問題が「女の扱い」というレベルのことではないことは、藤堂自身も感づいている。
こういうトラブルは、今回に始まったことではない。
昔から藤堂は同様のトラブルに苛まれてきた。
選手が徐々に自分の言うことを聞かなくなる。
目をかけている奴ほどそうだ。
なぜなんだ。
今回で何回目だろう。
なぜ上手くいかないのか、でも、俺は選手を強くしている一面もあるじゃないか。
そういう一面をなぜ見ようとしない。
俺の言っていることに従えば問題ないはずなのに、と、そんな感じで自分を肯定するより他はない。
藤堂は、クラブの指導を任せている、外部コーチの三井拓馬(みついたくま)を呼んで指示を出す。
「おい、三井コーチ。西崎をつれてロビーに来い」
練習後、コーチにそう命じ、ロビーにある典型的な歓談用テーブルを囲んだソファの一つに腰掛けて2人を待った。
しばらくすると、西崎と三井の2人がやってくる。
練習直後である、まだ2人とも火照った体で、やや息も大きい気もするが、気のせいと言われればそうかとも思う。
西崎祐実はこのテニス部のエース的存在であり、主将も務めている4年生だ。
身長は168cmと比較的恵まれた体格をしており、手足も長く、テニスに向いた素質を持っていると評価されることも多い。
一方、練習を手伝っている三井拓馬は26歳の元テニス選手。
プロ活動歴はないが、全国大会に出場してダブルス・ベスト8までいったこともある。
現在は実家が経営するテニススクールを拠点として、出張指導にも手を出している。
藤堂とは大学時代に知り合い、これまで青葉大学の女子テニス部を任せてもらっている。
「まぁそこに座りぃや」
藤堂は西崎がソファに腰掛け終わると同時に話し始めた。
三井はまだ座っていない。
「西崎、もう夏になったんや。このチーム、どう思う?」
「どう思う? というのはどういう意味ですか?」
西崎は本当に意味が読み取れなかった。
「1年生のことや。どう思う?」
藤堂はヒントを出してみたつもりである。
いきなり答えを開示しないのがコーチングだと聞いたこともあった。
「1年生をどう思う、というのはどういう意味ですか?」
西崎は少しイラッとしたが、いつものことだ。
慣れている。
「1年はぜんぜん出来てへんやないか。練習が終わった言うて、すぐに部屋に帰っとる。終わってからもストレッチをしっかりやってるのは4年生だけやわ。体力もないわ。ああいう心がけやったら体力がつかへんわ。ここで1年にしっかり教育をしとかな、それがお前のキャプテンの務めや」
西崎が気づいていないことを指摘できて、藤堂はちょっと嬉しかった。
キャプテンの務めだという一言は、なかなか西崎へのダメージは大きいはずだ。
「それは・・、でも練習後に全員、ペアで整理体操はしてますし、私も『あがれる人からあがっていいよ』って言いました。だいたい、すぐに部屋に帰ったのは1年生だけじゃなくて、他の学年みんなです」
「そんな言い訳いらんねん。あれじゃあかんて言うてんねん。1年が、うちのテニス部のやり方を飲み込めてない、いうことや。うちは自由や。俺は口出しはせぇへん。各自が競技力を高めるために各自でやったらえぇねん。強くならんくても、負けても、それは自己責任や。けど、それはキャプテンであるお前がコントロールせなあかんねん」
「それじゃ、各自に任せてるわけじゃないですよね」
西崎がこの言葉を何回発したのか覚えていない。
それだけ過去に幾度と無く繰り返されてきた問答だ。
「強くなるために、クラブとしてやらなあかんことはやらなあかんねん。それは西崎、お前がやらあかんねん。そやからお前の競技力も下がってくんねん」
西崎は最近戦績がふるわない。
それを利用すれば説得力があるはずだと藤堂は踏んだ。
戦績のことを言われると西崎も気が滅入る。
語気は弱まった。
「ですけど・・・、私とペアをやってる辰野(たつの)も自分の練習があるんです。他の4年とも話して、1年生の指導はみんなでやろうということにしてますし」
「だからあかんて言うてんねん。それはキャプテンのすることや。キャプテンがビシッと言うことや。皆の前でビシッと言うねん」
藤堂がしゃべり終わる直前、三井が割って入った。
「西崎と辰野がこのクラブの主力です。その2人の練習する姿を見せて引っ張るというわけにはいかないですか。強化は各自に任せるという方針なんですから、そういう方法も・・」
ストレスを抱えた西崎を助けるつもりの発言であり、三井自身もそこまで本気で言ったつもりはない。
「それだけやったらあかん。キャプテンが指導することや。自分の練習がしんどい言うんわ言い訳にならへんねん。それが上に立つ者の宿命や。自分の練習もしっかりやる。チームのこともしっかりやる。それがキャプテンや」
西崎は黙っている。
たしかに、藤堂が言う一面もあるだろうと思っている。
「三井もそこを気にしとかなあかんのや。西崎は自分のこととチームのことで頭がいっぱいや。まだ西崎はそういう力が無いねん。お前もそこを上手に配慮せなあかんねん」
黙る西崎を横目に、藤堂は少しフォローを入れるつもりで三井に向かって言った。
「それはそうなんですが・・・」
三井もうつむいて黙る。
目の前の2人は完全に沈黙。
監督らしいカリスマ性のある発言の数々により、素晴らしいコーチングができていると藤堂の気分はいやが上にも高揚した。
満足度の高い一日になりそうだ。
今夜のビールは美味しいはずだと、ほくそ笑みたい。
ところがである。
「もういい!」
西崎が怒鳴ってソファから飛ぶように立ち上がる。
藤堂は「ほぇ?」と声にならない音を喉から出し、口をぽっかり開けて目を見開いてしまう。
西崎の目は真っ赤だった。
体も少し震えている。
三井も立ち上がって西崎の肩に手をやる。
「西崎、落ち着けって」
とは言え、どう落ち着かせようかと三井もわからない。
まだ藤堂は口を開けたままだ。
「とりあえず座れって」
三井は西崎の腕をとってソファの方に下げようとした。
だが、西崎はそれを振り切った。
目の前のテーブルに脚をぶつけながら、その場を離脱する。
そして、早足にホテルの玄関に向かった。
そのまま外に出て行った。
10秒程たったのだろうか。
否、20秒くらいのような気もする。
ロビーには藤堂と三井の他はいない。
ホテルのフロントにも従業員はいなかった。
熱帯魚を入れた水槽のポンプ音だけが無機質に響いている。
突如、三井は強烈な眩暈に襲われた。
西崎は全国レベルで戦える選手だ。
それを預かっている責任があった。
三井は、ほぼ西崎の個人コーチのような立場でテニス部に関わっている。
このままでは西崎の戦績が落ちていく一方だという危機感があった。
なんとかしなければ。
そんな思いは三井の肩に重くのしかかっていた。
西崎が精神的に追い込まれていることも知っていたし、それは同時に、三井自身も改善に向けて追い込まれていたことになる。
西崎が今のような態度をとったことは、先ほどの藤堂とのやり取りだけによるものではない。
ずっと溜まっていたものが爆発したのだ。
だが、藤堂にその調整は期待できない。
こんな問答が繰り返されるなかで、西崎は強くはなれない。
俺がやるしなかい。
でも俺も手一杯だ。
気がつくと、三井の体に痛みが走った。
どこが痛いのか最初はわからなかった。
全身が自分の物ではないように錯覚される。
痛いのだから自分の物なのだろうけど、などと言っている余裕は少しずつなくなっていく。
視界が暗いのか明るいのか分からない。
でも見えにくくなっている。
立っていられない。
そう言えば、息苦しい。
なんで苦しいんだ。
うずくまろう。
そうするしかない。
体力には自信があるのに。
なんだか、今は疲れた。
うずくまるんだ。
体が痛い。
いや、痛くない?
やっぱり痛い。
電気ショックを浴びせられているようだ。
「おい、三井、お前、大丈夫なんか?」
藤堂が声をかけてくる。
どうやら俺は仰向けに倒れている。
自分が死にそうな感触は無い。
たぶん無い。
そんなに大げさな事じゃないのに。
でも動けない。
なんだか恥ずかしい。
そんな気がする。
橿原の研究室には、彼の後輩である松岡正章(まつおかまさあき)が訪問していた。
松岡はノートパソコンを前に、修士論文用のデータをいじっている。
彼は現在、南海大学の修士2年。
彼は橿原と同じ、梨田研究室の院生だ。
青葉大学と南海大学は、立地がさほど遠くないこともあって、橿原は今でも南海大学に行って仕事をすることも多い。
松岡とも、仕事を共にすることはしょっちゅうだ。
今日は松岡が、橿原に修士論文のことを相談しに来ている。
「橿原さんだと、このタイトルはどうしますか?」
論文のタイトルのことのようだ。
「タイトルって、最後につけるくらいでいいよ。一番最後だね。まだどんな内容にするのか決まってるわけじゃないし。焦らんでもいいんじゃない」タンブラーに入ったコーヒーを飲みながら、橿原は答える。「論文て、タイトル、抄録、序論、本論、結論っていう感じに進むでしょ?」
「はい、そうですね、はい、そうなんですか?」
松岡の返事は怪しい。
「で、その順番通りに書こうとすると結構難しいんだよね。だから、逆に書いていったほうが良かったりする。結論を先に書いといて、その結論を導くための本論を書く。その本論と辻褄の合う序論を書いて、最後にその論文の中身をまとめた抄録を書く」
「なるほど、じゃあそうします。とにかく今は先にデータ分析ですね」
「そうだね、それが優先事項」
「でも、秋口までに修論のタイトルを大学院事務に出さなきゃダメなんすよ。僕らの先生も『とりあえず出しとけ』って言ってきました。どうしたらいいですか?」
「なんか適当なこと書いときゃいいんじゃない。だって、どうせ12月に出す最終提出版のやつが採用されるんだし」
「そうですね。じゃあそうします。あっ、橿原さん、携帯が鳴ってます。後ろの」
「あ、ホントだ」
テーブルに置いていたマナーモードにしているスマートフォンが、小刻みに踊っている。
橿原はそれを取り上げ、液晶画面を見た。
「藤堂か・・・」
橿原はつぶやいた。
「あっ、僕、外に出てたほうがいいですか」
松岡は腰を少し上げた。
ちなみに、松岡は藤堂の高校の後輩にあたり、藤堂のキャラクターも承知している。
彼も被害者の会の一人だ。
「あぁ、いい。いい。大丈夫」
橿原は松岡に「座っておくように」というジェスチャをして電話に出る。
「はい、橿原です。お疲れ様です」
いつも通りの爆音が、小さなスピーカーから飛び出してくる。
「おぉ、橿原先生。おーつかーれさーん。あのなぁ、ちょっと聞きたいことがあんねん」
「はい、なんでしょう?」
「あのなぁ、今、学生が痙攣を起こしてんねん。どうしたらえぇ?」
橿原は考える。
一体何事だろうか。
「はい、えぇっと、痙攣って、どういう状態なんですか。どこが痙攣してるんですか。あのぉ、そこはどこですか?」
携帯電話で助けを求めてくるほどなのだ。
だいぶ重度の痙攣なのだろう。
そう言えば、今週からテニス部で合宿をしてくると言っていた。
そのために学会にも出られないと話していた。
テニス部の練習中の出来事なのかと橿原は予想した。
「あっ、チョイ待ってな。【おい、橿原先生やで。お前、痛いんわ、どこや。どこが痛いねん。ん? うん】ああっ、橿原先生。あのなぁ、腹筋や、【お、え? ん? ん?】あのなぁ、背筋もや。【え? うん?】まぁ、体中が痛いねんて。全身や。全身が痙攣しとるわぁ」
てっきり、足や指がつってしまって治らない、といったことを予想していたのだが、これは只事ではない。
橿原はゾッとした。
「あのぉ、そこはどこですか。誰か助けを呼べる人います?」
「えーとなぁ、滋賀やぁ。大津におんねん。テニス部の合宿やぁ。ホテルにおんねん。そこのロビーにおるわぁ」
藤堂の話し方は落ち着いている。
橿原の「只事ではない」という心配は少し和らいだ。
人目につくところにいる。
「全身が痙攣してるって。結構大変ですよ。もしホテルの人がそこにいるのであれば、助けを呼んでもらったほうが。その学生、動けないんですか。救急車を呼んでもらったほうがいいかもしれないですよね。テニスをやっていてそうなったんですか?」
「そうやなぁ、救急車かぁ。そんなもんいるんかぁ? テニスやってたわけじゃないねん。突然倒れよったんや」
なら、なおさら救急車だろ。
「チョイ待ってな、【ん? ん? おう】橿原先生、救急車はいらん言うてるで」
そんなのこっちで分かりようがない。
患者を目視できないんだから。
でもまぁ、倒れてる学生もそういう意思表示ができて、藤堂もそれだけ落ち着いてられるんだから、とりあえず大丈夫なんだろうか?
いや、怪しい。
もしかすると大変なことになっているのかもしれない。
この場合、藤堂に任せていたら事態が悪化する恐れがある。
第三者の介入を促そう。
それがいい。
「藤堂先生、そしたら、とりあえずホテルの人に助けてもらってください。ロビーなんですよね。誰か、フロントに誰かいないんですか。様子をみてもらうとか」
「いや、誰もおらんわぁ。そうや、先生。こういう場合はどうしたらえぇ? ストレッチか?」
全身痙攣だろ。どんなストレッチをするんだよ。雑巾を絞るイメージが橿原には浮かんだ。
「あのぉ、藤堂先生、とりあえず、とりあえずでいいんで、誰か人を呼んでもらっていいですか?」
「わかったわぁ。それまでどうしてたらえぇ?」
「・・・、まぁ、そうですね。とりあえず安静にしておくことですかねぇ。えっと、その学生、その姿勢でいるほうが楽なんですか。今、どんな姿勢ですか?」
「んあ? 寝っ転がってるわぁ。【どや? ん? ん?】これでえぇ言うてるで」
「はい、そうですか。じゃあ、そのまま安静にして助けを呼んでください」
「りょうーかーい。あーりがーとさーん。助かったわ」
いや、助かってないだろ。
電話は切られた。
松岡と目が合った。
「あ、藤堂先生からですか? なんて言ってました」
「いや、よく分からん」
藤堂は橿原に電話をかけた後、続けてその携帯電話の連絡帳を開いた。
今度は「テニス部」のグループに入れている「岸本」を選択、決定。
ロビーから見える琵琶湖大橋を眺めながら、呼び出し音を聞いた。
岸本佳苗(きしもとかなえ)は練習が終わって自室に戻っていた。
同じ部屋には同学年である4年の佐藤美樹(さとうみき)、3年の辰野良子(たつのりょうこ)、2年の藤森佳恵(ふじもりよしえ)がいた。
4人で1部屋を使っている。
今日は気温が高かった。
暑さにバテバテであることをお互いに話し合っている。
4人とも部屋の奥側、8畳ほどの畳の部屋に集っている。
窓からは琵琶湖と比叡山が一望できる。
まだ日は落ちていないが、景色は徐々にオレンジ色を呈しはじめた。
テニス部の合宿でないと思えば、もっと気持ちよく見れるのだろう。
「あ、岸本さん、携帯が鳴ってますよ。ほら、そこ」と辰野が言う。
岸本は畳を匍匐前進して、ちゃぶ台の上に置いていた携帯電話を取りに行く。
「ホントだ。誰だろ・・・、うっわ、藤堂だ」
わざとらしく笑いながら残念そうな態度をとる。
それを見て他の3人も笑う。
岸本は着信ボタンを押した。
「はい、岸本です」
仰向けになって天井を見ながら答えた。
「おお、岸本か。ちょっとな、ロビーに降りて来てくれへんか? 大至急や。うん。お願いします」
「はい、分かりました。しばらくお待ちください」
電話を切る。
「藤堂がロビーに来いって言ってる。行ってくるね。もう、しんどいのにぃ」
岸本佳苗はこの女子テニス部の主務をやっている。
監督の藤堂、コーチの三井との連絡・橋渡し係をやったり、大学事務との手続きなどが主な仕事だ。
岸本は粘り気のある動作で畳から立ち上がり、部屋を出て行く。
「岸本さん、お疲れでーす」藤森の声が岸本の背中に残った。
藤堂は最後に「お願いします」と言った。
敬語だ。
経験上こういう場合、藤堂は自責を自覚してパニックになっている、つまり、キャパオーバーの大きな問題が発生している可能性が非常に高い。
やっかいな事はマジで勘弁だ。
そう思いながら岸本は早足に廊下を歩く。
スリッパを使おうと思ったが、小走りで動くには具合が悪い。
ホテル館内の床はきれいなこともあって、靴下だけで動くことにした。
階段でロビーに向かった。
エレベーターを使おうかと迷ったが、藤堂に「階段で来いよ」などと小言を言われたくもない。
自室は3階にある。
それほど体力も使うまい。
とは言え階段を降りる脚が重い。
ただこれは今日の練習の疲れから来るものだ。
足の裏にかかる衝撃が強く感じた。
スリッパの方が良かったか。
岸本はロビーに降りてきた。
そのフロアの中央部にテーブルを囲むようにソファの群れがある。
その一つに藤堂が座っているのが見えた。
岸本は、軽く駆け足で近寄っていった。
藤堂にあと10メートルと迫った時、岸本の目に、見慣れぬ光景が飛び込んできた。
藤堂が座るソファの横には、三井コーチが仰向けになって倒れている。
呻き声を上げている。
三井は時折、口をパクパクさせながら何かしゃべっているようにも見えた。
体は寒さに震えるように振動はしているが、じっとしていて動かない。
腕を前にもってきて、組むでもなく絞り込んでいる。
背を丸めているものの、仰向けであるため窮屈そうだ。
股はきつく閉じられ、膝は90度。
膝頭が体の中で一番大きく揺れている。
アゲハチョウのサナギのようだ。
岸本にはそう見えた。
腹筋トレーニングの終盤、もうこれ以上動けないという状態まで追い込んだ時にも、このような光景が見られるが、通常、ホテルのロビーの歓談コーナーではあり得ない。
なんにせよ、異常事態であることはすぐさま察しがついた。
だがどうだ。
苦しみもだえながら倒れている青年がいる横に、落ち着いてゆったりとソファに座る中年男性がいる。
その中年男性は背もたれに深く沈み、携帯電話をいじっていた。
「か、か、監督・・・?」
いや待て、この男は本当にテニス部監督・藤堂道雄なのか、少し疑ってもいた。
中年男性は顔を上げ、真顔で岸本を見つめてくる。
見つめ合った1秒が長かった。
真顔だ。
のっぺらぼうだ。
おかしい。
異常だ。
呪われた光景だ。
見てはいけないモノを見てしまった。
岸本はそう思った。
だが、すぐさま意識が現実に戻ってくる。
「あ、あ、あのぉ、み、み、三井コーチが・・・」
精一杯がんばって言葉を発した。
「おおっ、岸本ぉ。来たかぁ」
「か、監督。三井コーチが」
「おお、安静にしとんねん」
安静?
いや、哺乳類がぶっ倒れているだけだ。
「で、でも・・、監督、三井コーチが」
岸本は怖くなった。
「安静や。こういう場合は安静にしとかなあかんねん。お前、知らんのか? それよりもなぁ、頼みたいことがあんねん」
藤堂のように見える男は淡々と話している。
恐ろしく落ち着いている。
どうしたんだ。
何があったんだ。
これは異常事態じゃないのだろうか。
もう一度、三井に目をやった。
やっぱり今にも死にそうだ。
人が倒れている。
しかも知り合いだ。
私達のクラブのコーチだ。
駆け寄って介抱するのが普通だろう。
でも、そんな気が起こらない。
岸本の体は動かない。
立ち尽くしままだ。
触れてはいけない絶対的な領域にある。
そんな気がした。
周りを見渡した。
誰もいない。
「おい、岸本」
「はい。なんでしょう?」
岸本は反射的に答えた。
「今日の晩飯はなんや?」
「はい?」
「今日の晩飯はなんやぁ? いうて聞いてんねん」
「で、でも、三井コーチが」
「今日のホテルの晩飯はなんやねん」
「で、でも、そこに三井コーチが倒れてます」
「ほんまにほんまっ、お前はとろこいやっちゃのぉ。今日の晩飯はなんや? て聞いてんねん!」
藤堂は舌打ちをし、眉毛を大きく釣り上げて威嚇する。
「えぇっと。えぇ、たしか・・、ハンバーグとコーンスープ、それにサラダが付いています。御飯とサラダはおかわり自由です」
「そうかぁ・・・、しゃあないなぁ・・・。晩飯は、6時からやなぁ・・」
藤堂は苦悩の表情を浮かべる。
「はいぃ・・」と相槌をうっておく岸本。
藤堂は大きな溜息をつき、もう一度岸本を見据えて切り出した。
「今日、昼に南谷(みなみたに)先生から差し入れがあったやろ。それ、ケーキやったな。それを3つか4つくらい持ってきてくれ」
「ケーキですか? あ、はい。分かりました。持ってきます」
なぜそんな事を言ってくるのか、その意図が分からない。
だが、その言葉に従っておかなければならないように思えた。
聞き返したら、どうせまた怒られる。
岸本は振り返り、走って部屋に戻る。
「急いでやぁ」
藤堂とおぼしき男の声が、岸本の背中を突き刺す。
岸本は部屋に戻ると、目の前にいた3年の辰野にケーキの保管場所を聞いた。
「この部屋の冷蔵庫に入ってると思います。たしか」
辰野は部屋の奥に向かって声を出す。
「・・ねぇ、冷蔵庫に入れてたよねぇ?」
奥にいた藤森が、はいそうですと返事をする。
部屋にいた3人は、岸本の焦る姿を前にしても、その理由を問えずにいた。
「あのね、ケーキを持って降りていかなきゃならないの」
そう言って、後輩たちが冷蔵庫から出してきたケーキの箱、4つ全部を開けてみた。
ケーキは1箱に6個。計24個あるようだ。
ショートケーキ、チーズケーキ、モンブラン、ミルフィーユ、あと名前の知らないケーキがいろいろ入っている。
てんでバラバラだ。
藤堂はケーキは3つか4つでいいと言っていた。
どうしよう。
どれを持って降りていけばいいのだろう。
つまらない事で悩んでいる自分が情けないような、アホらしいような。
ショートケーキ2つ、チーズケーキ2つを持って行くことにした。
理由は、岸本自身が好きなケーキだからだ。
チョット待て、何に入れて持って行けばいいんだろう。
「なにか入れ物は無い?」
岸本は焦りつつ3人に聞いてみた。
その時、おっとりした性格の辰野がおっとり尋ねてきた。
「岸本さん、なんでケーキを持って行くんですか?」
もっともな質問である。
「わからないのよ。とりあえずケーキを持って降りなきゃ」
焦る声で答える。
同学年の佐藤が聞いてくる。
「監督が誰かにあげるの? それだったら、綺麗なものに包んだほうがいいよね」
佐藤はこういうところに気が利く。
でもそんな状況ではないのだ、と言いたいところだが、この状況がどんな状況なのか説明することは、今の岸本にはできない。
岸本は、ケーキが入っていた箱の1つを空にすることにした。
それにショートケーキ2つとチーズケーキ2つを入れる。
よし、これでいい。
「じゃあ!」
と言って部屋を出て、岸本はロビーに駆け下りた。
今から5分前と同じ状況がそこにはあった。
その男はソファにゆったりと座って腕組みをしている。
岸本に気づいた藤堂は、「おおぉ、持ってきたか。どれどれ」と言ってケーキを見せるように指示する。
「はい、これです。監督。ケーキです。ショートケーキとチーズケーキを持ってきました。必要であれば、モンブランやミルフィーユもあります」
岸本の息はあがり、肩が大きく上下している。
「よっしゃ。これでええわ」
藤堂は安堵の表情を浮かべ、「そしたら、岸本。こいつに、三井にケーキをやれ」と言う。
藤堂は三井を覗き込みながら、「おい、三井、食べれるか? 自分で食べれるか?」と聞いているが、三井は首を素早く横に降る。
「あかんか。岸本、そしたら、お前が食べさせぇ。それやったらいけるやろ」
「はい。では、普通に食べさせたらいいですか?」
だがこの状況であれば、なにをやっても普通じゃない。
岸本は三井のそばに寄って、彼を抱き起こそうとした。
三井は苦しそうだ。
「岸本・・、岸本・・、きつい。きつい。そのままにしておいてくれ・・・」
三井はか細い声で訴えてくる。
「監督、コーチはきついそうです」
そう言いながら、三井をゆっくりと元の位置に戻した。
「おい、三井、きついんか。きついんか。そやったら・・・、岸本、そのまま食べさせろ。そのままでええわ。とにかく食べささなあかんわ」
岸本は三井を寝かせたまま、箱からケーキを1つ取り出し、その周りについている保護用のセロファンを剥がした。
「はい。・・・コーチ、・・・ケーキです。・・・どうぞぉ・・」
岸本はケーキを三井の口に運ぶ。
まずはショートケーキにしてみた。
だが、三井はケーキを拒む。
「監督、コーチはケーキを食べたくないそうです」
「三井、食べなあかんぞ。食べぇ!」
藤堂は語気を強める。
三井は苦痛のなかにも仕方ないという表情を浮かべながら、ケーキを頬張った。
口には入るが、咀嚼するに際してボロボロとケーキがこぼれていく。
三井の口元は生クリームで白くなっていった。
それでも、美味しそうなケーキだと岸本は思った。
「どうや。三井、食べてるか?」
依然としてソファにゆったり腰掛けたまま、藤堂が聞いてくる。
三井は素早く首を横に振った。
「岸本・・、岸本・・、もういい。もういい。いらない。しんどい。なんで俺がケーキ食べなきゃならないんだ」
三井は苦しみながらも、じっと岸本を凝視して訴えかける。
「たしかにそうだ」と岸本は思ったが、それに明確に同意するだけの基盤はない。
「監督、コーチはもういらないそうです」
一応報告しておいた。
「お。そうか。・・・いや、念のためにもう一個食べとけ。三井。食べやぁ」
藤堂は三井の顔を覗き込みながら、至って真顔で言う。
「コーチ、そしたら・・、今度はチーズケーキです。・・・どうぞぉ」
「だからいらないって。・・なんでだよ。しんどいって。・・なんでチーズケーキなんだよ」
三井は苦悩の表情をする。
岸本は三井にチーズケーキを一口かじらせたが、それ以上は食べようとしない。
「もういいって。・・・岸本。もういいって。もう大丈夫だ」
三井の必死の訴えに、岸本もさすがに介護作業を停止した。
「監督、コーチはもう大丈夫だそうです」
「そうか、良かった。もう大丈夫なんやな。よしよし、ケーキが効いたな」
藤堂はこの時に至って、安心したように笑みを浮かべた。
三井は仰向け状態から、ゆっくりと体を捻り、まずは屈み込んで座る。
イスラム教徒の祈りのようだ。
そして隣にあったソファに這い上がり、腰を深々と沈めた。
岸本はポケットに入っていたティッシュペーパーを三井に渡した。
三井はそれで口元を拭く。
大きく溜息をついている。
まだつらそうだ。
おもむろに藤堂は立ち上がり、琵琶湖大橋が見えるテラスの方に向かった。
そして振り返り、岸本を手招きする。
岸本が近くに来ると、ゆっくりと、そして静かに語り始めた。
「あいつは全身痙攣を起こしとったんや」
「はい、そうなんですか」
「そうやぁ。見とったやろ。体がビクビクビクビクッーゥってなっとった」
「はい」
「せやからケーキを食べさせたんや」
「そうなんですか」
「そうやぁ、なんでもええねん。ケーキやったらな。たいていのケーキやったら食べさせても大丈夫なんやで」
「そうなんですか」
「そうやぁ、まあ、覚えとき。おまさんもテニスコーチを目指してるんやろ?」
藤堂はそう言って微笑を浮かべ、岸本の肩をポンポンと叩いてロビーをあとにした。
だいぶ日が落ちてきている。
もうすぐ夕食の時間である。
ハンバーグとコーンスープだ。
遠くに見える琵琶湖大橋は、静かな紅に染まっていた。
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17:2012年8月30日
2012年8月29日(水)16時20分
滋賀県大津市のホテルのロビー。
テラスからは琵琶湖の湖面と、そこにかかる琵琶湖大橋が眺められる。
見晴らしの良いホテルだが、バブル時代に作られたことを匂わす古代ギリシャ調のハリボテ造形が、経年劣化によってその寂しさが助長されている。
青葉大学は夏休み中であり、藤堂が監督として率いるテニス部は、合宿のために宿泊している。
このホテルにはテニスコートが3面あり、それを使用している。
ここを利用した合宿をするのも、藤堂が赴任して毎年のことだから5回目だ。
今日の練習は終わったようだが、藤堂は主力選手が自分に反抗的態度をとることに気をもんでいた。
その選手とは西崎祐実(にしざきゆみ)である。
なんとか改善の糸口を見つけないとと考えていたが、なかなか難しい。
「女の扱いは難しい・・・」そうキザったらしく思ってみるものの、起きている問題が「女の扱い」というレベルのことではないことは、藤堂自身も感づいている。
こういうトラブルは、今回に始まったことではない。
昔から藤堂は同様のトラブルに苛まれてきた。
選手が徐々に自分の言うことを聞かなくなる。
目をかけている奴ほどそうだ。
なぜなんだ。
今回で何回目だろう。
なぜ上手くいかないのか、でも、俺は選手を強くしている一面もあるじゃないか。
そういう一面をなぜ見ようとしない。
俺の言っていることに従えば問題ないはずなのに、と、そんな感じで自分を肯定するより他はない。
藤堂は、クラブの指導を任せている、外部コーチの三井拓馬(みついたくま)を呼んで指示を出す。
「おい、三井コーチ。西崎をつれてロビーに来い」
練習後、コーチにそう命じ、ロビーにある典型的な歓談用テーブルを囲んだソファの一つに腰掛けて2人を待った。
しばらくすると、西崎と三井の2人がやってくる。
練習直後である、まだ2人とも火照った体で、やや息も大きい気もするが、気のせいと言われればそうかとも思う。
西崎祐実はこのテニス部のエース的存在であり、主将も務めている4年生だ。
身長は168cmと比較的恵まれた体格をしており、手足も長く、テニスに向いた素質を持っていると評価されることも多い。
一方、練習を手伝っている三井拓馬は26歳の元テニス選手。
プロ活動歴はないが、全国大会に出場してダブルス・ベスト8までいったこともある。
現在は実家が経営するテニススクールを拠点として、出張指導にも手を出している。
藤堂とは大学時代に知り合い、これまで青葉大学の女子テニス部を任せてもらっている。
「まぁそこに座りぃや」
藤堂は西崎がソファに腰掛け終わると同時に話し始めた。
三井はまだ座っていない。
「西崎、もう夏になったんや。このチーム、どう思う?」
「どう思う? というのはどういう意味ですか?」
西崎は本当に意味が読み取れなかった。
「1年生のことや。どう思う?」
藤堂はヒントを出してみたつもりである。
いきなり答えを開示しないのがコーチングだと聞いたこともあった。
「1年生をどう思う、というのはどういう意味ですか?」
西崎は少しイラッとしたが、いつものことだ。
慣れている。
「1年はぜんぜん出来てへんやないか。練習が終わった言うて、すぐに部屋に帰っとる。終わってからもストレッチをしっかりやってるのは4年生だけやわ。体力もないわ。ああいう心がけやったら体力がつかへんわ。ここで1年にしっかり教育をしとかな、それがお前のキャプテンの務めや」
西崎が気づいていないことを指摘できて、藤堂はちょっと嬉しかった。
キャプテンの務めだという一言は、なかなか西崎へのダメージは大きいはずだ。
「それは・・、でも練習後に全員、ペアで整理体操はしてますし、私も『あがれる人からあがっていいよ』って言いました。だいたい、すぐに部屋に帰ったのは1年生だけじゃなくて、他の学年みんなです」
「そんな言い訳いらんねん。あれじゃあかんて言うてんねん。1年が、うちのテニス部のやり方を飲み込めてない、いうことや。うちは自由や。俺は口出しはせぇへん。各自が競技力を高めるために各自でやったらえぇねん。強くならんくても、負けても、それは自己責任や。けど、それはキャプテンであるお前がコントロールせなあかんねん」
「それじゃ、各自に任せてるわけじゃないですよね」
西崎がこの言葉を何回発したのか覚えていない。
それだけ過去に幾度と無く繰り返されてきた問答だ。
「強くなるために、クラブとしてやらなあかんことはやらなあかんねん。それは西崎、お前がやらあかんねん。そやからお前の競技力も下がってくんねん」
西崎は最近戦績がふるわない。
それを利用すれば説得力があるはずだと藤堂は踏んだ。
戦績のことを言われると西崎も気が滅入る。
語気は弱まった。
「ですけど・・・、私とペアをやってる辰野(たつの)も自分の練習があるんです。他の4年とも話して、1年生の指導はみんなでやろうということにしてますし」
「だからあかんて言うてんねん。それはキャプテンのすることや。キャプテンがビシッと言うことや。皆の前でビシッと言うねん」
藤堂がしゃべり終わる直前、三井が割って入った。
「西崎と辰野がこのクラブの主力です。その2人の練習する姿を見せて引っ張るというわけにはいかないですか。強化は各自に任せるという方針なんですから、そういう方法も・・」
ストレスを抱えた西崎を助けるつもりの発言であり、三井自身もそこまで本気で言ったつもりはない。
「それだけやったらあかん。キャプテンが指導することや。自分の練習がしんどい言うんわ言い訳にならへんねん。それが上に立つ者の宿命や。自分の練習もしっかりやる。チームのこともしっかりやる。それがキャプテンや」
西崎は黙っている。
たしかに、藤堂が言う一面もあるだろうと思っている。
「三井もそこを気にしとかなあかんのや。西崎は自分のこととチームのことで頭がいっぱいや。まだ西崎はそういう力が無いねん。お前もそこを上手に配慮せなあかんねん」
黙る西崎を横目に、藤堂は少しフォローを入れるつもりで三井に向かって言った。
「それはそうなんですが・・・」
三井もうつむいて黙る。
目の前の2人は完全に沈黙。
監督らしいカリスマ性のある発言の数々により、素晴らしいコーチングができていると藤堂の気分はいやが上にも高揚した。
満足度の高い一日になりそうだ。
今夜のビールは美味しいはずだと、ほくそ笑みたい。
ところがである。
「もういい!」
西崎が怒鳴ってソファから飛ぶように立ち上がる。
藤堂は「ほぇ?」と声にならない音を喉から出し、口をぽっかり開けて目を見開いてしまう。
西崎の目は真っ赤だった。
体も少し震えている。
三井も立ち上がって西崎の肩に手をやる。
「西崎、落ち着けって」
とは言え、どう落ち着かせようかと三井もわからない。
まだ藤堂は口を開けたままだ。
「とりあえず座れって」
三井は西崎の腕をとってソファの方に下げようとした。
だが、西崎はそれを振り切った。
目の前のテーブルに脚をぶつけながら、その場を離脱する。
そして、早足にホテルの玄関に向かった。
そのまま外に出て行った。
10秒程たったのだろうか。
否、20秒くらいのような気もする。
ロビーには藤堂と三井の他はいない。
ホテルのフロントにも従業員はいなかった。
熱帯魚を入れた水槽のポンプ音だけが無機質に響いている。
突如、三井は強烈な眩暈に襲われた。
西崎は全国レベルで戦える選手だ。
それを預かっている責任があった。
三井は、ほぼ西崎の個人コーチのような立場でテニス部に関わっている。
このままでは西崎の戦績が落ちていく一方だという危機感があった。
なんとかしなければ。
そんな思いは三井の肩に重くのしかかっていた。
西崎が精神的に追い込まれていることも知っていたし、それは同時に、三井自身も改善に向けて追い込まれていたことになる。
西崎が今のような態度をとったことは、先ほどの藤堂とのやり取りだけによるものではない。
ずっと溜まっていたものが爆発したのだ。
だが、藤堂にその調整は期待できない。
こんな問答が繰り返されるなかで、西崎は強くはなれない。
俺がやるしなかい。
でも俺も手一杯だ。
気がつくと、三井の体に痛みが走った。
どこが痛いのか最初はわからなかった。
全身が自分の物ではないように錯覚される。
痛いのだから自分の物なのだろうけど、などと言っている余裕は少しずつなくなっていく。
視界が暗いのか明るいのか分からない。
でも見えにくくなっている。
立っていられない。
そう言えば、息苦しい。
なんで苦しいんだ。
うずくまろう。
そうするしかない。
体力には自信があるのに。
なんだか、今は疲れた。
うずくまるんだ。
体が痛い。
いや、痛くない?
やっぱり痛い。
電気ショックを浴びせられているようだ。
「おい、三井、お前、大丈夫なんか?」
藤堂が声をかけてくる。
どうやら俺は仰向けに倒れている。
自分が死にそうな感触は無い。
たぶん無い。
そんなに大げさな事じゃないのに。
でも動けない。
なんだか恥ずかしい。
そんな気がする。
橿原の研究室には、彼の後輩である松岡正章(まつおかまさあき)が訪問していた。
松岡はノートパソコンを前に、修士論文用のデータをいじっている。
彼は現在、南海大学の修士2年。
彼は橿原と同じ、梨田研究室の院生だ。
青葉大学と南海大学は、立地がさほど遠くないこともあって、橿原は今でも南海大学に行って仕事をすることも多い。
松岡とも、仕事を共にすることはしょっちゅうだ。
今日は松岡が、橿原に修士論文のことを相談しに来ている。
「橿原さんだと、このタイトルはどうしますか?」
論文のタイトルのことのようだ。
「タイトルって、最後につけるくらいでいいよ。一番最後だね。まだどんな内容にするのか決まってるわけじゃないし。焦らんでもいいんじゃない」タンブラーに入ったコーヒーを飲みながら、橿原は答える。「論文て、タイトル、抄録、序論、本論、結論っていう感じに進むでしょ?」
「はい、そうですね、はい、そうなんですか?」
松岡の返事は怪しい。
「で、その順番通りに書こうとすると結構難しいんだよね。だから、逆に書いていったほうが良かったりする。結論を先に書いといて、その結論を導くための本論を書く。その本論と辻褄の合う序論を書いて、最後にその論文の中身をまとめた抄録を書く」
「なるほど、じゃあそうします。とにかく今は先にデータ分析ですね」
「そうだね、それが優先事項」
「でも、秋口までに修論のタイトルを大学院事務に出さなきゃダメなんすよ。僕らの先生も『とりあえず出しとけ』って言ってきました。どうしたらいいですか?」
「なんか適当なこと書いときゃいいんじゃない。だって、どうせ12月に出す最終提出版のやつが採用されるんだし」
「そうですね。じゃあそうします。あっ、橿原さん、携帯が鳴ってます。後ろの」
「あ、ホントだ」
テーブルに置いていたマナーモードにしているスマートフォンが、小刻みに踊っている。
橿原はそれを取り上げ、液晶画面を見た。
「藤堂か・・・」
橿原はつぶやいた。
「あっ、僕、外に出てたほうがいいですか」
松岡は腰を少し上げた。
ちなみに、松岡は藤堂の高校の後輩にあたり、藤堂のキャラクターも承知している。
彼も被害者の会の一人だ。
「あぁ、いい。いい。大丈夫」
橿原は松岡に「座っておくように」というジェスチャをして電話に出る。
「はい、橿原です。お疲れ様です」
いつも通りの爆音が、小さなスピーカーから飛び出してくる。
「おぉ、橿原先生。おーつかーれさーん。あのなぁ、ちょっと聞きたいことがあんねん」
「はい、なんでしょう?」
「あのなぁ、今、学生が痙攣を起こしてんねん。どうしたらえぇ?」
橿原は考える。
一体何事だろうか。
「はい、えぇっと、痙攣って、どういう状態なんですか。どこが痙攣してるんですか。あのぉ、そこはどこですか?」
携帯電話で助けを求めてくるほどなのだ。
だいぶ重度の痙攣なのだろう。
そう言えば、今週からテニス部で合宿をしてくると言っていた。
そのために学会にも出られないと話していた。
テニス部の練習中の出来事なのかと橿原は予想した。
「あっ、チョイ待ってな。【おい、橿原先生やで。お前、痛いんわ、どこや。どこが痛いねん。ん? うん】ああっ、橿原先生。あのなぁ、腹筋や、【お、え? ん? ん?】あのなぁ、背筋もや。【え? うん?】まぁ、体中が痛いねんて。全身や。全身が痙攣しとるわぁ」
てっきり、足や指がつってしまって治らない、といったことを予想していたのだが、これは只事ではない。
橿原はゾッとした。
「あのぉ、そこはどこですか。誰か助けを呼べる人います?」
「えーとなぁ、滋賀やぁ。大津におんねん。テニス部の合宿やぁ。ホテルにおんねん。そこのロビーにおるわぁ」
藤堂の話し方は落ち着いている。
橿原の「只事ではない」という心配は少し和らいだ。
人目につくところにいる。
「全身が痙攣してるって。結構大変ですよ。もしホテルの人がそこにいるのであれば、助けを呼んでもらったほうが。その学生、動けないんですか。救急車を呼んでもらったほうがいいかもしれないですよね。テニスをやっていてそうなったんですか?」
「そうやなぁ、救急車かぁ。そんなもんいるんかぁ? テニスやってたわけじゃないねん。突然倒れよったんや」
なら、なおさら救急車だろ。
「チョイ待ってな、【ん? ん? おう】橿原先生、救急車はいらん言うてるで」
そんなのこっちで分かりようがない。
患者を目視できないんだから。
でもまぁ、倒れてる学生もそういう意思表示ができて、藤堂もそれだけ落ち着いてられるんだから、とりあえず大丈夫なんだろうか?
いや、怪しい。
もしかすると大変なことになっているのかもしれない。
この場合、藤堂に任せていたら事態が悪化する恐れがある。
第三者の介入を促そう。
それがいい。
「藤堂先生、そしたら、とりあえずホテルの人に助けてもらってください。ロビーなんですよね。誰か、フロントに誰かいないんですか。様子をみてもらうとか」
「いや、誰もおらんわぁ。そうや、先生。こういう場合はどうしたらえぇ? ストレッチか?」
全身痙攣だろ。どんなストレッチをするんだよ。雑巾を絞るイメージが橿原には浮かんだ。
「あのぉ、藤堂先生、とりあえず、とりあえずでいいんで、誰か人を呼んでもらっていいですか?」
「わかったわぁ。それまでどうしてたらえぇ?」
「・・・、まぁ、そうですね。とりあえず安静にしておくことですかねぇ。えっと、その学生、その姿勢でいるほうが楽なんですか。今、どんな姿勢ですか?」
「んあ? 寝っ転がってるわぁ。【どや? ん? ん?】これでえぇ言うてるで」
「はい、そうですか。じゃあ、そのまま安静にして助けを呼んでください」
「りょうーかーい。あーりがーとさーん。助かったわ」
いや、助かってないだろ。
電話は切られた。
松岡と目が合った。
「あ、藤堂先生からですか? なんて言ってました」
「いや、よく分からん」
藤堂は橿原に電話をかけた後、続けてその携帯電話の連絡帳を開いた。
今度は「テニス部」のグループに入れている「岸本」を選択、決定。
ロビーから見える琵琶湖大橋を眺めながら、呼び出し音を聞いた。
岸本佳苗(きしもとかなえ)は練習が終わって自室に戻っていた。
同じ部屋には同学年である4年の佐藤美樹(さとうみき)、3年の辰野良子(たつのりょうこ)、2年の藤森佳恵(ふじもりよしえ)がいた。
4人で1部屋を使っている。
今日は気温が高かった。
暑さにバテバテであることをお互いに話し合っている。
4人とも部屋の奥側、8畳ほどの畳の部屋に集っている。
窓からは琵琶湖と比叡山が一望できる。
まだ日は落ちていないが、景色は徐々にオレンジ色を呈しはじめた。
テニス部の合宿でないと思えば、もっと気持ちよく見れるのだろう。
「あ、岸本さん、携帯が鳴ってますよ。ほら、そこ」と辰野が言う。
岸本は畳を匍匐前進して、ちゃぶ台の上に置いていた携帯電話を取りに行く。
「ホントだ。誰だろ・・・、うっわ、藤堂だ」
わざとらしく笑いながら残念そうな態度をとる。
それを見て他の3人も笑う。
岸本は着信ボタンを押した。
「はい、岸本です」
仰向けになって天井を見ながら答えた。
「おお、岸本か。ちょっとな、ロビーに降りて来てくれへんか? 大至急や。うん。お願いします」
「はい、分かりました。しばらくお待ちください」
電話を切る。
「藤堂がロビーに来いって言ってる。行ってくるね。もう、しんどいのにぃ」
岸本佳苗はこの女子テニス部の主務をやっている。
監督の藤堂、コーチの三井との連絡・橋渡し係をやったり、大学事務との手続きなどが主な仕事だ。
岸本は粘り気のある動作で畳から立ち上がり、部屋を出て行く。
「岸本さん、お疲れでーす」藤森の声が岸本の背中に残った。
藤堂は最後に「お願いします」と言った。
敬語だ。
経験上こういう場合、藤堂は自責を自覚してパニックになっている、つまり、キャパオーバーの大きな問題が発生している可能性が非常に高い。
やっかいな事はマジで勘弁だ。
そう思いながら岸本は早足に廊下を歩く。
スリッパを使おうと思ったが、小走りで動くには具合が悪い。
ホテル館内の床はきれいなこともあって、靴下だけで動くことにした。
階段でロビーに向かった。
エレベーターを使おうかと迷ったが、藤堂に「階段で来いよ」などと小言を言われたくもない。
自室は3階にある。
それほど体力も使うまい。
とは言え階段を降りる脚が重い。
ただこれは今日の練習の疲れから来るものだ。
足の裏にかかる衝撃が強く感じた。
スリッパの方が良かったか。
岸本はロビーに降りてきた。
そのフロアの中央部にテーブルを囲むようにソファの群れがある。
その一つに藤堂が座っているのが見えた。
岸本は、軽く駆け足で近寄っていった。
藤堂にあと10メートルと迫った時、岸本の目に、見慣れぬ光景が飛び込んできた。
藤堂が座るソファの横には、三井コーチが仰向けになって倒れている。
呻き声を上げている。
三井は時折、口をパクパクさせながら何かしゃべっているようにも見えた。
体は寒さに震えるように振動はしているが、じっとしていて動かない。
腕を前にもってきて、組むでもなく絞り込んでいる。
背を丸めているものの、仰向けであるため窮屈そうだ。
股はきつく閉じられ、膝は90度。
膝頭が体の中で一番大きく揺れている。
アゲハチョウのサナギのようだ。
岸本にはそう見えた。
腹筋トレーニングの終盤、もうこれ以上動けないという状態まで追い込んだ時にも、このような光景が見られるが、通常、ホテルのロビーの歓談コーナーではあり得ない。
なんにせよ、異常事態であることはすぐさま察しがついた。
だがどうだ。
苦しみもだえながら倒れている青年がいる横に、落ち着いてゆったりとソファに座る中年男性がいる。
その中年男性は背もたれに深く沈み、携帯電話をいじっていた。
「か、か、監督・・・?」
いや待て、この男は本当にテニス部監督・藤堂道雄なのか、少し疑ってもいた。
中年男性は顔を上げ、真顔で岸本を見つめてくる。
見つめ合った1秒が長かった。
真顔だ。
のっぺらぼうだ。
おかしい。
異常だ。
呪われた光景だ。
見てはいけないモノを見てしまった。
岸本はそう思った。
だが、すぐさま意識が現実に戻ってくる。
「あ、あ、あのぉ、み、み、三井コーチが・・・」
精一杯がんばって言葉を発した。
「おおっ、岸本ぉ。来たかぁ」
「か、監督。三井コーチが」
「おお、安静にしとんねん」
安静?
いや、哺乳類がぶっ倒れているだけだ。
「で、でも・・、監督、三井コーチが」
岸本は怖くなった。
「安静や。こういう場合は安静にしとかなあかんねん。お前、知らんのか? それよりもなぁ、頼みたいことがあんねん」
藤堂のように見える男は淡々と話している。
恐ろしく落ち着いている。
どうしたんだ。
何があったんだ。
これは異常事態じゃないのだろうか。
もう一度、三井に目をやった。
やっぱり今にも死にそうだ。
人が倒れている。
しかも知り合いだ。
私達のクラブのコーチだ。
駆け寄って介抱するのが普通だろう。
でも、そんな気が起こらない。
岸本の体は動かない。
立ち尽くしままだ。
触れてはいけない絶対的な領域にある。
そんな気がした。
周りを見渡した。
誰もいない。
「おい、岸本」
「はい。なんでしょう?」
岸本は反射的に答えた。
「今日の晩飯はなんや?」
「はい?」
「今日の晩飯はなんやぁ? いうて聞いてんねん」
「で、でも、三井コーチが」
「今日のホテルの晩飯はなんやねん」
「で、でも、そこに三井コーチが倒れてます」
「ほんまにほんまっ、お前はとろこいやっちゃのぉ。今日の晩飯はなんや? て聞いてんねん!」
藤堂は舌打ちをし、眉毛を大きく釣り上げて威嚇する。
「えぇっと。えぇ、たしか・・、ハンバーグとコーンスープ、それにサラダが付いています。御飯とサラダはおかわり自由です」
「そうかぁ・・・、しゃあないなぁ・・・。晩飯は、6時からやなぁ・・」
藤堂は苦悩の表情を浮かべる。
「はいぃ・・」と相槌をうっておく岸本。
藤堂は大きな溜息をつき、もう一度岸本を見据えて切り出した。
「今日、昼に南谷(みなみたに)先生から差し入れがあったやろ。それ、ケーキやったな。それを3つか4つくらい持ってきてくれ」
「ケーキですか? あ、はい。分かりました。持ってきます」
なぜそんな事を言ってくるのか、その意図が分からない。
だが、その言葉に従っておかなければならないように思えた。
聞き返したら、どうせまた怒られる。
岸本は振り返り、走って部屋に戻る。
「急いでやぁ」
藤堂とおぼしき男の声が、岸本の背中を突き刺す。
岸本は部屋に戻ると、目の前にいた3年の辰野にケーキの保管場所を聞いた。
「この部屋の冷蔵庫に入ってると思います。たしか」
辰野は部屋の奥に向かって声を出す。
「・・ねぇ、冷蔵庫に入れてたよねぇ?」
奥にいた藤森が、はいそうですと返事をする。
部屋にいた3人は、岸本の焦る姿を前にしても、その理由を問えずにいた。
「あのね、ケーキを持って降りていかなきゃならないの」
そう言って、後輩たちが冷蔵庫から出してきたケーキの箱、4つ全部を開けてみた。
ケーキは1箱に6個。計24個あるようだ。
ショートケーキ、チーズケーキ、モンブラン、ミルフィーユ、あと名前の知らないケーキがいろいろ入っている。
てんでバラバラだ。
藤堂はケーキは3つか4つでいいと言っていた。
どうしよう。
どれを持って降りていけばいいのだろう。
つまらない事で悩んでいる自分が情けないような、アホらしいような。
ショートケーキ2つ、チーズケーキ2つを持って行くことにした。
理由は、岸本自身が好きなケーキだからだ。
チョット待て、何に入れて持って行けばいいんだろう。
「なにか入れ物は無い?」
岸本は焦りつつ3人に聞いてみた。
その時、おっとりした性格の辰野がおっとり尋ねてきた。
「岸本さん、なんでケーキを持って行くんですか?」
もっともな質問である。
「わからないのよ。とりあえずケーキを持って降りなきゃ」
焦る声で答える。
同学年の佐藤が聞いてくる。
「監督が誰かにあげるの? それだったら、綺麗なものに包んだほうがいいよね」
佐藤はこういうところに気が利く。
でもそんな状況ではないのだ、と言いたいところだが、この状況がどんな状況なのか説明することは、今の岸本にはできない。
岸本は、ケーキが入っていた箱の1つを空にすることにした。
それにショートケーキ2つとチーズケーキ2つを入れる。
よし、これでいい。
「じゃあ!」
と言って部屋を出て、岸本はロビーに駆け下りた。
今から5分前と同じ状況がそこにはあった。
その男はソファにゆったりと座って腕組みをしている。
岸本に気づいた藤堂は、「おおぉ、持ってきたか。どれどれ」と言ってケーキを見せるように指示する。
「はい、これです。監督。ケーキです。ショートケーキとチーズケーキを持ってきました。必要であれば、モンブランやミルフィーユもあります」
岸本の息はあがり、肩が大きく上下している。
「よっしゃ。これでええわ」
藤堂は安堵の表情を浮かべ、「そしたら、岸本。こいつに、三井にケーキをやれ」と言う。
藤堂は三井を覗き込みながら、「おい、三井、食べれるか? 自分で食べれるか?」と聞いているが、三井は首を素早く横に降る。
「あかんか。岸本、そしたら、お前が食べさせぇ。それやったらいけるやろ」
「はい。では、普通に食べさせたらいいですか?」
だがこの状況であれば、なにをやっても普通じゃない。
岸本は三井のそばに寄って、彼を抱き起こそうとした。
三井は苦しそうだ。
「岸本・・、岸本・・、きつい。きつい。そのままにしておいてくれ・・・」
三井はか細い声で訴えてくる。
「監督、コーチはきついそうです」
そう言いながら、三井をゆっくりと元の位置に戻した。
「おい、三井、きついんか。きついんか。そやったら・・・、岸本、そのまま食べさせろ。そのままでええわ。とにかく食べささなあかんわ」
岸本は三井を寝かせたまま、箱からケーキを1つ取り出し、その周りについている保護用のセロファンを剥がした。
「はい。・・・コーチ、・・・ケーキです。・・・どうぞぉ・・」
岸本はケーキを三井の口に運ぶ。
まずはショートケーキにしてみた。
だが、三井はケーキを拒む。
「監督、コーチはケーキを食べたくないそうです」
「三井、食べなあかんぞ。食べぇ!」
藤堂は語気を強める。
三井は苦痛のなかにも仕方ないという表情を浮かべながら、ケーキを頬張った。
口には入るが、咀嚼するに際してボロボロとケーキがこぼれていく。
三井の口元は生クリームで白くなっていった。
それでも、美味しそうなケーキだと岸本は思った。
「どうや。三井、食べてるか?」
依然としてソファにゆったり腰掛けたまま、藤堂が聞いてくる。
三井は素早く首を横に振った。
「岸本・・、岸本・・、もういい。もういい。いらない。しんどい。なんで俺がケーキ食べなきゃならないんだ」
三井は苦しみながらも、じっと岸本を凝視して訴えかける。
「たしかにそうだ」と岸本は思ったが、それに明確に同意するだけの基盤はない。
「監督、コーチはもういらないそうです」
一応報告しておいた。
「お。そうか。・・・いや、念のためにもう一個食べとけ。三井。食べやぁ」
藤堂は三井の顔を覗き込みながら、至って真顔で言う。
「コーチ、そしたら・・、今度はチーズケーキです。・・・どうぞぉ」
「だからいらないって。・・なんでだよ。しんどいって。・・なんでチーズケーキなんだよ」
三井は苦悩の表情をする。
岸本は三井にチーズケーキを一口かじらせたが、それ以上は食べようとしない。
「もういいって。・・・岸本。もういいって。もう大丈夫だ」
三井の必死の訴えに、岸本もさすがに介護作業を停止した。
「監督、コーチはもう大丈夫だそうです」
「そうか、良かった。もう大丈夫なんやな。よしよし、ケーキが効いたな」
藤堂はこの時に至って、安心したように笑みを浮かべた。
三井は仰向け状態から、ゆっくりと体を捻り、まずは屈み込んで座る。
イスラム教徒の祈りのようだ。
そして隣にあったソファに這い上がり、腰を深々と沈めた。
岸本はポケットに入っていたティッシュペーパーを三井に渡した。
三井はそれで口元を拭く。
大きく溜息をついている。
まだつらそうだ。
おもむろに藤堂は立ち上がり、琵琶湖大橋が見えるテラスの方に向かった。
そして振り返り、岸本を手招きする。
岸本が近くに来ると、ゆっくりと、そして静かに語り始めた。
「あいつは全身痙攣を起こしとったんや」
「はい、そうなんですか」
「そうやぁ。見とったやろ。体がビクビクビクビクッーゥってなっとった」
「はい」
「せやからケーキを食べさせたんや」
「そうなんですか」
「そうやぁ、なんでもええねん。ケーキやったらな。たいていのケーキやったら食べさせても大丈夫なんやで」
「そうなんですか」
「そうやぁ、まあ、覚えとき。おまさんもテニスコーチを目指してるんやろ?」
藤堂はそう言って微笑を浮かべ、岸本の肩をポンポンと叩いてロビーをあとにした。
だいぶ日が落ちてきている。
もうすぐ夕食の時間である。
ハンバーグとコーンスープだ。
遠くに見える琵琶湖大橋は、静かな紅に染まっていた。
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17:2012年8月30日
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