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27:2012年11月23日

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2012年11月23日(金)10時36分

 午前10時35分に、東郷洋二から兵藤芳裕へ内線があった。
「メールを見ました。今から時間あります」ということだった。

 兵藤はすぐさま東郷の研究室に向かった。


 東郷の研究室に入った兵藤は、東郷が「あ、どうも学長」と言い終わるまでに話し始めていた。

「東郷先生、いろいろな方面からシンポジウムの件を聞いているんですけどね」

 東郷を見ると、いつも通りのすっとぼけた表情である。
 兵藤は少しイラついた。

 東郷は、首を少し傾けて答える。
「え? なんですか? シンポジウムって」

 兵藤は強めのため息を吐き、少し語気を強める。
「教育研究シンポジウムですよ。4週間後の」

「ああ、あれね」

「はい、そのことです」

「あれがどうしましたか?」

「どうしましたか? って、全然動いていないそうじゃないですか」

「はい」

「いや、はい、じゃなくてですね」

「はい」

 兵藤は2秒ほど目をつむり、「東郷先生、どうするんですか。このままだとシンポジウムがボロボロになりますよ」
 少し落ち着いて話すように心がける。

 東郷は依然としてすっとぼけた顔で答える。
「大丈夫ですよ、学長。大丈夫です」

 兵藤は胸の前で腕を組んだ。
「大丈夫って、どこが大丈夫ですか。そろそろ作業を始めてもらっていないと、シンドいことになってきますよ」

「ご心配をお掛けしているようですが、大丈夫です。すいません。大丈夫ですよ」

「誰かに変わってもらいましょうか? こんなにトロトロとやっているのは始めてですよ。いくらなんでも遅すぎますから」

 東郷は少し不機嫌そうな顔になる。
 それは兵藤にも分かった。
 東郷も少し強めの口調になってくる。

「兵藤先生。兵藤先生は学長ですから、全体のことに口出しすることも構わないのでしょうけど、でも、今年のシンポジウムはうちの学科がやってるイベントですからね」

 兵藤はすぐに言葉を返す。
「いや、いくら東郷先生のところがやっているイベントと言ってもね、あのシンポジウムは本学の中でもかなり大きい催し物ですしね。それに毎年、かなり準備を整えてやっているイベントですしね。あと、たしかに学外からの参加者も少ないですけど、ほぼ毎年来られている方々もおりますし。近隣の教育関係の人たちも来られていますよね。大学の研究活動の中でも大きい位置づけになっているのは知っていますでしょう?」

 東郷は依然としてすっとぼけた顔である。
「兵藤先生、大学の中での位置づけも大事でしょうけど、やっぱり何か変えていなければいけないことがありますでしょ」

 兵藤は怒鳴り声に近い声を、なるべくボリュームを下げてしゃべる。
「先生、変えるというのは分かりますよ。けどね。今そんなことしなきゃいけないほどのことじゃないですし。そんな時間もないでしょ。まずは今年のシンポジウムをうまくやってください。何か変えてやりたいんだったら、もっと早くにやってもらわないと」

 東郷は少し萎縮したように見えたが、しゃべり方は変わらない。
「兵藤先生、変わろうとしなければ、何も変わらないですよ。おわかりでしょう?」

 兵藤は明確にキレた。
 声の大きさが自分では分からなかった。

「東郷先生っ、あんた、自分が無能だってことを少しは自覚してるんでしょ! なんですか、どうしてそんなに自分ではできないことを、ワザワザやって迷惑をかけようとするんですか! どうしてそんな意味不明な自信があるのかわかりませんよ! もう11月末でしょ。あと1ヶ月も無いんだ! あなたがやりたいと言っているようなことは、もうこの時期からは無理でしょ!」

 東郷も頭に血が登ってきたようである。
「兵藤先生っ、無能とはどういうことですか。私なりに頑張ってやってるんですよ。それをなんですか!」

「東郷先生、あんた、何をやってきましたか。言ってくださいよ。この時期まで何をしてきたんですか。どんな案があるんですか? 今日学科会議があるでしょ。何を言うんですか?」

 東郷は即答する。
「まだ実行委員会を開いていないから、まだ何も案は無いですよ。だってまだ、実行委員会を開いていないんだからぁ!」
 東郷は大声になってくる。

 兵藤は頭が痛くなってくる。
「先生、実行委員会を開いていないからって・・・、それが意味がわからないんですよ! 言い訳になってないじゃないか! 実行委員会はもう何週間も前に開いといて、もうこの時期にはどんな人を呼ぶとか、どんな流れにするとか、決まってなきゃいけないでしょ。あんた、分からんのか?」

 東郷は怯まない。
 大声で訴える。
「今年はっ、今までとはっ、何かを変えていこうと考えているんですよっ! だからまだ決まっていないんですよっ! 仕方がないじゃないですかっ!」
 まるで幼児である。

「仕方がないって・・・」と言いかけ、そこで兵藤はこれ以上問い詰めるのが嫌になってきた。
 それに、ここでの二人の言い合い、いや、喧嘩は廊下にも響いているかもしれない。
 きっと、隣の研究室には聞こえているはずだ。

 兵藤は自分で少し落ち着くようにした。
 そしてゆっくりと話し始める。
「東郷先生、もう先生はシンポジウムの担当から離れたほうがいいですよ。これじゃシンポジウムはできないでしょ。難しいですよ。誰かに代わってもらいましょう」

 東郷は不機嫌そうだ。
「兵藤先生、それは断ります」

 兵藤は少し俯き加減であったが、また東郷の方をじっくりと見上げる。
 そして早口に戻ってまくし立てる。
「え? 何を言ってるんだ。もうやめなさい。あんた、できないでしょ。東郷先生、あなたにはこういう仕事はできませんよ。自覚できないんですか?」

 東郷は意固地になっているのだろうか。
「いやです」と言ったきり、背を向け自分のデスクに座って腕組みをした。

 兵藤は「じゃあ、もう知らないですよ」と言って研究室を出た。


 その日の学科会議で、東郷はこのように発言している。

「まだ実行委員会を開いていので、特にご報告できることはありません。山崎先生からは何かありますか?」
 もちろん山崎は「ないです」とだけ言った。

 清水が「いくらなんでも危険水域でしょ」と言ったが、もう会議の参加者には東郷を問い詰めようという気はなかった。

 それに、仮にシンポジウムが成功しなかったとして、東郷が恥を書くだけで、誰も致命傷になるわけではない。
 致命傷でなくとも、大学の看板は汚れるが、それは自分自身ではない。
 そんな気分が、この学科の平均的な感想である。

 むしろ、ボロボロのシンポジウムを見てみたいものだ、という自虐的ワクワク感をいだく者もいる。
 自滅願望に似ているのかもしれない。

 この件について、学科長の鈴木は諦めることにした。
 ただ、東郷の無能っぷりをリアルタイムで確認できていることは、興味の対象になると思っていた。
 そして、「当日は大変になりそうだ」とだけ心の中でつぶやいた気がする。


 その日の夕方。

 兵藤は、教授会の議題を決める幹部会議に出ている。
 来週の水曜は教授会である。
 事務局長室に理事長、学部長、事務局長といった教職員が8名ほど集まり、その議題を確認している。
 どうせ教授会直前になっても議案がたくさん舞い込むのだろうが、予定調和できるところはおさえておかなければ、会議は殺人的な労力になってしまう。
 そのための週末の議題確認である。

「この枚数、なんとかならんのかねぇ・・」
 山積みになった資料を見ながら、兵藤はつぶやいた。

 ざっと300枚はあろうかという資料の塊である。
 実際の教授会では、資料を絞り込んで約200ページ分ほどになるのだが、これをいつも会議では「何ページを御覧ください。次は何ページ。それについての資料は何ページ・・・」などと言いながら教員全体で確認していく。
 これだけで途方も無い労力だ。

 現在、いくつかの大学ではタブレット型端末を各教員に配っておき、こうした教授会資料をそれに表示させて会議をしているところもあるそうだ。
 用紙の節約にもなることはもちろん、ページの表示が容易なため会議進行時間が大幅に短縮されるということで評判である。
 青葉大学でも取り入れようかという話もあったが、初期投資が大きいため二の足を踏んでいる。

 東郷の件は議題になるのだろうか、と思いながら資料を見てみたが、その件はどこにも見当たらなかった。
 その会議の出席者の誰も、シンポジウムの件に言及する様子はないようだ。
 たしかに、この件は社会福祉学科の中で進めていくことではあるのだが。

 それでも、全学的なイベントでもあることから、気になることではある。
 例年であれば、11月下旬あたりに最終的な報告があるだけのこと。
 教授会で、途中経過を報告させるようなことでもないのだ。

 来週に控えた、今年最後の教授会の準備は進んでいく。

 学長になって一番つらいのはこの会議の準備だ。
 教授会自体はその次であるが。

 100人中99人に関心がないことであっても、一人が異議申立てを始めると進行がストップする。
 スムーズに運んだからといって良いわけではないのだろうが、それでも無意味な時間を過ごしている感覚は強い。
 異議申立てをしたからといって、大勢に影響があるわけではない。
 場合によっては「会議中に発言する俺カッコいい」という理由で手を挙げる教員だっている。
 迷惑な話だ。

 兵藤は飲み切ったお茶を継ぎ足しに席を立つ。
 窓の外は、今にも雪が振りそうな気配である。

 今年は寒くなると、テレビの天気予報が言っていたのを思い出した。

 ティーパックの袋を開けた頃に、副学長の岩崎貴将(いわさきたかまさ)が部屋に入ってきた。
 彼は社会福祉学科である。
 さっきまで学科会議をやっていたということで、遅れたことを詫びている。

 兵藤は社会福祉学科の岩崎を見たからではないのだが、「例のシンポジウム、どうなってるんだろうね?」と、茶を飲みながら口に出してみた。
 その場の者達に思い出させるような意図が無意識にあったのかもしれない。

 学部長の河内寛が顔を向けて返事をする。
「福祉の学科で進めていることですからねぇ」とだけ言う。
 それ以上は推し量ってくれということだろう。

 兵藤は視線を返さないまま「と言っても、ちょっと問題が起きているみたいだから」と言った。

 副学長の岩崎が咳払いをした後、話し出した。

「えぇ、少しもめているんですよ。さっきの学科会議でも。いやぁ、かなり大変でして」

 岩崎は東郷と同じ社会福祉学科であるし、副学長でもあるのだから、もう少し事態改善に動いてもらいたいところだが。
 とは言え、東郷がからむ話だから、誰しもが面倒だと思うに違いない。

 兵藤は湯呑みを持ったまま岩崎の方を向いた。
「岩崎先生、明日の教授会でちょっと東郷先生に発破をかけといてよ」
 少し顔を笑ってみせた。

 岩崎は目を大きく開く。
「いやいやっ、そんなこと・・。できないですよ。学長からお願いしますよ」
 岩崎は手元の資料に目を落とした。

 兵藤は自分の席に向かって歩く。
「そうですか。東郷先生じゃちょっとねぇ。シンポジウムが不安だから。教授会で少し話題にしてみようか」
 そう言いながら、兵藤は自分の席についた。
 そして背もたれに深く体を沈める。

 河内が、資料確認作業の手を止めて兵藤の方を向く。
「兵藤先生、東郷先生はあんな性格ですから気をつけてくださいよ。突然怒り出すかもしれませんから。それに、話題にしたからって、あの人が変わるかどうか怪しいもんです」
 河内は最後に頬を膨らませながら、資料確認作業に戻った。

「変わってもらわないと困るんだよねぇ。少なくともこの1ヶ月くらいは」
 兵藤は事務局長室の天井と壁の境、その角を見つめながら言う。

 岩崎もお茶を飲みながら兵藤に話しだした。
「教授会だったら、東郷先生もヒステリックに対応することもないでしょうし。ちょっと強めにお願いしますよ学長。大学全体で東郷先生の動きに注目している、という雰囲気にすればいいのかもしれません」

「そんな簡単に言うけど、岩崎先生は東郷先生と同じ学科なんですからね。本当は岩崎先生から言ってもらわないといけないんですよ」
 最後は笑いながら言った。

「いやぁーっ、お恥ずかしいかぎりです。兵藤学長、よろしくお願いします。東郷先生は一度ギャフンと言わせないといけませんからね」

 会議の準備作業をしている他の面々から、小さな笑い声が湧いた。


 学長室の窓の外は真っ暗である。
 午後7時を過ぎたところだろうか。
 時折、窓のそばを舞う雪に部屋の明かりが反射する。
 この雪は積もりそうにはない。

 兵藤は来週に備えて、東郷に連絡をとっておくことにした。
 いきなり教授会で東郷を罵ったところで、建設的ではないと考えたからだ。

 東郷の内線番号を押す。
 東郷はもう帰っただろうか? そう思いながら呼び出し音が3回。
 受話器が取られた。

「はい、東郷です」
 東郷の声が聴こえる。

「あ、兵藤です。今日の朝はすみません。シンポジウムの件で・・・」

 兵藤が話を止める前に、東郷が返事を始めた。
「いえ、シンポジウムは私がやります」

「あ、いえいえ。それはもう東郷先生にやってもらうんですけどね。その準備の状況を確認しておこうということで。あのですね、明日の教授会でその件を、その話を少し話題として出すことになるはずなんでね・・」

 東郷は直ぐに返答を始める。
「報告することはありませんよ、まだ」

「ですからね、そうは言っても、報告をしてもらうように・・」

 唐突に内線が切られた。
 兵藤の側で誤って切ってしまったわけではない。
 明確に東郷が内線を切ったのだ。

「なんだ、コイツ・・・」
 兵藤は独り言をしっかりと言った。
 ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
 自分でも驚くほどに。

 学長室を出る。
 直接、東郷の研究室に出向いて話すことにした。
 そうしなければいけないような気がした。

 階段を登る脚に力が入る。
 靴を少し叩きつけるような動きになる。
 兵藤は、自分が思っている以上に興奮していることを自覚した。

 東郷の研究室の前に着く。
 ドアの小窓から電気がついているのが分かった。
 東郷は中にいるようである。

 ドアをノック。
「どうぞぉー」という東郷の声がする。

 兵藤は少し乱暴にドアを開けた。

 東郷がデスクに向かって座っていた。
 こちらに背を向けた格好になっている。

「東郷先生、私です。さっきの内線。その話です」

 東郷は振り向き、やはり、すっとぼけた表情で首をかしげながら話し出す。
「はい、どうも。兵藤先生。シンポジウムは私がやりますよ」

「私がやりますよって、その前に何か言うことがあるでしょう。さっきの内線は何ですか! どういうつもりなんですか!」
 兵藤はさっそく語気が粗い。

「もう私からの話は終わったかな、って思いまして」
 東郷はそう言ってデスクに向き直った。

 兵藤は頭に血がのぼる。
「ちょっと! 東郷先生、あんた何様のつもりだ。どういう態度なんだそれは! ふざけてんのか? ちょっと!」

 東郷はまた振り返り、少しニヤつきながら言う。
「私に任せてもらえればOKなんですよ。大丈夫ですよ。私はやります。それとも、私のシンポジウムに不満があるんですか?」
 東郷は口元に人差し指を突き立てる。
 女性アイドルがやればカワイイのだろうが、58歳の男がやると気持ち悪い。

「不満もなにも・・、そんな不満が出るほど何も決まっていないでしょ! 不満すら言えない。それが問題なんですよ。何も決まっていないじゃないか! どうするんだ!」

 東郷は無表情になり、ボーっと兵藤を見つめる。

 兵藤は続けた。
「明日、教授会で問題にしますよ! どういうつもりなんだ! バカバカしい! 何か答えられるように覚悟しといてくれ。いいですね。わかりましたか!」

 東郷は鼻をヒクヒク小刻みに震えさせた。
 そして大声で怒鳴りだす。
「兵藤先生! 私はそんなに言われる筋合いわない! そんなに私が嫌いですか!」
 そして椅子のアームレストを強く叩いた。

 兵藤はさらに語気を強める。
「嫌いとかそういう話じゃない! 無能だって言ってんだ!」

 東郷の鼻の震えは全身に広がった。
 体中をブルブルと震えさせている。
「兵藤先生! 私はそんなに言われる筋合いはない! 私は頑張っているんだ!」

「頑張ってるだけじゃダメなんだ! 仕事をしてくれないと! 東郷先生、あんたは仕事をしていないんだ! 邪魔なんだよ! この大学のために全く貢献していないでしょ! あんたみたいな教員がいるから、この大学は潰れかかってるんだよっ。無能なら無能らしく、私たちの大学経営の邪魔をしないでくれないか!」
 兵藤は顔中が熱くなるのを感じた。
「これについて明日、教授会で話しましょう。いいですね。皆の前で。もうこっちも頭にきたんだ! いいですね! わかりましたか!」

 さらに悪態を漏らしつつ兵藤は、東郷の研究室をあとにする。ドアも強く閉めた。


 東郷は兵藤が出て行ったあと、顔をまたすっとぼけた表情に戻す。
 椅子から立ち上がり、静かに歩いて、本棚のそばに置いていたボイスレコーダーを止めた。

 スティックタイプの小型ICレコーダーである。
 東郷がボタンを押すと、小さな液晶画面に「STOP」の文字が表示された。

 東郷はデスクに戻る。
 そして座ってパソコンを打ち始めた。

 右の眉毛を痒くもないのに掻いた。
 そしてキーボードに手を置き直す。

 東郷は白い歯をむき出し、震えるようにニヤけている。
 眼と鼻は釣り上がり、大きく開いていた。




28:2012年11月28日