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13:2012年6月20日

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2012年6月20日(水)10時35分

 今年の夏は暑くなりそうだと毎年のように言う。
 そんな季節がこの6月中旬である。
 一番いい加減な季節なのかもしれない。
 じめじめと湿った梅雨時であることも、実際の気温とは関係なく、夏の不快感を予感させているのだろう。

 この時期の青葉大学では、FD研修期間として教員同士の授業見学が義務付けられている。
 各教員は自分の授業とは別の、誰かの授業を見学して「授業評価票」に記入する。
 これをFD、つまり教員の指導力向上研修として企画しているのだが、その目的は、学生以外の者から授業を見られる緊張感を与えることと、教員同士での授業評価票によるフィードバックを得ることにあった。
 それゆえ、教員たちはこの時期には見栄えのする授業を敢えて展開することも多く、そしてまた、誰がどこの誰の授業を見学するかと牽制し合う、熾烈な人間関係の探り合いが始まる。

 そしてもちろん、授業見学は学内における派閥抗争の舞台でもある。
 ここで記述されている授業評価票は、原則無記名となっており、しかも、授業担当者へフィードバックされるだけでなく、教務委員会で内容を公開し、審議される。
 このため、敵対する教員間で「見学をしあう」状態が作られ、そこでダメ出し合戦が展開されることも多い。
 まるでネットニュースの掲示板の如き、匿名による誹謗中傷が繰り広げられており、教務委員会としても、こうした事態を踏まえた上での審議となっている。
 教務委員会としては、べつに誰かの授業が酷評されているからと言って問題視することは考えていない。
 しかし、誰かに酷評されている授業があるという事実は、それなりの意味を持って処理されている。

 これを橿原一如は、「大人たちによる子供じみた行為について、大人の対応をしている」と言った。


「橿原君、それ至言だよ」
 永山義春は声をたてずに大笑いしている。

 永山と橿原は、今日は藤堂道雄の授業見学のために、2号館の大教室最後列に陣取っている。
 入ってきた学生はこの列の席を取りたがるが、この時ばかりはと永山と橿原は学生を前の席に誘導した。ちょっとした意地悪である。

 永山と橿原以外にも、3名ほどの教員が同じ最後列に着座していた。
 せっかくなので会釈を交わしておく。
 他学科の教員で、会議やイベントなどで顔は知っているが話をしたことはない。

 そこに藤堂が教室に入ってきた。
 今日は大学教員同士での授業見学がある日で、一番後ろにいるのはその教員だという趣旨のことを話している。
 何名かの学生は、こちらを振り向き物珍しそうに確認しているが、その他多くの学生は気にしていない。
 藤堂たちの学科における2年生以上を対象とした授業で、カリキュラム編成上は必修専門科目ということもあって、履修者は一学年全ての約50人である。
 それくらいの人数はこの教室にいるようだ。

 授業が始まった。
 教室備え付けのプロジェクタにより、正面スクリーンへパワーポイントのスライドを映写している。
 スポーツ指導者の存在意義や、効果的な指導方法についての解説をしている。

 永山が小声で言う。
「ねぇ、この授業ってさ、生理学の授業だよね。なんでスポーツ指導者の話をしてんの?」

「分かんないですよ。私も分野外だから、そのへんのことは詳しくないですから。なんらかの意図があるんじゃないですか?」

 藤堂は話を続ける。
 スライドには、ピーター・ドラッカーが著した『エッセンシャル版 マネジメント』の表紙がイメージ画像として貼り付けられていた。
「スポーツ指導者はな、最近では、こういう勉強もせなあかんのや。マネージメントや。お前、分かるか? マネージャーやで。お前の部活にもおるやろ。おらんか?」と言って最前列に座っていた男子学生に話しかけている。

「ねぇ、橿原君、この授業ってさ、生理学の授業だよね。なんでマネジメントの話をしてんの?」

「分かんないですよ。私も分野外だから、そのへんのことは詳しくないですから。なんらかの意図があるんじゃないですか?」

 その後、なにかよく分からないグラフや写真が貼り付けられているスライドが数枚ほど続いた。
 藤堂はそれらを、「これはよく分からんな」と言って次々送っている。
 そして、スライドタイトルが「ステレオタイプな指導者」というところまできた。

「おいっ、ええかぁ? ステレオタイプな指導者や。これがあかんのや。おい、お前。ステレオタイプな指導者ってわかるか?」
 さっきの学生にまた聞いている。
 学生は分かりませんと答えている。
 藤堂はその隣の女子学生にも聞く。
 学生は笑って首をかしげている。

 最後列では、永山と橿原、そして3人の教員も首をかしげている。
 なんだろう? 藤堂は何を問いかけているのか。

 すると藤堂が、橿原のいる方に向けて大声を張り上げた。
 もともとマイクを入れているのだから、教室内には爆音が轟きわたる。
 音割れも酷い。

「橿原先生っ! 橿原先生っ! ちょちょちょ。こっち来てぇな」そう言って手招きをした。

 橿原は立ち上がり、すごすごと教壇の方に向かう。
 なにかのサポートが欲しいのか?

「よっしゃ。さあ、皆っ、今日はゲスト講師や。橿原先生やで。拍手ぅ!」
 そう言って拍手を誘う。
 あられのような拍手が起こった。
「はい、橿原先生。この人はな、何でも知ってんねん。大学の先生やからな。いろんなことを勉強してるんや。せやから、ここで皆に教えてもらおう」

 教壇の上に藤堂と並び立った橿原は、まるでテレビ番組内でインタビューを受けているような状態になった。
 橿原は藤堂からマイクを向けられ、まずは簡単な自己紹介をさせられた。
 なにかのバラエティ番組で見たことがある光景だ。

「よし、じゃあ、橿原先生。スポーツ指導者として、ダメな指導者のことや。ステレオタイプな指導者というのはどんな指導者や?」

 そう言って藤堂からマイクを向けられた橿原は、「え? ステレオタイプな指導者ですか?」

「そうや、ダメな指導者やで」

「あぁ、そうですねぇ。熱意がある代わりに、選手の体や気持ちのことを考えずに、我武者羅に指導するような人が思いつきますかね」

「そうやぁ。皆、分かったか? それがステレオタイプな指導者やで」

 これにちょっと気を良くした橿原は、追加して答えてみた。
「あとは、自分の考えだけに固執して、選手の全てを自分で管理しようとするのも、よく見ますよね」

 すると藤堂は不満そうな顔を露骨につくった。
「橿原先生、それはステレオタイプとまでは言わへんわ。橿原先生は、専門じゃないから知らへんのやろ」と言ってニヤついている。

 橿原は、「え、そうなんですか?」と声に出していたかどうかは覚えていないが、やにわに藤堂はマイクを握って教壇の前に進み出て、片手を振り上げながら声を張り上げた。

「おい、ええかぁ? 大声を張り上げるだけの指導者はダメなんや。分かるか? ステレオみたいに声がデカいから、ステレオタイプな指導者って言うんやで! ここは大事や! テストに出すでぇ!」

 誰も笑っていない。
 どうやら授業として成り立っているようだ。

 学生たちは頷き、ノートをとっている。
 カツカツとシャープペンシルの音が響いている。
 テストに出るんだから仕方がない。

 橿原はそこで開放された。
 そして元いた所まで戻って座る。

 永山が問いかける。
「ねぇ、橿原君、この授業ってさ、生理学の授業だよね。なんで音響システムの話をしてるの? それにさぁ、あのダメな指導者って、まんま藤堂道雄の自己紹介だよね。『どうもこんにちは、藤堂道雄です。ステレオみたいな指導者です。宜しくお願いします』って」

「分かんないですよ。私も分野外だから、そのへんのことは詳しくないですから。なんらかの意図があるんじゃないですか?」

「でもさ、さすがにヤバいでしょ。これ、授業評価票で報告した方がいいのかな? 『担当教員が想像以上にバカ過ぎて危険です」って。このままだと、青葉大学の2年生は、『ステレオタイプ』のことを『ステレオデッキみたいな』ってことで認識しちゃうでしょ」

「いえ、分かんないですよ。ステレオですから、右と左で言うことが違うタイプっていう意味かもしれません。最近の政治家とか評論家とか、そんな感じじゃないですか。あの人が指している『指導者』っていうのも、スポーツに限らない可能性もゼロではありませんし」

「あぁ、なるほど。だとしたら相当奥が深い話なんだね。初めてアイツのこと尊敬するよ。もしかすると、スポーツ指導においても、右派と左派があるんかなぁ?」

「ってことは、あの人としては、スポーツ指導ってモノラルが良いんでしょうかね」

「うん、でも、もしかするとドルビーデジタル5.1chサラウンドを目指せっていう目標があるのかもよ」

「真面目な話、今ここで指摘してあげた方が善行なような気もします。学生たち、そのままノートしてますから」

 おもむろに、橿原は同列の他の教員にも目を向けてみたが、眠そうにしている2人と、ぼんやり聞いている1人が無反応なだけだった。
 もしかすると、藤堂が何を言ったのかスルーしているのかもしれない。

「ヤバいですね。でも、ここでステレオタイプの間違いを指摘しちゃったら、私を壇上に呼び出してまで大見栄切ったあの時間が、全部パーですよね。それって、いくら奴でもかわいそうですよね」

「うーん・・、悩ましいねぇ。教員としてのプライドを守ってあげたい部分は、ちょっとあるよねぇ。それに、授業の途中でこれ見よがしに間違いを指摘するのって、今どきウザいやつだと思われるしさ」

 そして永山と橿原は、この藤堂によるバカげた行為について、大人の対応をしてしまった。
 いや、むしろこれはヘタレの対応だったと思う。


13時20分。
 橿原は、永山と穂積里香との3人で自分の研究室にいる。
 3限目の時間を使って、今夏の学外実習である野外活動の準備を進めていた。
 キャンプや川・山遊びの集中講義である。

 今年は穂積里香が担当になっているのだが、昨年までの2年間、この実習を担当していた橿原から引き継ぎをすることになっている。
 そこに、赴任2年目の永山も一緒に入ってもらい、将来的には永山が実習を運営できるようにとの学科の意向もあった。
 業者への依頼から補助学生の選定手順など、準備に必要なことを橿原が説明した。
 なぜ穂積がこの実習の担当をしなければいけないのか、という疑問を愚痴りつつの説明だった。

「それはね、我らが学科長による、穂積先生へのイジメなんよ」と永山は笑う。

「やっぱそうですかね。しょうもない話ですよね。穂積先生はこの野外実習をやるような領域の人じゃないのに。明らかに適材適所から離れてますよね。最初から永山さんに引き継がせればいい話ですよ」
 橿原はクリップボードに書類を挟みながら答えた。

 穂積は平静を装いながら言う。
「アイツ、『何事も経験なんやぁ!」って言ってましたよね。それはそうなんでしょうけど。あぁっ、もうっ・・・、いえ、怒るのもイラつくのも嫌ですね。負けた気がするから』

永山はそれに続ける。
「さすが、ステレオタイプの指導者だね」

「なんですか? ステレオタイプな指導者って?」と穂積が尋ねた。

「いやね、さっきの2限目の授業でさ、ステレオタイプな指導者っていうのを、アイツ、爆音のステレオスピーカーのように大声を張り上げる人のことだと認識していてさ。それを授業で堂々と紹介してたんよ」

「しかも、テストにも出すらしいですから」と橿原が付け加えた。

「もうさ、ヤバイよ、あの人。それをあのまま放置してきた俺らも罪深いけどさ。いくらなんでもバカさに限度ってもんがあるじゃない」

 穂積が何かを思い出すような仕草で宙を見る。
「そう言えばアイツ、今年の新年度オリエンテーションでも似たようなこと言ってましたね。壇上に上がって、学科長から一言どうぞっていう時に、熱血教師風に『皆っ! 今年はフラッシュバックだっ! フラッシュバックなんや!』とかなんとか。結構連呼してた。各学年のオリエンテーション全部で連呼してましたから」

「え? あの人、学生にPTSDでも植え付けるきですかね? 実際、似たようなことしてるけど」と橿原がとぼけた顔をする。

「たぶん、ブラッシュアップって言いたかったんですよ」と穂積。

 永山もとぼけた顔で言う。「いや、分からんよ。アイツとしては、自分が学科長になった今年度は、学生たちにフラッシュバック体験をさせるような、極めて意義深い教育指導をする気なのかもしれないから」

 穂積は窓からグラウンドを見ながらたんたんと言う。
「ちょっと語彙力が低すぎますよね。語彙力っていうか、どっかで適当に覚えてきた雰囲気のあるものを、間違った状態でアウトプットしてきますよね。そう言えば、今年の年度始めには『アップルヒール・パーティーをするぞ!』って、橿原先生とか学生を困らせてたでしょ。あれも同じようなことですよ」

「あぁ、そんなのあったね」と永山が笑うなか、橿原のポケットのなかで携帯電話が振動を始めた。

 橿原がポケットから取り出すと、ディスプレイで藤堂道雄からの電話であることが確認できる。
「あ、噂をすれば、藤堂先生からですよ」とスマホ画面を二人に見せた。

穂積は口を真一文字にして笑った。

 一方、永山はこれにちょっと驚いて言う。
「あれ、藤堂先生って、今授業中でしょ? もう終わったのかな?」

「でもまだ始まったばっかりですよね」と穂積が言う。

 そんな二人の反応を見ながら、橿原は応答ボタンを押した。
「はい、橿原です」

 スピーカーからは音割れ直前の声が出力される。
「おおっ、橿原先生か! どうも、藤堂です。今、授業中です」漏れ出る音声は、永山と穂積にも届いている。

「はい、えっ? 授業中なんですか? でも先生、大丈夫なんですか?」

「おおっ、私は大丈夫や。それよりも、橿原先生は今大丈夫なんか? たしかこの時間、先生は授業じゃないよな?」

「はい、大丈夫ですよ。何かありましたか?」

「おおっ、今なぁ、授業やってんねん。発育発達論の授業や。それでな、授業のことで聞きたいことがあんねん。今、いけるか?」

「はい、いいですけど。それでいいんですか?」
 資料を広げたテーブルの前に立っていた橿原は、そこにあった椅子に座ることにした。

「あのなぁ、ここになぁ、スキャモンの発達線、ん? なんやこれ、発育ぅ、発達ぅ、曲線っちゅうのがあんねん」

「はい、そうですか」

「知ってるか?」

「はい、スキャモンの発育発達曲線ですよね。知ってますよ」
 健康科学系では一般常識でもある、ヒトにおける各組織の成長の違いを比べ表した曲線グラフのことだ。

スキャモンの発育発達曲線


「よっしゃぁ、じゃあ」と言ってから、藤堂の声が遠くなる。
 藤堂は携帯電話から口を離して話しているようだ。
「【えぇとなぁ、今ここに、橿原先生が出てくれてんねん。ここでな、このグラフの図を説明してくれるからな。待っとき】」
 そして声が戻ってくる。
 それと同時に、藤堂は携帯電話をスピーカーモードに切り替えたらしく、橿原の耳には、教室内の環境音を含めた音声が届いてくる。
「よっしゃぁ、橿原先生、あのなぁ、これのなぁ、一般型というのがあるなぁ」

「はい」

「これは筋肉のことやなぁ。パワーやなぁ」

「はい、筋肉っていうか、それだけじゃなくて、他にもいろいろなものなんですけど。あと、パワーっていうのはちょっと違うんです」

「まあええわ。細かいことはえぇがな。じゃあ、この神経型というのは、神経のことやなぁ」

「はい、主に中枢神経の量になると思います」

「この生殖器型というのは、なんやろな」

「生殖器のことです」

「そうかぁ、まあええわ。【なんやねん、お前、なに笑ろてんねん】」
 藤堂は学生との会話を楽しんでいるようだ。
「そしたら、リンパ型というのは、これ、なんやろな」

「はい、リンパ組織のことです」

「そうかぁ・・・。よっし。【まあ、そういうこっちゃ。それぞれが、各年齢のところで、どれくらい伸びてるかが、このグラフで分かるんや】」
 藤堂は学生に説明をしてるようだ。
「【筋肉はな、一回ピューッと伸びて、次にまたここでピューッと伸びんねん。せやろ? で、神経型というのは、頭の良さや。分かるな? 見てごらん。だいたい10歳くらいで100%や。ここで完成すんねん。生殖器型というのは、こんなふうになるんや。後半で急に伸びてくるんや。それでこのリンパ型というのはな・・・。ん?・・・】橿原先生、橿原先生!」
 耳をつんざく声がスピーカーから漏れ出す。
「先生! これ、ちょっとおかしいわ」

「はい?」

「このグラフ、ちょっとおかしいねん」

「はい・・・、でも私、それを見れないですからねぇ」

「おかしいよ、このグラフ。リンパ型が100%を超えてるがな」

「はい、あぁ、それはですね、それでいいんですよ」

「なんでや?」

「えぇ、リンパ型は」

「これおかしいがな。リンパ型だけ、100%を超えてるよ。これ、間違ってるな。このグラフ間違ってるわ。【ちょっと待っといてな】橿原先生っ、橿原先生! このグラフおかしいで」

「いや、先生、私は見れないから分からないんですけど、でも、たぶんそれでいいんです」

「何でや! お前、見てへんのやろ。これおかしいがな」

「いや、ですから、そのリンパ型っていうのは」

「おかしいがな、100%を超えてるがな」

「ですから、それでいいんです。リンパ型っていうのは」

「これ、200%になってんねん。ここだけピューッと伸びんねん。おかしいがな」

 橿原は軽く舌打ちをしてしまった。
 目の前にいる永山と穂積は声を立てずに爆笑している。
「あのぉ、藤堂先生、センセーっ、いいですか。あのですね、リンパ型っていうのは」

「おかしいわ。【ちょっと待っといてな】橿原先生、橿原先生、せやったら、ここで皆に説明してもらえるか。ほな頼むわ。【じゃあ、聞いといてや】」
 おそらく、学生に向けて携帯電話のスピーカー音声を聞かせているのだろう。
 マイクも近づけているのかもしれない。

「あのですね、このグラフは各組織の重量を、成人、つまり20歳時点の重さを100%として表したものです。例えば一般型というのは、外から目で見ても分かる成長を示しています。幼児期に一度一気に成長して、その後、第二次性徴期にまた伸びますよね。学生の皆さんも、小学生から中学生にかけて一気に身長が伸びたというのを経験しているかと思います。体重も同じように伸びますから、それをイメージしてもらえればと思います。なので一般型というのは、二重S字カーブを描くわけです。では、このリンパ型なんですけど、子供の時に特殊な発達をする組織で、10歳ごろに大人よりも大きくなるんですね。そこで倍近い重さの組織になるんです。そして大人になるにつれて小さくなっていくと、そういう組織なんです。・・・どうですか? 声だけの、グラフを指しながらじゃないので、ちょっと分かりづらいですかねぇ。まあ、あくまでも大人を100%とした場合の、ヒトの成長の様子を示しているんだと理解してもらえればと思います」

 藤堂が学生に聞いているようだ。
「【どうや? 今ので分かったか? ん? 分からんよなぁ? ん? どうや?】・・・橿原先生、あかんわ。分かってへん学生、結構おるで」

「ハハハ、そうですかぁ」
 向こうにも分かるような苦笑いしておく。

「あかんな、やっぱりダメやわ。橿原先生、これが現実やで。勉強ばっかりしててもあかんちゅうことや。もっと学生のことを考えてあげへんかったら。・・・そしたら、先生、このグラフでどんなことが言えるんや?」

「はい?」

「せやから、このグラフでどんなことが言えるんや? グラフの説明はええねん、もうええわ。じゃあ、このグラフでどんな指導ができるんや。指導に役立てへんのやったら意味ないがな。選手を強くしてこそのスポーツ科学やろ。先生、言うてみぃ」

「はい・・・、ああ、ただですね、このスキャモンカーブをスポーツの指導に使うというのは、なかなか直接的にはいかないものでして」

「もうええねん。そんな細かいことは。勉強ばっかりしてても意味ないんや。この学生たちにとって、実際に役立つものを教えたらなあかんやろ。それが俺ら教員の役割や。それが先生にできるんか、ってことや」

 呆れた顔をしてしまいながら、橿原は携帯電話を右から左に持ち替えた。
「あの、いいですか? あのですね。スキャモンカーブというのは、ヒトの成長の様子を調査した研究データとして歴史的にも価値があるものでして、だから様々なテキストで取り上げられています。ですが、それにどんな利用価値があるかは、これはまた別の研究をしなければいけないんです。受け取り手の問題になるんです」

「なに言うてんねん。ちょいちょいちょい、先生。そんなんじゃあかんやろ。なんでそこで研究の話になってくるんや? これは授業なんやで、研究じゃないんや。ここにこのグラフがあるんや。だからこのグラフを役立てなあかんねん」

「ええぇ・・、まあ、実際のところ、スキャモンカーブを見せながらスポーツ指導理論を語っている指導者もいるんですけど。ですけど、それって科学的根拠が薄くてですね。このスキャモンカーブにどれだけの利用価値があるかは、いろいろと視点を変えながら研究をしないといけないと思うんです。まあ、これはあくまでも私の意見ですが、同様の問題意識はこの分野の方々にはあるはずですけどね」

「おかしいがな。せやったら、なんでここにグラフがあんねん」

「はい?」

「このグラフは大事なグラフなんやな?」

「そうです」

「せやったら、このグラフを役立てなあかんやろ」

「ですから、役立つかどうかは、研究しないと分からないですよね」

「じゃあ、なんでここにグラフがあんねん」

「あの、すみません、どうしてグラフがあるのかと言われても、私は分からないです。藤堂先生のパワーポイントですから」

「まあええわ。そしたら、なんでヒトはこんな成長をするんや? それが分かったら便利やろ」

「いやぁー、なんでこんな成長をするのか、って言われましても」

「なんでや? それも分からへんのか?」

「はいぃ、それが分かるのは神様くらいじゃないですか。創造主とか」

 藤堂は笑っている。
「なんや、お酒かいな。ハハハッ、そうか、分からへんねんな。もうええわぁ。じゃあ切るでぇ。あーりがーとさーんっ」
 電話は切れた。

 穂積がまず声をかけた。
「橿原先生、よくそんなのでブチギレませんね。私なら絶対怒りますけど。なんなんですか、あれ。ありえないでしょ。いや、マジでありえないんですけど」

 永山はずっと腹をかかえて笑っている。
「凄いよね。マジで凄いよね。いろいろとツッコミどころがあり過ぎるけど、それが追いつかんし、そもそもツッコんでる場合じゃないことばっかりだよね」

「はい。だいたい、なんで授業中に携帯使ってグラフの説明を求めてるんですかね。アクロバティック過ぎて笑えないですよ。まあ、笑ってしまいますけど」と言って橿原は笑った。

「しかもさぁ、これってさぁ、自分がグラフの説明が出来ないってことを、全力で棚上げにしてるしね。凄いよね。棚上げっていうかさ、もはや埋め立ててるよね。物凄い深い穴ほってさ、コンクリート大量に流し込んで、完全に無かったことにしてるよ」

「福島の原発処理も、そこに放り込めればいいのに」と橿原は言う。

 穂積は終始真顔だ。
 真剣に怒っている。
「橿原先生に説明させといて、学生が理解できないのはお前のせいだ、っていうんでしょ? ありえなくないですか? そもそも、お前の授業じゃん。お前が説明して理解させる義務を負ってんだろって。私、分かりやすかったと思いますけどね、あの説明で。それで分からない奴とか、もう知らねぇよって感じですよ。分からない学生には、お前が追加で説明してやれよって。だいたい、橿原先生はその授業の専門じゃないんだし」

「これさぁ、向こうの教室ではどんな感じだったんだろうね。だってさぁ、授業中に突然、先生が携帯で電話を始めて、別の先生を呼び出してさ、その先生に授業やらせてるんだよ。かなり前衛的な取り組みだよね。さすが藤堂道雄は、アバンギャルドな教育家だね」

「僕が思うに、あの人とのやり取りでいつも感じる危険なところって、すぐに役立つ知識とかウケの良さを重視するじゃないですか。あれがマズいんですよ。本当にマズい。しかもそれが強烈に低次元。たぶん、今回のことも、マジでスキャモンカーブの説明に窮して、本気で困ったんですよ。で、その時、閃いたんでしょうね。これを、誰か別の教員を呼び出して説明させれば、学生からウケるぞ、面白いんじゃないか、それでこのピンチを乗り切れると。実は、藤堂先生ってそれを学会発表でもやってるんです。質疑応答で難しい質問が来た時、ちょうどそこに座っていた知り合いの大学教授を指して『あちらを御覧ください。そちらにいる先生は、この研究の第一人者です』とかなんとか言って、その人に説明させてました」

 永山はそれにも笑う。
「たしかに面白いけどさ、それって完全におかしいよね。お前、何のためにそこに立ってんだよって」

「しかもですね、その場でもし僕が上手くやれば、そんな教員を電話一本で呼び出せる俺ってスゲェだろっていうことにできるし、僕がしくじれば、ダメだったのはこいつの責任だってことにできると」

 穂積は納得がいかない表情だ。
「えっ? そんなの全然ダメでしょ。全然ピンチを乗り切れてませんよね。サメに体を食い千切られながら、大丈夫大丈夫、痛くないからって笑う人の姿をイメージしちゃいます」

 永山が付け加える。
「だからさぁ、そこが藤堂が藤堂たる所以なんよ。いや、もちろん穂積さんの言う通りだよ。全くもってその通り。でも、アイツはそういう思考をしてないわけ。完全にぶっ飛んでるの。コンビニでイチゴ大福を万引きしたのがバレたら、取り上げられる前に急いで食べちゃえば損しない、っていうくらいの思考をしてるはずよ。しかもね、困ったことに、あんなキチガイでも一応は大学教員として周囲や学生は見てるから、そんなものかなって感じでスルーされてるところがあるんよ。これ、本当にマズいと思う。でも、そのうち大事件を起こして取り返しのつかない事態になるんじゃないかと心配だよね」

 穂積は窓から外を眺めながら言う。「いや、ホントマジでアイツ消そう。ありえない」




14:2012年8月12日