2009年1月12日月曜日

教える技術


藤沢晃治 著『「分かりやすい教え方」の技術』を以前読んで,てっきりその気になり,いつか “教える” という機会が得られることを楽しみにしていましたが,ここ最近その機会を得て困っています.

やっぱり難しいです,“教える” ということは.「論文指導」というのをやっているのですが,まずパソコンの操作指導から始めなきゃならないのがシンドイです.WordやExcelくらい使えろよ,と思ってみても,自分だって学生の時には大したことなかったな,と思い出したりもしています.だからちょっとくらいイラッとしても,そこは抑えてしっかりと指導しないといけません.
藤沢氏の著書の中にもこういう内容のことが書かれてあった覚えがあるのですが,“教えたその時に理解できなくても,理解できなかったなりに,それを理解しようし続けるきっかけをその人に与えること” が大事なんではないかと思います.その時に分かればいいだけであれば,それは「分かりやすい説明の技術」なのであって,「教える」のとはチョッと違うのだと.

言うのは簡単ですが,これは超絶に難しいことです.“理解し続けようとするきっかけ” ってどうやって判断・評価すればいいのか分かりませんし.そもそも,そんなことが本当に存在するのかどうか.教える技術云々ではなく,たまたまその人の興味・好奇心と一致する事柄だっただけなんではないかとも思いますし.

教える側(例えば先生・教師)が自分が教えようとしている事の楽しさや大切さ,深さを伝えようと思っていても,それは自分が得意であったり,興味があるから教える側にいると言っても過言ではないわけで,それを相手に「これは楽しいよ」「重要だよ」と教えても,なかなか満遍なく心に届くようなことはできないのではないかと.たまたま波長があったのが「その後の自分に影響を与えた」ということになるのではないのでしょうか.

自分のことを思い出してみても,楽しい授業をしてくれた先生ほど,えてしてその授業の内容や大切さって思い出せないし,いま役立っているとも思えないのです(そのうちジワジワ数十年の時を越えて活きてくるのかもしれませんが).

嫌だと思ったり,つまらんと思っていた “教え” や授業ほど今になって活きていたりするわけですから,どんなやり方が “正しい” のかは分かりません.

でもやっぱり「嫌だ」「つまらん」と“その時”相手に思われるような教え手にはなりたくないという,向上心とも迎合心とも言えるなんとも複雑な気持ちがあって,この「教える技術」というのには自分自身にもかなり迷いがあります.これは以前「喫煙ルーム(黄柳野高校のこと)」でも取り上げた教育問題とも関連があると思います.

今のところ私自身この教えるについて何か法則性が見出せているわけではないので暗中模索状態.やっぱりそれは自分自身の「教える」ということへの哲学を構築していく中で見つけられるものなのでしょう.