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キリスト教を学ぶ


これまで仏教について取り上げてくることが多かったのですが,ここで一つキリスト教についても触れてみることにしました.

キリスト教とは何か?
名著との評判が高い2冊を紹介しながら,キリスト教の正体を探ることにします.

キリスト教について簡単に知るのであればWikipediaなどで検索し,そのリンクを追うことでだいたいの概略が分かります.
その上で,キリスト教の真髄を考えるためには土井健司 著『キリスト教を問いなおす』がおススメです.

自身もクリスチャンである土井氏は,多くの日本人がキリスト教に対して抱く 「戦争を引き起こす宗教」 「排他的」 がどこからくるのかを論じ,それが誤解であることを説きます.
「こんな話題をブログに書くと,信者さんから反感買うかも」 と私自身が思うこと自体,キリスト教に対する印象が決して穏やかなものではなく,鋭利な刃物のようなものであると感じられます.

十字軍遠征にも代表されるように,他宗教との敵対関係が取り沙汰されるキリスト教.土井氏はこの 「戦争を引き起こす」 ということについては,キリスト教は戦争を肯定しているわけでも戦争を引き起こしているわけでもないとし,“キリスト教徒” が戦争を引き起こしているのだと言います.つまり,これらの戦争はキリスト教の名の下に行った行為ではありますが,キリスト教が肯定している行為ではないわけで,この戦争に向かわせるエネルギー源は “キリスト教社会” にあるわけではなく,当時のヨーロッパ,現在ではアメリカを構成する人々の社会が生んだものであるとします.

現にキリスト教社会はヨーロッパやアメリカ以外にもあるわけですから,「キリスト教が・・・」 という指摘は的外れであることも考えられるのです.

そして土井氏は 「排他的」 というイメージについても,“キリスト教” だけでなく “一神教” の解釈を通して巧みに説明しています.

一神教にとって 「神」 は誰か?
土井氏は一神教に 「神」 という 「神」 は存在しないのだと言います.これは言葉遊びではありません.

少し複雑になりますが...,
その人が(我々多くの者のように) “多神教を解釈できる” のであれば「あの神,この神」 と神を区別・比較できます.しかし,一神教の神は全知全能であり 「あの神,この神」 と “神を分けて解釈できない” ことが前提です.さらに言えば,一神教にとっての神は,多神教における 「あの神,この神」 も “一つの神” であることになるのです.

一神教が神を区別しないいい例として,神に名前が無いことが挙げられます.キリスト教では 「デウス」 ,ユダヤ教は 「ヤハウェ」,イスラム教は 「アッラー」.どれも神の名前ではなく 「神」 という単語です.いずれの宗教でも 「神」 という概念にそれ以外の表現をしていません.

ここで重要なのは,一神教の 「神」 は “万人の神” であること.故に,一神教は他宗教の信者が信仰する 「神」 を否定することはできないはず,なのです.なぜなら,他宗教の信者が信仰する神も神は神であり,一神教である自分達の神が “万人の神” であるという前提上,他宗教の神も自分達が信仰する神の見方を変えた神だからです.
これを 「否定」 する者は真の意味での一神教信者ではないという解釈が成り立ちます.
これは最近聞く,「多神教はいい意味で融通が利く宗教.絶対的なものを信仰する一神教は融通が利かない」 という解釈とはニュアンスが異なる,もっと言えば逆なのです.

おそらく世界には多神教の概念が理解できる人が多いという現実.それに,一神教信者であっても,この “多神教からの視点としての概念” に囚われているということ.つまり, “オラが神様が一番”,という (ある種の浅はかな・修行が足りない) 信者の考えが,一神教と他宗教との間に摩擦を生むことになっているのです.

土井氏は,一神教にこそ宗教―社会の境界線を越えた人々の交わりの可能性があったとし,しかしながら,一神教自らが 「キリスト教」 や 「イスラム教」 といった境界をつくるという活動を展開してしまった歴史を指摘しています.

では少なくとも “キリスト教” にとって 「神」 とは何か?
土井氏はここでも丁寧にキリスト教の教義解釈をし,神とは 「神」 という実体的な存在ではなく,“状況” を表す言葉であると言います.
が,

この話題については一回では書ききれないので次回に.
次はキリスト教にとっての 「神」 とはなんなのかを取り上げます.

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