2009年10月2日金曜日

トレーニングの研究


今日は大学院生の一人と
「トレーニングの研究とはなんぞや?」
ということについて,それこそトレーニングルームで論議をしてきました.
・・が,私がトレーニング中だったということもあって,流すように応えてしまっているので詳しい解答をしていません.
この場を借りて,そのことについて私なりの考えを述べてみようと思います.


スポーツやトレーニングといった分野に限らず,現実的な場面で利用できる研究,つまり役に立つ研究というのは 「制約が緩い研究」,別の言い方をすれば 「何にでも言い換えられる研究」 なんだと思います.

そういう意味においては,「体力トレーニングをすれば競技力が上がる」 という研究の主張があったとすれば,漠然としていますが役に立つ知見でしょう.なぜなら,スポーツ選手は押し並べて体力が高いものだからです.

ところが,ここに落とし穴もあります.体力と競技力について以前記事にしたことがありましたが,競技力が優れている人が体力も優れているとは言えないのです.
ガリガリで虚弱な人が,競技力が優れた選手になれるかと言えば望み薄でしょうが,それも程度の問題でして.
競技をするうえで最低限の身体能力さえあれば,あとはその身体能力を活かしたプレーをいかに磨くかで競技力が決定されます.

体力水準が低い人が体力トレーニングをすれば競技力が上がる,しかし,競技力が高い人がさらなる高みを目指すのであれば,また違ったアプローチを考える必要がある.というところです.
でもここで重要なのは,「体力トレーニングをすれば競技力が上がる」ということが否定されたわけではないということです.体力と競技力の関係が詳細には解っていない以上,体力の向上を目指すことはマイナスを生むことではないからです.

ところで,体力を調査すると言いますけど,体力テスト自体が疫学的な目的で行われるものですので,それで個人の競技力を評価することは不可能です.
そんなに競技力を測定したいなら,サッカー選手ならサッカーの試合をやらせてみればいいわけですから.

これは同時に,体力トレーニングの意義の限界を意味しており,何をどこまでトレーニングすればいいのかが解明されていない現在では,指導者やトレーナーの勘と手探りになっている部分でもあります.

では,トレーニング研究が向かうべき方向性は何か? ということになりますが,そこはやはり,「自己満足(納得)の追求」 というところに落ち着くでしょう.

トレーニングの最終的な目標は「競技力の向上」,または 「生活水準の向上」 です.しかし,その手段や道のりは人それぞれです.
競技力を高めるために効率的なトレーニング計画をすることも自己満足でしょうし,同様に非効率的なトレーニングをすることも自己満足です.
また,トレーニングをすること自体が自己満足になっているのであれば,それは生活水準の向上につながっています.アマチュア・ランナーなどに多く見られる現象です.

役に立つ研究の話に戻りますと,結局,「役に立つ」という表現自体がその人の「自己満足の追求」に沿うかどうかで判断されているものであると言えます.
役に立つ立たないの評価は個々人が決めることであって,価値のある研究であるかどうかということとは切り離して考えなくてはなりません.

研究者が 「役に立つ研究」 という価値観で研究に取り組むことは一つのモチベーションとしては意味をなすのかもしれませんが,その研究の価値や影響度を高める要素にはなり得ないのではないかということです.

ややもすると,現場に生きる研究というのは 「臨床研究」,つまり 「実際の現場での研究」 ということと同義に捉えられていますが,それは違うはずです.

逆に,臨床であればあるほど,現場から得られた研究ほど,現場に生きる知見や役立つ結果は得られません.
なぜなら,この手の研究は普遍性や法則性を追ったものではなく,目の前で起きたことの観察や記録をまとめたものだからです.
こういう研究を「実践研究」や「ケーススタディ」と言いますが,これは積み重ねがモノを言います.

<続く・・・>