2013年3月7日木曜日

彼女に言ってやりたかったのは

彼女に言ってやりたかったのは,止まることを恐れる若さと,結局は止まることなどない人間の性についてだ.常に前進したいと彼女は言った.その前進とは,何を基準にしているのか.どこから観測したとき,前進していると見なせるのか.逆に,どんな位置に立てば,人は停止していることになるのだろうか.さらに,もう一つ.
自分が前進する者だと認識することで,その瞬間に,前進は止まるだろう.
森博嗣 著『少し変わった子あります』の一節です.
妙に印象に残っているので,これを冒頭引き合いにして今日の記事を書こうと思います.


大学に行く意味はあるのか」と題してレポートを出してきた学生がいます.

私の大学では(そして辞める大学では),1年生を対象とした『初年度教育』と多くの大学で一般的に呼ばれている授業がご多分に漏れず存在しております.
その授業の年度の最終課題として「テーマを自由に設定して2000字程度の論文を書く」というのがありまして,そこで出てきたレポートです.

ちょうど「大学とは...」というテーマでブログの記事を書き殴っていた時期とも重なるので,少し思い入れがあるレポート指導でもありました.

で,そのレポートの内容はというと,ありきたりで非常に面白くないのですが(なら面白くなるように指導しろって?たしかに...),「やっぱ学生はそう考えてるんだね」というものでしたので,そういう意味で興味深く拝読,そして採点させてもらいました.

過去の記事では,私が考える大学という機関の社会的機能や「使命」とか「理念」,大学教員視点としての文句を垂らしておりました.
でも,その中でも言及しておりますけど,大学という存在は「学舎」と「教職員」だけで成り立っているのではなく,「学生」の存在も非常に重要な構成要素なわけです.
例えば「授業」を評価(良くも悪くも)することについても,教室という環境と教員の教え方といったものだけが問われるわけではなく,学生の学ぶ姿勢も重要になっていきます.

今回の記事では,過去の記事で放っといてしまっていた「学生側の大学への眼差し」を取り上げましょう.
そして,大学が向かおうとしている方向性(要するに大学改革)との相互関係を分析し,その学生に向けた言葉として書いてみようというものです.

そのレポートに見られたキーワードを上げましょう.
今の学生が,大学に求めるものは何か?,そして大学に行く理由は?というと(周りの友人25名に質問調査したのだそうな),
1)就職
2)資格
3)仕事に役立つ専門知識
4)モラトリアム(将来について考える時間)
5)みんなが行くから
6)幅広い教養
7)学歴
に収斂されるそうです.
よくまとめましたね.1年生にしては良くできています.褒めてつかわす.と言いたいところです.
たしかに,これが現代(というか一般的な)の大学生の代表的な意見なのでしょう.

6番目にあるように,「幅広い教養」という回答が学生にあることは嬉しいのですが,概ねその他の意見が大勢を占めているようです.
で,これに対応するため,大学側は高い就職率や資格取得率をアピールし,そのサポート体制に力を注いでおるのが現状でありまして.

大学の授業にも「社会に出て役立つ知識」とやらを求められます.というか,【ここ重要!】その “要求” とか “テーマ” が学内のどこから出ているのか分からないんですけどね.よく教職員間での話として出てきますが,私はその源流を辿ろうとは思いません,暇じゃないしアホらしいので(暇ができたら辿ってみます).

私も学生のときにはそうだったのですが,大学に行く理由は一言で言えば 「自分への投資」 です.
自分の将来に役立つ知識や技能を得ることが目的なのです.それに尽きます.
よって,学生からすればなんとか「自分のため」になるモノを貪るために大学で過ごすのです.

これについて,学生(受益者)側はそれでいいのですが,教員(大学)側も同じ感覚でいちゃマズい,ということを過去記事ではたくさん書いて来ました.
つまり,「学生のための大学ではダメだ」という趣旨の記事でしたね.これについてきちんと説明しないといけないと思いましたので,その理由を詳細にお話ししましょう.

簡単に言うと,「学生のための大学」とはつまり,「学生が求めるモノしか出せない大学」になってしまいやすいからです(「しまいやすい」というのは慎重な表現です).

では,「学生が求めるモノ」とは何かというと,よほどの博愛(or愛国)者,利他主義者でない限り,それは「自分のためのモノ」であるわけでして.

そして,この「学生が求めるモノ」というのは,残念ながらそんなに高尚なものではないわけで,もっと言うなら,その学生が飛び込んでいく「社会」とか「企業」が求めているモノも,学生が求めているモノとさして変わりないのです.

例えば大学が企業などから求められているのは,「もっと仕事に役立つ知識を教えておいてほしい」とか「経営・運営能力の高さ」とか「コミュニケーション能力の高い人材」とか「グローバルな視点を持つ人材」とかです.
※ネットで検索したら,いろいろな調査結果が閲覧できますし,文部科学省のHPには,そうしたことを踏まえた大学改革実行プランなるものが見れます.

つまり,こう言っちゃ悪いんですけど,「程度の低い要求」ですし,ちゃんと言うなら,「大学で教えることではないし,教えられないこと」なわけです.

誤解を恐れずに言うなら,「学生や社会が求めるモノしか出せない大学」,そしてそういった大学へと向かう改革,舵切りというのは,そんな程度の低い要求に従う大学を目指すということなわけで,もっと端的に言うなら,「学生や企業の商売(つまり金儲け)を助けるコンテンツを提供する大学」ということであります.
すなわち,人類や社会に価値をもたらすような大学ではないわけです.

そんなことを言うと,思わず「そんな大学があってもいいじゃないか!商売だって重要な人類の営みだ!」と開き直る大学人もいるのですけど,これについては人間を考える上での「思想」の問題になってくるので,テーブルを別にして話さなきゃいけないことですね.
少なくとも,そんな大学や教育の在り方は,私は嫌です.

過去の記事で,「教育レベルを下げないと,(経営力が低い大学は)淘汰される」ということを書きました.
※その詳細は長くなるので,ぜひ ■反・大学改革論 のシリーズを合わせて読んでください.

学生の「研究能力」を磨くのが大学教育の一つでありますが,それがなくても就職はできます.むしろ,させない方がいいのです.
なぜかというと,就職活動と学術活動は別物で,しかも邪魔になってしまうことが多いからです.
実際,勉学をやるより,就活対策をやったほうが出口(就職)の打率は上がりますからね.

極端な話,就職対策や試験対策というのは,求人や合格予定者数といった,つまり「パイ」を取り合う活動に他なりません.
これは就職先の求人や景気,ブームといった,状況次第でどうにでも変化するイベントということになります.
すなわち,極めて個人的な,市場原理的な,そして利己的なものなのです.

これに頑張って取り組むことを否定するつもりはありません.私だってそのような活動をして今に至っているわけですから(前回の記事なんか,その例でしょ).
でも,大学という場において 「皇国の興廃この一戦にあり」 という姿勢で行われる活動ではないのです.

真理の探求,学術的研究といった,普遍的な価値を見出そうとする営みとはベクトルが違うわけでして,私がみるに現在の大学とは,いかに世間の要求を無視できるか?が問われていると言っても過言ではないのです.

しかし不幸なことに,大学の就職率を上げるために,学生の卒論や研究活動を適当に済まそうという考えが,実は教員側に芽吹いしまう場合もあります.
学生の就職や企業の商売,そういったことに(一見)役立つ教育をすることを前提・目的とした大学には,絶対に未来はありませんと断言しておきます.

「役に立たない研究をする方が悪い」とか「象牙の塔で,浮世離れした活動こそ,淘汰されて然りではないか」などという意見もありましょう.
ですが,これは過去に何度かブログ中に書いていることですが,大学とは「王様は裸だ」と叫ぶところです.
非常識なイカれた大学教員がいることは確かですけど,そうした教員を一応のさばらせておくのも大学という機関の大事な務めだとも考えられます(うーん,説得力に欠けるか,例えが悪過ぎたか).

ある一定の基準(学術的とか,科学的とか)をもとに,最先端のテクノロジーや思想・哲学を紡いでゆき,その雫を学生に振り掛けることで,「大衆」を「市民・国民」にする教育機関,それが大学の機能だと私は定義しています.
※詳しくは,■大学について2 で書いた.


そんなことを(ダイレクトには言わないけど)1年生の大学生に話しても,まだ難しいでしょう.
なので,くだりのレポートを出してきた学生には,もっと時間が経ってから話そうと思って黙っときました.
大学で過ごす日々は,きっとその学生を何かしら成長させているはずで,準備ができてからの方がいいのかな?と.

でも,私が彼女に言ってやりたかったのは,自分が求めているものの価値が今はまだ分からない若さと,結局は分からないままで終わることが多い人間の性についてです.
大学で自分にとって必要なものを得たいと彼女は言いました.でも,本当に必要なものというのは,えてしてその時には分からないものですし,求めるものが満たされるということもないわけで.逆に,大学で得られるものの中で必要無いものというのは何なのでしょうか.
さらにもう一つ.
自分にとって必要なものが何か本当に認識できるのであれば,大学という場所で学ぶ必要もないでしょう.