2015年12月31日木曜日

学生の成長をみる

大晦日ですね.
今年最後の記事ですが,ゆるい記事をひとつ書いていこうと思います.
ゆるい軽い短い記事を増やすつもりだったのに,結局記事数は増やせませんでした.
来年への課題です.

さて.今年の帰省は新幹線でした.
本当なら飛行機での移動が楽なのですけど,今年の帰省は年末の予定が読めなかったので12月まで引っぱっていたこともありチケットをとれず,昨年に味をしめた新幹線「グリーン車」も予約が間に合わず,最初から最後まで自由席ということに.
安いには安いのですけど,案の定,新幹線は立ち乗りということになってしまいまして.
ところがそこは長距離移動については百戦錬磨の私です.
うまいこと位置取りをして,キャリーケースに座って読書しての東京・岡山.それほど疲労せずの到着です.
そこからは四国方面に特急列車で向かうのですが,愛媛で仕事をしている弟の自動車と合流するため松山行の特急「しおかぜ」に乗ります.

そこで偶然にも前任校の卒業生と一緒になりました.
メールに「先生,今,しおかぜ乗ってません?」って.で,慌てて辺りを見回したらその卒業生がいたのです.
聞けば「私も帰省です」とのこと.彼女は実家が松山なので,同じ特急しおかぜに乗っていたのですね.

感慨深いものです.
彼女は私が大学教員を始めて最初の学生です.
18歳の学生ってこんなものかなぁ,って思いながら暗中模索していた頃を思い出します.

当時のブログ記事を読み返してみました.
但馬國:ローアングルで写真を撮る日々
に出てくる,ローアングルでの写真を依頼してきたのがその卒業生です.当時1年生.懐かしいですね.
もう6年になるのかぁ.

この人には学内のいろいろなイベントの学生スタッフをお願いすることも多かったので,よく知る間です.
いやいやながらも引き受けてくれる頼れる人でした.

いやぁ~,いい女になったなぁ,って.ホントそう思います.
決して厭らしい意味ではありませんよ.
たしかにエロい雰囲気は当時のまま保っていたものの,大人になったし,話し方もすっかり社会人です.こうやって成長していくんだなぁって微笑ましくなります.

いい男になった奴もいます.
今年,私の研究室で卒業論文を書いている学生です.

3年生までは目立たなかったし,成績も悪いし単位もギリギリ,体育会だけ頑張ってます的な学生だったのですが,「単位が危ないから」という理由をつけて卒業論文を書くことにしたのです(本学は卒業論文は選択制なので).

「単位が危ないから」と言いながら履修してきましたが,私はこれでも「卒業論文学生」,つまりは「3・4年生」を見るのも10年になりますから,そうした言動の真意を推し量ることができるようになっています.
彼の場合も,他の少なくない学生のように「研究をする楽しみ」を見出したのです.
「単位が危ないから」というのは彼なりの照れ隠しです.

この手の学生に多いのは,周りの友人は面倒臭がって「卒論」を履修しない奴が多いので(たいてい体育会系),そんな中でもあえて「卒論」を履修しようとする自分が恥ずかしいのですよ.「えっ,お前なんで卒論なんか書くんだよ.めんどいじゃん!」って言われるから.
だから「単位が危ないから」などと履修理由をこじつけようとするんです.
(私自身も素直に「卒論がやりたい」と言えずに始めていた一人なので余計に分かります)

こういう学生は,本人は至って苦労して論文を書きますが,意義や楽しみを見出しているので,そのプロセスや出来栄えの質が違います.
実験・調査で良い結果(「きれいな結果」とも言う)が出なくとも「良い論文」を書きます.
面白くない論文が出来るかもしれません.けど,本人の力は確実にアップしているものです.
卒業論文とは,華やかな出来栄えのものを作ることが目的ではなく,学術的なモノの見方を鍛えることにその意義があります.

実際,彼の卒論研究は山あり谷ありでしたが,彼の「モノの見方」を鍛えることにはつながったと思います.
※これについての細かいことは,
これが身につけば大学卒業
を読んでください.

そんな彼は「本学らしい学生」の一人に選ばれてしまい,来年の大学パンフレットに載ることになりました.体育会活動も研究活動もこなし,就職も「本学らしいところ」だったということが採用理由とのことです.
「僕,勉強やる気ありませんよ」っていうオーラを出していた3年生の頃からすると見違えるようです.
こういうのがあるから大学は面白いのです.

では,2015年も残すところ僅かとなりました.
良いお年をお迎えください.

2015年12月23日水曜日

そう言えば,自転車取り締まり強化の影響はどうなった?

今年の6月1日から自転車運転の取り締まりが強化されていました.
その時の動きはコチラを参照→警察庁:自転車運転者講習制度(PDF)

なのでその影響について記事にしたこともあります.
自転車の取り締まり強化後,一週間
そこでの話を要約すれば,
「道路整備をせずにルールだけ強化しても無意味だし,むしろ,自動車・バイク側の意識が変わっていないのに自転車を車道に出すよう指示したら,逆に重大な死亡事故が増えるのではないか?」
ということを書いておりました.

先日12月21日に,平成27年11月末時点での交通事故統計が出たこともありますので,ここらへんで一度自転車の取り締まり強化の影響を見てみたいと思います.
その統計資料があるページはこちら→警察庁:交通事故統計(平成27年11月末)

この11月末時点での統計を見てみますと,やっぱり6月の記事で気にしていた結果となっていましたので図表を見てもらいながら説明していきます.

まずは全体像から.
以下は今年の11月末時点での各月の交通事故統計です.


自転車取り締まりを強化した6月以降を青字にしています.
これは交通事故全体の統計ですので,ここから自転車事故のことを推測することは難しいことを差し引いて見ることになるのですけど.
上図を見て真っ先に目に留まるのは「6月の死者数の大幅低下」であり,続く「8月の死者数の大幅増加」ですね.なんだか6月に始まった取り締まり強化の影響のようにも思えます.

ですが,実は死者数が前年同期比で±30くらいするのは通常の揺れ幅のようで,例えば昨年の交通事故統計から作った以下の図を見ても分かるように(青字のところが26年度データと,その前年同期比),


これは特別な増減ではないことがうかがえます.
逆に,今年は交通事故における死者数は全体的には前年と同じように推移している年と言えるでしょう.

さて,では今年の死亡事故の内訳ですが,以下のようになっています.


「状態別」というのは,死亡した人が「◯◯している状態の時の」という意味です.
このデータはここ数年ずっと変化ありません.死者数のほとんどが自動車乗車中か歩行中かなのです.

今回気にしているのは「自転車に乗っている時」なのですから,そこに焦点を当てたデータがこちら.
自転車乗用中の年齢層別死者数について,各年で比較したものです.


ご覧のとおり,自転車事故のほとんどは「高齢者」でして,その傾向はずっと変わっていません.
そして気になるのは,今年はその高齢者が前年と比べて増加していること.
もちろん平成18年〜19年の時のような前例があるので一概に言えないのですが,ここ10年間ずっと減少傾向にあったところからの反転というのは気になるところです.他の年齢層にはそのような傾向はみられないのですから.

これはもしかすると,以前の記事でも危惧していた,
「道路整備をせずにルールだけ強化しても無意味だし,むしろ,自動車・バイク側の意識が変わっていないのに自転車を車道に出すよう指示したら,逆に重大な死亡事故が増えるのではないか?
ということが現実になったのではないかと考えさせられます.

たまたま高齢者の事故が増えただけで,取り締まり強化の影響ではないのでは?
ということも考えられますので,その点を詳しく知りたいところですが,残念ながら年度途中の統計データでは詳細なところまでは考察できません.

そこで,それを類推するためにこちらのデータを見てみましょう.
以下は,死亡事故における「第1当事者別の事故件数」をグラフにしたものです.
第1当事者というのは「事故の責任が重い方」のことです.
当たり前ですが,自動車が圧倒的多数になります.事故を起こしても,相手が地球か建造物,もしくは同じ自動車でない限り自分が死ぬことはないので,第1当事者は免許も必要な自動車が多くなるわけです(同じように免許が必要な二輪車ですが,利用者数が少ないのでこういう結果になります).

そもそも交通事故全体が減少しているので,推移を見るには生データでは難しいようです.なので,生データについてはグラフではなく表にしてみました.


おや? 前年同期比で気になる動きがありますね.自転車と歩行者です.
そこにスポットを当てるため,比率で比較することにします.
平成17年を基準にして,そこからの変化の様子を表したのが以下のグラフ.

ご覧のように,交通事故全般が減少傾向にあることが分かりますが,歩行者もさることながら,自転車事故が今年は飛び抜けて増加しているように見えます.

歩行者は平成24年から増減にバラつきがある中での今年ですが,自転車はここ数年安定している中からの急増です.

つまり,自転車事故において「自転車側に過失が大きい死亡事故」が今年は急増していると考えることができるのです.

これってようするに,
自転車運転の取り締まりを強化した結果,
自転車が違反したことによる死亡事故が増えた
ってことですよね.
それってどうなの?というところですが.

その一方で,こういう見方をすることもできるでしょう.
取り締まりを強化したのだから,つまりは自転車側に責任が重くなるような事故が増えたんだろ?ということです.

ですが,そうはなりません.
なぜなら,今年6月から始まった自転車運転の取り締まり強化というのは,取り締まりを強化したのであって,運転の仕方やルールを強化したわけではないからです.
いわゆる「危険運転者に対する安全講習の義務化と,その違反者への罰金」というやつですね.交通事故における自転車側の責任が重くなったわけではないのです.

ということで,自転車運転の取り締まりを強化したのに自転車運転違反による死亡事故が増えたというのは,かなり気になる話なのです.
気になるっていうか,やっぱり現実に即していない取り締まり強化指示だったのではないかと思えてなりません.

これまでの話をまとめると,つまりこういうこと.
「自転車運転の取り締まり強化」という社会的な動きによって,自転車を運転する者(なかでも特に「高齢者」)の行動変化を促し,それが結果的に死亡事故を増加させることにつながった」
何がどういう行動を促したのか? といった憶測については,過去記事で述べているので,そちらをどうぞ.

とは言え,より詳細なデータ分析をしないと憶測でしかないので,今年の交通事故統計が出た時にまた記事にしたいと思います.


上記の「憶測」に至る細かい話については過去記事をどうぞ.
自転車の取り締まり強化後,一週間
追記:自転車の取り締まり強化後,一週間
「自転車は車道を走らない方が安全だろう」


2015年12月12日土曜日

俗物が俗物から遠ざかるには

前回の記事
俗物が俗物らしくしちゃダメ
に対し,反論したい人もいるでしょう.
「お前,何様のつもりだ.そう言うお前だって,福田恆存を引いて俗物を語ってるんだから,立派な俗物じゃないか」
と,そんな声も聞こえてきそうです.

そうです.そうなんです.
が,その記事でも書いたし福田恆存も「俗物論(国家とは何か)」で言っているのですが,「人は皆,俗物」なんですよ.
あとは,どれだけ自分が俗物であることに素直か,そこが問われるのです.

これはちょうど,「男は皆浮気するもんだ」という主張に対し,「お前,何様のつもりだ.そう言うお前だって男だろ」と反論したい人が現れるようなものなのですが,そんな反論に意味がないのと一緒です.

男は皆(女もかもしれないけど),何かしら浮気心があるものです.そこで問題となるのは,どんな浮気をしてしまうのか,どこまで浮気してしまうのか,といったことに醜さや劣悪さがあるということでして.
前回の記事で言いたかったことに戻れば,俗物にも「素直な俗物」と「醜い俗物」があって,昨今の様子を眺めてみれば,保守派,ネトウヨとされる人々に散見されるのは「醜い俗物」だということなのです.

奥さんや彼女がいるのに,他の色っぽい女性や艶のある素振りをする女性を前に,クラクラっときたり遊び心が芽生えることがあります.「あぁ,俺って浮気もんだなぁ」と感じながらも,しかし(私のように)実際には何もしない男もいるでしょう.これは素直な浮気者です.
自分に浮気心があることを認めつつ,それをコントロールしているわけです.

その一方で,そんな女性を前にしたら我慢できずに途中下車,だけならまだしも人生の終着駅まで向かう浮気者もいます.これが醜い浮気者です.
しかもこういう浮気者はえてして「そもそも男は浮気するもんだ.その武勇伝が男の勲章なんだよ」なんて言い出すこともあります.そういう居直った態度の恥知らずな男が,昨今の保守派,ネトウヨだと言ってよいでしょう.
俗物であることを恥じず,俗物であることに居直るというのはこのことを指します.

これはちょうど,『大衆の反逆』でオルテガが述べている,
愚か者は,自分を疑ってみない.自分が極めて分別があるように思う.ばかが自分の愚かさのなかであぐらをかくあの羨むべき平静さは,ここから生まれるのである.
という文言を思い出させます.
福田氏は「俗物論」によって大衆論を展開しているのかもしれません.

さて,ここまで読んできて,
「で? いろいろ偉そうに言ってるけど,結局,俗物から遠ざかるにはどうするんだ?」
って聞きたくなった人は,明白なる「醜い俗物」です.ご愁傷様です.

でも敢えて言うなら,こういうこと.
人は皆,どこかしらに俗物根性を持っています.それが思わず表出することもあるでしょう.
けれど,素直な俗物であればそれを「あぁ,俺って俗物なんだなぁ」と受け入れて,なんとか俗物ではないようにと自らの俗物根性を抑えこむ努力をするでしょう.
次々と現れる自身の俗物根性に対し,それに負けじと我慢し続けることが俗物から遠ざかることになるのです.

そして,自身の俗物性を認めることができる人というのは,
自分の劣弱性をよく知っていて,すなおにそれに寄りかかっている.じつは,その「すなおさ」こそ俗物根性からもっとも遠いものなのである.「すなおさ」とは,つまり,自分がいるべき処にいるということ以外のなにものでもない(俗物論:福田恆存)
ということのようです.
さらに福田恆存は『人間・この劇的なるもの』でこうも述べています.
真の意味における自由とは,全体の中にあって,適切な位置を占める能力のことである.
と.

PS.
こういった理屈からすれば,たぶん,酷い浮気をする奴,女遊びが派手な奴やそれを自慢したがる奴に,まともな保守思想を持った「素直な俗物」はいないということをも意味します.
たぶん,これは当たっているはずです.


福田恆存の「俗物論」が掲載されているのはこちら.


その他


2015年12月10日木曜日

俗物が俗物らしくしちゃダメ

最近出た本に,適菜収 著『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』というのあるんですけど,その第一章が「なぜ保守派はバカが多いのか」なんです.

思わず声を出して笑いました.
私も最近そんな記事を書いていたからです.
なぜ右翼・保守的な言動をする人にバカが多いのか

なんというシンクロ.
さすがに適菜氏は丁寧に考察されていて,なぜ右翼・保守的な言動をする人がバカなのか詳細に論じられています.

で,なぜ保守にバカが多いのかというところですが,それは逆なんです.
適菜氏も論じているところですが,保守にバカが多いのではなく,バカだから保守になるのです.
私はこれについて,「バカだから保守を“選ぶ”」という表現を使わせてもらいたいと思います.
“選ぶ”とはどういうことか,ってのを書いた記事が,
コピペ・レポートの行き着く先は
なので,そっちも暇だったら読み返してみてください.

もちろんちゃんとした「保守」の思想を抱いている人もいるのですが,街角でよく目につく保守,「この人は保守だ」と評価される人,そうして保守派から持ち上げられる人の大多数には「残念な人」が多いというのが現状です.
その大ボスが現在の日本国首相です.

さて,この「バカだから保守を選ぶ」という点について,非常に興味深い考察をされている本を見つけました.
福田恆存 著『国家とは何か』の冒頭に「俗物論」というのがあります.
「あ〜,これこれ.これが言いたかったんだよ」って感じでめっぽう面白く,何度も読み返している今日このごろです.

これを読んでいて思うのは,現在の日本の保守派っていうのは,つまりは「俗物」なんだな,ということです.それも酷く劣悪な俗物です(福田氏によれば,ほとんどの人は俗物であり,あとはどれだけ俗物であることに「素直」なのかが問われるのだという).
なので,「現在の日本の保守派にはバカが多い」というのは下品な言い方になりますので,もっとやさしく,「現在の日本の保守派には俗物が多い」と表現したほうがいいのかもしれません.

結論から言えば,福田氏が言う俗物とは「世間に対する自己の関係に不安を感じ,その不安を解消するために,劣弱な自己を拡大修飾して現実の自己以上の見せかけをつくろうとする」人のことだそうです.

俗物は常に人の目を気にします.自分がどれほど特別で特徴的な存在であるかを他人に意識させたがるのです.
東京などの中央に住んでいる俗物は,田舎者に対して自分が優越的立場にあることを静かに宣言したがります.決して露骨に見下しませんが,「なんだかんだ言って,実は東京が一番田舎だったりすんですよ.ハハハ(笑)」などと愛想よく標準語で話すのが中央型俗物だそうです.

それに対し地方型俗物は,自分が旧名家とつながりがあることや家柄の良さ,住んでいるところの歴史的意義を誇ります.つまり過去の優位性で自己の威信を保とうとするのだそうです.
地方型俗物はお国自慢をしながらも,自分がどれだけ中央に近いかを自慢します.つまり,東京で仕事をしたことがある,東京の有名人,政治家,役人と会ったことがある,関係が有ることをその他の地方民に自慢したがります.

この地方型俗物を国際的にみれば,国際型俗物になります.
国際型俗物は,愛国心を大事にしてお国自慢に精を出している一方で,自分がどれほど国際的なのかを自慢します.海外で仕事をしたことがある,海外の有名人,政治家,役人と会ったことがある,関係が有ることを国内の者に自慢したがります.

趣味にも同じことが言えます.
誰もが認めるポピュラーな趣味に取り組むことで,誰もが認めるポピュラーな人間であることを他人に意識させたがるのが趣味俗物です.分かりもせず分かったようなふりをする俗物がはまるのが酢豆腐俗物.そうした酢豆腐俗物に嫌気が差して,「分からないものは分からなくていい」と居直って,それだけにしてればいいものを,「俺が分かるものが良いものだ」とポピュラーな趣味を嘲笑し,少数派である自分の趣味に優越感をもつのが没趣味俗物.

これが職業になれば,勤務先や職位・地位にこだわりをみせる俗物がいる一方で,そうしたものに一切興味がないことをわざわざ宣言する俗物など,いろいろな亜種が現れます.

こうしてみますと,現在の日本社会がおかれている状況というのは,それぞれの俗物が俗物であることを隠さず跋扈している状況であることがわかります.
ようするに,自分が俗物であることへの諦めを通り越して,別に俗物でいいじゃないか,むしろ俗物であることが良いことだ,というふんぞり返った態度をとっている奴が多いということです.

で,そんな態度で政治や評論した結果,保守派は俗物ばかりになってしまった,そう思うのです.
かつて,左翼的言論が一世を風靡していた頃があったそうです.これに対し,少なくない大衆や評論家が「アンチ左翼」という点で自己の優位性や特別性を見出すという俗物根性を発揮した結果,俗物保守が誕生しました.

それゆえ,俗物保守派は俗物らしい思考パターンにその特徴があります.
俗物は国旗国歌が好きです.なぜなら彼らが俗物だからです.
俗物はTPPや集団的自衛権が好きです.それは俗物だからです.
俗物は競争と淘汰が好きです.俗物だから仕方ありません.

地方を活性化させるとか言いながら,中央の都合で政策を進めたり.
愛国心を声高に唱えながら「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去った」と言ってみたり.
デフレ脱却,一億総活躍を掲げながら労働力確保のため移民を入れようとしたり.
地方都市なのに都構想と言ってみたり.

いずれも,酷い俗物をこじらせた者ならではの着想です.
まあ,とにかく破茶目茶なことがまかり通るのも,俗物が俗物であることを恥じなくなったからではないか.
福田恆存の俗物論を読んでいると,そう思わされています.


今回の話題について,詳しくは以下の書籍をどうぞ.
 


2015年11月26日木曜日

「ソーシャルワーク教育の失敗」とは何か

こんなニュースがありました.
やや遅いですが,全然手が付いていないブログ記事更新のために取り上げてみます.
「ソーシャルワーク教育は失敗」(←Yahoo!ニュース)
その記事の抜粋が以下のとおり,
日本社会福祉教育学校連盟(会長=二木立・日本福祉大学長)は10月30日、創設60周年を記念し、同志社大(京都市)で歴代会長による対談を行った。
(中略)
大学の教員ら約40人が参加した会長対談で、大橋謙策・東北福祉大大学院教授(2007~09年の会長)は「社会福祉士ができてから、(大学での教育は)福祉制度の解説にとどまっている。社会福祉士を作ったことが間違いだったかとすら思う」と話した。
(中略)
社会福祉士の藤田氏は「私は社会福祉学部、大学院を修了したが、面白くなかった。制度の解説、面接技術などミクロレベルの技術に傾倒していた。ソーシャルワーク教育は失敗したと言わざるを得ない」と話した。
また、学説などの論争が見られない福祉の業界体質にもメスを入れ「対等で緊張感のある激しい議論や批評がない業界に発展はない」と指摘。著名な学者にも遠慮せず論争を挑むべきだとした。
私も「福祉領域」に身をおいていたことがあるので,この記事に出てくる方々の言わんとするところは分からなくありません.
そのようなわけで,少し「福祉教育」に浸った私の意見を述べてみたいと思います.

抜粋した記事中にもある藤田氏の指摘.「対等で緊張感のある激しい議論や批評がない業界に発展はない」という点について,“言いたいこと” はよく伝わってきます.
福祉領域における研究や議論というのは,どうしても重箱の隅をつつく感が否めないのです.彼らの研究というのは「正解」というものが元々あって,その正解をどのようになぞることができるか? が重要視されているように思えるところが多く,そもそもその「正解」は本当に正解なのか? といった部分に切り込む研究者や学生が少ない印象です(ホントにこれはただの私の印象です).

「そもそもその正解は本当に正解なのか?」という姿勢は非常に野心的です.もともと学術研究というのはそういう色が強いものなのですが,福祉領域ではこうした「野心的な姿勢」というものが嫌われているという印象があります.

もっと言えば,「社会福祉」という「職場」の範疇を自分たちで決めてしまい,そこでの活動をより充実したものにするための研究をしている,というように見えるのです.
もちろん,一部の研究者がそういう姿勢であるというならいいのです.他分野にも類似した姿勢で臨んでいる研究者はいます.が,福祉領域の研究者はその比率が高い,という印象があります.

そもそもこの「ソーシャルワーク教育が失敗した」というテーマですが,もともと成功するものではなかった,としか言いようがないものです.
かなり以前に書いた記事に,
と,
がありますが,そこで述べていた「大学で職業訓練は不可能」という部分について,ものの見事に「不可能であること」を証明してくれたのが社会福祉士養成です.
※その後も,
という記事のシリーズを最近書いたので,こちらもどうぞ.

上記のYahoo!ニュースのところにある「コメント」にもありますが,
「現場が第一」
「現場を知らない者が教育をしている」
という趣旨の発言がありますね.

そしてこうした意見・コメントに従順に対応しようとする大学教育現場がそこにあるわけですけど.
厳しい言い方になりますが,これが福祉教育,ソーシャルワーク教育のレベルの低さを物語っているのです.

「現場が第一」「現場を知らない者が教育をしてる」仰りたい事はわかるし間違っていないのですが,それは大学という機関に求めるものではありません.
そもそも大学における教育や研究,そして学生は,現場のために存在しているわけではありません.ここを勘違いしている人があらゆる方面に多い.そこが問題です.

現場が大事だからって,大学が現場のための教育をしていたら「大学」じゃないですし,現場の人が大学で教えてたら碌な奴が育ちません.
過去記事でも何度が述べましたが,「私は現場を知っている」という自慢をする教員ほど悪質なものはないですからね.

もちろん現場を知っている人の講義を受けることを否定しているわけではありません.例えばゲスト講師のような形で,ワンポイントの授業を受けることは良い刺激になるでしょう.
そもそも「現場実習」を受ければ,現場の方々から現場で教えてもらえるわけですから,それで十分とも言えます.

現場のレベルを高めるのは大学ではありません.それは現場の人です.
現場のレベルが高まらないのを大学のせいにしてはいけません.それは現場の人のレベルが低いだけのことです.
大変失礼なことを私は言っていますが,これは心を鬼にして言っているのです.

他の業種で考えてみればわかるかと思います.医者にしても教師にしても弁護士にしても,大学教育のカリキュラムや方法によって現場のレベルが変わるわけではないでしょう.いえ,もっと単純に,一般企業に就職する人材にしてもそうではないですか.それと一緒ですよ.

福祉とは何か? 日本における福祉のあり方,その実態や哲学など,そうした部分を研究することが大学における活動であるし,そうしたことを学ぶことが学生のためになるという事を,あらためて問い直されている.
それが日本の福祉における教育研究ではないでしょうか.


2015年11月15日日曜日

井戸端スポーツ会議 part 26「もう少し敗戦国・日本をスポーツから見る」

フランスで大変なことが起きていますね.
だからというわけではないのですが,引き続き戦争・紛争にまつわる話をしてみたいと思います.

さて,前回の記事,
井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」
で言いたかったことを一言にしてしまえば,
敗者が敗因をゴチャゴチャ言うな.ましてや「俺達は本当は凄かったんだ」なんて,みっともない.そんな事言っても誰も(世界は)同情なんかしてくれないよ.
ということであり,そしてそれは,戦争を一つの「スポーツ」として捉えると理解しやすくなるのではないか,というものでした.
なぜならそもそも戦争とは,人が利を求めて起こす集団的・組織的な暴力行動を「スポーツ(遊び)」にしたものだからです.
ゆえに戦争で求められる振る舞いは,スポーツでのそれと同じになると考えられます.

その上で今回は,少しくらいは愛国右翼的な人達が癒やされそうな話をしてみたいと思います.
第二次大戦における日本とは何だったのか?という点です.

私自身,ちょっとは第二次大戦のことを勉強したつもりではありますが,やっぱり専門的に,かつ,特定のイデオロギーのフィルタをかけて熱心に勉強したわけではない者でして.
この手の話はブログでも敬遠してきたところでもあります.

だからこそと言うか,比較的右翼でも左翼でもない考え方を持っているのかもしれないというところから「あの戦争における日本」について述べてみようというものです.

まず,教育現場にいる立場からの感想としては,こうした第二次世界大戦についての話題というのはとても配慮が必要である一方で(そしてここが重要なポイントになるかと思うのですが),多くの学生にとっては特に関心がある話題ではないということです.

今年の夏に話題になった某学生団体なんてのは極めて例外的な若者たちで,あのような活動を通じて「戦争」のことを積極的に論じようとする者は非常に少ないでしょう.
これは最近の学生に限った話ではなく,戦争のことについて深く考え込む人が多数だとは考えられない,というのが実感です.

まして第二次世界大戦のことなんて,はっきり言ってどうでもいい.戦争に負けたとか,その戦争の正義がどちらにあったかとか,あの戦争によって日本がどのような立場に立たされたのか,なんてことには関心がないわけです.

正直に言えば私もそうした若者の一人ですし,どうしてこんなにメディアや言論人が必死こいて,いきり立って,病的な振る舞いを見せつつ論戦を重ねているのか,どうしても理解しきれないところがある,というのが本音なのです.

だいたいおかしいではありませんか.今から半世紀以上前の戦争について,こんなにもクローズアップして取り上げようとするなんて.
いっそのこと同じような意気込みで,第一次世界大戦や日露戦争,関ヶ原の合戦や湊川の戦いも取り上げてもらいたいところです.
ようするにここで言いたいのは,もう第二次世界大戦は「歴史」として扱い始めても良いのではないか? ということです.

こんなこと言うと,
「いや,先の大戦の影響は今でも続いているんだ.敗戦国根性のままでいてはダメだから,誇りを取り戻すためにも先の大戦での日本の偉業に焦点を当てることも大事なんだ」
とか,その一方では,
「日本が二度と戦争をしないためにも,戦争がどれほど残虐非道なものか知る必要があるんだ.そのためにも,先の大戦での日本のネガティブな部分に焦点を当てることは大事なんだ」
などと言い出す人がいるかもしれません.

たしかにあの戦争について興味関心が高い人からすれば,そういった気持ちになるでしょう.
しかしこれは,どうしても「第二次世界大戦という話題が好きな人」だけに通じる気持ちというところを免れないんです.「関ヶ原の合戦という話題が好きな人」とか「ポエニ戦争という話題が好きな人」と同じものとして捉えられてしまいます.

考えてもみてください.関ヶ原の合戦において石田三成にどれだけ義があったか,西軍が本当は勝てるはずだった,なんてことを熱心に,そして感情的に語られても,「ハハハ,そうだねぇ(うわっ,えらい変わった人やなぁ〜)」ってなるでしょ.それと一緒です.

※だからこそ前回の記事は,直近の戦争における敗戦国である日本はどのような立ち居振る舞いをすれば良いのか,スポーツの観点から論じてみたわけです.

現実的に考えてみますと,やっぱり人って半世紀以上前のことをいつまでも引きずることはできませんよ.
ましてや現在の若者(大学生以下)は,第二次世界大戦を経験したことがある者がまったくゼロの家庭で育ってきています.あの戦争のことを意識しろってのが無茶な話です.

もちろん,先の大戦における敗戦国であることの影響は今でも続いているのでしょう.なので日本が国際的なニシアチブをとれるようにすることは望ましいことです.
もちろん,先の大戦と同じ過ちを日本が繰り返さないようにするべきでしょう.なので,できるだけ日本が戦争に巻き込まれることは避けたいですね.

でも,それはそれ.
先の大戦がどうだったのか,敗戦したとか,悲惨な思いをしたとか,犠牲がどれだけあったのか,なんてこととは無関係に「現在の安全保障」は考えなければいけないことなのです.

むしろ,もうそろそろ先の大戦の話題を,今現在の日本に直結させようとすることを諦めてはどうか? ということを言いたいのです.
こういう意見に対しては,「過去の戦争があって今の社会があるんだ.歴史を重んじない者に未来はない」なんてことを言い出す人もいるでしょう.
ですが,そんなこと言い出したら「先の大戦」だけが今の日本につながっているわけではありません.第一次世界大戦だって,西南戦争だって,関ヶ原の合戦だって,全部つながっているのです.

別に歴史や過去の戦争を無視しろと言いたいわけではないのです.第二次世界大戦を偏重して扱う必要はないでしょ,ってことです.
あれは日本の歴史の1ページ.
昔からこの極東の地で何度か繰り返されてきた,天下分け目の戦いの一つです.

だからあえて言いましょう.
例えば特攻隊.
なんも政治的・イデオロギー的なフィルタを通さずに,普通に聞いてみれば,こんな劇的で英雄的な話はありませんよ.
何を隠そう,私が初めて神風特攻の話を聞いた時(小学生くらい)は,「へぇ〜,そんな作り話みたいな作戦があったのかぁ」って感心しましたから.
その後ですよ.やれ「悲惨」だの「無謀」だのというイデオロギーが入ったのは.
だけど,一般的な子供が「自爆攻撃」って聞けば,ちょっとヒロイックな話だと思うもんでしょう.

だから,特に愛国右翼的な皆さんは安心してください.あと100年もしたら,日本の特攻隊は人類史上におけるレジェンドになるはずです.
きっと「スリーハンドレッド」みたいな歴史アクション映画の題材になったりするはずですから(その頃には「映画」が存在しないかもしれないけど).

関ヶ原の合戦での「島津の退き口」をご存知でしょうか.その際の捨てがまり戦法にしたって,「なんて男気溢れる決死の作戦なんだろう」などと悠長なことを言ってられないくらいの非人道的な作戦でしょ.
でも,時が経てばファンタジックな話になるのです.本当は嫌々戦っていた者もいたとか,捨てがまりの同調圧力から免れなかった,なんてことは語られなくなるものです.

もしかしたら,9.11ワールドトレードセンタービルに突っ込んだ連中も,あと200年くらいしたら英雄視されているかもしれません.
そんなもんだと思っています.

2015年11月9日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」

「井戸端スポーツ会議」と題する記事のアクセス数が少ないんです.
当初からアクセス数が伸びる記事にはならないだろうと予想はしていたのですが,やっぱり伸びませんでした.

でも,私としてはコレが専門でもありますし,ちょっと寂しいところがあります.
なんとか「スポーツ」の観点から物事を捉え,考える記事のアクセス数を伸ばそうと,
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
のような内容で哲学じみた話をしてみたり,
井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」
みたいな記事で教育を論じてみたり,
井戸端スポーツ会議 part 23『東京五輪エンブレム問題に見えるスポーツの危機』
といった当時炎上中のニュースを引き合いに出してみたり.
いろいろやってきましたが,どうやら「スポーツ」をタイトルにした話題って伸びないんですね.
じゃあ,スポーツに関するブログ記事でどんなのが伸びるのかって言うと,たぶん今注目されている選手・チームについての芸能ニュースっぽいやつなんだろうと思います.

とは言え,そんな私の記事の中でも例外的によく読まれているのが,
井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
なんです.
この記事が伸びている理由は不明ですけど,なんだろう? ドラゴンボール効果でしょうか?


「スポーツ」の観点から物事を捉え,考えるというコンセプトの本シリーズですが,ここ最近書いているイデオロギー系(右翼系叩き?)の記事とコラボしてみることにしました.そっちから攻めればアクセス数が増えるかもしれないと考えたからです.
というわけで,今回のテーマをこちらにしました.すなわち,
『敗戦国・日本がとるべき態度は「スポーツ」で説明がつく』
さらに言えば,昨今の右翼・保守系の言論には「スポーツ」の観点からすると “やってはいけない” 敗戦国民の態度がたくさん散りばめられていて,そのことが日本を「敗戦国」のままにし続け,且つ,諸外国からの信頼を失うことにつながる
というものです.

まず話の前提となる考え方からお示ししましょう.
「戦争」とは何か? という点です.
よく,「スポーツは暴力性を廃した戦争だ」とか,「国際スポーツ大会は,その国同士の戦争みたいないものだ」とか言われます.
つまり,「スポーツは戦争に類似したもの」という捉え方をされることが多いわけですが,実際のところは逆で,「戦争はスポーツに類似したもの」,もっと言えば,「戦争とは,命のやり取りをするスポーツ」であり,「国同士のスポーツが戦争」だと言えます.

なぜかと言うと,人類が誕生して後,きっと戦争と呼ばれる活動よりも先にスポーツが存在していたであろうことは想像に難くないですし,近代以前のスポーツは非常に強い暴力性を持ったものが多いのです(中世のサッカー祭りや騎士の決闘など).今でも「スペインの闘牛」や「だんじり祭り」といった生命に関わる部分を残した古典的スポーツが現存しています.
また,戦争において求められる決着のつき方や美徳,ルールといったものは,やはり人間の「スポーツする心」から発祥したものであることは容易に察することができるからです.

人間とは「遊ぶ」ことで文化を育んできたというヨハン・ホイジンガの考え方がありますが,その遊び方の一つにスポーツがあり,そのスポーツの一つに戦争があると捉えられるのではないかと思います.

相手の国や兵力を無慈悲に無力化することを最優先に行動することもできるのでしょうが,やはりそれは「良い勝ち方」ではないと評するのが人間であり,そうした美徳やこれに準ずるためのルール作りをしてしまうところをみれば,戦争はスポーツの形態の一つであると考えられるわけです.
その辺の細かいことは過去記事を読んでください.

それ故,「戦争はスポーツである」のだとすると,戦争で決着がついた時にとるべき態度やその後の行動も,スポーツで決着がついた時のそれと同じものではないか? ということが考えられます.

では,どのような態度や行動が求められるのか? というところですが,スポーツにおいては以下のような美徳が論じられています.

例えばドイツの詩人であり哲学者のカールダイムはこう述べています.
威張らず誇りをもって勝て
言い訳をせず品位をもって負けよ
勝利より大切なのはこの態度なのだ
汝を打ち破った者に最初の幸福を
汝が打ち負かした者には感動を与えよ
これは私達が関わっているスポーツ指導者研修会で紹介しているもので,そこで私の後輩になる講師の一人がジュニア選手対象のセミナーで引き合いに使っているものです.

さらに言うと,スポーツマンシップが端的に示されるのは「負けた時」だとされていて, それをグッド・ルーザーGood Loserと称します.
グッド・ルーザーとは,負けた時には素直に負けを認め,しかし頭を垂れず,相手を称え,意気消沈せずに次に向けて準備を行なう人のことを指します.それが真のスポーツマンだとされるのです.

話を戦争に戻せば,つまり上記のようなスポーツマンシップが戦争においても求められるのではないか? ということなのです.

もちろん,我々がよく知る「近代スポーツ」と「戦争」には表面上は大きく違いがあるように見えるでしょう.
しかし,戦争の本質がスポーツであるならば,近代スポーツにおいて求められている美徳・スポーツマンシップが,戦争においても試されていると考えることもできるはずです.

では,先の世界大戦における敗戦国はどのような態度や行動をその後とってきたでしょうか? 特に敗戦国・日本のそれが,その国民である我々にとっては重要な課題になってきます.

まず,負けた後の態度というところですが,最近これが結構問題ではないかと考えられるところです.
いわゆる右翼・保守的な人に多いのが「あの戦争で日本は悪者になっているが,実は日本にも言い分や正義があった」とか,さらには「日本のほうに正義があった」といったタイプの言論です.

これは戦争をスポーツの一つとして考えた場合,非常にマズい物言いだと考えられるでしょう.
なんせ,負けたくせに「自分たちは悪く無い」とか「自分たちのほうが優れていたんだ」と言っているんじゃないかと捉えられる,勘違いさせる物言いだからです.
少なくともそんなことを言う国はグッド・ルーザーではありません.

日本がもう一度戦争をして勝たない限りは「ルーザー」であり続けることになるのですから,理想的にはグッド・ルーザーであることが求められるわけです.

私だって「日本にも正義があった」という考え方を否定はしません.そういう見方もできましょう.
ですが,それを自分たちから訴えてはいけないのです.そんなことを表立って訴えた時点で,スポーツの観点からすればその国は「悪」です.
「負けた側にも正義があった」と表立って言えるのは,負けた側の国・国民ではなく,勝った側や外野の連中です.

「そんなの納得できない! 勝った側がそんなこと言うわけないじゃないか!」とおっしゃられるかもしれませんが,残念ながらそれが敗戦国が立たされる立場です.負けたんだから仕方ない.

考えてもみてください.例えば野球の試合後,負けた側のチームの選手や監督が,「実際のところ,勝つべきは我々だった」とか「パフォーマンスはこっちの方が上だった」「相手はルール違反が多かった」なんてことを言ってたらどう思われるでしょう.
敗戦国が「自分たちにも正義があった」と言い出すのは,それと同じことと言えます.

「勝つべきは我々だった」そりゃそうかもしれませんが,それは相手だって同じです.
戦争においては命を尽くして戦ったのです.そして勝った.
なのに負かした相手からそんな言葉が出てきたら「こいつら自分の立場が分かってねぇのか?」とカチンとくるに決まっています.

「我々にも戦う理由や正義があった」と言いたい気持ちは分かります.悔しいですからね.「相手はこっちよりもルール違反をしていたじゃないか」と嘆きたい気持ちも分かります.
ですがそれは,戦争というスポーツをして負けた側の口から出てはいけない言葉なのです.
敗戦国には敗戦国としてとるべき態度があるのです.

では敗戦国はどうすればいいか.それもスポーツの美徳から,グッド・ルーザーの美徳から読み取れるのではないでしょうか.
負けた時には素直に負けを認め,しかし頭を垂れず,相手を称え,意気消沈せずに次に向けて準備を行なう
それが敗戦国のとるべき態度です.
日本は表向き「素直に負けを認め」,屈折した形であったかもしれないが「相手を称え」ることはできたのではないかと思うんです.

ですが,「意気消沈せずに次に向けて準備を行なう」ことをしただろうか? 私はそこに少し疑問があります.
その準備とは単なる経済発展だったのではないか.意気消沈したことを隠すためにビジネスに傾倒し,軍事や安全保障の議論を避けたのではないか,と.

さしずめ,試合に負けた野球チームが「負けた理由」を探し出すためのミーティングを延々と繰り返し,「負けたお前らなんかクソ食らえ!」とか言って選手の給与を下げたり, “罰として練習禁止令” なんか出してみたり,仕舞いには,観客へのファンサービスが足りなかったんだと練習そっちのけで選手をファンサービスのために駆り出す,なんて感じだったのが敗戦国・日本の姿だったのではないか,と.

敗戦国は何もかも諦めて屈服しろというのではないのです.
素直に負けを認めて,勝者を称えてみせる.しかし,次の戦争に向けて虎視眈々と準備する姿勢をとることが正しい負け方なのです.
もちろん勝利国はそれを妨害するでしょう.簡単に次に向けた準備なんてできないのは当然のことです.ただそれでも,
絶対に諦めてはいけない.
結果ではなく,勝とうとする葛藤の中にこそ,
真の喜びが隠されている.
(堀江忠男:1936年ベルリンオリンピック・サッカー日本代表)
というのが真っ当な国家の在り方であり,その「真の喜び」というのが国としての誇りや存在価値ではないかと思うのです.

私はむしろ,いつまでも「敗戦国・日本」という論じ方をすること自体に倦んでいます.
もっと違った観点から論じるべきではないのだろうか? ということで,これについてもスポーツの観点が活かせるのです.

大事な試合に負けた選手やチームが,次に向けてどのような姿勢をとるべきなのでしょうか.
「この前の大事な試合に負けた我々はどうするべきか」とか「また試合に負けたらどうするのか」,果ては「この前の試合はスコアでは負けていたけど,内容では勝っていたんじゃないのか」なんて過去を引きずったままの姿勢で挑む選手・チームは先が見えています.

反省すべきところは反省するとしても,それは次の試合に活かすための分析材料とし,気持ちを切り替えて地道にトレーニングやスキルアップに勤しむことが大事であることは,まともなスポーツ指導者なら周知のことと思います.


2015年10月30日金曜日

コピペ右翼とカンニング左翼

さて,いよいよ
【やってはいけない】卒論・ゼミ論を1日で書く方法
が閲覧ランキング上位に登ってくる季節となりました.
もしかしたら,うちの学生も読んでるんじゃないかとワクワクするところでありますが,間違っても上記の記事を「1日で書く方法」を紹介しているものだとは受け取らないでください.あくまであれは「やってはいけない」ということを啓蒙する記事です.

この「コピペ」に関連することとして,前回の,
コピペ・レポートの行き着く先は
を,もう少し続けてみたいと思います.

まずタイトルについてですが,つまりは同じことを指しています.
ようするに,自分で考え抜いた上での意見を表明するのではなく,考えるに先立って自分が好む「立ち位置」を重視して意見を選び取る・・,他にも,自分が支持している人物やメディアの意見をそのまま繰り返すことを「コピペ右翼・左翼」とか「カンニング右翼・左翼」と私は呼んでいます.

例えばレポートをコピペするためには,コピペする文章(意見)を選ぶための事前知識が必要になります.つまりコピペ・レポートとは,その者の事前知識によって「正解だと思った結論」へと向かう文章(考え方)が選び取られているということになります.
その者自身が捻り出した考え方ではなく,考える前に回答が先行して決まっているのです.
それが政治経済の話題になったら,コピペ右翼・左翼として表出するに過ぎません.

こうしたコピペ右翼・左翼の問題点は「その意見の整合性や正統性を自分で確認していないのに胸を張って表明している」ということに収斂されます.
なんとなく「自分の気分を良くしてくれる意見だから」とか,「そういう意見って格好いいから」とか,もっと単純に「クールだから」とか,たぶんそんな感じで採択されているんだと思います.

レポートをコピペしようとした場合,例えば課題が「原発は日本に必要か?」とかだったら,まず「必要/不要」のどちらが正しそうか,カッコ良さそうか考えてみて,それに合った意見を引っ張ってくるでしょう.
もしくは,お気に入りの言論人や政治家が,原発必要/不要のどちらを表明しているかで自分の意見を決めたりするかもしれません.
あとはひたすら「必要/不要」のどちらか一方の意見をコピペして文章を強化するだけです.それが一番楽ですからね.なぜかって,反対の意見や中立的データなんかを持ってくると,それに対する理屈を自分で考えなくちゃいけなくなるので面倒が増えるからです(それを論じるのがレポートなんだけどね).

自分で考えていない意見ですから,誰かに矛盾点やボロを指摘されても,それについて「あっ,ホントだ」とか,「言われてみたらそうだなぁ」などと認識することはできません.
だって,指摘された点について自分自身が理解していないんですから当然です.
矛盾点やボロを指摘されたという認識がないのですから,その意見を疑ってみたり改定しようなんて思いもしません.

仕舞いには,お気に入りの言論人や政治家が,途中で方針転換したり発言内容を変えたりしても「きっと真意は別のところにあるのだ」とか,「足を引っ張る奴がいたり圧力がかかっているのでは?」とか言い出すでしょう.
なぜなら,自分自身の意見は,その言論人や政治家の意見と相関するものだと決めているからです.彼の意見が私の意見,なんてことにしているわけです.

このようことは,学生にコピペ・レポートを指摘した場合も全く同じことが起こります.
「なっ? この部分でこういう論を展開しているのに,なんでこういう結論になるんだよ」
って学生に指摘しても,
「いやぁ~,でも,そういう風に僕は考えたんすけど」
って.
酷い場合には,
「でも,調べたのにはそういう風に書いてたんで」
って言っちゃう学生もいたりして.
だから,ネット記事とか論文をそのまま写し書きしただけだからメチャクチャな論旨になるんでしょ,って言いたいわけですけど.

私が今いる大学の学生はそうでもないですが,以前勤めていたような大学の学生だと,もっと素直に,
「ネット記事や図書館を探せばどこかに,授業で課された課題の “回答” があるはず」
と考えて悪気なく行動する学生は多いものです.
かなり極端なことを言えば,「レポート課題とは,どこかにある “回答文章” を探し出してきてコピーすること」と本気で捉えている学生が多数存在します.
そうは言っても,これについて我々が愚痴っているわけにもいかず.地道に大学教員が学生をトレーニングするしかありません.そのために給料もらっているようなものですから.

前回記事でも述べましたが,教員がレポート課題に期待しているのは,より良い回答文章を返すのではなく,より良い考えを出そうとする手順を踏んでもらうことにあります.レポートの出来はその後の話です.

ですから,実のところ「オリジナルな意見」というのは存在しない,という考え方もできます.どちらかと言えば私はそう考えています.このブログで書いている私の意見にしたって,探せば同じようなものがたくさん出ているでしょう.
だからこそ,私はこのブログの「説明」のところに,
【学生へ】記事内で引用・参考している文章に気をつけてもらえれば,私の記事をコピペ・レポート用として利用してもらっても構いません.
と表明しています(PCの画面ならこの説明文が見れます).
ただ,そのあと続けて,
文章のスタイルの都合で丸写しにはできませんが,それだけに,一度は文章を咀嚼してくれるのだろうと期待しております.
ということも書いております.
このブログの文章はかなり砕けた表現ですし,「ですます調」です.さらに句読点としてカンマとピリオドを使っています.
一度は全文を読み上げないといけないようになっているのです(真面目にコピペしようと思えばね).

私は実際の授業でレポート課題やテストも課してはいますが,重視しているのは「質問能力」のほうです.
以前もそれを記事にしたことがあります.
質問させる
井戸端スポーツ会議 part 18「健康運動に関する授業の質問回答集」
上記記事のような感じでやっているのですけど,今年は履修者が尋常じゃないくらい増えてしまい,全員の質問に答えていたらマジで日が暮れるので選抜することにしました.
「選ばれなかった人は出席になっていないのですか?」ってウルウル目の困った顔で聞きにくる女子もいますが,そういうことにしています.出席を確認するのも無理なくらい人数が多いんで.

どうして「質問させる」ことを重視しているのかというと,
「問題解決能力」を高めることの危険性
でも書いたように,いわゆる問題解決型の学習を重視する風潮に危惧があるからです.

話がとっちらかってしまいました.
元に戻しますと,レポート課題にしても政治経済などのニュースに対しても,コピペ的な対処の仕方は非常に危険だということです.
言われてみれば当たり前だと思われるかもしれませんが,学生がコピペ・レポートをしたがるのと同様,多くの人々は世相を扱ったニュースに対してコピペによる意見表明をしたがります.

これについて今一度,論じようとする事に対してコピペではなく正面から向き合ってみてほしいものです.
そうすれば,自分の力で考えられる範囲がどれだけ狭く,それぞれの分野が幅広く複雑なのかが分かってきます.


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2015年10月25日日曜日

コピペ・レポートの行き着く先は

前回の記事では,ネット上でよく目にする愛国的で民族主義的な視点や観点,いわゆる「ネトウヨ」と称される意見や批評について取り上げました.
このように認知されている現象は,ネト “ウヨ” と称されることからも分かるように,右翼・保守的なものと見做されています.

これについて,「世間一般というのは放っときゃ右翼・保守的な反応や批評をするものであり,別に特殊な現象などではない」というのが前回の議論の出発点であり,むしろネトウヨ的な現象についての問題点とは,その意見やコメントが「右翼的・保守的」かどうかで判断されている,もっと言うなら,「右翼・保守的だとされる言論人や政治家の発言内容とどれだけ一致しているか」がその判断材料になっている傾向があるという点です.

つまり,何かの物事に対して,どれだけ適切な行動をとっているか? 適切な状況になっているか? ではなく,どれだけ右翼・保守的なのか? で判断していると言っていいでしょう.
ようするに,「右翼・保守的であることが適切である.適切な判断とは右翼・保守的なものである」という基準で物事を計っていることを意味します.

このような姿勢は右翼,左翼に関係なく「バカ」と評せると思うのですけど,どちらかと言えば右翼の方が「考える量」が少なくなる傾向があるだけ酷いのではないか? というのが前回の記事の趣旨でした.

今回は,その前回の記事で少し触れていた「レポートのコピペがなぜダメか?」を通して論じてみたいと思います.
コピペ・レポートについて論じていくと,実は上述した件との関連性が強いことに気づいてもらえるからです.

大学におけるレポート課題は,コピペ(コピー・アンド・ースト,つまり盗作・剽窃)との戦いだとも言われており,どうやってコピペに対処するか苦心されている先生方は多いものです.
その一方で,「なぜコピペが悪いんだ? コピペを見抜けない教員も悪いのだし,そういう課題しか出せない教授法に工夫が足りないのだ」という意見も根強くてですね.

教員側の言い分としては,わざわざレポート課題を出したい理由は「さまざまな議論・理論を調べてみて,それらを材料に自分の頭で議論を組み立てる」という手続きを学生に踏ませたいからです.

私を含めて少なくない教員は,学生に「優れたレポート」なんてものを求めてはいません.そりゃ優れたものを出してもらえるのは嬉しいことですが,「レポート課題」という指導で学生に得てほしいのは,より良い答えではなく,より良い答えを出そうとする手順を踏んでもらうこと,それ自体にあります.

というか,それをできるようにトレーニングしているのが大学教育そのものだとも言えます.
その最高峰が「卒論」です.

ですから,レポート課題に本気で真面目に取り組めば,非常に有益な学びが得られるはずなのですが,いかんせんこの教授法の問題点は,いかようにもサボれるということにあります.
その代表がコピペです.

コピペ・レポートの何が問題なのかといえば,ひとえに「議論そのものをコピペしてしまっている」という点にあります.
決して「楽をしていて卑怯」だとか「他人の文章を盗むのは悪質だから」などということではありません.まぁ,それも大変問題なのですが,本質的な問題ではないのです.

議論そのものをコピペしてしまっているということは,自分の頭では議論していない,つまり,さまざまな議論材料を吟味するという過程を経ていないということです.
さながら,組み立てキットのプラモデルではなく,完成品のプラモデルを買っているようなものです.
もっと言うなら,レポート課題への理想的な取り組み方というのは,ガンダムとミニ四駆のプラモを両方買ってきてパーツを組み合わせ,それで独自の「ガンダムMk-0アバンテ」なんてものを作るようなものです(余計に分からなくなった?).

まぁそこまで行かずとも,学生には独創性溢れる意見でなくてもいいから,自分の頭で考えてみる機会を持ってほしいというのが大学教員の願いなのです.
なので「何も考えずにコピペしやがって!」という文句を垂れたくなる教員は多いものですが,実際のところ何も考えずにコピペする奴はいません.学生も一応は考えます.

先生の授業を受けてみて,いつも寝てる奴ならその友達に聞いてみて,「この先生が高評価してくれそうな文章はなんじゃろな?」と考えてコピペすることになります.
いつも寝てる上に友達もいない奴なら,「この課題だとすると,どういう文章なら高評価してくれるだろうか」と考えるでしょう.
おわかりですね.この「考え」が非常にマズいのです.

「この問題については,こういう回答が適切なんでしょ?」
というのは,世の多くの大学教員なら烈火のごとく怒りたくなる「学生の意識」です.
そしてコピペは,「こういう回答が適切なんでしょ?」という学問に対する意識・態度を是正するどころか,それを助長します.

なぜなら,コピペをしてレポート作成するということは,学生が予め持っている価値判断や哲学・思想を基にして「文章が選択される」からです.
学生自身が「良い」と思う文章を選択するわけですから,そこには「学び」も「訓練」もありません.

レポート課題というのは,学生が予め持っている問題意識や論理的思考力を試すのと同時に,学生の議論材料の探し方を鍛えて,材料そのものを増やすことを期待して課しているという側面があります.

ところがコピペは,(コピペとは言え)学生が元々持っている価値基準によって議論を展開しているわけですし,その議論が正しいものだと判断して(コピペなんだけど)自説として採択していることになります.

これが私には,ネット上でのイデオロギー混じりの論争と酷似して映るのです.

つまり,論じたい何かがあったとしても,それはその何かに対するさまざまな議論材料を吟味した上での意見ではなく,予め論じたい「右翼・保守的(左翼・革新的)な意見」が先にあって,それに合わせた回答を出している可能性が見受けられるのです.

さらに言うと,その「回答」とは冒頭述べたような「右翼・保守的(左翼・革新的)だと認識されている言論人・政治家」の発言だったりするでしょうし,まさにそれをコピペして自説としているのかもしれません.彼らがそれをコピペ先として適切だと判断した理由とは,「右翼・保守的(左翼・革新的)だから」というものである可能性があるわけです.

こういった基準に照らして物事を判断していると,「この意見は左翼の◯◯氏が言っていたからボツ」とか,「この考え方はマルクスが唱えていたから危険」とか言い出すに決まっています.もちろんその左右逆もあるのでしょうけど,とてもじゃないですがまともに議論材料は集められないですし,それを吟味することもしなくなります.

私が言いたいのは,その時その状況における「適切な判断」というのは,右翼的なものもあれば左翼的なものもあるでしょ? ということです.そのバランスが問題になってくるわけですけど,ネット上では特に右翼系のバカさ加減が際立つ,というのが前回の記事です.
もっと言えば,ネット上で「右」とか「左」と呼ばれているもの,それ自体が「右」でも「左」でもない,と言いたくなるものもあります.逆に「右」とされているものが「左」にしか見えないものだってあります.

典型的なのが現政権ですが,右翼・保守的だと評されている割には,かなり左翼・革新的な政策や方針をとっています.ですが,この現政権を「左翼だ」とか「反保守的な政治だ」と評する声は非常に小さいものです.
(「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」って,どこの左翼だよと)
これは,多くの人に「この政権は右翼・保守だ」という認識があるため,どんな事をしても「右翼・保守的だから良い(悪い)」という反応や評価になってしまっている疑いがあります.
つまり,政権の振る舞いを見て「右翼・保守的」と評しているのではなく,「右翼・保守的な政権だから」その振る舞いが右翼・保守的なんだ,ということです.んな無茶な,と思ってしまいますが,そんな調子で進んでいるようにしか見えません.

そんなわけで,もしかすると我々が苦心しているコピペ・レポート対策とは,我が国の健全な議論の場を作り出す基盤形成として非常に重要なものではないか,そう思ってみたりします.
ところが,大学で行われている「コピペ対策」の趣旨は,「盗作・剽窃は悪いことだから」とか「文章をきちんと自分の手で書かせるため」という理由で進むことが多いのが残念でなりません.


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2015年10月18日日曜日

なぜ右翼・保守的言動をする人にバカが多いのか

今月に入って,このタイトルにあるような記事を立て続けに書いています.
なので知人から,
「君,右だったはずだよね」
と心配されているのですが,別に私の利き手やスタンスが変わったわけではありません.
(ちなみに野球ではスイッチヒッターです)

どうも世の風潮がおかしいな,と思っているので声に出して(字にして)みている次第です.

代表的なものとして「ネトウヨ」と呼ばれることの多い「対象」と「現象」があるわけですが,そうした右翼・保守的な言動をしている人の声が煩くなってきて久しいと感じます.

このネトウヨと称される「対象」を定義することは難しいとされているのですが,そうした「現象」が捉えられていることは周知のことと思います.
ようするに,ネット上では愛国的で民族主義的な視点や観点から物事を論じられることが多く,そうした意見や批評といったものに一定の認知度があるわけです.

それが私にとっては「おかしいな」と感じさせる世の風潮の一つです.
何がおかしいのかというと,こうした「ネトウヨの声」とされるものからは,知性や身体性が感じられず,例えて言えば「「3手詰みの詰将棋」や「キーパーのいないPK戦」をやっているように映るのです.
(この比喩についての詳細は,また今度)

前々回の記事である,
なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか
では,教育現場においては左翼よりも右翼の方が有害であることをお話しました.
もちろんキチ◯イ左翼教員も有害ですが,愛国・右翼教員はさらに輪をかけて有害であるというものでした.
他方で,教員現場に右翼・保守的な考え方の人材が “少ない” のは「右翼・保守的な言動をする人にバカが多いから」ということも取り上げていました.

なので今回は,そもそも,なぜ右翼・保守的な言動をする人に目も当てられないバカが多いのか? という点に絞ってお話してみよう思います.

まず,「右翼・左翼」「保守・革新」といった分け方は一般的ですし,その分け方で問題ないとは思うのですけど,一応この記事で言う「右」とか「左」というのは,政治経済,教育,社会,道徳といったものを論じる際の立場や思想のことを指します.
で,そのいずれにもバカ,つまり「ちゃんと物事を考えない人」というのがいます.

ここで重要なのは,右翼的なバカと左翼的なバカを比べた場合,どっちかと言うと「右」の方が酷いという点です.
なぜでしょうか?

その理由については,人間はもともと「右」のイデオロギーを持つことが普通なのだと捉え,これに基づいた経緯を考えていくと合点がいきます.

人間は,この世に生を受けて家族に囲まれ,地域社会に育まれて国家の有り難さを享受すれば,誰だって「右」になるものです
よくネトウヨは「日本には愛国心を育む教育が足りない.反日・自虐教育を廃せ」などと言いますが,まともな国なら教育しなくても愛国心は芽生えるものです.むしろ,愛国教育をしなければいけないような国の方が,残念な国だと私は思いますよ.

人間誰しも生まれ育った国に愛着を持つものですから,オリンピックやワールドカップがあれば「我が国」のチームを応援しますし,他国から自国民の偉業を讃えられたら誇りに思うでしょう.

しかし,そうした自国への誇りや愛着といった思想を強化することでは不都合が起きることがあります.
「戦争」や「差別」「迫害」といった形で現れるものがその典型例です.

だから人は「左」の思想に興味を覚えます.
「現在の日本人のほとんどがサヨク(左翼)だ」と言われることもありますが,そりゃそうだと思うのです.だって,日本の学校では左翼的な教育をしているのですから.私もそれについては否定はしません.

さて,ここからが問題です.
もともと人間(国民)というのは「右」になるものなのです.そこに学校教育やらなんやらで「左」が入ってきたりして,大人になるに従っていろいろな葛藤もありつつ各自のイデオロギーとして形作られるんだと思いますが・・.

その時,バランスがとれずに「右」または「左」のイデオロギーに「はまってしまう」人が出てきます.
具体的に言えば,
「国家や共同体なんて関係ない.性別や民族からも解き放たれることが大事なんだ」
という考えだったり,
「国家や民族が大事.これを守ることが国民としての努めだ」
という考えだったりするのでしょう.
そうした考え方 “だけ” に捕らわれてしまった人が,冒頭お話しした「バカ」です.

「バカ」という奴がバカだというのも聞きますから,もうちょっと抑えた言い方をすれば,
「いやぁ~,たしかに君の言うことも分からんじゃないんだけどねぇ.けど,そういう意見ってバカっぽいよ.だからさぁ,ねっ」
って言ってあげたい感じです.

おそらく,彼らは自分が述べている意見を自分で否定したことがありません.だからバカっぽいのです.
私も大学の授業や演習で学生に言うのですが,自分の考えや調査計画などをしっかり否定してみることが大事です.
とことん否定した結果,それでもそこに残ったものが,本当に大事なものです.

それが大学での重要な学びの一つだとも思っていますし,その社会のより多くの人間が身につけておくことが望ましい姿勢・態度だと考えています.

さて,おわかりでしょうか? 「左」の方が「右」よりまだマシだ,というのはこのためなのです.
繰り返しますが,もともと人間は「右」なんです.生きている限り,常に「右」であることへの誘惑があると言っても過言ではないでしょう.
しかし彼らは,「それでも左だ」という選択をしている場面が多いわけです.

つまり,ネトウヨと称される意見が「右」であるべくして「右」の意見を垂れ流しているのに対し,「左」は自分の意見を省みる機会が多いことになります.

一方で「右」はというと,人間誰しもが普通に生きていれば形作られる右翼・保守的なイデオロギーを,まるで自分の力で練り出したように扱います.
しかも,どうやら長い間この国は「左」のイデオロギーが支配的だったそうなので,「それに立ち向かう少数派」ということで気分を盛り上げてしまっています.ですが,繰り返しますが実のところ「右」は常に多数派なんです.

さらには,お気に入りの言論人や政治家の意見が「右」だからということで,それをそのままコピペして扱ったりします.コピペしたものなので,その意見の良し悪しや実生活との整合性なんて気にしない,という事態になるのは自明のことです.
(大学の論文指導における「コピペ禁止」というのと通底するが,今回は割愛する)
それが一部の言論人や政治家だけならマシだったのですが,最近はネットを媒介として,勘違いした「右」が猛威を振るい始めた,というところでしょうか.

長々と書いてきましたが,「右」であろうと「左」であろうと,自分が信じている考え方を,しっかりと自分自身の力で否定するという手順を追わずにいると,どうしてもバカっぽくなります.

それでも「右」が「左」よりも不気味で低脳に映るのは,そうした自分の考えを丁寧に否定する機会が比較的少ないからではないだろうか?
ネトウヨじみた右翼・保守系の人々が,あのように悲惨な醜態をさらしているのは,そういう経緯があるからではないかと思えてなりません.


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「面白い授業」に対する幻想と誤解
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
「じゃあ,代わりは誰かいるのか?」の愚

2015年10月13日火曜日

なぜ教育現場では「ネットの意見」が受け入れられないのか

現在,我々大学研究者としては大事な季節なので,どうしてもブログ更新に手が向かない今日この頃です(科研費申請です).
でも,やや短めの記事を書いておきたいと思います.

学校教育に関する不祥事等がニュースになると,「これだから学校は隠蔽体質なんだ」とか「教師は社会人になれなかった人材が就く仕事だ」などと批判にさらされることが多いものです.
特にネットでは,この手の “教育熱心な意見” が散見されます.

こうしたネットの意見について,私もこれまで何度かそれに反論する記事を書いてきたところですが,
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
とか,
「面白い授業」に対する幻想と誤解
今回は,そうした教育に対する「ネットの意見」が,実際の教育現場で(思い切って言ってしまえば)「通用しない」のはなぜか? という点を語ってみたいと思います.

前回の記事である,
なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか
と関連するところも多いですので,未読の方はそちらもどうぞ.

もちろん,以下に述べていることが教育者全体の総意ではないですし,普遍的な価値をもつ考え方ではないことも申し添えておきたいと思います.が,これに類似した想いを持って教育にあたっている人が少なくないことはご理解いただければと思います.

(1)教育現場で「勧善懲悪」は非現実的
いじめ問題が典型的ですが,ネットの意見に多いのが,
「なぜ被害者が泣きを見て,加害者が守られるのか? こんなことだからいじめが無くならないんだ!」
といったものです.

要するに,「悪い行いをする子供よりも,その被害にあった子供を優遇しろ.そうすれば皆がハッピーになれるだろ」という趣旨の主張です.

でも残念ながら,教育現場でそういう「ハッピー」で「おめでたい」考えは通用しません.

何故かと言うと,教師にとっては「いじめ被害者」はもちろんのこと,「いじめ加害者」だって自分の生徒・学生であり,同じように教育する対象だからです.
一般人にすれば「加害者に痛い目にあってほしい」という欲求があるでしょうから,それが満たされないと不満に思うでしょう.

ですが,教師はなるべく多くの生徒・学生が善き国民・人間となるよう育てるために粉骨砕身しています.
いわゆる「悪い子」にしても,なんとか真っ当な人物になるよう教育しているのです.
子供の行いを査定して,ペナルティを与えることを仕事だと考えている教師は極めて少数だと思われます.

(2)教師というのは,子供に教育を受ける機会を与えたいと考えているもの
それに,私にも少ないながら経験があることですが,「悪い子」をきちんと指導すれば,「悪い子」ではなくなるということです.というか,そんな事例は現場では山のようにあります.
たしかに,全国ニュースになるほど重大な事件となってしまう結末を迎える指導ケースもあるでしょう.しかしその一方で,きちんとした教育がなされているのも確かです.

もっと言うと,悪い子を指導するのに「お前は悪いことをしたのだから,ペナルティを与える」という方針では現実の学校教育は成り立たないということが一般の方々に周知されていません.
人間,どうしても個性がありますし,子供は学校教育だけで育つわけではありませんので,善き人間になるよう指導しきれないところも残念ながらあります.
ですが,「悪いことをしたからペナルティ」という着想で教育すると,「ペナルティを受けなければ悪いことではない」という,見事なクズっぷりを抱く人間を育てることにもなります.

「たしかにそういう側面もあるだろう.だが,悪い子は学校ではなく,それに相応しい施設を用意して更正させればいいのでは? 良い子に悪影響が及ぶから」
という意見もあるかもしれません.
ですが,これには私は断固反対します.

何事も程度の問題ではあるのですが,余程の理由がない限り多種多様な人間がいる中で教育が行われたほうが良いと考えています.
それに,日本に限らず多くの社会においては,「通常の学校教育とは異なる履歴を持っている者」に対する風当たりは強く,偏見がどうしてもあります.
ですから,教師としてはなんとか「普通の教育履歴」として社会に送り出したい,という思いがあるのです.

(3)真っ当な人間を育てることで,真っ当な社会を育てる
さらに言うと,例えば高等学校では「退学処分」にすることができますから,勢い,「義務教育じゃないんだから,問題を起こす生徒は排除すればいい」という意見も聞かれます.
しかし,排除された生徒はその後どのような教育を受けるのでしょうか.
「そんなのは本人の自業自得だろう」と言う考えもあるでしょう.
ですが,少なくない教師はここでも「なんとかして真っ当な人間にしてやりたい」と考えるものです.それが教育の役割,存在意義だという気持ちがあります.

考えてもみてください.退学処分になった生徒や,悪い子の烙印を押された生徒が,その後どのような道を歩むか.
運良く良い方向に向く場合もありますが,たいていは荒んだ生活を送ることになります.
なるべく退学させずに,多少の無理をしてでも学校教育を受けさせてやりたい,そういう選択をする教師は多いものです.

もし日本の教育現場が,安易に「こいつは面倒を見きれないから,退学処分だ」という方針をとるようになったとしましょう.
容易に考えられる未来は,「学校で十分な教育を受けた者」と「学校で教育を受けていない者」の差が大きくなることです.
今にしても,この差は存在します.その差がさらに開くということです.

そんな社会ではどういうことになるのか,これまた容易に想像できます.
典型的なのが,アメリカや中国のような社会です.実力主義とか能力主義というスローガンで誤魔化さなければならない不安定な社会になるでしょう.
もう一つ考えられるのは,移民や外国人労働者を大量に受け入れている国のような状態になることです.「“我々”と“あいつら”」という感じで,国民同士の連帯感がなくなる社会がそこにはあります.

(4)不満を感じるかもしれないが,教育現場で働いている人に任せてほしい
教師の多くは,生徒・学生を育てることを通じて,この人間社会をより良いものにしてくことを願います.
昨今の社会情勢をみておりますと,「一部や個人の利益を最大化することによって,その恩恵が社会全体の利益として波及していく」という考え方が強くなっているように思います.
右翼・保守的な主張をする人達なんかは,福沢諭吉の「一身独立して一国独立する」を引用しながら説くことでしょう.

たしかにそういう側面もあるかもしれません.そういう考え方が教育現場に流れ始めているという実感もあります.
ですが,直感的にこの考え方・教育方針ではまともな社会にはならないのではないか,そういう危機感を持っている教育者は少なくないはずです.

なぜなら,自分の利益を最大化することを目指すような人間が,どうして所属する共同体の利益を考えるのでしょう.
自分の利益を最大化することを説く教師から学ぶ子供が,どうして自分の身の回りの人々のことを考える人間になるのでしょう.
こうした違和感を感じる教育者は,私以外にもたくさんいるはずです.

教育現場で展開されていることは,スッキリとした勧善懲悪や正義に基づく解決が難しい案件が多いものです.
それに対し,あーでもないこーでもないと悩みながら,生徒や,彼らが育った先の社会のことを案じながら指導しているのが教師という仕事です.

不満を感じることもあるかもしれません.ですが,教育現場で働いている人々の考えや主張にも,落ち着いて耳を傾けてもらいたいということを言いたい時期・レベルになってきたようにも感じます.

そして,それぞれの教師が全力を出せる職場を作ること,それがまずは大事なのだと思っていますし,それが難しくなってきている最近の教育現場を危惧するところです.


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2015年10月4日日曜日

なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか

なぜ教育者に左翼が多いのか?
という疑問やテーマで論議されることは多いのですが,その逆,
なぜ教育者に右翼(保守)が少ないのか?
が問われることは意外と少ないものです.

私も高校生ぐらいの頃からずっと考えていたことではあるのですが,いまいち明確な答えが見つからないまま,いつしか自分が教育者になってしまったというところです.

では私は左か右かということが気になるのですけど.
ある人達は私のことを「保守だ」「右翼だ」と評しますし,たしかにそういう考え方をするところがあることは自覚もしています.
しかし,どうしても一般的に「保守派」とか「右翼」と呼ばれている有識者の意見を聞くと,それを飲み込もうとしても何か喉に引っかかって気持ち悪いという感覚が拭えませんでした.

これについての適切なアンケート調査や意識調査があるわけではないですが,私なりの皮膚感覚でこの件について書いてみようと思います.

なぜ教育者には右翼・保守系の考え方をする人がいないのか,まず最初に考えられることとしては,右翼・保守系の人にまともな教育観がある人が少ないということが挙げられます.
もっと突っ込んだ言い方をすれば,一般的に右翼・保守系だという立場を表明する人達の教育方針や主義主張の多くが,子供や青年の教育上害悪が多いということです.

害悪の多い教育方針を掲げる連中ですから,そんな人達を教育現場に立たせることは避けられやすくなります.
教育者に右翼・保守的な人が少ないのは,そんなような影響があるからではないかと考えられるのです.

どのような教育方針が嫌われやすいのかというと,例えば以下のようなものです.

1)やたらと愛国心教育を推進する
私だって別に愛国心が高まる教育を否定したいわけではありません.一部のキチ◯イじみた左翼教員を除いて,教育現場にいる圧倒的多くの教育者は愛国心を悪いものだと思っていないでしょうし,高めようという方針に反対するわけでもありません.

ところが,右翼・保守的な立場をとる人達は,愛国心を高めることが教育の重要な役割だと見做しています.はっきり言ってバカなのです.
具体的な典型例として,彼らは学校で国旗国歌を徹底しようとします.国旗国歌を徹底すれば,愛国心が高まって日本国への帰属意識が高まると言い出します.
どう考えてもそんなわけねぇーだろと思うのですが,なぜかそんな軽薄な持論を展開するのです.自分たちがどれほど非現実的なことを口走っているか恥ずかしく思わないほど思慮が浅いわけです.

考えてもみてください.ブラック企業に勤めていたとして,そこの社章・社訓・社歌の指導を徹底したからといって,その会社への忠誠心や帰属意識が高まることなどありません.
むしろ,そんなことで会社への忠誠心を高めようとすることは「悪」ではないでしょうか.それと同じことです.

愛国心を高めようとするのであれば,その国の国民として生きることに誇りを持ち,誇りを持ち続けられるほどの幸福感を享受できる国でなければなりません.
そうした国民を育てるためには「愛国心を高める指導」や「国旗国歌の指導」を否定的に扱うことも吝かではない,矛盾するように聞こえるでしょうが,そういう場面もありえます.

例えば,多くの人が持っている母校に対する愛着や帰属意識というのは,そこでどのような教科教育が展開されていたかとか,ましてや母校愛を高めるプログラムが展開されていたかではなく,教員や仲間と過ごした甘酸っぱくほろ苦い想い出が基になっているものです.昔は「こんな学校クソ食らえ」とか「授業なんてどうだっていいし」などと否定的,斜に構えていたとしても,いつしかそれこそが母校愛へとつながっていきます.
これは愛国心にしても同様でしょう.

国旗国歌は愛国心を高めるために教えるものではありません.教えなくたって愛国心は高まります.愛国心が芽生えれば勝手に国旗国歌への興味は湧いてくるものです.
因果関係を逆に捉えてはいけませんし,逆に捉えちゃってることが多い右翼・保守的な人は教育者としてふさわしくないのです.

2)連帯よりも競争を推進する
右翼・保守的な教育方針を掲げる人に典型なのが,「社会に出たら他者との競争になる」ということで「だから学校では競争させることを学ばなければいけない」などと言い出すことです.
まともな教育者なら背筋が凍りつくような発想・着想ですが,彼らはそれをおくびにも出さずに言い放ちます.当然,そんなバカが教育現場に立つことは避けられてしまいます.だから右翼・保守的な教育者が少ないのです.

いやもちろん,受験勉強やクラブ活動や文化行事等々で「競争」が発生することはたしかです.が,それは「競争になってしまう」のであって,「競争させる」のとはわけが違います.

より良い国民を育てるために多くの教育者が学校現場で粉骨砕身しているのは,お互いを尊重し合い,仲間同士連帯して事に取り組む態度を育てることです.そこで発生する競争は副次的なものであり,モチベーションの一つに過ぎません.
そりゃ完璧にできれば理想でしょうが,皆が皆うまくいくわけではありません.でも,そうなるように取り組んでいるのが学校現場なのです.

ところが,右翼・保守的な教育観を持っている人は,そうしたことは建前であって綺麗事だと考えている節があります.
「現実はそうではない.現実社会は競争社会だ.競争社会を勝ち抜くための力を学校では身に付けるのだ」と言って,それを煽る教育方法を推奨します.

そのくせ,場面が変われば「日本人は一致団結して事にあたることを得意とする」だとか「日本人は和をもって尊しとなす」などとドヤ顔をしたがります.
これはつまり,和を崩して一致団結を困難にする方針を進める一方で,都合よく和をもって一致団結しようと考えているのです.なんだかブラック企業みたいですね.もしかすると,右翼・保守的な教育観を持っている人はブラック企業の方針に親和するのかもしれません.
和をもって尊しとなす国民を育てたいのであれば,その教育方針が180度とは言わないにしても,90度以上は違うでしょう.
このことから分かるのは,彼らの知能は明らかに低いということです.そんな低能な人間が教育者として採用されることは少ないわけです.

3)大人のルールを学校や子供に適用させようとする
右翼・保守的な教育方針を推進する人の,最も典型なのがこれです.
もともと,近代における学校とは大人社会のルール,大人の論理から子供を守るために誕生したと言っても過言ではありません(詳しくは専門書を参照ください).
「大人のルール」とぼんやり表現しましたが,ようは市場原理的な考え方と言っていいでしょう.先ほどの「競争を重視する」というのと似ていますが.

当然のことながら,学校は大人社会に向かうためのステージの一つですし,そこでの振る舞いを学ぶことも重要です.が,それが最優先の目的になってはいけないのです.
考えてもみてください.学校の存在意義を「子供が大人社会に向かうための準備のため」だいうのであれば,学校なんて不要です.普通に大人社会に混じって大人社会のルールをその身に教え込めば済むはずです,っていうか,かつては大多数の人間がそうだった時代があったわけで.
それじゃダメだからってことで学校が存在するのです.

人間は地位や財を成すために生きているわけではない.地位や財を成すための駒として生きるわけでもない.それ以外にも人間らしい生き方というものがあるはずだ.という価値観を持つ人物を,一定数社会に輩出し続けることが学校の大事な存在意義の一つです.

ところが,彼らはそんな学校教育が誕生した経緯を考慮することもなく,「これまでの教育は大人になって役立つものが少なかった.より具体的に言うなら,これからの学校は社会に出て仕事をするための能力を重視するべきではないか」などと恥ずかしげもなく主張します.
さらには,「人間らしい生き方なんて理想論に過ぎない.そんなことよりも現実を見てみろ.職業能力を高めることがその人の幸せにつながるんだよ」といった荒んだ意見を隠さず言い放つ人もいます.

その煽りをモロに食らって致命傷気味なのが小学校であり,連鎖反応的にダメージを食らって困っているのが大学,特に文系大学です.文系大学ではそういう職業能力を高めにくいということから,統廃合を検討しろと言われています.
この流れの先にあるのは,この社会と民族のゆるやかな死です.

この国は今,いろんな分野の世界ランキング上位入賞を目指すために頑張るんだそうです.だからそのために,小学校の段階から国語よりも英語を重視するのだそうです.さっきまで愛国心を声高に唱えていたことは忘却の彼方です.
つまり彼らが言う愛国心ってのは,外国から褒めてもらえることであり,相手よりもお金を儲けることであり,高いステータスを獲得することを指すようです.
これって人間のクズですよね.誉められた人間ではありません.

そんなような教育方針が,時の政治・政策レベルで教育現場に押し込まれたとしても,このような考え方の人物を教育者として立たせることは避けられて当然でしょう.
だから右翼・保守的な人が教育者には少ないのです.


教育現場でよく問題視されるのが左翼系の教育者ですが,実はそれ以上に厄介な存在となり得るのが右翼・保守系とされる教育者なのです.
左翼系の教育者も有害な教育方針を薦めてきますが,右翼・保守系の教員の薦める教育方針は,それに輪をかけて有害です.
あまりに有害過ぎて優先的に避けられるから,そして,本人も結構バカだったりするので,それゆえ教育現場に採用・出没しにくいだけなのです.

もっとも,上述した「右翼・保守的な教育者にありがちな主張」として紹介したものにしても,本当の意味で右翼・保守的な主張なのかどうか明確に定義できるわけではありませんが.

他にもいろいろ思いつくところはありますが,長くなるのでとりあえず今回はこのへんで.


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大学における国旗国歌

2015年9月24日木曜日

僕らの時は野茂英雄っていう選手がいてだな・・・

ここ最近はしょうもない上に暗い話題の記事が続いており,「大学って大変だなぁ」とネガティブな感慨にふけっているのもなんなんで,別の話題で感慨にふけってみようと思います.

私も学生とは干支が一回りしたこともあり,だいぶ世代感を感じるようになってきました.
我々にとっては当たり前のことであっても,学生は知らない,分からない,興味がないという話は多いものです.
てっきり同じ「若い世代」だと思っていても,年は無情に過ぎていきます.

世代を跨いで「世間話」というのをするようになるのも大学生からでしょうし,徐々に話が通じなくなることを実感しやすいのも大学という場所ならではかもしれません.

まずはスポーツネタから.これはかなり世代感が現れやすいものです.
彼らはオリックスのイチローを知りません.なんせ,イチローが200本安打を打った時(1994年)に産声をあげたのですから.
彼らが野球を見るようになる頃には,メジャーリーガー:イチロー・スズキです.

彼らにとっての代表的な野球選手とはダルビッシュでありマー君です.そこですかさず「僕らの時には野茂英雄っていう選手がいてだな.日本人メジャーリーガーとして特別な存在なんだよ」という展開になるのが鉄板です.

また,若貴兄弟の現役も知らないですし,三浦知良の全盛期も知りません.でも逆に言えば,この期間ずっとプレーしているカズの凄さが分かります.

一方で,私達の世代が上の世代の方々にギャップを感じさせるのは,北の湖や千代の富士を知らないってとこでしょうか.そこらへんで「えぇ!」って顔されます.
ロサンゼルス五輪はセピア色の歴史的存在であり,山下泰裕って誰?って感じで,ソウル五輪あたりの記憶は曖昧だからベン・ジョンソンとか鈴木大地や小谷実可子の話にはついていけないというところです.
感覚的には,私達にとっての鈴木大地や小谷実可子あたりが,彼らにとっては高橋尚子とか谷亮子みないなものでしょうね.名前知ってるけど,よく知らないっていう.


そうこう話すうちに話題はスポーツから事件やイベントへと移っていくわけで.
私達の世代が「日航ジャンボ機墜落事故」のことを,なんで毎年あんなにニュースで取り上げるのかピンと来ないのと同じくらい,今の学生は「阪神淡路大震災」を知りません.ルミナリエってのは神戸のキラキライベントだと思っています.

飛行機の事件と言えば,9.11同時多発テロはギリギリ知っているけど覚えていない,という感じだそうです.当時は幼稚園児だったり小学1年生ですからね.
なんだかつい最近のように感じますが,もう14年経ちましたか.

昨今また話題に上がっている「酒鬼薔薇聖斗」事件も知りません.事件のこと知りたきゃググッてくれと言いますが,女子学生には特に「決して画像検索はしないように」と言っておきます.きっと検索するんでしょうけど.

オウム真理教とか地下鉄サリン事件も,学生たちにとっては「日本の現代史」.何かの拍子に「わぁーたぁーしぃーはぁー,やってないぃ〜」って歌っても,彼らの頭の上には「?」が浮かびます.
「ポアするぞ」とか,すでに通じません.

生まれた時にWindows95が登場し,物心ついた時には携帯電話があり,フィルムのカメラなんて扱ったことなくて,使い捨てカメラって何?って顔されるし,彼らにとっては写真とか動画は撮り放題で,それも紙やテレビで見るものじゃなくなってるんですよね.

もっと言うと,学生たちは日本が不況になっているところしか知らないわけで.
経済成長するってどういうことか分からないのです.だからなのかもしれませんが,とにかく慎重派が多いように思います.絶対失敗しないぞ,っていう.
あと,高望みしないし,自分が満足できればそれでいい,というようなところがあります.ステレオタイプな分析ですが,ホント,そう思います.
少なくない大学の先生方は,「ハングリー精神がない」とか「もっと積極的に新しいことに挑戦する人材を育てたい」と言いますが,世が世ですから,ちょっとそれは厳しい注文ではないかと思います.なんせ,ハングリー精神持って新しいことに挑戦して失敗した人たちを見てきているわけですので.

私達の世代は,バブル崩壊から不況に陥って様々な苦難を乗り越えられずに今に至る,というストーリーと同時進行に生きてきたことになりますので,何をやっても期待できないという考えが多いのかもしれません.
だからでしょうか,自分にとって都合のいいものを選ばないと生き残れない,そう考える下地があるように感じます.

「あぁ,あの事件をこいつは知らないのかぁ」などと感じ始めた今日このごろですから,自分もだいぶ歳をとってきたのだなと実感しております.
そして,映画とか小説にある「あの当時・・・」というストーリー展開が,これまでとは違った形で受け取るようにもなってきています.

2015年9月21日月曜日

危ない大学における万葉集

世間は連休に突入しましたね.ですが,我々にとっては関係ないという人も多いのではないでしょうか.
さて,前回まで危ない大学における格言集を書いてきましたが,今回は「万葉集」ということにして短歌を作ってみました.

短歌の調子に言葉を乗せると,不思議なことにその情景が活き活きと浮かび上がってくるものです.
危ない大学に奉職している方々にとっては,感慨深く聞いていただけることかと思います.

もし「危ない大学」なるものを知らない人が読んでも,これらの歌は伝わらないことでしょう.これは本当の万葉集とて同じことです.
そのような方は,本文末に危ない大学に関する記事を用意しておきましたので,そちらで事前勉強しておくと良いでしょう.


お題:学生募集
OCと 略してみればビズ用語 されど所詮は オープンキャンパス

OCの ためと諦め着ぐるみに 汗ばむ我が身を 笑う学生

あけぼのに 集う職員学び舎に 今日はOC満ちるリビドー

今だけと いつもクーポン発行し 持たぬ者でも結局割引

A4に 一枚まとめて並べても 余計に目立つ 本学の粗

パンフには 載せても見る者いないよと アカデミックな理念と思想

交通費 出せば来るはず来場者 来たら彼らにお土産を

大学の ことを真面目に考える 奴こそ見ないよウェブサイト

誰が見る クラブ情報最新ニュース 頻度上げろと無理矢理更新

これは何 入試のページに目がかすむ 数多の方式我も分からず

三月の 末に掻き込み浪人の 予備軍まとめて本学に囲え

来る所 避けるが身のため大学の 客引きすなわち高校訪問

無能ほど 誇る話術と営業手法 それを学術いかせば良いのに

ジャンケンに 負けて向かうは県外入試 喜ぶ相棒横目に車中


お題:バスの運転
バスゆかば 大事が小事に思いけり 我はこの地で果てる定めか

嵐でも バスに乗り込み学生を 送り届けて 虚しく誇る

エンジンが 性能アップだスピードが 坂になっても落ちず嬉しき

事故っても 全ての責任我にあり よく見りゃ書いてる契約書

ハンドルを 握るその手に学生の 命あるぞと言われ発狂

大橋に 向かえば高鳴る胸の内 風に吹かれてハンドルが逝く


お題:学習環境の充実
書き方を 教えたところで書かせれば 覚えていないと なぜか恨まれ

ラーニング コモンズ作れど学生は まどろみ充電 眠珀の雫

意味のない 資格の山を築き上げ 追われる業務も築き上げ

質問紙 授業を評価と奮発し残業疲労が蓄積し

役立つ知 それが大事と張り切る師 オススメ教材写メのクラウド

諦めて ビジネススタイル取り入れた 喜ぶ学生死ぬ未来

成果出ず 高額予算がドブの中 されども止まぬ改革の囃子

グローバル 蚊帳の外だと思いきや 我らも取り組め無茶ぶりの理事

改革は 強い大学いじめるために 始めたはずだと思っていたのに

FDが 必要なのはお前らだ FD担当浴びる視線は

現場肌 だったら来るなよ大学に 授ける場所が違うだろ


お題:日常
校訓を 声張る喜ぶ理事長を いつか◯すと横目に誓えば

異常なし そんなわけないもっと見ろ なんで異常が正常か

稟議書が こたびも止まった学会の 正規出張来るかその日は

繋がりが 強くなりけり職員室 代わりに失する研究の風

鳴る電話 今直ぐ出頭子の刻に 以後の方針謳う理事長

昼食えば 鐘が鳴るなり さあ掃除 今日は廊下で明日トイレ

研究が 禁止であれども論文は 書けと言われて書ける我

努めれど 望めぬ残念我が力 なれば高めよ間者の道を

金魚のフン 言われる時間は長くとも 最後に笑うぞ今は耐え時



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危ない大学におけるバスの想ひ出
大学について
大学について2
反・大学改革論
反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)
反・大学改革論4(喜んでる教員)
こんな挙動の教員がいる大学は危ない
危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」
こんな大学の教員は危ない part 1

2015年9月14日月曜日

続・危ない大学における格言集

前回の■危ない大学における格言集の続きです.
思いつくままに書いておりますが,なんだか悲しくなってきます.
はやくまともな高等教育ができるようになりたいですね.

(1)バスに乗り遅れるな
危ない大学の教員にとっての “乗り遅れてはいけないバスの席” とは,「運転席」のことを指します.
詳細は■危ない大学におけるバスの想ひ出を参照のこと

(2)余力あるうちに楽な道を歩め
「余力ある今のうちに大学教員らしい生活を楽しんで引退しよう」という高齢大学教員の胸の内.
始末におえないのは,「どうせ近いうちに引退するんなら,思いっ切り大学改革に取り組んで,“私達が日本の大学を変えたんだ” という満足感を得てからがいいな」という思惑を持っている人もいることです.
彼らにとって大学改革とは「楽な道」ですらなく,「道楽」の一つに過ぎません.

(3)もし大学の経営者がドラッカーのマネジメントを読んだら
すると悲惨なことになってしまいました.という大学は数知れず.
というか,まともに読まずに雰囲気だけで斜め読みしていた奴が多かったはず.
せめてドラッカーの思想を正しく汲み取ってくれてさえいればと悔やまれます.

(4)ザ・シークレット〜おびき寄せの法則〜
ドラッカーの『マネジメント』を早々に諦めた大学が使う,ロンダ・バーンがやってるような手法.
とてもじゃないが保護者には知られてはいけないので,ゆえにシークレット.

(5)羊たちの親睦
危ない大学で酷使されている教職員が,経営陣や幹部に隠れて居酒屋で一杯やること.
自分自身は矢面に出る覚悟も根性もないのに,若手を焚き付けて「これからの大学は君たちが背負っていくんだ」とかなんとか言ってる中高年教員が主催することが多い.

(6)幹部らのリスト
これは現幹部や幹部候補者が羅列されたリストではありません.
大学幹部の間で回っている,「謀反の疑いがある教職員」を記したリストのことです.

(7)カマをかける少女
大学幹部や疑心暗鬼になっている教員の密命を受けて,ターゲットとなる男性教員に近づき「新しくできる◯号館って無駄じゃないですか?」「この資格,取っても意味ないってお母さんが言うんですけど」「◯◯先生と喧嘩してるんですか?」などと質問をする女子学生がいます.
飼い主に報告が行きます.気をつけましょう.

(8)ターミネーチャン
学園理事長・秘書のこと.
こちらは上述した小娘と違い,能動的にターゲットを探しだして抹殺しようとする.
少なくともマルサの女や歌舞伎町のネーチャンよりは怖い.
あくまで仕事でやっている人たちなので,普段はとてもいい人.だと思う.

(9)流刑島からの手紙
経営難ではないものの,規模が大きめの危ない大学では,謀反の疑いがある教職員は島流しの憂いを見ます.
都市伝説だと思っている人もいますが,実際にある話です.
そんな流刑島からの「早く大学に帰りたい」という訴えを含む手紙やメールのことを指します.

(10)鳴かぬなら,死ぬまで待とうホトトギス
現在の文科省と大学の関係性を指す.
逆に言えば,織田信長がどれだけ責任感あるリーダーだったか分かります.

(11)知を捨ててこそ,浮かぶ策もあれ
大学が生き残りのために,教育機関であることを諦めること.

(12)窮地の知
本当に危ない大学になると,驚くような作戦で学生募集が始まります.
類似語に,前回ご紹介した「キレる理事長,焦るきぐるみを走らす」があります.

(13)バカの考え,自爆に似たり
頑張って改革すれば大学が良くなる,と本気で考えている人がいます.
そういう人のことです.

(14)なにしたっていいじゃないか,要請だもの
自暴自棄になった大学教員の心中.
「社会的な要請ですからね〜.仕方ないですね〜」って,自分を皮肉りながら仕事しています.

(15)同情するなら人をくれ
願望.
学生募集の意味としても,人事的な意味としても.

(16)学生募集とは,99%のハズレと1%のヒットである
とにかく訪問校は多ければ多いほど良い.事前の巡回準備がモノを言います.

(17)大学ノ興廃此ノ一戦ニ在リ,各員一層奮励努力セヨ
オープンキャンパスとか高校訪問のときの経営陣の胸の内.
興廃もなにも,すでに荒れ果てているのですが.
「此ノ一戦」とか言いつつ,年中開催されるのも特徴.
ようは,常に120%の力を出し続けろという意味.

(18)動機明朗ナレドモ学高シ
本学のアドミッション・ポリシーに合致していて目的意識に富んでいるけど,どうやらペーパーの成績が良いから他校へ逃げられる可能性があるぞ,という志願者を指す.
危ない大学だと動機さえ明朗であれば(そうでなくても)合格できるから.

(19)あきらめたらそこで募集停止だよ
危ない大学関係者の耳元で囁くと発狂するので注意を要する.
いっそ,本当の意味で「危ない大学」なら募集停止してくれた方が世のためかもしれない.

(20)肉を切らせてそれを焼く
ようするに「大学ブランド」の切り売り,シュラスコ状態のことを指す.
「ね? おいしいでしょ?」とか言いながら豪快な焼肉パーティーを開催してるんですけど,でもそれって自分たちの身を切って与えているものでしょ,しかも誰も得してないし.っていう.
だけならまだしも,「肉が無くなりゃ骨を煮る」ってことで,スープを取ってたりする.

(21)案がなければ,景気よく動けばいいのに
って言われているのが危ない大学の教員.

(22)ゆく人の流れは絶えずして,しかも,もとに戻ることはあらず
危ない大学の教員は着任しても直ぐ辞めるし,再任したがる者はいないということ.

(23)正門の薄いトンネルを抜けると受付であった.頭の中が白くなった.記帳所に足が止まった.
受付の席からおばさんが寄って来て,私の前の応接窓を叩いた.心に冷気が流れこんだ.おばさんは窓いっぱいに寄りかかって,遠くへ叫ぶように,
「理事長さあん,理事長さあん.」
赤いネクタイをさげてゆっくり絨毯を踏んで来た男は,ポマードで頭の上をわずかに包み,襟に校章バッジを付けていた.
っていうのが典型的な危ない大学.

(24)校訓唱和の鐘の声,所業無情の響きあり.ソメイヨシノの花の色,人気度絶対の理をあらはす.おごれる金もありはせず,ただ春の夜の割り勘に哀し.熱き者も遂に諦め,ひとへに風の前の灯火に同じ.
危ない大学における年度初めの朝礼の様子を示したものです.


2015年9月11日金曜日

危ない大学における格言集

危ない大学によくある話を,格言集のような形で羅列してみました.
「さながら,ことわざを変えて言うところの「◯◯◯」って感じですよね」
などと使用されることがあるものです.

(1)能ある鷹は爪を隠せず
危ない大学においては,「のんびり教育研究をしてよ〜っと」なんて悠長なことはできません.
いびつな構造から生まれる虚しいシワ寄せ業務が発生するのですが,そこではどうしても無能/有能が目立ってきてしまうのです.
それでもなんとか効率よく仕事をこなしたい,という人々の思惑が交錯した結果,そんな大学では有能な人に業務が集中するという現象が多発します.
その一方で,「皆がセカセカと苦しんでいる中,俺は上手く立ちまわって仕事を回避しているんだ」ということを自慢気に話す教員もいますが,実はそういう人ってかなり無能な人で,本人に気付かれないように周りが仕事を回していないという場合がほとんどです.

(2)見切るべきか残るか,それが問題だ
いびつな構造から生まれる虚しいシワ寄せ業務に疲れた教員が考えること.
もっとも,実は既に見切りをつけていたりするのですが,かわいい学生の顔が頭に浮かんで思い切れずにいる.そんなところです.

(3)やってみせ,言って聞かせて,させてみせ,褒めたところで人は動かじ
なぜかそんな教職員がヌクヌクと生きているのも危ない大学の特徴です.
不思議です.
疲れます.

(4)笑って馬謖を切る
危ない大学においては有能過ぎても睨まれます.程よい能力の者が重宝されるのですが.
馬謖を蹴落とせたことを喜んでいる様を指します.

(5)人を見たらスパイと思え
泥棒もスパイも変わりないとも言えますが,そんな大学では人を信じてはいけません.
学生だって怪しいものです.特に男性教員は学生くノ一に気をつけましょう.
とにかく経営陣の意にそぐわないことや,「組織」に反発していると疑われる行動は厳に慎みます.

(6)電話に耳あり,ネットに目あり
そういう大学に奉職されていた先輩から,「やれるけどやっていないだけ」とお聞きしました.
それ以上詳しくは申しません.私も自分の身が可愛いので.

(7)疑わしきを罰しちゃった
そんなスパイや盗◯からの情報を得て,経営陣は自分たちに謀反を企てている「疑わしい教職員」を見つけ出そうとします.
腐っても教育機関ですから,疑わしいというだけで教員を処理することはありません.ところが,そんな大学では「罰する」ことへの閾値がとても低いんです.
何の事はない,自身が怯えていることの裏返しでもあります.
でも,なんだかんだ言って「疑わしいだけで罰した」という罪悪感のようなものは持っているようで.そんな切ない空気が漂うのが危ない大学でもあります.

(8)親の居ぬ間に洗脳
オープンキャンパスの戦術の一つです.
大人にとってはバカバカしい広告戦術も,子供だけの空間なら騙せるかも.ということで開始される作戦のことを指します.
「ご父兄の皆様を対象とした説明会はこちらで開催します」ということで親子を離してからが勝負となります.

(9)キレる理事長,焦るきぐるみを走らす
ある意味,オープンキャンパスの戦術の一つです.
「今回のオープンキャンパス,いまひとつ盛り上がってないねぇ」という理事長の一言に焦った教職員が,きぐるみを着て学内を走り回る様を指します.

(10)部室に入らずんば生徒を得ず
高校訪問における戦術の一つです.
進路指導の先生と話すだけでは生徒募集につながりにくいものです.よって,部活動をしている生徒をトロール漁業のごとく水揚げすることが「高校訪問」の真髄になります.
目当ての部室に押しかけ,部活の顧問や監督,生徒と直接話すことで生徒募集につなげようとするテクニックです.

(11)二兎追って四兎を得よ
高校訪問における戦術の一つです.
一人,二人と釣れたら,「お友達にもうちを紹介してみてよ.皆で一緒にキャンパスライフを送ろうよ」と言ってたりします.
マ◯チ商法みたいなものです.

(12)遠くの志望者より近くの高校
出願者・入学者募集活動におけるコスパ感覚のことです.
一般的には「地域に密着した大学」とか「親近感のある大学」ということを売りにしようとします.
何の事はない,そういう大学は周辺地域からの学生がメインターゲットにならざるを得ないだけのことです.

(13)触らぬ文科に祟りなし
危ない大学の教員が文科省にたてついたところでマイナスの作用しかありません.補助金を出すのは彼らですので.
文科省の依頼や通達がどれほどバカバカしいものであっても,生き残りのため素直に受け入れることが大事だという諦めを指します.
ただ気をつけなければいけないのは,「触らぬ文科に祟りなし」を合言葉にしながらも,実は文科省がやろうとしていることに賛同している教員もいることです.
「文科は我々のことを分かっていない」などと言っているその実,文科省の方針に従っておけば自分自身の身の安全が保障されるという教員が一定数います.

(14)笑う職場に鬼来たる
楽しく仕事ができたら幸せですよね.しかもそんな職場こそ高いパフォーマンスを発揮します.
ところが,危ない大学に限らず,少なくない組織では「なんで俺がツラい目にあっているのに,笑って仕事をしている部署があるんだ」という妬みが発生します.
その結果,快適な仕事をしている部署や教職員に「もっと仕事を増やして皆と一緒に苦労しろ」ということで無意味に仕事が舞い込むようになります.
で,全体のパフォーマンスはさらに下がる,という顛末.

(15)改革を恐れてはいけない.大学に必要なのは,勇気と想像力.そしてほんの少しのお金だ
そうやって高等教育をメチャクチャにしてきた尖兵が,危ない大学.

(16)バカがリスクをしょってくる
詳しく話し出したら長くなるので割愛しますが,ようは,自分とこの大学の規模に合わないプロジェクトや,どう考えても教育上の必要性が無く,流行りに乗っただけの企画を立てたがる経営・運営陣がいます.
それのことです.

(17)二度ある事はずっとある
「これは教員である◯◯先生にお願いするのは忍びないのですが」という業務が依頼されることがあります.
最近の若手教員なら尚の事,「いえいえ,構いませんよ.全く気にしませんから」ということで引き受けたりするのですが,そういうことが続くと,それからずっとその業務を任せられることになったりします.
そんなの続けると研究活動や授業計画に差し障りが出るぞ,という危惧を感じたら,なるべく引き受けないようにしましょう.中・長期的な目で見た場合,その大学を「見切る」時の足かせになったりもしますから.

(18)吾輩は先生である.専門はまだ無い.どうしてここに呼ばれたかとんと見当がつかぬ.昔は華やかなワイワイした所でバリバリ働いていた事だけは記憶している.吾輩はここにきて初めて学者というものを見た.
そんなのが大学教員として教鞭をとっていたら,危ない大学.


関連記事
危ない大学におけるバスの想ひ出
大学について
大学について2
反・大学改革論
反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)
反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)
反・大学改革論4(喜んでる教員)
こんな挙動の教員がいる大学は危ない
危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」
こんな大学の教員は危ない part 1

2015年9月10日木曜日

井戸端スポーツ会議 part 24「映画:コーチ・カーターの感想」

ブログ記事のネタに困ってしまったので,映画レビューをしてみようと思いました.
せっかくなのでスポーツ系&教育系の映画で.
今回はこちら.
映画:「コーチ・カーター」(wikipedia)

ネット配信されているものをなんとなく観てみたら,意外と考えさせられることが多くて素直に面白かったです.
この映画,リッチモンド高校におけるケン・カーター氏の実話に基づく物語とのこと.
ネタバレを含みつつ楽しみを奪わない程度にストーリーをなぞると,
アメリカの教育困難校の一つであるリッチモンド高校のバスケットボール部の監督にケン・カーターが赴任する.
犯罪多発地域でもあるこの高校の生徒には問題を抱えた生徒が多く,バスケ部員もその例外ではない.
学力も低く,進路もままならないバスケ部員に対し,カーターは卓越した指導力で彼らを “とりあえず” 強豪チームに育て上げる.
しかし,カーターがバスケットボールのクラブ活動を通して彼らに伝えたかったのは「試合に勝つこと」だけではなく,より良い人間になるにはどうすればいいのかを考えさせることにあった.
試合後,勝利に沸きハメを外して怒られた部員の一人が言う.「監督,俺達は勝っただろ.それを望んでいたんじゃないのか?」
それを聞いたカーターはある行動に出る.それは保護者や市民からの苦情が殺到し,マスコミが押し寄せ,監督解任を迫る事態となってゆく.
というもの.
単純に学校スポーツにおけるサクセスストーリーというわけではなく,どちらかと言うとスポーツではなくて高校教育の方が主軸なんだろうと思います.

世間の(ネットの)映画評も「感動した」とか「考えさせられる」ということで概ね良好.
ただ,実話に基づくスポーツドラマですから,どうしてもクライマックスが「実話らしい結末」になるのは仕方ありません.・・というレビューも多いですね.

「スクール・ウォーズ」と「スライムダンク」を足して2で割ったようなこの映画,日本人の感性にも合うのではないでしょうか.
だからこそ,この映画を観て考えさせられたのは,アメリカの腐敗した学校(大学)スポーツ事情を立て直すには,カーター氏のような教育哲学を持った行動家が求められるのだろうな,という点です.

「スポーツを通した人間教育」
私たち日本人にとっては非常に親しみやすいスローガンですが,彼の国はそうではありません.

我々体育系の人間にとって「アメリカ」という国は,スポーツをビジネスとして活用できているモデル国のような存在です.
アメリカのようにスポーツでビジネスをしよう,高いエンターテイメント性を求めよう,効率良く競技力向上できるシステムを構築しよう.
そんな声が日本の体育・スポーツ界で大きかった時代もありました(今も大きめかもしれませんが).

ところが現実を見てみると,アメリカにおける学校・大学スポーツ界というのは華々しい表舞台とは裏腹に,ダークな部分も多くてですね.
それを今回紹介した映画と同じ「高校バスケットボール」で扱ったのが,
映画:「ラストゲーム
です.お時間があればこちらもどうぞ.

強い選手をリクルートするため,より良い環境を作るため,そこではコネ,買収,賄賂なんて当たり前.勝ち残れなかった者に未来はなく,勝ち残った者は広告塔として利用される世界.
日本の高校野球で問題視されているような “不祥事” がカワイイと思えるような世界.それがアメリカンスポーツなのです.

「勉強ができない子供はスポーツで輝けばいい」
そんな言葉を無責任に言い放つ人もいますが,現実,そんなに甘くはありません.
というか,そんな教育を目指したアメリカがどんな国になっているか,そこを考えてほしいのです.

たしかに日本の学校スポーツでは,その教員が専門(得意)としているスポーツ種目以外の部活動を担当しなければいけない,という事情もあって,質の高い指導ができていない部分もあるかもしれません.
それができるのは,一部の恵まれた学校,私立学校だという指摘もありましょう.
ですが,そもそも学校で展開されているスポーツ活動は,一体何のために存在しているのでしょうか.

それはスポーツを通じた人間教育をするためです.
スポーツが教育現場に取り入れられるのは,スポーツという場の中に人間教育をするための材料がたくさんあるからです.
残念なことにアメリカの教育現場では,そして日本の少なくない教育現場では,スポーツがそのように扱われていない.自己顕示手段の一つとして,ビジネスコンテンツの一つとして扱われてしまっている危惧があるのです.

劇中,カーター氏は部員を集めてこう言います.
「私が嫌いなのは,君たちを落ちこぼれにするこのシステムだ」

勉強ができない子供はスポーツで・・・
こういう考え方は魅力的ですが,そのエネルギーの矛先を間違えると取り返しのつかないことになっています.

関連記事はこちら↓
井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」

2015年9月1日火曜日

井戸端スポーツ会議 part 23『東京五輪エンブレム問題に見えるスポーツの危機』

スポーツに関する時事ネタを.
そう言えばスポーツの記事を長らく書いておりませんでしたので.

今回はこれ.「東京五輪エンブレム盗用疑惑」です.
そして案の定,東京五輪のエンブレム問題は以下のように進展したようです.

東京五輪エンブレム、使用中止の方針…組織委
2020年東京五輪の大会エンブレムがベルギーの劇場のロゴマークに似ていると指摘されている問題で、大会組織委員会は1日、五輪、パラリンピック両方のエンブレム使用を取りやめる方針を固めた。
組織委は7月24日、東京五輪とパラリンピックのエンブレムを発表。アートディレクターの佐野研二郎氏(43)のデザインが採用された。だが、五輪エンブレムについて、ベルギー東部リエージュの劇場のロゴマークに似ているとの指摘が出され、マークを手がけたデザイナーなどが国際オリンピック委員会(IOC)に対し、使用差し止めを求める訴訟を起こした。(読売新聞2015年9月1日)
このエンブレムのデザインが「盗用」されたものだったかどうかは不明ですが,ちょっとね・・.あまりに似すぎでしたよね.
そのまま採用していたら気持ちが悪かったので,この判断でよかったのではないかと思います.

一方で,ネットを見る限りではありますが,佐野氏が「盗用」していることが当然かのように糾弾するコメントもみかけます.
証拠があるわけでもないのに,これはこれで気持ちが悪いものです.

さてさて,今回の話の問題点はいろいろあるのですが,私見をいくつか述べてみましょう.
それに,この東京五輪エンブレム問題を掘り下げていくと,日本のスポーツ界に潜む問題が炙りだされるのではないか? と考えられる節もありますので.

まず,このエンブレムのデザイン自体,非常にチープですよね.
私自身,五輪エンブレムのデザインについて関心があるわけではないので,今回のように取り上げられずそのままスルーされていたら気にならなかったことでしょうが,それにしても映えないデザインであることには違いありません.
悪いと言っているわけではありません.良いデザインではないと言っているのです.

というか,逆にベルギーの劇場のロゴの渋さが際立ちます.
今回のエンブレムは・・,なんというか,ダサい.

実際のところ今回のエンブレムは,デザインに興味が強そうな中学生に頼んだら,一番候補として上がってきそうなものではないかと思います.
「かっこいいエンブレムを書いてこい」そう言われたらこれを書いてくるんじゃないかと.
それだけ,目新しさも意外性も親しみやすさもありません.
単純に「これは良いデザインではない」と,そう思わされました.

だから,佐野氏としても「盗用疑惑」が出てきた時点で,むしろそれを理由に「そこまで言われるのであればデザイナーとして恥ずかしい限り.盗用しているわけではないですが,今回は見送らせてもらいます」という感じにしておけば良かったのにと.
本当に盗用でなかったとしても,非常によく似たデザインのものが出てきた時点でデザイナー失格(と見做される)でしょうから.
ましてやオリンピックですからね.目立った批判を浴びないものにする必要はあると考えられます.

そんなこと言い出したら,これまでに “華やかで映えるデザインの五輪エンブレム” なるものがあるんだろうか? というところですが.
そういう「まとめサイト」があったのでご覧になってみてください.
まぁ・・,どれも特別なにかを感じるものはありませんね.ロゴなんてそんなものでしょうし,そんなもので良かったりするんだとも思います.

しいて挙げるとすると,個人的にはバルセロナ大会のデザインが好みなんです.
とは言え,その理由として考えられるのもこれまたチープなもので,
1)物心ついて初めて見たオリンピックがバルセロナ大会だった(つまり思い入れ)というのと,
2)現代スポーツらしいパワフルさやダイナミックさをシンプルに表していること,
3)それに,この大会以降(かどうか専門家でないので不案内ですが),スポーツ系のイベントではこのデザインに似たものをよく目にするようになったから
というものです.
(長野やシドニー,バンクーバーも似てるでしょ?)
当時は,子供ながらに「大きなスポーツ大会のロゴはこういうもの」っていう気がしていました.

私はデザインについて素人ですが,とある芸術評論の先生からお聞きしたのが,
「芸術を評価する基準の一つとして,その意匠が生まれるに至った経緯を顧みた上でその作品にどんな先進性があるか? というのがありますよ」
というものです.
そりゃそうだろという気もしますが,「そこに至った経緯」というのを評価するのってかなり難しいものだと思います.そこに見る者の教養や創造性が求められるのでしょうし.
先進性って言われても,新しくて奇抜だったら良いというものではないですからね.

その上で今回のエンブレムはと言うと.もう既に使い古されているシルエットに色を付けた,というものですね.よく知られているパターンを繰り返したということです.
それだけに,良くも悪くも何も感じるものがない作品なのです.

五輪エンブレムなんて適当なものでいいんじゃないか,そんなふうにも思っている私ですが,やっぱり世界に名だたるビッグイベントであるオリンピック大会のエンブレムには,それなりのものを求めたい気持ちもあります.

私見ではありますが,バルセロナ大会のエンブレムには現代スポーツを扱う近代オリンピックの華々しさを感じます.
そこに至るオリンピックの経緯が「近代スポーツの普及」と「国威発揚」のイベントだったのに対し,これからのオリンピックはスポーツそのものの魅力とダイナミズムを感じるものになるだろうという変化を願った象徴のように見えるからです.
実際,その後のスポーツは(良くも悪くも)そのような流れを生むに至っています.
(試しに上記のサイトで,バルセロナ大会以前のエンブレムを御覧ください.国家的スポーツイベントであるというメッセージが強いように見えませんか? )

では2020年の東京大会では何を願うのか,それがエンブレムにも現れてくるであろうことが予想されます.
それだけに,今回のエンブレムが「ありきたりのデザイン」だったのは,東京大会がそういう大会で構わないのではないかという人々の意識的/無意識的な願いが表出しているのではないかとも勘ぐりたくなります.
言い方を変えれば,現在のスポーツ界,特に日本のスポーツ界は東京大会で何をしたいのか決めかねている,とも考えられるのです.

盗用だとか出来レースだったという話もありますが,それでもデザインを作り選定する側としては,多くの人々から受け入れられるであろうものを用意しようとするものです.
東京大会ってこういうものでしょ? というメッセージをデザインとして形作られた可能性はあり得るのではないでしょうか.

いろいろ書きましたが,別にこれが採用になったからと言って文句を言うことはなかったのでしょうけど.
今回のエンブレムが使用中止になったというのは,素直に喜ぼうと思います.
んで,スポーツのこと,ちょっと本気で考えてみないといけない時期ですね.

2015年8月23日日曜日

こんな大学の教員は危ない part 2

part 1に続き,part 2です.

タイトルですが,「こういう大学に所属している教員は・・」という意味ではありません.
「大学教員」そのものを指しています.
なので,『こんな大学教員は危ない』というのにしとけば良かったと思っています.
が,今さら変えるのも何なんで,そのままにしておきます.

では早速.

(1)タコ焼きやクレープを焼くのが好き
家で焼くだけなら料理好きな教員ということで済まされるのですが,危ない教員は自分の研究室や大学の調理室を借りてゼミ中によく焼きます.
まぁ,ようするにゼミ活動の少なくない時間が,タコ焼きやクレープを食べる「懇親会」になっているのです.
「そんなバカな.ゼミでタコ焼きとかクレープを焼くなんて・・」と思われる人もいるかもしれませんが,これは結構な確率でお目にすることができる大学名物です.

もちろん,年に1,2回なら在り得ない話ではありません.節目節目にゼミでパーティーを催すのはよく耳にします.
もしくは,ゼミの活動以外で.例えば,調査活動や実験が一段落したからってんで「今日はパーッとやるか!」ってことで企画されることもあるでしょう.

ですが,危ない教員はなんの脈略もなく通常営業中にタコ焼きやクレープを焼こうとします.

理由は,学生の機嫌をとりたいからです.
学生の機嫌を損ねたくないだけなら「自信の無い教員」で済まされるのですが,危ない教員は「学生から好かれることが大事」と思っているから危ないのです.

厄介なのは,そういうゼミでは少なくない学生が「◯◯先生のゼミはパーティーが多くて楽しかった」という感想を持って卒業していくことがままあることです.

でも誤解してほしくないのは,ゼミ・パーティーがたくさんあったとしても,ちゃんと学術活動をやっている教員はいます.ですがこれは,ゼミ活動そのものをタコ焼きクレープに充てていたのではなくて,あくまで息抜きとしてのタコ焼きクレープです.
むしろ,息抜きをたくさんしたくなるほどハードな活動であったり,院生や研究生とのつながりが濃ゆいゼミだったりします.

ここで問題視しているのはあくまで,通常営業中のことです.


(2)「納得できる授業」をやろうとする
ちょっと話が難しいかもしれませんが,「納得できる授業」を受けるのは危ないです.
詳細は本文末の関連記事を御覧ください.

大学の授業は納得するためのものではありません.物事を正しく捉えるための考え方を身につけるためにあります.納得できたかどうかと,物事の正否は別です.

その授業を受けて「その事」について納得してしまうということは,それによって「その事」について考えることをやめることを意味します.
なのに学生から好かれたいという一心で「納得できる授業」という不思議なものを目指す教員がいます.そんな教員はダークサイドに堕ちた危ない教員と言えます.

彼らはパワーポイントや配布資料の「デザイン」に凝っていたりします.
解像度の高いインパクトある写真や,奇抜なコピーライトを好んで使用しますので,比較的容易に見つけ出すことができます.


(3)コストパフォーマンスを重視する
そんな概念を持ちだしてきて教育をやられたらたまったものではありません.


(4)「これからの大学は」という話が好き
これからの大学はグローバル,これからの大学は企業の要望とのマッチング,これからの大学は新しい顧客を創造する,などとテーマを用意して好き放題に話したがります.

とてもじゃないですが,一個人が「これからの大学」について論じられるとは考えられません.が,それをやろうとする身の程知らずな教員がいます.
案の定,「これからの大学は・・」というその実,自分が定年を迎えるまでの限られた時間内において,自分にとって都合のいい状況を作り出そうという魂胆からの発言でしかなかったりします.

もしかすると企業や役所などでもそうなのかもしれませんが,こういう手合には意外と御高齢な方々が多いもので.
定年の見えてきた自分たちが,この組織に対し何かをやったという満足感を得るために発言したり取り組んでいるように思えてなりません.迷惑な話です.


関連記事
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2015年8月15日土曜日

中立的な政治教育について

18歳からの選挙投票が始まること受けて,教育現場における「政治」が話題となっています.
特に学校現場における政治的中立や教員や生徒による政治的活動の制限についての意見が目立っているでしょうか.

たしかに,正しいとされるものを「教える場」であることを要求される学校においては,生徒をできるだけ政治的中立な環境に置くことが望まれ,その彼ら自身も政治的活動に勤しむことは控えるべきでしょう.
とは言え,どのような発言や観点であれ,なにかしらの政治的イデオロギーから影響を受けたものですので,一概に「中立」とか「これは政治的だ」と判別することは困難です.

ところで私たちが勤めている大学ではどうかといえば,はっきり言って政治的なものを中立に見たり扱ったり,その政治的活動を制限するということは事実上不可能に近いです.

なぜなら,学術的に物事を考えていくと,必ず物事を抽象化するようになるからです.どのような領域であれ,「世界はこのような法則性で成り立っている」という視座を使って考えることになりますから,それをどこからどこまでの領域に当てはめるのかを決めることは極めて難しい話です.

一見政治とは無関係な学問領域の分かりやすい例として,スポーツにおけるコーチング学を考えてみましょう.
そこでは,選手の能力をより多く引き出すためにはどうすれば良いか? より効率よく強化するためにはどうすれば良いか? といった着眼点から議論されますが,突き詰めていけばそれは「人はどのように扱われたら能力を発揮するか」とか,「どのようなアプローチが効率よく人の能力を高めるか」といった抽象的な話にまで及ぶことになります.
つまり,「人(選手)や集団(チーム)はどのように扱われるべきか」という議論になっていくのですから,こうした論議は政治的な話にも容易に読み替えられることが分かるかと思います.
「いやいや,スポーツの研究はスポーツだけに言えることであって,政治には適用されないよ」と思われるかもしれませんが,スポーツと政治の線引というのは曖昧なものです.
もっと言えば,政治とは形を変えたスポーツ活動であるとも捉えられるわけで,これについては過去記事でまとめたこともありますので興味のある方はこちらをどうぞ.
人間はスポーツする存在である

そのようなわけで,これはスポーツ科学に限らず,社会学や経済学はもちろんのこと,生物学や工学,医学,文学といった領域での学問であっても,それを深めていけば必ず,政治的な論議(正しくは「いかなる領域の論議」)も可能なテーマが発生します
これは学術活動をやっていれば仕方がないことですし,それが学術活動の価値でもあります.

例えば生物学や生命科学の世界では「いつの日か生物は機械のように人の手で作成し,操ることができるようになる」という考え方を持って研究を進めている人がいます.
同様に,「いつの日か人間は・・・」とか,「いつの日かスポーツ選手は・・・」という考え方で研究に取り組む人は多ですし,逆に「いつの日か機械は生物のようになる」と考えながら取り組んでいる分野の人もいるでしょう.
こうした考え方,つまり「自然界のものはいつの日か我々人の手で操作できるようになるはずだ」という思想・哲学によって,少なくない分野の研究は進んでいるのです.

さて,「いつの日か人の手で操作できるはずだ」と考える思想・哲学を社会学や経済学に当てはめたのが,今となっては評判の悪いマルクス経済学です.当時は画期的な業績だということで持て囃されたのですが,現在は悪魔の書のような扱いを受けています.
なぜ評判が悪いのかと言えば,それは「結局,社会や経済は人の手で操作することなどできない.操作できると思い上がって取り組んだ結果,地獄を見たじゃないか」という反省があるからです.

ちょっと脱線が過ぎるので話を元に戻しますと,上記のような理由があるので大学などの高等教育機関では中立的な政治の話をすることはできません.
え? 結局何が言いたいのか分からなかった? たしかにそうかもしれません.

つまり,どのような学問領域であっても中立な政治の見方をすることはできないのです.
一見,政治とは無関係に思う学問領域であっても,その取り組み方には多分に政治的な色や匂いが染み付いています.
そこには各教員や研究者の思想・哲学が入っているのですから,政治的な話題についてもその思想・哲学で向き合うことになってしまいます.

もともと中立的な見方はできないのですから・・,ということでどこまでも偏ればいいのかと言われればそうではありません.
私たち大学教員が学生に身につけてほしいことは,「モノの考え方」です.
それは,目の前にしたモノを正しく捉え,適切に判断する力です.

そこには絶対的に正しい考え方や答えがあるわけではありません.
逆に言えば,いろいろな捉え方や判断があっていいのですが,その捉え方や判断に一定の質が求められます.それだけのことです.
このように口にするのは簡単ですが,このことを本当の意味で理解するのは案外難しいものでして.
例えば大学の授業でも,ちょっと高度なレポートでこの「質」を求めてしまうとかなり厳しい点数になることが多いですね.学生としては,一般的によく言われていることや図書館で調べてきたことをそのまま書いたのに,なぜ点数が低いんだ? と首を捻る場合がこれです.

テレビや新聞で常識的に語られていることであっても,学術的に捉えると大間違いというものは山ほどあります.
だけでなく,その捉え方も研究者によってマチマチというものもあったりしますし.
こういうことを言うと,「それは象牙の塔だけで通じる常識で,実社会では通用しない机上の論理だったりするんだろ」などと皮肉られるかもしれませんが,そのようなものは実際のところ多くありません.
単に,一般の人々の予備知識と思考方法ではついてこれない議論だからテレビや新聞では取り上げないというものです.逆に言えば,予備知識と思考方法が身につけば誰でも議論できることではあるのですが.

そこで重要になってくるのは,「なぜそう考えるに至ったか」という「手順」です.
この手順に信頼性や論理性があるか,その質を評価することになります.
そして,その手順の質が認められる水準にあるのであれば,たとえ自分の思想・哲学と合わないとしても,その考え方をまずは承諾する態度を涵養しているのが大学という教育機関だと私は考えています.

もちろん,その考え方を承諾したからといって即採用を意味するわけではありません.
どうしても納得できないなければ,その考え方を批判するための考え方を再度練ればいいのです.ただし,その批判も質の高い手順に沿う必要はありますが.
そうやって大学の研究も進んでいるのですし.

ダラダラ書いてきましたが,今日の記事で言いたかったのは以下のことです.
「政治的に中立な教育をするべき」ということを良く耳にしますが,私にはこれが胡散臭くて仕方ありません.
政治的に中立的な・・,と言うその実,自分自身の政治に対する考え方にとって都合の良いものを普及させ,都合が悪いものを排除しようという静的な教育観があるのではないか,そう疑っています.

日◯組と呼ばれる組織や,保◯派と呼ばれる人々が教育を語るときが典型です.
そこには,
その考え方に至った手順の質が一定水準にあるのであれば,たとえ自分の思想・哲学と合わないとしても,その考え方を承諾しようとする態度
が不足している,そう思うのです.

さらに言うなら,最近の教育議論に見られるのは,そうした態度を涵養する教育ではなく,何か前もって「正しい」とされているコンテンツを生徒や学生に受け入れさせようとする姿勢が強すぎやしないか,という点です.
もちろん学校教育においては,それも大事な観点だという認識は私にもあります.
しかし,より良い社会を築く国民を育てようとするのであれば,上述したような態度を養う方向性を持った教育が施される必要があるのではないでしょうか.

※その細かい話は以下の関連記事を読んでください.

関連記事
これが身につけば大学卒業
「問題解決能力」を高めることの危険性
学校教育対談

2015年8月9日日曜日

集団的自衛権を巡る議論において賛成派に不足している認識

前回に続き,政治の話題です.
今回は「集団的自衛権」について.

このブログでは大学教育において学んでほしいこととして
これが身につけば大学卒業
「問題解決能力」を高めることの危険性
という記事を書いたこともあります.
そういうところからすると,昨今話題となっている集団的自衛権に関する議論の成され方についても疑問を呈しておかなければなりません.

その疑問とは,
「新しいものは批判的に捉え,その批判に耐える知見を拾い出す態度」
そして,
「問題それ自体を深く掘り下げようという態度」
が不足しているのではないか,ということです.

上記の過去記事では「大阪都構想」を巡る議論を例に挙げて話してみましたが,それは今回の集団的自衛権の議論でも同じように見えます.
今回の集団的自衛権論議というのは,国の安全保障に関わることですので,さらに慎重,且つ,十分な考慮が必要となります.しかし,今回もかなり杜撰なものではないかと思わざるを得ません.

先に立場を明確にするため申し述べておきますと,私は今回の法律の中に集団的自衛権の行使容認を盛り込むことに限っては反対です.

なにも今回の安保関連法案の全てが悪い,反対だと言っているわけではありません.
提出された法案はさまざまな安全保障上の改正や新設がされており,たしかに日本の安全保障に貢献するものも入っているのですが,「集団的自衛権の行使容認」については別です.

違憲の可能性が強く,その必要性が弱い集団的自衛権の行使容認を盛り込まなくても,日本の安全保障の強化はできると考えております.

ところでその法案とはどういうものかというと,
平和安全法制等の整備について(内閣府)
にありますので,詳しくはそちらをどうぞ.

いろいろと書き出してみたらキリがなかったので,焦点を絞って今回の議論における問題点を挙げてみます.

それを端的に言えば,上述したように「現在の日本では集団的自衛権を行使する必要性が弱い」ということです.
もっと言うなら,現在の日本において集団的自衛権を行使できる状態にすることは,むしろ国益を損なうのではないかという懸念があります.

集団的自衛権が必要であるとされる事態として,内閣府が挙げているのは「存立危機事態」というものです.
この存立危機事態はどんな事態なのかというと,
我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
というものですが.

そんな状況,どこにあるのでしょうか.冷静にじっくりと考えてください.
実はありそうで無いのです.

これについてよく目にする事例は,既に何かしらの「存立危機事態」に突入しており,その上で集団的自衛権を行使するための事例だったりします.安部首相が記者会見で説明していた奴がこれです.

可能性のある具体例として挙がるのが,アメリカに対する武力攻撃ですが,これでは日本が集団的自衛権を行使するという事態になり得ません.
なぜなら,我が国の存立が脅かされるほどのアメリカに向けた武力攻撃があったとしたら,それは自動的に日本国内を防衛するための行動をとらなければいけない状態にあるからです.
なぜって,アメリカ軍が駐屯する基地が日本国内にたくさんあるからです.そんな状況において日本は「日本国内のアメリカ基地に向けた攻撃があることに対処する」ため,必然として個別的自衛権を行使する状況になるのであり,アメリカとの共同戦線を張っているはずだからです.
つまり,アメリカと安保を結んでおり,且つ,アメリカ軍の基地が国内にあることをもって,日本が集団的自衛権を行使する状況は存在しないことになります.

次によく聞くのが「(ホルムズ海峡や台湾海峡等の)シーレーンの確保のために必要だ」というものですが,これも集団的自衛権を云々することとは無関係です.
日本のシーレーンが確保できなくなったのであれば,それはすなわち日本の個別的自衛権を発動する事態です.集団的自衛権ではありません.

例えば日本のシーレーンが脅かされたとして,そんな時アメリカがそこに介入して機雷敷設を含む武力攻撃を受けてしまったため,それについてアメリカがSOSを出してきたので日本の集団的自衛権を行使しようかという事態になったとしましょう.

さて,そんな事態で日本は自衛隊を派遣なんかするでしょうか?
日本の世論感覚であれば,「ふざけるな.アメリカが勝手に火に油を注いで炎上しただけだろ.もっと穏便に事を進めれたはずだから今回は自衛隊は派遣しない.アメリカの尻拭いなんかしない!」という反応になると予想されます.
そうは言っても次に来るのがアメリカからのこんな要求です.「とは言え,事態が次のステージに移ったのだから仕方ない.お前のところのシーレーンでもあるのだから,一緒に対処しようゼ!」って.

これについてどんな返答をするかで日本の肝っ玉がわかると思いますが,いずれにしてもこの状況では日本は集団的自衛権を行使しません.あくまで「日本のシーレーンを確保するために」個別的自衛権を行使することになります.
「いやいや,そういう状況では各国とも助け合って対処するのだから,集団的自衛権が・・」という突っ込みもありそうですが,個別的自衛権を掲げて事態対処をしている時点で,集団的自衛権もクソもないのです.

おそらくこの手の話題というのは,共同戦線におけるルールや集団安全保障の議論と混同しているのではないかと思います.これについてはよく目にする勘違いですので,wikiとかググってもらえれば詳しい記事やサイトがあります.

そもそも内閣府が出してきた定義は矛盾以外の何物でもないのです.我が国の存立が脅かされる事態になっているのですから,それは集団的自衛権ではなく個別的自衛権を行使してしまえばいいわけですから.
アメリカ本土だけ集中的に攻撃されるけど,日本国内は安全だという状況を想定することは非常に困難ではないですか?

これについては,やや左翼的な邪推になってしまいますが,「集団的自衛権」それ自体を法律として盛り込みたいという願望が強過ぎて,個別的自衛権の行使の範疇にあるものを集団的自衛権として行使できるものとしてしまった.だからこんな矛盾した定義になってしまったのではないかと.
もしそうであれば,「集団的自衛権を実際に行使することが前提で法律を作ったんだろ」と言われても仕方ありません.

「おい,そりゃそうだろ.集団的自衛権を行使したいから今回の法律を作ったに決まってるじゃないか! 集団的自衛権は持って然るべき権利だ!」と言われるかもしれませんが.
となるとやはりここで,先ほど確認した大きな疑問点が浮き彫りになるのです.
日本は集団的自衛権が行使できる状態ではないのに,なぜそれを行使できる法律を作っているのか? ということです.

そこから導かれるのは以下のような想定「だけ」と言わざるを得ません.
それは,「集団的自衛権の名のもとに,自衛隊が武力行使する状況を作りたいから」です.
それ以外の状況は在り得ないでしょう.

繰り返しますが,日本は自らの意志で,
「カクカクシカジカの理由により,我が国は集団的自衛権を行使する」
という主体的判断をする状況はそもそも存在しないのですから,可能性としてあるのは,
「カクカクシカジカの理由により,我が国は集団的自衛権ということにして武力行使する」
という場合だけなのです.

だとすれば,我が国が集団的自衛権という権利を「使えるんだぞぉ」と振りかざしたところで,何の意味もないどころか害悪を生む可能性があるとしか思えません.
もっと言うなら,害悪を生む可能性しか付加されないのです.

抽象的な結論を先に述べれば,
現在の日本は集団的自衛権を行使したりしなかったりといった主体的判断ができる国ではない
のです.だから私は反対の立場をとっています.

そんな国が集団的自衛権を行使容認するような憲法解釈をし,法律を作ったらどうなるか.
「我が国と密接な関係にある他国」に振り回される “しかない” のは当然の帰結でしょう.
だってその逆はないのですから.

もちろん建前上は主体的判断をすることになるのでしょうが,その判断や決断は,
現在:集団的自衛権を行使できない or 個別的自衛権を行使する
というものから,
今後:集団的自衛権を行使する or 個別的自衛権を行使する
というものに変わることを意味します.

これは逆立ちしたって現在の方が自衛隊を日本の都合に合わせて運用できることが分かるはずです.

勘違いしてほしくないのは,冒頭でも述べましたように,安全保障の強化は進めていくべきと考えています.むしろ今回の安保関連法案にしたって,自衛隊の行動にもっと自由と権限を与えたほうが良いと思います.

私にも何名か自衛隊の友人がおりますので尚更そう思うのですが,彼らが働きやすい場,納得して働ける場を用意しなければいけない.それが国民に求められる安全保障を議論するための姿勢ではないでしょうか.
逆に現在のそれは,まるで自衛隊員を将棋やチェスの駒のように見做し,国際関係における取引材料のように語っているようで不愉快とも言えます.

ついでに言うと,現政権とそのトップにいる人物の言動はとにかく信用できません.
口では「戦後レジームの脱却」などとのたまわっていますが,やることなすこと「戦後レジームの完成」を目指しているとしか思えないからです.
だいぶ昔の記事■英語教育についてとかでも触れていますが,いよいよ直視できないほど痛々しくなってきました.この人達,実は「我が国と密接な関係にある他国」の工作員ではないかと.

ところで,日本は永遠に集団的自衛権を行使してはならないと言いたいわけでもありません.
例えば遠い将来,「我が国と密接な関係にある他国」の軍事的優位性が低下して,日本が主体的な国防を演じなければいけなくなった時には,それまでのことが無かったかのように「集団的自衛権を行使するか否かは我々が決めるのであって・・・」とドヤ顔で語れてればいいのです.

そのために今できることは,様々な事態に個別的自衛権として対処できるよう自衛隊を増強しておくことでしょう.
場合によっては核武装も考えておくべきでは,ということで意外とタカ派な私ですので,どっかのシー◯ズなどとは一緒にはしないでください.

集団的自衛権の行使容認に賛成している人にも勇ましい意見を言う方々が多いとは思いますので,自衛隊の更なる強化について共に訴えていこうではありませんか.
・・・と思っているのですが,
安倍首相は、集団的自衛権の限定的行使などに向け、「現時点では、自衛隊
の態勢や防衛費の見直しを行う必要はない。現行の防衛大綱や中期防衛力整備
計画を見直すことは考えていない」と述べ、即座に自衛隊の態勢を強化する考
えはないことを明らかにした。(読売新聞2014.7.15)
そんなわけで,やることなすこと「戦後レジームの完成」のために徹底しているのです.

2015年8月6日木曜日

大学における国旗国歌

この季節,「国家」とか「人間」だとか「世界」といったキーワードで政治的な話が展開されることが多いものです.
なので私のブログでも,こうしたことを意識的に何本か取り上げてみようと思います.

今回は「文部科学大臣が国立大学の式典で国旗国歌を取り入れる要請」の件です.

「国立大学は国立の大学なんだから,その式典では国旗掲揚,国歌斉唱くらいしましょうよ」
今年の4月にそんな話が持ち上がって,その後,6月16日に全国の国立大学の学長が集まる会議(国立大学法人学長・大学共同利用機関法人機構長等会議)で,実際に大臣の口からそのような要請があったそうです.

だいぶ昔の話題なのですが,大学とは何を目指した教育機関なのか,国旗国歌に関する教育といった事について私なりの見解を述べようと思います.

事の発端とされているのはコレ↓
首相「新教育基本法にのっとり実施されるべきではないか」国立大の国旗掲揚や国歌斉唱(産経新聞webニュース)
改正教育基本法では「国を愛する態度」を養うことなどが教育目標に掲げられている。次世代の党の松沢成文幹事長に対する答弁。
ということですが,教育基本法のどこをどう読めば「大学では国旗掲揚,国歌斉唱がされるべき」と読めるのか,ちょっと私には分かりません.
ちなみに教育基本法はこちら→教育基本法(平成18年改正)
この問題のことを考えてみたい人はそれを御一読ください.

さて,先ほどのニュース記事に戻りますと,
松沢氏は「国歌斉唱に至ってはほとんどの国立大学が実施していない。税金で賄われている以上、国旗掲揚や国歌斉唱は当たり前だ」と迫った。
ということだそうです.
この次世代の党の松沢氏に限らず,「税金で賄われているから国旗掲揚,国歌斉唱が当たり前」という理屈をこねる人は多いものです.
中には,「日本の大学であれば国旗掲揚,国歌斉唱は当たり前.国立大学に限らず,私立大学も取り組むべき.私立大学も税金が入ってるだろ」
という主張をされる人もいます.

これについては,「大学の自主性,自律性が守られるべきだ」という反論が多いですね.こうした政府からの要請というのは,大学に対する「圧力」になるのではないかという懸念があるからです.

「国旗国歌の要請が圧力なんかになるわけないだろ!」という突っ込みもあるのですけど,これについては文部科学大臣の記者会見での答弁が参考になると私は思っています.
以下は,文部科学省HP内にある記者会見録からの引用です.
記者)16日は大臣から口頭で、そういう御要請をされたのですか。
大臣)そうですね。それだけを申し上げるわけではないですけれども、今国立大学に関係する大学改革は、いろいろなスピード感で進んでおります。もちろん各国立大学もそれぞれの時代の変化の対応に危機意識を持って、いろいろな大学改革、学部改革を進めていることもたくさんありますが、そういう意味で、是非大学の先生方にも改めて、これからの時代がどうなるかということを共通認識を持つ中で、各大学がそれぞれ生き残りのために、どんな創意工夫が必要なのかということを、トータル的に文部科学省として考えていることについて、私の方からも説明をしていきます。それを実際に取捨選択なり、取り入れるかどうかは、それぞれの大学の判断でありますが、今の置かれている状況、それから文部科学省の考えている政策等について、説明をしていく予定であります。
いろいろ言っていますが,これってつまりは「圧力」ですよね.
「どこが?」って言われましても,そんなことダイレクトに発言するものじゃないのでそこは行間を読んでもらいたいのですが,特に濃度が高いのは以下の辺りです.
「これからの時代がどうなるかということを共通認識を持つ中で、各大学がそれぞれ生き残りのために、どんな創意工夫が必要なのかということを、トータル的に文部科学省として考えていることについて、私の方からも説明をしていきます」

上記を私なりに解釈すれば,
「生き残りをかけた競争をしてもらう時代になるので,生き残りたい大学は我々文部科学省の寵愛を受けられるようにしとけよ」
ということです.

スーパーグローバル大学にしてもそうなのですが,とにかく「私たちが思いついた教育方針を全国一律でやってもらえないのであれば,君らのところにはお金は出さないよ」という態度で大学教育を進めたい,そんな思惑が透けて見えるのです.

つまり,表向きは大学の自主自律を謳いながら,結局は世論が望む「大学」へと改革させることで,世論・大衆の支持を得たいということなのです.

大学は世論や大衆の支持を得て教育をしてはいけません.

逆に,大衆を一人の自律した教養人へと教育することが大学の使命だからです.
大衆からの支持を得る大学など,それはもはや大学ではない,そう言ってもいいでしょう.
それ故,大学には教育研究の「自主性」「自律性」が守られているのです.
決して,「自主的,自律的にやったほうが研究成果を上げやすい」とか「ユニークな卒業生を育てるには自主的,自律的な教育のほうがいい」などいう,損得勘定を元にした軽薄な理由ではないのです.

そういう大学教育の根幹に関わることが分かっている政治家であれば,どれだけ大衆から「もっと大学を改革してくれ!」という要望があろうと,それが票になろうと,倫理の観点から手を付けないはずです.
ところが,冒頭のニュース記事にあるように,いとも簡単にホイホイ取り組んでしまう.自分たちが何を言っているのか分からないか,それが正しいと信じているか.いずれにせよ世も末です.

実のところ教育基本法にのっとっていないのは,あなた達の方ではないか?
っていうか,教育基本法を読んだことあるのか? と,そういうことなのです.

こういう意見に納得してもらったとしても,今回の件については以下のような反論もあるでしょう.
「だからって,それは大学への国旗国歌の要請がダメだということとは別だ」「日本の大学なのだから,国旗国歌は当たり前ではないか」というものです.

私個人としては国旗掲揚,国歌斉唱に取り組むことに抵抗はありません.どちらかと言えば私は保守主義者的な側面があるようですので.
しかし,こと大学においては「日本の大学だから」「税金を使っているのだから」という理由をつけて大学に国旗国歌を要請することには抵抗します.
それこそ各大学の判断に任せればいいのです.

もっとも,これについては文部科学大臣も「そのつもり」というコメントが出ていますが,だったら最初から国旗国歌の要請などしなければいいのです.

「日本の大学なのだから,日本の国旗国歌を」という想いも分からんではありません.
私も過去記事では「日本の大学は,日本独自の学術性を紡ぐことを目指すべきだ」という事を何度も書いています.
ですが,日本の大学であることと,日本の国旗を掲揚し,国歌を斉唱させることとは別です.一緒である理由がありません.

学校において児童生徒に国旗掲揚,国歌斉唱をさせるための理屈は通ります.
日本人としての基礎知識,一般的行事としての振る舞い方,そして国際社会において「国旗国歌」がどのように扱われているのかを教えるためです.
ですが,大学はそういう場所ではありませんし,そういう場所になってはいけないとも思います.

ちょっと極端な話をしてみましょう.誤解無きよう,以下を冷静に読んでください.
一般的な大学における教育研究というのは,あらかじめ教えるべき内容が用意されていて,それを忠実に学習するといった場所ではありません.
さまざまな事柄について,その捉え方や考え方がまるで正反対である教員や研究者が集い,そこで学術的なモノの考え方と議論の方法を学習し,最終的には自律して学び続ける教養人になってもらうことを目指しています.

それ故,国旗国歌に関しても,教員や研究者によってその捉え方や考え方はいろいろあるわけです.
端的に言えば,現在の国旗国歌に異を唱えていたり,国旗掲揚や国歌斉唱をすることが日本にとって正しい行いとは考えていない教員や研究者が存在することが前提になっているのです.

こういうことを言うと,「そんなことだから国旗国歌を蔑む奴が多くなるんだ」とか「大学教員には左翼が多いんだろ」とか,果ては「国旗国歌は理屈抜きに大事なんだ」と熱り立ってしまう人もいるでしょう.
ですが,大学は「理屈」を考えるところです.その国の一般常識や方針を学ばせるところではありません.
さまざまなテーマについて学術的なルールや手順で議論させ,より良い理屈を探し続ける場所です.

そのようなわけで,国旗国歌の在り方にネガティブな考えを持つ教員や研究者もいて,そういう教育研究も許されてはいるのですが(その存在自体が気に入らないという人もいるでしょうけど).
しかし今のところは国旗国歌にポジティブな考えを持っている教員や研究者の意見の方が理屈として強いので,その結果,“現在の日本国民の国旗国歌に対する考え方” が形成されているというところでしょう.

さらに極端な話をすれば,今の日本や世界においては「国旗国歌」はこのような扱いを受けていますが,あと100年200年後には,現在はマイノリティである研究者の意見を参考にするような時代が来るかもしれないのです.
その時には日本独自の「国旗国歌」に関する学術的理論として注目されるのかもしれません.

最後に・・・,
これも誤解無きよう読んでほしいのですが,そもそも,教育現場で国旗国歌に触れる機会を増やす理由の一つが「愛国心を育てる」という事に疑問があります.

国旗国歌に理解があることと,愛国心があることとは別ですよね.
これって余りに当たり前な理屈だと思うのですが,それこそ「理屈」抜きに国旗国歌が大事だと訴える人の耳には入ってくれないようです.
それでもこの「国旗国歌への理解を深めれば,愛国心が育つ」という奇妙奇天烈な主張は一定の支持を得ているようです.不思議ですね.

例えば私の場合,君が代を歌うことなどほとんどありませんし,日の丸を掲げることなど皆無ですが,日本には強い愛着があります.私の今の仕事にしても,日本のためになるよう配慮したいと思っています.
むしろ,街中を日の丸を掲げて練り歩いている人や,なんでもない時に君が代を大声で歌っている人を見ると寒気がします.あれは本当に「愛国心」なのか? と疑問に思うものです.

日本人なのですから,自分の国の国旗国歌を知っておくことは大事です.
ですがこれは,何かにつけて「歌え」「掲げろ」と指示を出すようなものではないと思うのです.

そんなわけで,今回の「大学における国旗国歌」に対する私の違和感というのは,
1)国を思うことと国旗国歌には関連性が無いにも関わらず実施させようとしている
2)国旗国歌の是非や在り方そのものを議論する場に成り得る大学に注文をつけた
ということにあります.
特に2つ目については,一般の人なら勢い余ってやりかねない過ちですが,いくらなんでも首相や文科大臣がやっちゃだめでしょ,というものです.

別に国旗国歌を認めないなんて言ってるわけではありません.やってることが稚拙だと言っているのです.

あと,私基準の典型的な日本人としては,「国を愛する」なんて恥ずかしい言葉は嫌うのではないでしょうか.気味が悪いし.
日本人は,「I love you」は「月が綺麗ですね」と訳すものです.

2015年8月1日土曜日

学校教育対談(2回目)

今年も,このブログでは何度かご紹介している和田慎市先生と教育対談をしてきました.今回は都内で高校教諭をやっている私の後輩も交えて,新宿でお酒を交わしながらの会でした.

現在,和田先生は定年退職されていますが,これまでずっと高校教師として教鞭をとられていた方です.
現場の教師の立場から,地に足をつけた学校教育の論議を展開したいという思いで書籍を上梓されています.
※和田先生のご著書は本文末でご紹介していますので,ご関心のある方はお読みください.

和田先生の主張を一言で言えば,「教師も生身の人間.出来ることと出来ないことがある.現実性のない理想論だけで教育現場の事を語られても,むしろ害悪の方が多い」ということでしょうか.
その上で,学校で繰り広げられる様々な問題にどのように対処するのか? という事を論じられる方です.

現役教員をサポートしたいということで,以下のようなウェブサイトも立ち上げております.
先生が元気になる部屋

そんなわけで,ということでもないのですが,現役高校教員を交えた今回の対談.
教育困難校で働く私の後輩の質問に,和田先生が真摯にそして熱心に答えていたのが印象的です.
数々の修羅場をくぐり抜けてきた和田先生のアドバイスに,私の後輩も非常に満足しておりました.

例えば,若手教員がベテラン教員の指導スタイルに口を挟まなければいけない時,どうすれば円滑で最適な状況作り出せるのか? といった話題があったのですが,こういうのって頭では分かっていても実際に行動にするとなったら難しいことです.

教師も人間ですし,それぞれに様々な性格や信念を持って,それぞれの生活をするために仕事をしている集団ですから,そこらへんを上手く考慮した方略が求められるところです.
学校の先生というのは,ほとんどのことに一人で対処しなければなりませんから,若手教員がこういったアドバイスをもらえる機会は貴重なものとなります.

今回の対談で共有できた話題の一つに,多くのメディアと世論が形作る「教育問題」の語られ方が劇的に改善するということはないだろう,というものです.
ボチボチやっていきましょう・・,とそんな話で盛り上がりました.

むしろ危険なのは,今の学校や教員が抱えている “悲壮な実態” にメディアや世論が感化されて,今度は逆に「学校の先生って大変なんだ」「先生たちがかわいそう」「学校や先生を守らなければいけない!」なんていう感想やコメントが頻発する状態にになることの方です.
これはこれで問題だと考えています.

なぜかというと,今,私や和田先生が学校教育問題について,
「教育現場をないがしろにした議論をしてはいけない.学校(大学)や教員がおかれている立場は大変なんだ」
という主張をしているのは,あまりに現実離れした理想論が過ぎる教育論議の現状を憂いてのことです.このまま放置していると,真っ当な教育ができなくなってしまう,という危機感からなのです.
決して,学校や教員を「守ること」が大事だというつもりはありません.

和田先生が目指しているのは,一人の立派な国民,真っ当な社会人を育てる学校教育と,それを可能とする「職場」です.生徒と全力で向き合える職場があれば,きちんとした教育は自ずと達成されるというわけです.
決して「学校教育はこうあらねばならない」という理論を展開したいわけではないのです.

人は人をみて育ちます.
制度やルールによって育つわけではありません.
であるならば,そこで働いている人が生き生きとできるような環境を準備することが大切なはずです.



和田先生の書籍はこちら↓
(Amazonではよく在庫切れになるので,タイミングをみて購入してください)
 

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