2015年7月11日土曜日

「問題解決能力」を高めることの危険性

微妙に.
ホントびみょ〜に時間がとれない日がひと月近く続きました.
メチャクチャ忙しかったわけではないのですが,なんとも微妙にブログ記事を書く気になれない状態でして.
そんなわけで久しぶりのブログです.ご無沙汰しております.


さて,以前にも,「最近ブームの問題解決型の学習には “問題” がある」という趣旨のものを何度か書いたことがあります.
面倒なので探しませんでしたが,きっとどっかにあると思います.

今日のテーマはその「問題解決型の学習に潜む危険性」です.
結論を先に言いますと,
昨今注目されている「問題解決能力」を過度に重要視したり,それを高めようとする「問題解決型学習」を礼賛する風潮がはびこると,本当の意味で問題解決できない人材が大量発生する可能性がある
ということです.

問題解決型の学習というのは,最近(実はかなり前から)注目を集めている授業方法の一つで,生徒・学生が自ら問題意識を持つことによって,その問題について能動的に解決しようと取り組むプロセスに学習効果を期待しようとするものです.

問題解決型〜〜と言われるくらいですから,問題解決能力を高めることが期待されており,まさにこの「問題解決能力」を要求することがブームになった社会(日本社会や企業)の要望とも合致するので,なおさらその効果が期待されているのが現状です.

それを解説したウェブサイトは,例えば,
問題解決学習(←Wikipedia)
http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/pisa2012_result_ps.pdf(←文部科学省PDF)
などです.詳細はそちらをどうぞ.

問題解決型の学習によって得られる学習効果としては,
(1)問題を発見する力が身につく
(2)問題を解決するための力が身につく
(3)問題が解決できたかどうか評価する力が身につく
というものが挙げられます.
日常生活,もっと言うなら人生そのものが常に「問題」を解決しようとすることの連続だとも言えますから,ただ単に知識を詰め込むだけの学習よりも実践的で重要な学習だとされています.

すごい!最強の学習法じゃないか!と思われる方もいるかもしれませんが,もちろんデメリットも指摘されており,例えば,
(1)学習に要する時間が膨大
(2)適切な環境設定ができなければ質の低い学習になる
(3)系統的な知識,つまり正しい知識を学ぶ量が少なくなる
といったものです.
それ故,「問題解決型の学習だけで全ての学習効果を期待できるわけではないので,さまざまな学習方法を適切に組み合わせることで,その長所や特徴を活かしましょう」というステレオタイプな留意点をたくさん見ることになります.

それでも,昨今のブームである「問題解決能力」を高めることができるとされるこの学習方法は,「PBL」などと呼称されながら自己啓発セミナー的な何かや,大学におけるキャリア支援的な何かにおいても注目を浴びております.

もっと言うと,卒業論文や学位論文の指導というのは,まさにこの問題解決型学習です.
私自身,方法論はさまざまあれど問題解決型学習は支持しております.

しかしその一方で,問題解決型の学習に偏った教育思想が浸透することの危険性も懸念していまして.
というよりも,「問題解決能力を高めることが大事」という思想・発想の問題点です.

ではそれは何かということですが,問題解決能力の高い人を礼賛する風潮が強くなるということはつまり,問題を目の前にした時,それを解決する方向に導く人を賞賛する風潮がより強くなることを意味します.
当たり前のように思えますが,それが結構やっかいな問題だと思うんです.
なぜならそれは,端的に言うと,
問題は解決されなければならない
という着想に至りやすくなるからです.
そしてそれは,
私が「問題」と認識したものは解決されるべきなんだ
という発想へと向かいやすくなるでしょう.
「いやだから,なんでそれが問題なんだ?」というところかもしれませんが,考えてもみてください.世の中にある「問題」というのは,その全てが解決できるものでもありませんし,そもそもそこで「問題」としたものが本当に問題なのかどうか怪しいものだって多いのです.

ところが,問題解決型の学習というのは問題「解決」型ですから,我々が問題だと認識したものは解決しようとする方向に向かわせる力が働いています.

「いやいや,それは問題解決型学習を正しく運用しなかった場合のことだ」という反論もあるのでしょうが,ここで懸念しているのはこの学習法の方法論ではなく,
「問題を前にしたら,それを解決することが善だとする風潮を強くする」
ということです.

問題解決能力の高さに注目が向くようになると,「問題」それ自体を深く掘り下げようという思惟がなくなります.
問題解決能力が注目を浴びる昨今,その典型だったのが大阪都構想での二重行政問題です.

「二重行政」という問題を前にした時,まさにそれを「解決しなければいけない」と認識してしまう人がたくさんいました.
なぜ問題なのかと問われれば,「それが問題だと言われているから」とか「二重のものは解消したほうが良いから」とか,そんなのです.
ですが,「二重行政」というのは解決すべき問題ではありません.そもそも,どんな行政も二重三重になっているものなのですから,二重行政そのものに問題があるわけないのですし,解決したり悪化するような存在ではないのです.
皆が最も気にしていたのは「コストカット」の手段として二重行政をなくすことが適切かどうかという点でしたが,結局,「二重行政」をなくすことではコストカットできないことが判明しています.

つまり,二重行政そのものには「問題」が無いということが流布されるようになるわけですが,「二重行政という問題がある」という問題意識からスタートしている人々は,その問題を解決したという状態が提示されるまで不満は無くなりません.
「問題は解決されなければならない」という思考パターンに入ってしまっているからです.

それが証拠に,二重行政には問題がないという話が広まりはじめてしばらくすると,「だったら対案を出せ!」などと意味不明なことを言って噛み付き始めました.
まさにこれは「問題を解決するために行動する」ことが至上の選択だという認識からくるものでしょう.

もう既に問題が存在していないのに,むしろ,より悪質な問題を抱えた解決策に取り組もうとしているのに,とにかく「解決に向けた行動をとる」ことを良しとしてしまう.
それが問題解決能力を礼賛する風潮の恐ろしいところだと思います.

話がちょっと長くなりましたが,上述したように,私は問題解決型の学習を否定するつもりはありません.
OECDがやっている学習到達度調査:PISAの「問題解決能力」のテスト問題にあるような,即時的で個人の中で収まるような問題(例えば:最も効率的な公共交通機関の利用法を見つけ出す等)への対処といったものであれば,こうした能力を高める教育に憂慮する必要もありません.

しかし,この世で「問題」とされているものは,なにも効率的な公共交通機関の利用法や,説明書がないエアコンを適切に操作する手段を導き出す(←いずれもPISAのテスト例),といったものばかりではありません.
人生観や人間関係,会社での商品開発や行政機関の運営,政治経済といった複雑な「問題」もあるのです.

そこで「問題」とされているものは本当に問題たりうるものなのか?
特に児童や大学生においては,難しくともこの点を深く掘り下げる問題解決型の学習が強く求められます.
そうでなければ,本当の意味で問題を解決できる人間にはなれないように思うのです.


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