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コピペ右翼とカンニング左翼

さて,いよいよ ■ 【やってはいけない】卒論・ゼミ論を1日で書く方法 が閲覧ランキング上位に登ってくる季節となりました. もしかしたら,うちの学生も読んでるんじゃないかとワクワクするところでありますが,間違っても上記の記事を「1日で書く方法」を紹介しているものだとは受け取らないでください.あくまであれは「やってはいけない」ということを啓蒙する記事です. この「コピペ」に関連することとして,前回の, ■ コピペ・レポートの行き着く先は を,もう少し続けてみたいと思います. まずタイトルについてですが,つまりは同じことを指しています. ようするに, 自分で考え抜いた上での意見を表明するのではなく,考えるに先立って自分が好む「立ち位置」を重視して意見を選び取る ・・,他にも,自分が支持している人物やメディアの意見をそのまま繰り返すことを「コピペ右翼・左翼」とか「カンニング右翼・左翼」と私は呼んでいます. 例えばレポートをコピペするためには,コピペする文章(意見)を選ぶための事前知識が必要になります. つまりコピペ・レポートとは,その者の事前知識によって「正解だと思った結論」へと向かう文章(考え方)が選び取られているということになります. その者自身が捻り出した考え方ではなく,考える前に回答が先行して決まっているのです. それが政治経済の話題になったら,コピペ右翼・左翼として表出するに過ぎません. こうしたコピペ右翼・左翼の問題点は 「その意見の整合性や正統性を自分で確認していないのに胸を張って表明している」 ということに収斂されます. なんとなく「自分の気分を良くしてくれる意見だから」とか,「そういう意見って格好いいから」とか,もっと単純に「クールだから」とか,たぶんそんな感じで採択されているんだと思います. レポートをコピペしようとした場合,例えば課題が「原発は日本に必要か?」とかだったら,まず「必要/不要」のどちらが正しそうか,カッコ良さそうか考えてみて,それに合った意見を引っ張ってくるでしょう. もしくは,お気に入りの言論人や政治家が,原発必要/不要のどちらを表明しているかで自分の意見を決めたりするかもしれません. あとはひたすら「必要/不要」のどちらか一方の意見をコピペして文章を強化するだけです.それが一番楽ですからね.な

コピペ・レポートの行き着く先は

前回の記事では,ネット上でよく目にする愛国的で民族主義的な視点や観点,いわゆる「ネトウヨ」と称される意見や批評について取り上げました. このように認知されている現象は,ネト “ ウヨ ” と称されることからも分かるように,右翼・保守的なものと見做されています. これについて,「世間一般というのは放っときゃ右翼・保守的な反応や批評をするものであり,別に特殊な現象などではない」というのが前回の議論の出発点であり,むしろネトウヨ的な現象についての問題点とは,その意見やコメントが「右翼的・保守的」かどうかで判断されている,もっと言うなら, 「右翼・保守的だとされる言論人や政治家の発言内容とどれだけ一致しているか」がその判断材料になっている 傾向があるという点です. つまり,何かの物事に対して,どれだけ適切な行動をとっているか? 適切な状況になっているか? ではなく,どれだけ右翼・保守的なのか? で判断していると言っていいでしょう. ようするに,「右翼・保守的であることが適切である.適切な判断とは右翼・保守的なものである」という基準で物事を計っていることを意味します. このような姿勢は右翼,左翼に関係なく「バカ」と評せると思うのですけど,どちらかと言えば右翼の方が「考える量」が少なくなる傾向があるだけ酷いのではないか? というのが前回の記事の趣旨でした. 今回は,その前回の記事で少し触れていた「レポートのコピペがなぜダメか?」を通して論じてみたいと思います. コピペ・レポートについて論じていくと,実は上述した件との関連性が強いことに気づいてもらえるからです. 大学におけるレポート課題は,コピペ( コピ ー・アンド・ ペ ースト,つまり盗作・剽窃)との戦いだとも言われており,どうやってコピペに対処するか苦心されている先生方は多いものです. その一方で,「なぜコピペが悪いんだ? コピペを見抜けない教員も悪いのだし,そういう課題しか出せない教授法に工夫が足りないのだ」という意見も根強くてですね. 教員側の言い分としては,わざわざレポート課題を出したい理由は「さまざまな議論・理論を調べてみて,それらを材料に自分の頭で議論を組み立てる」という手続きを学生に踏ませたいからです. 私を含めて少なくない教員は,学生に「優れたレポート」なんてものを求めてはい

なぜ右翼・保守的言動をする人にバカが多いのか

今月に入って,このタイトルにあるような記事を立て続けに書いています. なので知人から, 「君,右だったはずだよね」 と心配されているのですが,別に私の利き手やスタンスが変わったわけではありません. (ちなみに野球ではスイッチヒッターです) どうも世の風潮がおかしいな,と思っているので声に出して(字にして)みている次第です. 代表的なものとして「ネトウヨ」と呼ばれることの多い「対象」と「現象」があるわけですが,そうした右翼・保守的な言動をしている人の声が煩くなってきて久しいと感じます. このネトウヨと称される「対象」を定義することは難しいとされているのですが,そうした「現象」が捉えられていることは周知のことと思います. ようするに,ネット上では愛国的で民族主義的な視点や観点から物事を論じられることが多く,そうした意見や批評といったものに一定の認知度があるわけです. それが私にとっては「おかしいな」と感じさせる世の風潮の一つです. 何がおかしいのかというと,こうした「ネトウヨの声」とされるものからは,知性や身体性が感じられず,例えて言えば「「3手詰みの詰将棋」や「キーパーのいないPK戦」をやっているように映るのです. (この比喩についての詳細は,また今度) 前々回の記事である, ■ なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか では, 教育現場においては左翼よりも右翼の方が有害 であることをお話しました. もちろんキチ◯イ左翼教員も有害ですが,愛国・右翼教員はさらに輪をかけて有害であるというものでした. 他方で,教員現場に右翼・保守的な考え方の人材が “少ない” のは「 右翼・保守的な言動をする人にバカが多いから 」ということも取り上げていました. なので今回は, そもそも,なぜ右翼・保守的な言動をする人に目も当てられないバカが多いのか?  という点に絞ってお話してみよう思います. まず,「右翼・左翼」「保守・革新」といった分け方は一般的ですし,その分け方で問題ないとは思うのですけど,一応 この記事で言う「右」とか「左」というのは,政治経済,教育,社会,道徳といったものを論じる際の立場や思想のこと を指します. で,そのいずれにもバカ,つまり「ちゃんと物事を考えない人」というのがいます. ここで重要なのは, 右翼

なぜ教育現場では「ネットの意見」が受け入れられないのか

現在,我々大学研究者としては大事な季節なので,どうしてもブログ更新に手が向かない今日この頃です(科研費申請です). でも,やや短めの記事を書いておきたいと思います. 学校教育に関する不祥事等がニュースになると,「これだから学校は隠蔽体質なんだ」とか「教師は社会人になれなかった人材が就く仕事だ」などと批判にさらされることが多いものです. 特にネットでは,この手の “教育熱心な意見” が散見されます. こうしたネットの意見について,私もこれまで何度かそれに反論する記事を書いてきたところですが, ■ 大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています とか, ■ 「面白い授業」に対する幻想と誤解 今回は,そうした 教育に対する「ネットの意見」が,実際の教育現場で (思い切って言ってしまえば) 「通用しない」のはなぜか? という点を語ってみたいと思います. 前回の記事である, ■ なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか と関連するところも多いですので,未読の方はそちらもどうぞ. もちろん,以下に述べていることが教育者全体の総意ではないですし,普遍的な価値をもつ考え方ではないことも申し添えておきたいと思います.が,これに類似した想いを持って教育にあたっている人が少なくないことはご理解いただければと思います. (1)教育現場で「勧善懲悪」は非現実的 いじめ問題が典型的ですが,ネットの意見に多いのが, 「なぜ被害者が泣きを見て,加害者が守られるのか? こんなことだからいじめが無くならないんだ!」 といったものです. 要するに,「悪い行いをする子供よりも,その被害にあった子供を優遇しろ.そうすれば皆がハッピーになれるだろ」という趣旨の主張です. でも残念ながら,教育現場でそういう「ハッピー」で「おめでたい」考えは通用しません. 何故かと言うと,教師にとっては「いじめ被害者」はもちろんのこと,「いじめ加害者」だって自分の生徒・学生であり,同じように教育する対象だからです. 一般人にすれば「加害者に痛い目にあってほしい」という欲求があるでしょうから,それが満たされないと不満に思うでしょう. ですが,教師はなるべく多くの生徒・学生が善き国民・人間となるよう育てるために粉骨砕身しています. いわゆる「悪い子」にしても,なんとか真っ当な人

なぜ教育者に右翼・保守が少ないのか

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なぜ教育者に左翼が多いのか? という疑問やテーマで論議されることは多いのですが,その逆, なぜ教育者に右翼(保守)が少ないのか? が問われることは意外と少ないものです. 私も高校生ぐらいの頃からずっと考えていたことではあるのですが,いまいち明確な答えが見つからないまま,いつしか自分が教育者になってしまったというところです. では私は左か右かということが気になるのですけど. ある人達は私のことを「保守だ」「右翼だ」と評しますし,たしかにそういう考え方をするところがあることは自覚もしています. しかし,どうしても一般的に「保守派」とか「右翼」と呼ばれている有識者の意見を聞くと,それを飲み込もうとしても何か喉に引っかかって気持ち悪いという感覚が拭えませんでした. これについての適切なアンケート調査や意識調査があるわけではないですが,私なりの皮膚感覚でこの件について書いてみようと思います. なぜ教育者には右翼・保守系の考え方をする人がいないのか,まず最初に考えられることとしては,右翼・保守系の人にまともな教育観がある人が少ないということが挙げられます. もっと突っ込んだ言い方をすれば,一般的に右翼・保守系だという立場を表明する人達の教育方針や主義主張の多くが,子供や青年の教育上害悪が多いということです. 害悪の多い教育方針を掲げる連中ですから,そんな人達を教育現場に立たせることは避けられやすくなります. 教育者に右翼・保守的な人が少ないのは,そんなような影響があるからではないかと考えられるのです. どのような教育方針が嫌われやすいのかというと,例えば以下のようなものです. 1)やたらと愛国心教育を推進する 私だって別に愛国心が高まる教育を否定したいわけではありません.一部のキチ◯イじみた左翼教員を除いて,教育現場にいる圧倒的多くの教育者は愛国心を悪いものだと思っていないでしょうし,高めようという方針に反対するわけでもありません. ところが,右翼・保守的な立場をとる人達は,愛国心を高めることが教育の重要な役割だと見做しています.はっきり言ってバカなのです. 具体的な典型例として,彼らは学校で国旗国歌を徹底しようとします.国旗国歌を徹底すれば,愛国心が高まって日本国への帰属意識が高まると言い出します. どう考えてもそんなわけね