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「ソーシャルワーク教育の失敗」とは何か

こんなニュースがありました. やや遅いですが,全然手が付いていないブログ記事更新のために取り上げてみます. ■ 「ソーシャルワーク教育は失敗」 (←Yahoo!ニュース) その記事の抜粋が以下のとおり, 日本社会福祉教育学校連盟(会長=二木立・日本福祉大学長)は10月30日、創設60周年を記念し、同志社大(京都市)で歴代会長による対談を行った。 (中略) 大学の教員ら約40人が参加した会長対談で、大橋謙策・東北福祉大大学院教授(2007~09年の会長)は「社会福祉士ができてから、(大学での教育は)福祉制度の解説にとどまっている。社会福祉士を作ったことが間違いだったかとすら思う」と話した。 (中略) 社会福祉士の藤田氏は「私は社会福祉学部、大学院を修了したが、面白くなかった。制度の解説、面接技術などミクロレベルの技術に傾倒していた。ソーシャルワーク教育は失敗したと言わざるを得ない」と話した。 また、学説などの論争が見られない福祉の業界体質にもメスを入れ「対等で緊張感のある激しい議論や批評がない業界に発展はない」と指摘。著名な学者にも遠慮せず論争を挑むべきだとした。 私も「福祉領域」に身をおいていたことがあるので,この記事に出てくる方々の言わんとするところは分からなくありません. そのようなわけで,少し「福祉教育」に浸った私の意見を述べてみたいと思います. 抜粋した記事中にもある藤田氏の指摘.「対等で緊張感のある激しい議論や批評がない業界に発展はない」という点について,“言いたいこと” はよく伝わってきます. 福祉領域における研究や議論というのは,どうしても重箱の隅をつつく感が否めないのです.彼らの研究というのは「正解」というものが元々あって,その正解をどのようになぞることができるか? が重要視されているように思えるところが多く,そもそもその「正解」は本当に正解なのか? といった部分に切り込む研究者や学生が少ない印象です(ホントにこれはただの私の印象です). 「そもそもその正解は本当に正解なのか?」という姿勢は非常に野心的です.もともと学術研究というのはそういう色が強いものなのですが,福祉領域ではこうした「野心的な姿勢」というものが嫌われているという印象があります. もっと言えば,「社会福祉」という「職場」の範疇

井戸端スポーツ会議 part 26「もう少し敗戦国・日本をスポーツから見る」

フランスで大変なことが起きていますね. だからというわけではないのですが,引き続き戦争・紛争にまつわる話をしてみたいと思います. さて,前回の記事, ■ 井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」 で言いたかったことを一言にしてしまえば, 敗者が敗因をゴチャゴチャ言うな.ましてや「俺達は本当は凄かったんだ」なんて,みっともない.そんな事言っても誰も(世界は)同情なんかしてくれないよ. ということであり,そしてそれは,戦争を一つの「スポーツ」として捉えると理解しやすくなるのではないか,というものでした. なぜならそもそも戦争とは,人が利を求めて起こす集団的・組織的な暴力行動を「スポーツ(遊び)」にしたものだからです. ゆえに戦争で求められる振る舞いは,スポーツでのそれと同じになると考えられます. その上で今回は,少しくらいは愛国右翼的な人達が癒やされそうな話をしてみたいと思います. 第二次大戦における日本とは何だったのか?という点です. 私自身,ちょっとは第二次大戦のことを勉強したつもりではありますが,やっぱり専門的に,かつ,特定のイデオロギーのフィルタをかけて熱心に勉強したわけではない者でして. この手の話はブログでも敬遠してきたところでもあります. だからこそと言うか,比較的右翼でも左翼でもない考え方を持っているのかもしれないというところから「あの戦争における日本」について述べてみようというものです. まず,教育現場にいる立場からの感想としては,こうした第二次世界大戦についての話題というのはとても配慮が必要である一方で(そしてここが重要なポイントになるかと思うのですが),多くの学生にとっては特に関心がある話題ではないということです. 今年の夏に話題になった某学生団体なんてのは極めて例外的な若者たちで,あのような活動を通じて「戦争」のことを積極的に論じようとする者は非常に少ないでしょう. これは最近の学生に限った話ではなく, 戦争のことについて深く考え込む人が多数だとは考えられない,というのが実感です. まして第二次世界大戦のことなんて,はっきり言ってどうでもいい.戦争に負けたとか,その戦争の正義がどちらにあったかとか,あの戦争によって日本がどのような立場に立たされたのか,なんてことに

井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」

「井戸端スポーツ会議」 と題する記事のアクセス数が少ないんです. 当初からアクセス数が伸びる記事にはならないだろうと予想はしていたのですが,やっぱり伸びませんでした. でも,私としてはコレが専門でもありますし,ちょっと寂しいところがあります. なんとか「スポーツ」の観点から物事を捉え,考える記事のアクセス数を伸ばそうと, ■ 井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」 のような内容で哲学じみた話をしてみたり, ■ 井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」 みたいな記事で教育を論じてみたり, ■ 井戸端スポーツ会議 part 23『東京五輪エンブレム問題に見えるスポーツの危機』 といった当時炎上中のニュースを引き合いに出してみたり. いろいろやってきましたが,どうやら「スポーツ」をタイトルにした話題って伸びないんですね. じゃあ,スポーツに関するブログ記事でどんなのが伸びるのかって言うと,たぶん今注目されている選手・チームについての芸能ニュースっぽいやつなんだろうと思います. とは言え,そんな私の記事の中でも例外的によく読まれているのが, ■ 井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」 なんです. この記事が伸びている理由は不明ですけど,なんだろう? ドラゴンボール効果でしょうか? 「スポーツ」の観点から物事を捉え,考えるというコンセプトの本シリーズですが,ここ最近書いているイデオロギー系(右翼系叩き?)の記事とコラボしてみることにしました.そっちから攻めればアクセス数が増えるかもしれないと考えたからです. というわけで,今回のテーマをこちらにしました.すなわち, 『敗戦国・日本がとるべき態度は「スポーツ」で説明がつく』 さらに言えば,昨今の右翼・保守系の言論には「スポーツ」の観点からすると “やってはいけない” 敗戦国民の態度がたくさん散りばめられていて, そのことが日本を「敗戦国」のままにし続け,且つ,諸外国からの信頼を失うことにつながる というものです. まず話の前提となる考え方からお示ししましょう. 「戦争」とは何か? という点です. よく,「スポーツは暴力性を廃した戦争だ」とか,「国際スポーツ大会は,その国同士の戦