2016年2月12日金曜日

大学のこれから(2)

前回の■大学のこれから(1)の続きです.
これからの大学がまともな道を歩めるか否か,その違いを見分けるツボをご紹介したいというシリーズにしております.

今回のツボはこちら.
学生目線を大事にしたがる
です.

注意していただきたいのは,学生目線を大事に「する」ということではない点であり,「したがる」というところがツボなのです.

教員個人のレベルではこんなところに表出します.
例えば,表向きは「学生のことを第一にしなければならない」とか「学生の喜ぶ顔がみたいから」などと言っており,より具体的な事例としては「教員も学生と同じ土俵で向き合わなければならない」とか「教員も学生を評価しているのであれば,学生も教員を評価して然るべきだ」などと言って授業評価アンケートを肯定的に捉えているような節のことを発言しています.

そうして情熱を持って学生と真剣に向き合っているならまだ許せますが,こうした “学生目線を大事に「したがる」” 手合いの教員は,得てして肝心なところで学生のことを放ったらかし,教育らしい教育をしていません.

その代表的なものが卒業論文です.
普段から「学生のことを考えて・・」などと発言しているのですから,てっきり卒業論文もみっちり指導するのかと思いきや,そこは何故か「学生が主体的に取り組むものだから」と言って消極的になります.

あぁなるほど,主体性を大事にして書かせ,その上で最後に仕上げてくるんだろうなと思っていたら,そのまま最後まで放任して終了.
え? 学生目線を大事にしたいんじゃないのですか?

そういうわけで,こうした教員の言う「学生目線」というものが,多くの学者・教員が考えている「学生目線」となんらかのギャップがあると思われるわけですね.

ではそのギャップとは何なのかといえば,端的に言うなら後者が学生の能力を高めることを通して「社会や人類に貢献する」ということを目指しているのに対し,前者は学生個人の利益誘導を狙うことで「自分が学生から好かれたい」ということにあります.

ここで皮肉なのは,彼らはそうして学生から好かれたいという一心で振る舞っているのですが,残念なことに,まことに残念なことに,そんな彼らが重要視している「授業評価アンケート」の結果が芳しくないというところです.
んで,そういう結果を前にして「授業評価アンケートの結果には様々な疑義があるから」などとヘンチクリンな分析(みたいな言い訳)をして,そんな時だけ私のような根本的に授業評価アンケートの存在を批判している教員と意気投合しようとするのです.

より低次なところでは,学生目線を大事にしたがる教員は「ウケる授業」を展開したがります.最近流行してるプレゼン方法をマネたがるし,就活に応用できる話をしたがります.
さらに低次になれば,どっかの地域のイベントに学生と一緒にボランティアとして参加しようとするし,学祭とかの学内イベントで学生と共に汗を流そうとします.

こうした「学生目線を大事にしたがる」教育方針が大学組織レベルで展開されると,ことはさらに厄介になります.
勉強させなくても良い方向に向こうという力が加わってくるのです.まさに大学教育の崩壊です.

まぁたしかに,「学生目線」なのであればそうなるのでしょう.
大学での勉強って,本気で取り組んだら苦しいものですからね(楽しくもあるけど).

その代表的なものが,成績評価の厳密化と明瞭化です.
大学での学習と研究の採点や評価が,厳密に明瞭に出来るわけねぇだろと思われた方は常識人です.
明確な答えなんかなくて,考え方や捉え方の微妙な部分をたゆたうところに大学教育の面白さがあるのですが,ところがそんな本質的な部分が分かっていないからこその「学生」である学生目線に立てば,たしかに納得できないことでしょう.

そんなわけで,学生目線を大事にしたがる大学とその教授陣,そして最近は文科省なんかも,こうした誰もが納得できる成績評価を求めたがるのです.浅はかですね.

これはちょうど,ウイスキーやお酒などの銘柄の違いというのが,僅かな不純物やノイズによって生み出されていて,その違いはそう簡単に解明・再現できるものではないのと一緒です.
それに対し,「アルコール度数が一緒で,材料も一緒,さらには作成手順が一緒であれば,全部一緒のものになるはずだ」と言ってひとくくりにしようとするのが昨今の流れ.

原料が違えば作り方も違うし最終的な味もやっぱり違ってくる,その味わい方も変わってくるのは人間も一緒です.
そんなに納得のできる成績評価を大学で求めたいのであれば,どうか「エタノールの蒸留水割り」を楽しめるようになってから言ってほしいものです.