2016年6月12日日曜日

鳥無き島の蝙蝠たち(2)長宗我部元親

この人が本家「鳥無き島の蝙蝠(コウモリ)」です.
記念すべき第1回では「古代四国人」をご紹介しましたので,続く今回は素直に長宗我部元親を取り上げます.

前回記事の冒頭でもお話したように,このシリーズはブログ開設当初の7年前から計画していました.
だから2009年にこんな記事も書いていたのです.
大河ドラマと高知県
記事の方向性が定まっておらず,ただ長宗我部元親を紹介するだけの記事.

今回はもう少し私なりの趣向を加えてお話ししたいと思います.
なお,長宗我部元親の詳細はウィキペディアあたりを読んで下さい.
長宗我部元親(wikipedia)

7年前の記事でも書きましたが,もうそろそろ長宗我部元親をNHK大河ドラマあたりで取り上げてもいいのではないかと思うのです.
ただ,元親をドラマにすると彼の晩年の荒みっぷりをどうするかが課題となります.
後継者として期待していた信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするなど信親没後の元親は久武親直の讒言があったとしても片意地になりそれまでの度量を失っていた。(wikipediaより)
でも,それをきちんと描くのも良いかと思います.
人間の弱さを堂々と示す.その哀しみを丁寧に見せる大河ドラマも一考かと.
華々しく登場し,儚く死ぬのが英雄です.

今回はこれについて一考してみます.
元親を「鳥無き島の蝙蝠」と称して見下した織田信長,実はこの両者はよく似ている.

「嫌いな人は,実は自分自身とよく似ている」というものがあります.
同族嫌悪.ユング心理学の「シャドウ(影)」で言えば,普段自分が隠している自分のダメな部分を相手に投影してしまうというもの.

信長と元親は長く同盟関係にありましたので,両者の行動は互いに詳しく知れた間柄でもありました.
信長が元親を評価しなかったのも,もしかすると元親に自分とよく似たところを感じたからかもしれません.

幼少から青年に至るまで,信長はその粗暴の悪さから「大うつけ」と呼ばれ,一方の元親はひ弱な性格から「姫若子」と呼ばれていました.

ところが政治と戦の場に出ると,両者はそれまでのマイナス評価を一変させます.
信長は家督を継ぐやいなや瞬く間に尾張を平定し,「桶狭間の戦い」でその名を轟かせました.
元親は初陣である「長浜の戦い」での戦国無双っぷりから「鬼若子」と呼ばれ,こちらも瞬く間に周辺国を制圧します.
それこそ映画や2時間ドラマくらいなら,両者ともこのエピソードだけで見応えあるものになります.

しかし,いくら二人が天才的であっても,未知なる自身の能力に不安を抱えていたはずです.周りからの嘲笑も,全く気にならないわけがない.
ところが,実際にやってみたら「できてしまった」.周囲の自分を見る目も大きく変わった.
この体験はこの二人のその後の思想信条や行動パターンに類似した影響をもたらしていると考えられなくもないでしょう.

その後の二人の活躍は歴史を紐解けば知れるところです.
一方は天下統一に最も近い者と称され,一方は土佐の出来人と呼ばれるまでになります.
信長の業績として名高いのが「経済政策」とされています.流通に気を配ったのは有名です.
実は元親もそうです.険しい山々に分断されている四国の流通路を確保するため,様々な整備をし,その往来も当時としては自由度が高いものでした.
この二人の発想はよく似ているわけですが,両者は同盟関係にあったのですから影響し合った可能性も考えられますね.

そんな二人は1580年に対立します.
中国攻めを考えていた信長は,元親の四国制覇(厳密には,瀬戸内海側である香川と愛媛の地域の征服)を快く思わず,高知と徳島の地域だけ領有しろと迫りますが,元親がこれを断ったのです.
ここにきて信長は四国征伐に着手,元親がこれを迎え討つ形になります.

さあいよいよ信長軍が渡海しようかという前日(6月21日)に起きたのが「本能寺の変」です.
なんとまぁ「元親にとってタイミングの良い事件」ですね.
実はこの本能寺の変の原因の有力候補として,最近注目されるようになったのが「四国征伐回避説」です.
本能寺の変:四国征伐回避説(wikipedia)
そこにはこうあります.
この説が俄かに注目を集めたのは、平成26年(2014年)、石谷家(いしがいけ)文書(林原美術館蔵)の中から元親から利三に宛てた書状が発見されたからである。
斎藤利三は光秀の家臣で,彼の妹が元親の妻という間柄です.
利三としては,妹が嫁いだ長宗我部を助けたいはずですし,
元親としても,取次役である光秀の家臣であり,妻の兄である利三を頼って書いたもの.
非常に重要な意味を持つ手紙なのです.
内容は、元親が土佐国・阿波2郡のみの領有と上洛に応じる旨を記しており、ここから四国攻めが実施されると政治的に秀吉=三好笑岩(三好康長)ラインの完全勝利となり、光秀は織田政権下はもちろん長宗我部氏に対しても面目を失い、いずれ失脚することになると思った可能性があることから、それで本能寺の変を起こしたとも読み取れると論評された
どうしてそうなるのか,補足が必要です.
元親と信長は同盟関係にあったということを上述しましたよね.光秀は,その信長と元親との取次役(外交官)をやっていたのです.
近畿を攻めていた時期の信長としては,四国の元親の力を借りるべく友好にしていました.光秀も元親と親身になって外交していたでしょう.

ところが,中国攻めの計画をはじめた信長は「元親が四国制覇すると,海を渡って中国に攻めてくるのではないか? だとすると危険だ」ということで「土佐1国と阿波の半分以外は領有するな.でなければ四国征伐する」と言い出します.
元親も徹底抗戦の構えを崩さないため,「光秀は取次役として無能」という烙印を押されます.光秀にとっては面目を潰される事態なのです.

しかし,元親が利三にあてた手紙には,信長の要求を飲むことが記されている.
この手紙が書かれたのは四国征伐の予定6月22日より一月前の5月21日.当然,手紙を受け取った利三は光秀に元親の意志を伝えたはずです.

元親が,信長や光秀ではなく利三を介して伝えた理由はさまざま考えられるでしょうが,そのあたりは彼らの関係がどのようなものだったのかによります.
いずれにせよ,おそらく光秀(もしくは利三)は信長に「元親は要求を飲むようです」と伝えたはずです.それが光秀にとって(利三にとっても)利のあることですから.

ところが信長は四国征伐を中止しませんでした.
つまり,信長はもともと四国征伐をするつもりだった可能性が高い.例の要求にしても,はなから元親が蹴ってくることを想定して出したものと推察されます.
第二次世界大戦でアメリカが日本につきつけたハル・ノートのようなものですね.

実は,信長が元親に土佐1国と「阿波半分」の領有を迫ったのには理由があります.
阿波の美馬と三好を本領とする三好康長が,元親に奪われた自分の領地を取り戻すため羽柴秀吉に接近しており,この秀吉を介して信長の四国征伐が進んだ可能性があるのです.
信長が元親に要求した「阿波の残り半分」は,その三好康長の領地です.

ちなみに,信長は四国征伐の暁には,三好康長に阿波1国を与え,しかも信長の三男であり四国征伐総大将であった信孝を康長の養子にすることになっていました.

だとすると,どうして信長は最初から元親に「土佐1国だけ領有しろ」って要求しなかったのでしょうか?
それは信長なりの思惑があったからだと思うのです.
もしこの要求に元親がすぐOKを出してきたら,それで今回の一件は落着します.戦争をしなくて済むからです.土佐1国よりは,阿波半分が付いていたほうが交渉が進む可能性がある.そう考えたのでしょう.

でも,四国征伐の準備が進むうちに「どうやら間違いなく勝てそうだ」ということになると,元親が当初の要求を飲んできても無視をした.
政治的な駆け引きですね.

こうした一連の事態を最も苦々しく眺めていた者,それが明智光秀です.
目の前で繰り広げられる政治劇.主君信長への不信.そしてライバル秀吉の暗躍.
光秀にとっては我慢ならない展開だった.自身の立場を危うくする状況でもあった.
そんな時に現れた絶好の機会.
と,かつてはこうした理由から光秀自身の怨恨説・野望説などが考えられていたのですが,いくらなんでもそれだけの理由でクーデターを起こすのは非現実的だとされていました.
ですが,ここに例の「手紙」が現れたことにより「元親―光秀ライン」がくっきりと見えてきたわけです.

もしかすると,元親は光秀に対し,信長暗殺後に合流しようと持ちかけていたのかもしれません.
「だから信長を討って,四国征伐を止めてくれ」と.

「本能寺の変」は無謀過ぎる暗殺計画だと言われていましたが,もし光秀が元親を頼っていたとすると,一連の事態と行動は一気に合理的に解釈できるようになります.
もし信長暗殺後の混乱に乗じて元親が海を渡って合流してくれたら,光秀はなんの不安もなく近畿をおさえられるからです.

しかし,元親は海を渡ってきませんでした.
裏切りですね.光秀と利三の心中を考えると悲しいですが.

でも,考えてみれば合点がいくことです.
混乱する近畿・中国を対岸の海から眺め,自分の都合に合わせて立ち回ればいいのですから.海は自然の水堀です.
そもそも,元親は四国を出るつもりはなかった可能性が高いのです.
詳細は■四国攻めをお読みください

話を二人に戻しましょう.
焼け落ちる本能寺のなかで凄絶な最後を遂げた信長に対し,元親の最後は冷たく静かで,厭世的なものでした.
有能な息子の死を嘆いて失意のなか老後を過ごし,家中を混乱させたのちに病に倒れた.晩節を汚したと言われることもあります.

しかし,私はこう思うのです.
この両雄は,戦国武将たる己の野望が儚く消えゆく様を眺めながら,それでも最後まで生き抜いて果てた.一人は僅かな時の中で,一人は13年をかけて.

四国制覇の夢が消え,嫡男が戦死したことで,元親は晩年荒んだ時を過ごしたとされています.
しかし,その後も小田原征伐や朝鮮出兵など各地を転戦して活躍し,四男・盛親に家督を継がせる話にしても,事情を知れば不自然なことではなく,むしろ盛親がその後苦労しないために万策を尽くしたとも言えます.■長宗我部盛親
ここにあるのは,野望が潰えてなお,それを捨てず寡黙に生きる男の姿です.

これは信長が燃え盛る本能寺の中で発した,「是非に及ばず」という言葉に込めた想いと通じるのではか,そんなふうに思うのです.

対照的でありながら,対照的だからこそ両者の死は戦国の世を象徴してもいます.
そうした意味において,やはり二人は似た者同士だったと思われます.