2018年4月2日月曜日

体育学的映画論「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」

スティーヴン・スピルバーグ 監督『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を見てきました.
モリカケ問題に揺れる日本の政界との類似性とは関係なく,この映画は以前からちょっと関心があったので,公開して間もないこの時期から映画館へ.
モリカケ問題とベトナム戦争を同列には見れないですし.

社会派ドラマで,しかも平日の真昼間というのに結構お客さんが入っていたのが意外.
率直に言って,エンターテイメント性が低くて映画としての盛り上がりには欠けます.
ウィキペディアの記事を読んでみても,スピルバーグ監督は本作を手の込んだ作りにはしていないような節があります.
「スピルバーグの作品で「最も短期間で完成」した作品となり、「この映画は私たちにとっての『ツイート』のようなものです」とも発言をしている。」
ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(wikipdeia)

実際,メリル・ストリープとトム・ハンクスの演技を楽しむ映画です.
特にメリル・ストリープは,「敏腕でもない元専業主婦が,大手新聞社の経営を頑張っている」という中年女性の姿を,わざとらしいんだけど,何故か自然に見えるという離れ業で演じています.
トム・ハンクスも老練な新聞記者を,これまたわざとらしく,且つ,自然に演じている.
これを見るための2時間と言っていい.

ただ,先述したように,エンターテイメント性は低い映画ですから,何人かのお客さんはイビキをかいて寝てました.
はっきり言って退屈な映画です.
さらに言えば,ベトナム戦争を対岸の火事のように感じる日本人としては,件のニューヨークタイムスによる機密文書スクープへの思い入れは皆無でしょう.
たぶん,「シン・ゴジラ」が国内ではヒットしたのに,海外では反応が低かったことと似ています.

けど,描かれている問題意識は日本にこそ重要な視点を提供しています.
本作でメリル・ストリープ演じるワシントン・ポスト社の経営者キャサリン・グラハムにつきつけられる重大な選択は,「報道の自由か,安定した経営か」ということになっています.
でも,私がもう一つ考えさせられたのは,彼女につきつけられているのは「ジャーナリズムに人間関係を入れない」ことではないかと思うのです.

作中にも描かれているように,かつてのアメリカの政治新聞記者は,政治家や有力者と食事会などを通じて友人関係を築き,彼らから新聞記事のネタを提供してもらうというものだったようです.
政治ニュースは大事件がしょっちゅうあるわけでもないですから,安定して政治ネタを得るためには,記者は政治家と仲良くして小ネタ・裏話をコンスタントに書くことの方が生活のためには有効です.

ところが,本事件をきっかけとして,そうした政治家と記者の関係が再考されはじめます.
キャサリンも,ペンタゴン・ペーパーズの当事者であるロバート・マクナマラ国防長官と友人関係にあり,文書の新聞掲載に悩み,振り回される姿が描かれています.
政治家と懇意にしておけば,政治記者として安定する.ただし,そのためには国家運営上の重大事を,政治家との関係を絶たないためにも揉み消す場面も出てくるだろう.
報道がそれでいいのか? なんのための政治ニュースなのか? という点が突きつけられているわけです.

劇中のクライマックスで,以下のようなセリフが出てきます.
「報道は国民のためのものであって,統治者のためではない」

そう言えば,いまだに政治家と新聞記者の食事会を重要視している国があります.
日本です.
もっと言えば,どちらかって言うと政治家のほうが積極的です.
安倍首相のマスコミ記者との会食についての情報公開請求とその驚くべき結果(BLOGOS 2015.9.6)
政治家とメディア記者の「近すぎる関係」、接待の手法とは(ライブドアニュース 2014.11.5)

「懐柔されるメディア・記者が悪い」という批判はその通りで,これは完全に記者の側に矜持が無いことが問題です.
だからこそ,「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」は日本の大手メディアにとっては見たくない映画だと思います.
「もう政界有力者と食事をしながら記事を書く時代は終わった」という趣旨のセリフが映画でも出てきますが,まだそんな時代にいるのが日本です.

大手メディアが馴れ合っていたとしても,個人・市民ジャーナリストがスクープすればいいのでは? と考えられますが,やっぱり情報発信力と波及力,取材のマンパワーと平常時の生活力に差があります.
それはちょうど,「今の日本の大学は研究できる環境にないというのであれば,個人で研究すればいいじゃないか」と言うのと一緒.

あの時のニューヨークタイムスとワシントン・ポストという大手メディアによる決断は,アメリカのジャーナリズムの姿勢を決定づけました.
別にアメリカに限らず,民主主義国では政治家とジャーナリストが食事会をしながら馴れ合うことはご法度とされているそうです.
政治家とメディアの会合 米は「コーヒー1杯」超えると癒着(News ポストセブン2015.6.4)
懐柔策か 取材機会か 首相とメディアの会食にはどんな問題があるのか?(THE PAGE 2015.3.17)

当たり前ですが,政治家としては自分や党のことをメディアに良く書いてほしい欲望があります.
でも,それをメディアに頼むのは卑劣な手法ですし,それを取引材料にコンスタントな記事を求めるジャーナリストはそれに輪をかけて卑劣です.
そもそも,政治家としてもメディア連中とつるむのは「李下に冠を正さず」に反することでしょう,これだけでも政治家として失格です.
関連することで,詳しくは前回記事に書きました.

ジャーナリストは,常に統治者の批判を続けなければいけません.
馴れ合って生活の糧にしていては,その存在意義がないのです.

なかには「良いことをしたら,その政治家を褒めることも大事」だとか言って,特定与党を持ち上げるメディアもあるようですが,これは論外です.
良いことをしようがしまいが,政治家を褒めるなんてトチ狂った考え.ジャーナリズムの死です.

ウォルター・リップマンというジャーナリストであり政治評論家が,ジャーナリズムの役割を「人々が正しい判断をするための材料の提供」と言っています.
そのためには,あらゆる視点から批判を続ける必要があります.
同質のものとして科学論文にも同じことが言えますが,人間が正しい判断をするためには,「褒める」必要などありません.褒めるかどうかは,その課題に向き合った個々人がすればいいことです.
ジャーナリズムもサイエンスも,「批判」にその存在意義があります.

最後に話を映画に戻すと,ラストシーンが粋な演出になっていて,さすがスピルバーグ監督だなぁって思わされました.