2018年5月28日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 52「最近あった大学アメフトの事件のこと」

時間がとれなくて記事が滞っておりました.
その間,いろんなことがありましたね.

大学アメリカンフットボールの事件もその一つです.
日大アメフト、危険なタックル問題:まとめ読み「ニュース通」(読売新聞 2018.5.28)
アメリカンフットボールの日本大学と関西学院大学の定期戦で、日大の選手が関学大のクオーターバック(QB)に危険なタックルをして、負傷させた問題が波紋を広げています。タックルをした選手が日大の本部より先に会見を開き、内田正人前監督らに危険なプレーを指示されていたと証言する異例の事態となり、対応が後手に回った日大側に批判が集まっています。
今回はその件について,大学の,しかもスポーツ現場にいる者として記事にしておきます.

先日,高校の同級生の結婚&懐妊祝がありまして,そのBBQパーティーに行ってたのですけど,そこで「大学人」という立場上,いろいろ聞かれました.
まあ,今回当事者となってる大学の者じゃないから推測するしかないんですが,こういう「危険なタックル」「悪質なタックル」はしょっちゅうと言うほどでもないけど散見されるものですよ.

ただ,今回のタックルはあまりに露骨だったし,上述した読売新聞の記事中にもあるように,昔とは違いSNSを通じて一般の目に触れるところへ拡散したのが特徴的です.
サッカーでもわざと突き飛ばしたり,審判が観てないところで殴ったりすることがありますよね.あれみたいなものです.

以下の記事にもあるように,本場アメリカのNFLでも試合の要であるクオーターバック選手への悪質なタックルは以前から問題視されていました.
アメフト悪質タックル事件を、アメリカから考えると
もう既にクオーターバックが投球動作の週末局面になっていて,タックルしてもボールの投射を防げるタイミングではないのに,わざと「勢い余って止まれなかったふり」をして突進するのが一般的でしょうか.
もちろん違反した選手には大きなペナルティが課せられますが,その記事にあるように,ペナルティを背負っても相手のクオーターバック選手を負傷させることができた選手は,チームから裏の報奨金,つまり「ボーナス」を得ていたのが,かつてのNFLだったようです.

あと,日大や内田監督を擁護するつもりはありませんが,彼らの主張もおそらくは真実なのでしょう.
いわゆる,「たしかに『潰せ』とは言ったが,ケガをさせたかったわけではない」というやつ.
そんな話,下品な奴らが牛耳っているスポーツ現場では頻繁に出てくるワードです.
それこそ,コンタクトの機会が多いスポーツであるサッカーやバスケットボール,ハンドボールなどで,「削れ」とか「ぶっ殺せ」とか言ってる指導者や選手は,少ないながらもいるんじゃないでしょうか.

もちろん,そう言われたからってんで本当に相手をケガさせたり殺害する選手はいないんですけど,今回はその他の状況も「相手を本当にケガさせることができたら評価してくれる」というものになっていた.
それが指導者サイドとして意図的だったのか否かはわかりませんが,選手はそのように受け止めて実行するに至る土壌があったわけです.

だからといって日大や内田監督に責任がないと言っているわけではありません.むしろ,指導者として,そして責任者としてしっかり責任をとらなければいけません.
ところが,彼らは「言い逃れ」を図ってしまいました.
たぶん,「行き過ぎた表現はあったかもしれないが,それは選手との受け止め方の齟齬として言い逃れできる」と踏んでいたのかもしれません.
なお,この際,日本大学に危機管理学部なるものがあることは脇に置きます.それは本件を語る上で些末な話だからです.

BBQパーティーではこれと関連して,日本スポーツ界が膿を出す転機になっているのではないか? という話もしました.
まあ,「膿を出す」という表現が適切ではないかもしれません.
どっちかというと,「どんどん膿が発生している」といった方が適切でしょうか.

「女子レスリングのパワハラ問題」とか「相撲界の暴力事件」とか,「サッカー日本代表監督交代劇」といった一連のスポーツ界のトラブルは,この日本社会の在り方と相互関連しているという話です.
ずっと以前から,このブログでは「その国の在り方は,その国のスポーツをみればわかる」と述べてきました.
関連しそうな記事は以下のようなものです.
井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」
井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」
井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」
井戸端スポーツ会議 part 44「スポーツの精神が大切なわけ」
井戸端スポーツ会議 part 47「森友・加計学園問題と野球特待生」

実際,スポーツ界で発生しているトラブルは,日本の政界で発生しているトラブルと見事に符合します.最近では,政府のモリカケニッポー問題とか.
以前までなら揉み消せていたトラブルが表沙汰になったり,コミュニケーション不足(悪く言えば口裏合わせ不足,良く言えば共通認識不足)によるトラブルなど.
当事者たちからしたら,「我々の業界ではよくあること」という認識で,その気になれば言い逃れできるものだと思っているのもよく似ている.

とりわけ日大アメフト部の問題は,「財務省セクハラ問題」とよく似ています.
「選手がそんな受け取り方をするとは思わなかった」とか,「記者によるハニートラップではないか」などという言い逃れが通用するわけないでしょう.
選手が予想外の行動をとったのは指導力の欠如だし,ハニートラップにかかったのも公職者としての資質の欠如です.
つまり,両者とも言い訳が言い訳になっていないんですね.

だから言い逃れることはできないのですが,この「言い訳」の質の低さには目を見張るものがあります.
むしろ,自身の無能さを公開,乃至,上塗りすることになっている.おそらくそれは,ある種の「甘え」から来ているのかもしれません.
「私はこんな基本的なことすら分からないバカですけど,『バカ』だけに無垢にやってきたんつもりです」という倒錯.
そう言えば以前,この「甘え」を地で行った政治家が兵庫県西宮市の市議会議員にいました.

安易に「勝利至上主義の弊害」という表現でまとめたくないのですが,結局のところ,我が国では「パフォーマンス(競技力)」を構成するものが何なのか混乱している状態で,それでなお「戦績」を求めていると言えます.
スポーツ選手のパフォーマンスとはなにか? その指導者のパフォーマンスとはなにか?
そして,財務次官や政治家のパフォーマンスとはなにか?
そもそも,どういう戦績を残したいのか定められずに,漠然とパフォーマンスだけを求めている.
そういったことに無頓着でやってきた結果,こんな自体になってしまった.そんなところでしょう.

2018年5月8日火曜日

ハラスメントといじめ

このブログでも度々取り上げることのあった和田慎市先生が,オピニオンサイトのiRONNAに記事を寄稿されています.
「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?(iRONNA 2018.5.3)
私も全く賛同するところですので,ぜひリンク先の記事を閲覧ください.

ちょっと前まで一連の記事にしていた「セクハラ問題」において,セクハラはいじめ問題と類似していると述べました.
なので,ここでその関連をお話ししてみます.

実のところ,「いじめ」と「ハラスメント」は,「嫌がらせ」という意味において同義です.
嫌がらせ(wikipedia)
ハラスメント(コトバンク)
ですから,いじめであろうとセクシャルハラスメントであろうと,捉え方やその対処は同じものと考えられます.

セクシャル(性的)ないじめがセクシャルハラスメントであり,権力・上下関係を使ったいじめがパワーハラスメントであり,妊婦に対するいじめがマタニティハラスメント,師弟関係でのいじめがアカデミックハラスメントというわけ.
ようするに,相手が嫌がることをしたら,それはいじめでありハラスメントなんです.

和田先生は上記記事中の結論でこのように述べています.
 学校現場の人間として声を大にして言いたいことは、真にいじめを克服するためには、杓子(しゃくし)定規な定義や報告など形式にこだわるのではなく、まず根絶できない現実を受け止めるべきです。そのうえで、いじめの発生しにくい環境づくりをするとともに、重大な事態に陥らないように早期発見と迅速な対処を心掛け、当事者の人間関係修復と被害者の立ち直りをサポートしていくことです。さらに、有効な未然防止策は、いじめを能動的に克服し乗り越える力、いじめをやめさせる力を子供たちに地道に身につけさせていく教育しかないと思います。
至極当然な意見のように思えますが,そのようにならないのが一般社会の受け取り方というもの.
「いじめ」という状況そのものの発生を根絶したがるんですね.
いじめは悪.いじめの加害者に制裁を.いじめが発生する学校は碌でもないところだ,と声高に叫ぶ人達が後を絶ちません.

これは昨今話題になったセクハラに代表されるハラスメントにおいても同じことが言えます.
よく,セクハラ問題で「セクハラは根絶されなければならない」と吠えだす過激な思想を持った人がいますが,そりゃ無理ってものです.

勘違いしないでください.
先日までの記事でも分かるように,私はセクハラを「仕方ないもの」とか「発生しても放置してよい」と言っているわけでもありません.
むしろ,セクハラにせよ,いじめにせよ,私はその問題改善に積極的なほうだと自認しています.

ただ,いじめやハラスメントというのは,「法律」によって定義付けて根絶を目指すようなものではないと言いたいのです.
これはちょうど,憲法で「戦争をしない」と明記すれば,戦争が根絶できると言っているようなもの.
いじめやハラスメントというのは,戦争と同様にその発生を根絶することはできませんし,発生に至る背景や事情が複雑極まりないことや,当事者のどちらに「正義」や「もっともな言い分があるのか」といった点が不明瞭であるところも類似しています.

そんな不明瞭なものを法律で定義付けて,発生をコントロールするのは至難の業です,って言うか無理です.
いじめもハラスメントも戦争も,人間社会が存在する限り永遠に発生するもの.
課題となるのは,発生しにくい環境づくりと,例え発生したとしても重大な事態になることを回避する能力を養うことでしょう.

ところが,「いじめ防止対策推進法」や「男女雇用機会均等法」に代表される「嫌がらせ」への対処を謳う法律は,その法律の趣旨に問題があることに加え,「何をもって嫌がらせなのか?」を具体的に規定したがる姿勢を生み,それは同時に「何であれば嫌がらせにあたらないのか?」を引き出そうとする態度を惹起させます.
私がより問題と考えるのは後者のほうです.

つまり,「何をもって嫌がらせなのか?」については,いじめであれセクハラであれ,「被害者が心身の苦痛を受けたと感じた場合」となるわけですけど,これに対して「じゃあ,どこまでだったらいじめやセクハラにはならないのか?」という文句が出てくるんです.
賢い人であれば「“どこまでだったら” という表現が意味をなさない」ということにお気づきになるかと思いますが,世の中そんな人たちばかりではありません.
ネットにも世間話にも「どこまでだったら」と同じような文句を言う方々がいっぱいいます.「同じ行為をしても,訴えられる人と大丈夫な人がいるのはおかしい」とか言い出す輩ですね.

「何であれば嫌がらせにあたらないのか?」って聞かれたら,そりゃ「相手が心身の苦痛を受けたと感じないこと」というのが模範解答なのでしょう.
でも,明確なマニュアルを求めてしまうのが人間ですから,「◯◯はOK.△△はNG」というリストを欲しがります.
これが最大の問題点です.

和田先生が上記リンク先の記事で指摘しているのはまさにこの点で,「◯◯をしていたから,これはいじめだったのではないか」とか,「△△程度であれば,いじめではない」などといった個別具体的な行為や現象を指して「いじめか否か」を論じたがる人が多いわけです.
その結果,いじめ調査を担当する人としても,「◯◯はいじめと言えるのか?」とか,「△△はじゃれあいなのか?」といった議論をするハメになり,結局のところ世間が納得しそうな結論を導くことになる.
過去記事でも書いたことですが,「いじめ防止対策推進法は機能しない」というのは,そういう側面もあるからです.
いじめ防止対策推進法のこと
笑ってはいけない「いじめ防止対策推進法」
つまり,学校教育の場が,生徒間におけるコミュニケーションスキルや人間関係構築の涵養ではなく,生徒達の言動の正否を評定する場になってしまう恐れがあるのです.
(それが「良い」ことだという人がいれば,それはそれで別に議論する必要があります)

人間のコミュニケーションに,「◯◯はOK.△△はNG」なんてありゃしません.
そんなことしてたらまともな社会生活にならないのは,極一般的な社会生活を営んでいる方々はご案内の通りかと思います.

であるからこそ,学校教育においては「いじめ」「ハラスメント」が否応なしに発生する人間社会の虚しさと複雑さを見据えた上で,それへの対処と乗り越える力の育成に焦点を当てるべきではないかと思います.
それが,少なくとも日本社会におけるハラスメント行為の抑制につながるものと考えられます.


和田先生の著書にはこのようなものがあります↓
  



2018年5月1日火曜日

体育学的映画論「レディ・プレイヤー1」

うわ! やっちまった映画だろコレ!
って思ったんですが,意外とヒットしている次第です.

なので,ヒットしてる割には感想・レビューが悪いのでは?
って思ったんですけど,これまた意外と好評価みたいですね.

前回の「ペンタゴン・ペーパーズ」に引き続き,スティーヴン・スピルバーグ監督作品の「レディ・プレイヤー1」です.
レディ・プレイヤー1(wikipedia)
スピルバーグは仕事早いですね.脱帽します.

ただ,この「レディ・プレイヤー1」の出来は良くありません.
私と同じ感想を持ってるネットの「低評価レビュワー」はいるのかな?って思って探してみたんですけど,ザッと眺めた限りでは見つからなかったのでココに書きたいと思います.

低評価しているレビュワーの多くが,「話の流れが分からない」「オタク向けで私には合わなかった」「出演キャラに魅力がない」といったもののようですが,私の感想は「SF映画作品として,解釈できるテーマが余りにも薄っぺら過ぎだろう」といったところ.「ペンタゴン・ペーパーズ」と同じ監督の作品とは思えません.

「やっぱ,現実での人間関係が大事だし,現実ではお金持ちになったら権力を行使できるんだよね」
っていう,旧世代のサクセス・パターンが展開されていて,いかにも俗物なオッサンやオバサンたちが喜びそうな道徳的で下衆な映画になっております.

途中で眠くなったこと数回.
そしてクライマックスまで我慢したけど,その終わり方が酷くて退席したくなるも,両サイドに観客が並んでて出るに出れず.まあ,エンドクレジットになって無理やり出たけど.

映像が派手なので,それを見に行くくらいでしょうか.3Dとかでもやってるようなので,きっとそっちがオススメ.
時間つぶしに,コーラ飲んでポップコーン食べながら,トイレに立つのも気にせずのんびり見るタイプの映画です.

では・・,
【以下,ネタバレを含みつつ書いていきます】
ネタバレが気になる人は,映画を観てから読んで下さい.


80年代以降の映画やポップカルチャー,サブカルチャーへのオマージュが満載で,そうした「オマージュの渦」に巻き込まれたいオタクな人にとっては楽しい時間になると思います.
でも,私はそういう「ウォーリーを探せ」みたいなところに喜びを見出すタイプではないので,どうしても低評価になってしまうんです.

他にも,クライマックスでは日本のサブカルチャーであるメカゴジラとガンダムが登場し,両者が戦うシーンがあることが話題ですが,私は全然ワクワクしませんでした.
別に思い入れもないし,唐突だし,シーンとしての出来栄えもそんなに良くない.
どうしてここでこの両者なの?って疑問に思い,その疑問も疑問のまま.

SF映画としては,「VR方式のゲームが発展した末に,学校や仕事,ショッピングやカフェの時間といったことも仮想現実の中で済ませられる時代になった」ということを,もっと強調してほしかった.

なぜかって?
だって,この映画のストーリーだと,わざわざ仮想現実を舞台にする必要がないからです.
どっかの巨大複合企業の社長さんが死んだところ,遺言でその会社の経営権を「謎解き」できた人に譲るってことになって,その莫大な資産を目指して民間人やブラック企業が奪い合う.結果として,悪そうなブラック企業ではなく,無垢な少年少女たちが莫大な資産を手に入れましたとさ.
という「グーニーズ」タイプの物語.
眠たいでしょ?

せっかくVRゲームと仮想現実に浸った人間社会を題材にするのですから,以下の2点を深掘りしてほしかった.

1)主人公の男女のルックスや正体
VRゲームですから,ユーザーはゲーム内ではアバター(仮の姿)を使って自分の姿格好を表示させています.
途中,「オフライン(現実)で直接会ってみたい」という話になるのですが,そこで「アバターとは全く違う顔や体だったらどうする?」「若い女だと思っていたら,実は中年の男かも」という話題が出てくるんです.
ところが,どのキャラも想定通りなんですよ.
せめて主演の男か女のどちらかが,物凄いブサイクだったら物語に深みが出たというものです.

だってこの映画,現実でもアバターでもイケメンと美女の組み合わせで,結局,大金をせしめてラブラブのハッピーエンドという都合のいい話なのです.
そんなベタな展開,それこそ80年代の映画で腐るほど観てきました.

お互いの顔や正体が分からない中で,どのように信頼関係を築けるか.
「現実のルックスや正体」とは異なる,VRを舞台とした人間模様を描ける余地はあったと思うんです.
・・って考えながらウィキペディアを漁っていたら.
なんと! 本作の原作小説である「ゲームウォーズ」では,主人公の男女は肥満のブサイクという設定のようです.
ゲームウォーズ(wikipedia)
ほれみろ! こっちのほうが断然テーマとして深かったはず.
そのために仮想現実を舞台にしているはずなんだから.

2)仮想現実の可能性
VRゲームで教育や就職もできちゃうという時代背景は面白いので,もっとこの点を掘り下げてほしかったですね.
前述した,「お互いの顔や正体が分からない中で,どのように信頼関係を築けるか」ということと関連するテーマです.

実際,主人公の男女が肥満のブサイクだったというのが原作ですが,であるならば,これだけ仮想現実が人間社会へ密接に入り込んでいるわけですから,「仮想現実の中だけで築く恋愛や友人の可能性」を模索しても良かったのではないでしょうか.
もちろん,それでもやっぱり現実の姿を愛することが大事という結論にしたっていい.でも,私としては「仮想現実における人間関係の可能性」を模索してほしかった.

実のところ,スピルバーグ監督としては「仮想現実の可能性」は断ちたかったものと考えられます.
それは本作のラストシーンが物語っています.
経営権を手に入れた主人公の男女は,イチャつきながら「VRゲーム『オアシス』を,週に何日間かはログイン不可に設定した.なぜなら,みんなも僕たちみたいに現実の人間関係を大事にしてほしいからさ」とリア充満載のコメントを吐き捨てて,エンディングを迎えます.
全然おもしろくない.

こいつらは美男美女のカップルです.しかも莫大な資産を手に入れた超セレブ.そんな2人がオフィスチェアで抱き合って乳繰り合いながら「現実の世界を大事にしろ」と訴えるのは,もはや犯罪行為ではないか.
だってコイツらは,これからはもう仮想現実に入らなくても裕福で気楽な生活を謳歌できる身分になったからです.

仮想現実のなかで生きていたい人達もいるだろう.
仮想現実のなかでなら輝く人達もいるだろう.
この世に化粧やエステ,美容整形がなくならないのは,そうした身体的な「美」に対するコンプレックスや絶望感を持っている人が必ずいるからです.
ところが,そんな人々の仮想現実に託す希望と夢を,主人公の2人は「ログイン不可」という措置を講じることで打ち砕いてエンディング.

すなわち,現実であっても仮想現実であっても,人は「自分にとって都合のいい世界」を押し付けたがるものだという話になっている.
主人公の男女は,自分たちが「現実」の世界で恵まれたのを良いことに,ルックスや才能,経済的ステータスに恵まれていない人達が拠り所としている「仮想現実」を取り去って満足しているわけです.

いえ,別にそれでもいいんですけど.
であれば,SF映画としては,仮想現実のなかで生きていくよりも大事なものを提示すべきだし,仮想現実のなかで生きることの危険性や絶望を描くべきでした.
でも,そんなものは本作では一切出てきません.
(「旨い食い物は現実でしか味わえない」という気の利いたメッセージもありましたけど,実際はこれこそ仮想現実でなんとでもなります)

「仮想現実に閉じ籠もるって,なんだかイケてないよね」っていう偏見からスタートしたストーリーのような気がしてならないのが残念です.